1. 手を引かれて、あれよあれよとしている間に部屋に通される。隣には男、改め原田さんが座った。その後、続々と人が入ってきて私の姿を認めるなり、幽霊でも見たような反応をされる。話しかけようとする人もいたが、原田さんが制した。
    私は彼らを誰一人知らない。再び悲しそうな顔をさせてしまうだろう。かける言葉は持ち合わせていないし、どうすればいいのか分からなくなるから正直ありがたかった。

    揃ったのは私の他に九人。最初に声をかけた女中の子−こちらは千鶴ちゃんというらしい−がお茶を一つ一つ並べるのを見ながら、自分に突き刺さる視線に耐えた。

    「なあ、なんで総司は呼ばねえの?」
    「まだ、言うな。あいつが巡察から戻る前に話さなきゃならねえ。名前は、
    「原田さん、大丈夫です。気遣ってくださってありがとうございます。覚悟を決めてここに来たつもりだったのですが、駄目ですね。でも自分のことですから、私がお話します」

    話し出すと、千鶴ちゃんを除く全員が目をひん剥いた。以前の私はこんな話し方をしなかったのか、彼等の前ではもっと自分を見せられていたのかは分からないけれど。中には声に出して『どうしたんだ』と立ち上がる人までいたが、原田さんが再度諫めてくれた。
    腹まで開けた着物から軽薄な印象を抱いてしまっていたことを反省する。

    自らの記憶を縫うように、順を追って説明した。遡って半年分の記憶しかないこと。自分の名前も、生まれも、家族のことも、何一つ覚えていないこと。そして、今日ここに来た目的。
    自分の人生をこんなにも短い時間で話せてしまうのが悔しい。でも、今の私にはこれしかないのだ。なんだか無性に情けなくなる。
    話終えて、ちらりと隣を見れば原田さんが満足げに微笑む。『よく頑張った』と、そう言われた気がした。

    それから残りの七人の名前を教えられた。しかし、その中に"沖田君"も"誠志郎さん"もいなかった。反応は様々で、それだけで各々の性格が読み取れた。忘れないように一人ずつ心で名前を復唱してみる。

    「記憶がなくとも戻ってきてくれただけで十分だ!本当に、良かった…」
    「近藤さん。大の男が泣くんじゃねえよ」

    近藤さんはぼろぼろと涙を零して、私の肩を叩いた。この人が新選組局長、つまりは一番偉い人物だという。私を見つめる眼差しは、あの父親が太一に向ける視線に似て優しい。
    私が話している間ずっと眉間に皺を寄せていたのは土方さん。鋭い目つきで言葉遣いは粗暴だ。役者のように美形だからか、意外性がある。女の私よりも美髪。

    「本当に安心したよ。君が川に流されたと聞いた時には寿命が縮んだ」
    「源さんの言う通りだ!でも俺は信じてたぜ、名前ちゃんが生きてるってな」
    「俺もだせ、また名前の飯食いてえ!」

    仏のような笑みを浮かべているのは井上さん。安心感がすごい。
    永倉さんは少し声が大きいけれど、なんというか見ているだけで元気が出そうだ。
    恐らく私よりも歳下だろう藤堂さん。少し太一に似ていて頭を撫でたくなるのをぐっと堪える。

    「皆さん、少し落ち着いてください。まずは彼女が知りたがっていることを教えて差し上げるべきでしょう」

    いかにも理知的な山南さん。優しそうな印象だけれど、どこか値踏みするような目だ。

    それよりも怖いと感じたのは、私をじっと見つめる青い瞳。ほとんど崩れない表情からは冷たい印象を受ける。一言も発しなかったその人が『苗字』と呟く。その単語が自分を指すのだと理解するまで暫しの時間を要した。私の本名は苗字名前。そう教えられたばかりだから反応が遅れ、慌てて声の主である斎藤さんと向き合う。

    「総司のことも憶えていないのか?」

    その問いに全員が口を噤んだ。彼の表情からは何も読み取れず周りを見渡せば、皆が私の答えを待っているようだった。

    戻ってきたことを喜んでくれているのは本当なのだと思う。それなのに、どこか余所余所しく感じた理由はきっとこれだ。恐らく、"総司"というのは人名。
    『俺達のことはいい、せめて総司のことだけは』−−読心術を使えるわけでもないのに心情が伝わってくる。声に出さずにその名を唱えてみたけれど、静かな水面の如く心に変化はない。目を伏せてふるふると首を振った。瞼を開ければ、悲しみを湛えた顔がいくつも見える。

    また、傷付けた。ズキズキと胸が痛む。この痛みは自分を守る為のもの。記憶の探求を正当化するための罪悪感。
    失った記憶を求める度、誰かにあんな顔をさせなければならないのか。私の記憶にそこまでの価値があるのか、はっきり言って自信はない。

    「なにらしくねえ顔してやがる。お前は元来、図太い奴だろうが」
    「おい、トシ。言い方ってものがあるだろう」

    私が図太い?そうなのだろうか?そもそも本来どんな性格だったのかも憶えていない。
    近藤さんが言い返すのを見て、馬鹿にされたのだと思ったけれど、これはもしかして…。

    「悪いな名前。あれで慰めてるつもりなんだよ。俺達にとってお前は特別だ。だけど俺達以上にあいつは、総司はお前を大事に想ってる。別にお前が悪いわけじゃねえよ。ただ、あいつの想いを知っているからこそ無性に遣る瀬無いんだ」

    やはり馬鹿にされていたのではなく、私を気遣ってくれていたらしい。
    そして、たとえ私がどんなに図太かったとしても何も感じない筈がない。この人達よりも私を想ってくれる人がいて、自分はその人のことを何一つ思い出せないなんて。心底、不甲斐ない。どんな顔をしてその人に会えばいいのだろう。

    「そんな顔すんなよ、俺達も手伝うからさ!」
    「ああ、平助の言う通りだぜ!」
    「そうだな。まず、名前自身のことを話さなきゃならねえ。一番昔からお前を知ってるのはこの中だと近藤さんだ」

    落ち込む私に藤堂さんと永倉さんが声をかけてくれる。原田さんの言葉に近藤さんを見やれば、『心得た』とばかりに頷く。

    聞かされた私の過去は予想よりも壮絶だった。真っ白な脳内にそれらを記憶する。近藤さんがゆっくりと分かりやすく話してくれたお陰で太一が私を見つけるまでの出来事は概ね分かった。

    「今からお聞きした私の過去を言葉にして整理してみます。相違があれば教えて下さい。私、苗字名前の生まれは江戸。兄が一人いて、両親は既に他界。皆さんは兄が通っていた道場の人間である、と。そして今から三年前に兄が何者かに殺された」

    そう、私の兄は殺された。この激動の時代なら、家族を殺されることは珍しくないのかもしれない。その時、私は何を思ったのだろう。哀しみ、悔しさ、たった一言ではその思いを表すことはきっと難しい。沢山の感情を超えて、私は−−−、

    「私は、人を殺したのですね」

    そして私が選んだのは復讐。兄の仇を討ち、濁流に呑まれ、あの家族に拾われた。復讐と引き換えに何を得たのか。むしろ失ったのではないか、大切な記憶を。そう、これはきっと人を殺めた私への報いなのだろう。

    誰も口を開かない。恐らく、故意に黙っている。私に咀嚼する時間を与えてくれている。
    深く息をして、目を開ければ、皆が私よりも深刻な顔をしているものだから胸の辺りが温かくなった。今日、ここへ来て本当に良かった。取り戻した記憶に暗い闇があったとしても、この人達に会えたのだから。

    「あと一ついいですか?兄の名前は誠志郎だと聞きました。では、"沖田"とは誰ですか?」

    途端に空気が変わる。冷静そうな土方さんや斎藤さんが目を見開いたから、自分の発言がいかに驚異的だったのか分かる。
    この中に沖田という姓の人はいない。誠志郎が兄ならば、彼と話していたその人は私にとっても近しい人物だったのは間違いない。

    なんとなく予想はしていたが、『"沖田"は総司の姓だ』という斎藤さんの答えに再び負の感情が浮かんでくる。悔しさ、情けなさ、そして、恐れ。会うのが怖い。彼は、こんな私を見てどう思うだろうか。幻滅されてしまうかもしれない。それなのに会いたいという気持ちもある。

    かつての知り合いでもあるが、彼らとは初対面だ。長時間の会話で疲れ果てた私に、近藤さんが今日は帰った方がいいと声をかける。ふと外を見れば、いつのまにか暗くなりかけていることに気がつく。

    「総司とは今度会えばいい。その時までに気持ちの整理をしなさい」

    その言葉に安堵した。できれば彼とは本来の私で会いたいけれど、もう糸口は無い。いくら私が努力しようとも、気合で記憶が戻るわけはない。だから、整理する時間をくれるのは本当にありがたい。彼に会う前にせめて、心構えだけでもしておきたかった。

    家まで原田さんが送ってくれることになり、少しだけ残っていたお茶を飲み干し部屋を出る。去り際に千鶴ちゃんにお礼を言うと、彼女は嬉しそうに笑った。今日見ていただけでも、可愛くていい子だと分かる。私も彼女のように素直で女らしかったなら、人殺しなどしなかったのだろうか。嫉妬にも似た感情が胸を支配しかけて、咄嗟に笑みを顔に張り付けて誤魔化す。

    近藤さんと土方さんが先を行き、その後に私と原田さん、後方に他の五人が続く。廊下の角を曲がろうとしたときだ。その先を見ていた土方さんの目が大きく開かれた。直後、引き返してきたかと思うと、私の腕を思い切り掴んだ。

    「おい、土方さん。どうしたんだ?」

    私の気持ちを代弁するように原田さんが問う。土方さんは答えない。その後ろでは近藤さんが誰かと会話しているらしかったが、直後に大声で叫んだ名前に身体が硬直する。その声を聞いて皆息を呑む。刹那の沈黙を破るようにこちらに向かってくる足音。

    「(嫌だ、会いたくない。だって私はまだ、貴方のことを−−−、)」
    「っ、名前?」

    どくん、と心臓が鳴る。ああ、知っている。だって、こんなにも切なく愛おしい。記憶の中に貴方はいないのに心が震える。夕陽に照らされた髪色、私を見つめる翡翠色の瞳、名前を呼ぶ声。

    唇から言葉にならない声が漏れる。ゆっくりと一歩踏み出す。貴方は手を伸ばしてくれたのに、私は躊躇してしまった。その手にべったりと付着した赤黒い液体を見て、恐怖した。大切で、心は切望しているはずなのに。

    「そんな貴方は、知らない」

    残酷な言葉を吐いた。そのときの貴方の顔を私はきっと生涯忘れることはない。磨き上げられた刃物で、私はその心を斬りつけたのだ。
 - 表紙 -