1. 夢か現か、天か地獄か。いま自分がどこにいるのか分からない。冷たい、暗い、苦しい、痛い。幾つもの感覚が身体を襲うのだから夢ではない。復讐を成そうとした自分が天上になど行けるわけもない。

    身体が沈みそうになるけれど、必死に呼吸をする。早く解放されたい。どうしてこんなに辛いのだろう。こんな思いをしてまで生に縋る意味などあるのか。死ねば少なくとも今よりは楽になれるだろうに、この手を上へと伸ばすのは何故か。

    −−……総司。

    愛しい名前を口にしたのに、それは音になることはなく泡と化しただけだ。

    『父さんと母さんの分まで幸せにならなきゃいけないな。お前は俺より長生きしてくれよ』

    鼓舞するときの台詞とは思えない兄の声。女のくせに意地っ張りな私を本気で心配して愛してくれた唯一の家族。ずっと見ていて欲しかった。これからもっと色々な事を教えて欲しかった。
    機会は幾度もあったのに、意地を張ってばかりで感謝を伝えることはないまま兄は殺され、この気持ちを届けることは一生できなくなってしまった。

    流木にぶつかって口内に水が流れ込むが、必死にその枝を掴む。腕に力を込め何とか上半身を水上へ。水を吐き出して、空気を思い切り吸い込む。思い出せ、どうして生きたいのかを。何の為に抗うのかを。悔いるのは生き抜いてから、今じゃない。

    心と体を奮い立たせ、目を凝らす。どれくらい流されたのか、見上げても街の灯りは見る影もない。流木を抱え込むようにしながら、帯紐を外しにかかる。着物が水を吸って重い。自分が持っていた中では一番上等なものだけれど、命には代えられない。

    まずい、身体が冷えてきた。季節は秋。このまま水に浸かり続ければ確実に死ぬ。目が暗闇に慣れるころには、かなり下流まで流されてしまった。腕と足には血が滲んでいる。濁流に混じった石や枝で傷だらけだ。落ちた直後に石壁に強打した所為か、特に左腕の痛みがひどい。
    おまけに髪は海藻のように垂れ下がり、今の自分は水中に住まう妖怪にしか見えないだろう。人買いが現れても自分を拾おうとはしないと思う。

    岸が見えて、もはや限界に近い気力と体力を振り絞り水を掻いた。肩で息をしながら地面に倒れ込む。虫の声を聞きながら目を閉じると、急激に眠気が襲ってくる。

    この時期では蛍はいないだろう。初夏には総司と蛍狩りによく行った。また一緒に見たい。
    今度会ったときは最初に『おかえり』を言おう。それから『愛してる』を。ずっと一緒にいたいと伝えたら、どんな顔をするだろう。

    立ち上がって歩き出す。朦朧とする意識の中、足だけは前へ。歪んだ視界は黒一色。当たり前だ、街から離れれば灯りなどない。日野の家だってそうだった。

    ふらふらと歩いて突然、地を踏む感覚がなくなる。滑り落ちた。足を踏み外したのだ。止まらない。坂を転がる石のようだ。今日は落ちてばかりいるな、と場違いなことを考える。悲鳴すら上げられぬまま地面に叩きつけられ、鈍い音が響いた。
    それは、壊れる音。失う音。頭が痛くて割れそうだ。ここで意識を手放してはいけない気がして瞼を閉じぬようにと努めたが、無理だった。秋風に頬を撫でられて、私の意識は暗い夜に沈んでいった。

    −−−−−

    目を開けたら見知らぬ部屋にいた。布団に寝かされている。首だけを動かして、開け放たれた障子の外を見れば懐かしくなる田畑が見えた。
    身を起こして、自分の身体に目を向ける。あちこちに治療が施されており、左腕は動かないように板で固定されていた。立ち上がろうとすると、ぱたぱたと軽快な足音が聞こえた。

    「あ!お姉ちゃん起きた!!」

    子供だ。歳は十にも満たないだろうか。薄い茶色の髪を見て何故か心が疼いた。人懐っこい笑顔でこちらを見つめる少年の後ろから親と思しき二人が現れる。

    「良かった、目が覚めて!この子があんたを見つけたんよ。太一、水を持ってきておくれ」
    「いやあ驚いたよ、傷だらけで倒れとるもんだから…ひょっとして、身投げでもしたんか?」

    子供が去ったのを見届けて問われる。もしかしなくても、この家族が自分を手当てしてくれたようだ。優しく、温かい。それだけで涙が溢れそうになって戸惑う。さっきから胸が苦しい。その問いに必死に首を横に振った。死にたくなかった。生きたかった。だから助けてもらって嬉しい。そう伝えたいのに言葉が続かない。瞬きをすれば涙が落ちてきそうだ。

    「そうかそうか。ところでお前さん名前は?」
    「なまえ…。私は…っ、」

    誰?分からない、自分が何者か。途端に不安になり、目に溜まっていた涙が引っ込む。
    必死に記憶を辿る。名前も、生まれも、どうして傷だらけだったのかも、何一つ浮かんでこない。"自分"が見つからない。
    目を見開き固まる私を見て察したのか、すぐに医者を呼ばれ、あれこれ質問された。結果、己に関わる事は全く覚えていなかった。『分かりません』を繰り返し、その度に心を覆う不安は大きくなった。

    そして、怪我の具合も深刻らしい。左腕は骨が折れており、頭を強く打っているだろうとのこと。
    まずは怪我の完治が第一目標で、それまでに記憶が戻る可能性があると言われたが、前向きに考えるのはとても無理そうだった。いつまでもこの家に居座るわけにはいかない。しかし、記憶の奪回をしろと言われても何をすればいいのか。ぐるぐると思案していると、頭が割れそうになる。

    「おい、あんた!あんまり思い詰めるんじゃあないよ。何も追い出したりせんから」
    「当たり前でしょ!これから冬になるってのに、記憶のない女の子を追い出したりするもんですか!」

    記憶を失った。それでも確かな事がある。

    一つ、人は一人では生きていけない。誰かを救い、誰かを頼り、生きていく。これだけは本能で覚えている。今は頼るべき時なのだろう。怪我が治ったら、頼った分、救えるように。

    二つ、自分には『生きたい』という確固たる意志があること。身投げをしたのかと問われて、首を横に振った。傷だらけだった理由は覚えていないのに、私は躊躇うことなく否定したのだ。もしかしたら、自死を試みたのかもしれない。それでも今は、その思いを尊重したい。

    答えは決まった。深呼吸をし、右手だけを床に添えてお辞儀をする。よろしくお願いします、と言った声は震えていなかった。どうやら私は案外肝が据わっているらしい。

    −−−−−

    それから半年は片腕でもできる仕事を手伝ったり、この家の子供である太一の遊び相手をしたりして過ごした。左腕の包帯が取れてある程度、腕が動くようになってからは食事の準備や、畑を手伝った。野菜の切り方や味付け、どの季節に何の野菜が収穫できるか。どうしてか聞かずとも知っていた。
    未だ、過去に自分が何をしていたのかは思い出せてはいないけれど、どこぞの金持ちでなかったのは確かなようだ。

    慶応二年四月、春を迎え暖かくなる頃。ここに来てから半年以上。

    「白姉!そろそろ行こう!」
    「太一…、すぐ行くわ」

    白。名前も覚えていない私が初めて貰ったもの。行き倒れていた私を見つけたこの子が付けてくれた名前だ。"見つけた時に白い着物を着ていたから"らしい。着物と言っても、襦袢だけれど。何かを貰うというのは嬉しいものだ。それに、覚えている限りでは初めての贈り物。だから尚更、この呼び名を気に入っている。
    でも、『白』と呼ばれる度に元の自分が少しずつ消えていくようで時々怖くなる。文字通り、白で覆われていくみたいだ。半年が過ぎても、記憶は一欠片も戻らない。

    知らない私。以前の私にも名前を呼んでくれる誰かがいたのだろうか。記憶が戻った時、思い出せてよかったと感じることができるだろうか。
    ぼんやりしていたら太一に着物の裾を引かれる。色々考えていたから眉間に皺がよっていたみたいだ。目を合わせて、大丈夫だと笑う。

    今日は街へ野菜を売りに行く。少し緊張していた。今の私が知っているのは自然豊かな山並みの風景だけだからか。街へ出向くことが記憶を取り戻す一因になるかもしれない。そう考えると、ほんの少し前向きになれた。

    太一とその父と一緒に京への道を歩いて、道脇に咲いている菜の花を眺める。冬の間は獲れる野菜も少なく、売りに出ることはできない。だから雪が溶けたいま、やっと街へ出向くことができているわけだ。

    覚えている限りずっと田畑風景ばかり見ていた反動か、煌びやかな街の景色に目移りしてしまう。女性達はみな、着ているものも話し方も上品だ。店に並ぶ簪や西洋の菓子。どれも一生に一度は手に取ってみたいが、今日の目的は野菜を売ること、稼ぐことであって浪費することではない。

    広い通りに荷を広げ、野菜を売り始める。私と太一は姉弟に見えるのか『可愛い弟さんね』と声を掛けられたりして、なんだかくすぐったい。

    持参した野菜が大方売れた頃は日が沈みかけていた。『いつでも来られるわけではないから記念に何か買っておいで』と儲けの一部を握らされ、太一の腕を引きながら尋ねる。

    「何が欲しい、玩具?それともお菓子?」
    「うーん…白姉は?」
    「私はいいの。沢山お手伝いしたんだから、太一の好きなものを買いな」

    本当に優しい子だ。実の姉ではない私を慕い、気遣ってくれる。正直、居候の身で褒美など貰うべきではないと思っているけれど、そう言えばこの子を傷つけてしまうから言葉にはしなかった。

    「それじゃあ、金平糖にする!!」

    それを聞いて、足を止めた。農家の子供では口にする機会は滅多にない代物だ。それを強請ることは何ら不思議ではない。それでも戸惑ったのは"金平糖"と言った太一の顔が知らない子供のそれに見えたから。貴方は誰、と言いそうになって慌てて口を噤む。急に立ち止まった私を心配そうに見つめる太一に『何でもない』と嘘をついて笑った。

    店で売られている金平糖は色鮮やかで美味しそうだ。一方で私の胸中は荒れた海の如く、ぐるぐると渦を巻き暗い色を落としていた。

    −−−−−

    父親のところに戻ると、ちょうど帰り支度を終えたところのようだ。嬉しそうに金平糖を掲げた太一の頭を撫でる姿に少しだけ胸がチクリと痛む。

    そのとき突然、蜘蛛の子を散らすように通りの真ん中が無人になり、何事かと様子を窺う。人々の視線は一ヶ所に集まっている。見れば、眩しい浅葱色の羽織を纏った男達が通りを往来していた。

    『見ろ、新選組だ』『目を合わせたらあかん』などと、ひそひそと言い合う声や態度はあまり気持ちのいいものではない。当の私は"新選組"という言葉の意味すら分からないまま、太一達に急かされ通りに背を向ける。

    「名前!!!」

    突然の叫び声に身体が強張る。私だけではない。老若男女問わず周りにいた人全てが同じ反応をした。咄嗟に振り向くと、先の団体で一番後方にいる男が目を見開き立ち尽くしていた。赤茶色の髪は遠くからでもよく分かる。そして、何故か私を見ているようだった。訳の分からぬまま見つめていると強く手を引かれた。

    「白姉、早く!」
    「っ、待ちやがれ!名前!」

    太一に手を引かれながら人混みに紛れ、雑踏を抜ける。その間も心臓は大きく脈打っていた。
    なんだ、これは。まるで逃げているみたい。悔しくて、情けない。何一つ後ろめたい事をした覚えがないのに、自分より一回り小さい手を頼りに無我夢中で走った。

    楽しい時間になるはずだったのに、胸中は出かける前の方が何倍も穏やかだった。帰る道すがら朗らかに話をする父親の様子から、あの男が私に向かって叫んでいたことは知らないらしい。
    一方、太一はちらちらと後ろを振り返る素振りをしていた。不安そうにこちらを見る大きな瞳に気付いていたけれど、安心させられるほど心に余裕がなかった。

    あの男は確実に私を知っていた。しかし、感動の再会を果たした様子ではなく、怒りにも似た感情が滲んでいたように思う。
    私はもしかしたら罪人か何かだったのだろうか。知るのが怖い。それでも取り戻さなければならない気がする、本当の私を。