1. 翆の瞳が暗い色を落とす。それを見て初めて、言葉の重さを自覚した。何が『知らない』だ。自分だってその手を血に染めたくせに、どの口が言うのか。途端に後悔に苛まれるけれど、もう遅い。一度でも声に出してしまった言葉は消せない。目を合わせることができなくて後ずさった。そんな私の身体を原田さんが後ろから支えてくれる。

    新選組が何たるか、理解していたつもりだった。不逞浪士を取り締まるのだから、切った張ったのやり取りは避けられない。そんな世界に身を置いていれば当然、斬らなければこちらが殺されてしまう。彼らは信念のもと精一杯この動乱の世を生きているのだ。

    私の言葉はそれを否定してしまった。謝らなければと口を開きかけた私を遮るように土方さんの声が響く。

    「名前、今日はここに泊まれ。確か今は街外れの農家に世話になってるんだったな。斎藤、こいつに場所を聞いて行って来てもらえるか。亭主に明日の夕刻までには帰すと伝えてくれ」
    「承知しました」

    促され、再び原田さんの部屋に戻ると、筆と紙を渡される。震える手で西本願寺からの地図を書き記す。口を挟む間もなく斎藤さんが横を通り過ぎようとするのを何とか止めた。紙をもう一枚貰い、そこに『必ず帰ります−−白』と短く書いて渡した。

    斎藤さんが出て行くと、先程と同様に座らされる。部屋にいるのは五人と少ない。永倉さんと藤堂さんは残りたがったけれど、土方さんにややこしくなるから駄目だと退室させられてしまった。

    近藤さんと土方さん、沖田さんに私。そして、部屋の主である原田さん。部屋を占領してしまい申し訳ない気持ちもあったが、心強かった。記憶を失くして初めて会ったのが彼だったからか、はたまたその人柄故かは分からないけれど。夜の帳が下りつつある、静かな部屋。開口一番に謝罪をした。

    「あんなことを言って、ごめんなさい。新選組の在り方を否定する言葉を、よく吟味もせず、
    「お、落ち着きたまえ、名前君」
    「身に染みる言葉じゃねえか、なあ近藤さん。総司には良い薬だよ、他でもないお前の言葉なんだからな。街の連中に言われるよりよっぽど効いたろうぜ」

    黙りこくっている沖田さんを他所に土方さんが言う。しかし私の耳は、その声を拾いつつも内容は殆ど入ってこない。そんな私に気付いていないのか、土方さんは続ける。

    「それに咄嗟に出たんだ、あれは本心だろうが。信念さえあれば人を斬っても許されるわけじゃねえ。全く、痛いところ突いてきやがるぜ−−記憶を失くしても変わらねえな、お前は」
    「……土方さん、今何て言いました?僕の聞き間違いですよね?」

    それまで黙っていた沖田さんが言葉を発した。土方さんを見るその目は疑念に満ちている。彼が詰め寄ろうとするのを原田さんが肩を掴んで止める。当の私はどうすればいいのか分からず視線を落とし膝の上で拳を握った。

    土方さんはきっと、私が自分の口から言わなくても済むようにしてくれた。お陰で沖田さんの疑念は全て土方さんに向いている。でも、全て任せるわけにはいくまい。何も答えない土方さんに業を煮やしたのか、彼の身体が私に向く。

    「嘘……だよね、名前?ねえ、僕の目を見て。総司って呼んでよ」
    「……ごめん、なさい」

    その言葉が止めとなった。立ち尽くす彼に何を言ってあげられるのか。素知らぬ顔で名前を呼べば良かったのか。否、所詮気休めにしかならない言葉など意味はない。

    今日感じた中でも最大級の痛みが胸を襲う。他の誰でもないこの人を傷つけてしまった。泣くわけにはいかない。悲しいのは私ではない。下唇を噛み、黙り込む私を見て土方さんが言う。

    「原田、そいつを雪村の部屋へ連れて行け。総司、お前はここに座れ。俺が話す」

    腕を掴まれ立たされる。立ち上がったことで、初めて彼と目が合った。その目に私の姿が映っているのに、触れられる距離にいるのに、こんなにも遠い。原田さんに背中を押され外へ。戸を閉めて千鶴ちゃんの部屋に着くまで歩いたけれど、もう限界だった。両目から涙が溢れる。迎えてくれた千鶴ちゃんが驚きながらも駆け寄ってくる。

    声を押し殺し何とか堪えようとしたのに、原田さんが頭を撫でるから、余計に止まらない。小さな子供じゃないのに、骨張った温かい手に身を委ねたくなる。本当に可愛くない女だ。素直に甘えられない。そんな私を見透かしたように肩口に私の頭を押し付けて、背中をぽんぽんと優しく叩く。ちっぽけな自尊心を投げ捨てて、堰を切ったように泣きじゃくった。

    どうしようもないことだと分かっている。私が記憶を失った事実は消えないし、沖田総司という人間だけを憶えているなんて都合のいいことは起きない。これが報いだというのなら、どこから間違っていたのだろう。やり直せる筈もないのに、そんなことを考えてしまう。歳を重ねただけで、中身はてんで駄目な子供だ。

    「私…あの人の傍にっ、いたいです!だけど、記憶がないから、きっとまた傷つけてしまう」

    吐き出したのは本音。声に出して泣いたことで、中ぶらりんになっていた気持ちの着地点を見つけられた気がした。そう、私は悔しいのだ。思い出せないことがこんなにも悔しい。だけど、その悔しさをどこにぶつけたらいいのか分からない。自分を責めることで記憶が戻るなら、いくらでもそうするのに。

    「全部吐き出しちまえ、ここにいてやるから。泣いて、泣いて、それから決めろ」

    原田さんは、『もう泣くな』とは言わなかった。優しいのに、きっと私の為にならない優しさはくれない。これは必要な涙。

    「−−辛えよな、大事な奴を傷つけちまうのは。だがな、お前は強い。本当だぜ?だから大丈夫だ。今はたとえ総司を傷つけることになったとしても、最後はきっと笑って隣にいられる。お前ならそういう選択をできるって、この俺が保証する」

    そんなわけないと思うのに、何故だろう。本当に自分が強い人間だと思えてくる。言葉は不思議だ。先の私のように大切な人を傷つけることも容易なのに、原田さんのように他人を前向きにすることもできる。

    目に溜まった涙を全て出し切り、顔を上げて。そして、思わず声が漏れる。目の前にある原田さんの着物を見てゾッとした。導かれるままに泣いたから、それは私の涙と鼻水を吸って、見るも無惨な姿だ。

    「ご、ごめんなさい!原田さんの着物を、こんなに汚してっ!」
    「…くっ、はは!いや、悪い。俺の着物一枚で名前が前を向けるなら安いもんさ」

    慌てる私を原田さんと千鶴ちゃんが微笑ましく見つめる。今更ながら、人前で大泣きしたことが気恥ずかしくなって、笑った。笑顔はあまりに自然に、迷いなく。胸にくすぶった思いが、言葉で、涙で、どこかへ流れて行ったみたいだった。

    明日、あの家に戻る。必ず帰ると約束した。ここで聞いたこと、これから私がどうしたいのか、話さなければならない。

    原田さんの言う通り、自分が望む結末に繋がる選択をできるのか。きっとそれは、私次第。ここで怯えて向き合わなければ、選択をする機会すらないままだ。あの人の、一番大切な人の傷ついた暗い瞳しか知らぬままだ。記憶を取り戻す為ではなく、沖田総司の隣にいる為に私は生きる。

    −−−−−

    その夜は千鶴ちゃんの部屋で寝ることになった。女の子と並んで眠るなんて記憶の限りでは初めてで緊張したけれど、天井の木目を見つめ思考を巡らせていたら、いつの間にか眠ってしまった。

    翌朝。目覚めは良く、土方さんが言っていたように私は本当に図太いのかもしれない、と自嘲した。すでに千鶴ちゃんの姿はなく、どうしたものかと考える。女中でもない私が一人でいたら怪しまれてしまう。部屋の中をウロウロと歩き回り唸っていると、

    「おはようございます!よく眠れましたか?」
    「千鶴ちゃん!あ…、昨日はお見苦しい姿を晒してしまって、ごめんなさい」
    「いえ、そんな!あの、朝餉をお持ちしました。それで、その…、

    お礼を言って、膳を受け取る。言い淀む千鶴ちゃんに疑問符を浮かべていると、入室してくる人影。思わず間抜けな声が出た。自分の分だろうか、膳を持った斎藤さんがいた。

    狼狽る私を他所に無言で座る。何故だ。状況が飲み込めないまま、無慈悲にも千鶴ちゃんが出て行ってしまう。これは、つまり。一緒に食せと言うことか。正直この人は少し怖い。

    「何をしている、早く座れ」
    「はい…。あの、どうして斎藤さんが?食事くらいは一人で大丈夫、
    「総司は今、巡察に出ている。昨夜、副長から経緯を話したあと、あんたと話をすると言って止めるのに些か苦労した。恐らく、じきここへ来るだろう」
    「…そうですか。それは、良かった。私も彼と話をしたかったので」

    私がそう言うと、初めて驚いた顔をした。人より少し不器用で、口下手なだけ。そして、きっと優しい人。『そうか』と短く答えたその顔が笑ったように見えて、思わず覗き込んでしまった。すぐに真顔に戻ってしまい、残念な気持ちになる。綺麗な顔をしているのだから、もっと笑えばいいのに、なんて余計なお世話か。

    「お、本当に斎藤と食ってる…」
    「よお、名前!よく眠れたか?」
    「原田さん、永倉さん!おはようございます。お陰様で疲れもそれほど残っていません」

    もう食事を終えたのだろうか、私の横に並んで座る。二人とも斎藤さんとはいい意味で対照的だ。心底楽しそうに、まだ江戸にいた頃の話をしてくれる。私が女の身でありながら剣術を近藤さんに師事していたこと、よく蛍狩りに行っていたこと。そのあちこちに"沖田総司"の姿がちらついて胸が疼く。

    与えられた情報だけで、自らの気持ちは伴っていない筈だ。そう、記憶のない今の私には彼を恋い慕う気持ちはない。だから隣にいたいと思うのはおかしい。しかしこれは、紛れもなく本心。記憶の探求を投げ出しても、叶えたい願い。記憶のない私など、彼には何の価値もないかもしない。それでも、この想いを見て見ぬふりなど、できるわけがない。

    夢中になって聞いていたら、あっという間に半刻ほど経っていた。斎藤さんが稽古に向かうと立ち上がったので、慌てて引き止める。

    「あの、ありがとうございました」
    「総司に遠慮はするな、思いは正確に伝えろ」

    去っていく後ろ姿に頭を下げた。言葉は少なくても私を思っての言葉だと分かる。ここに来てから胸が温かくなる場面ばかり。太一達といい、私は本当に果報者だ。
 - 表紙 -