1. 斎藤さんが去って暫くしてから、千鶴ちゃんがやって来て明るく言った。

    「名前さん、昨夜はそのまま眠ってしまいましたよね?帰る前にお風呂にどうぞ」

    そういえば、そうだ。昨日は緊張で変な汗を掻いたことを思い出し、ばれない様に慌てて首元や腕に鼻を近づける。大丈夫、臭くない。妙な安心感に包まれたのも束の間、永倉さんが見張りを買って出た。

    「なっ、駄目です!私が見ていますから!」
    「やめろ、新八。総司にばれたら斬られるぞ」

    途端、二人が同時に猛抗議。思わず吹き出してしまった私の頭を原田さんがわしわしと撫でる。この人の癖なのか、それとも私が子供っぽいからなのか。それほど歳は違わない筈なのに、すでに何度もこうされている。不思議と不快ではなく、むしろ心地良いと感じる理由がいつか分かるといい。

    湯浴みを終えると、太陽はすでに真上にある。千鶴ちゃんにお願いして、近藤さんと土方さんに会わせてもらえることになった。二人とも忙しいだろうから少し申し訳ないけれど、次にいつ来られるか分からないし、頼みたいこともある。

    土方さんはあと半刻ほどで外してしまうらしく、急ぎ足で部屋へ案内された。千鶴ちゃんが近藤さんを呼びに行っている間、必然的に二人きりになる。

    「総司と話はしたのか?」
    「いいえ、まだです。斎藤さんには巡察が終わったら会いに来るだろうと言われました」
    「…逃げるつもりは毛頭ねえって顔だな。昨日は泣きそうな面してたくせによ」
    「記憶が無いなりに、熟考したうえでの行動です。それに今の私にとって、従うべきは己の意志のみですので」
    「隊士共にも見習わせてえほどの心構えだな。あの根性曲がりが惚れるだけのことはある」

    くっくっと喉を鳴らしながら笑ってそう言われる。この人もこんな風に笑うのか。ひょっとすると、こちらが素なのかもしれない。
    それにしても、まるで私の行動が素晴らしいもののように聞こえるが、それはきっと違う。他に縋るものがないだけだ。私よりも彼ら新選組の方がよっぽど地に足をつけて生きている。

    「いやあ、待たせてしまったな!すまん!」

    勢いよく近藤さんが入ってくる。ふと目が合って、穏やかな笑顔を向けられたけれど、どんな反応をすればいいのか分からずに控えめに笑った。

    二人が姿勢を正し、こちらを向く。言葉はなくとも『して、話とは』と聞かれているのが分かる。新選組の局長と副長を前にしているのに、鼓動は正常だ。それに心で苦笑して、こちらも背筋を伸ばしてから話し始める。

    「昨日はありがとうございました。過去を知ることができたこと、本当に感謝しています。それで、本題なのですが、お願いしたいことがあります」

    土方さんの眉が動く。過去を知る前の私なら、怖気付いていたかもしれない。だけど、図太いと言ったのは他でもない土方さんだ。腹の真ん中に力を込めて、息を吸う。

    「半月に一度、それが難しければ月に一度でも構いません。沖田さんと会う機会をいただきたいのです。記憶を取り戻す一因になるかも……というのは建前で、彼と話をしたいというのが本音なのですが。今日この後、恐らく彼と話をすることになると思います。その時に私が思っていることは包み隠さず伝えるつもりです。その結果、彼が今後、私と会うことを望まないのであれば−−、
    「それはねえよ」

    凛とした声が私の言葉を遮った。『それはない』とは一体どういう意味だろうか。そもそもこの願いは聞き入れられないということか。困惑していると土方さんは眉を下げて笑った。

    「総司も同じことを頼んできた。お前らは昔から生意気で、妙なところで似てやがる。そっちは近藤さんが許可しちまったからな、お前の頼みも必然的に了承せざるを得ねえ」
    「む…すまん。俺はどうにも総司に甘い」
    「まあ、局長判断なら仕方ねえ。ただし、屯所内で会うのは控えろ。妙な噂が立つからな」

    まさに寝耳に水だ。同じ気持ちでいてくれることに嬉しくなる。否、浮ついてはいけない。気持ちが緩みそうになるのを何とか堪える。感謝の意を伝えると、私よりも近藤さんの方が嬉しそうに見えて、少しむず痒い気持ちになる。

    −−−−−

    その後、近藤さんとふたり部屋を出て、歩いていると大声で名前を呼ばれる。

    「お、いたいた!名前!!」

    藤堂さんだ。巡察の帰りなのか、額に汗が滲んでいる。ぺこりと頭を下げると、太陽のような笑顔。やっぱり太一に似ている。

    「総司が捜してる、行ってやれよ」
    「分かりました。近藤さん、藤堂さんも色々ありがとうございました。皆さんにもよろしくお伝えください」
    「おう、また来いよな!そしたら団子でも食いに行こうぜ!」

    堪らずその頭に手を伸ばして、わしゃわしゃと撫でる。僅かな沈黙。ぽかんとしている二人を見て、我に返った。

    「ご、ごめんなさい!お世話になってる家の子に似ていて、つい!」
    「はははは!良かったじゃないか、平助!」
    「良くねえよ!ガキみたいってことだろ!」

    近藤さんがケラケラ笑い、藤堂さんらが頬を染めて怒る。ここは本当に温かい。血は繋がっていなくとも、その絆は強い。少し羨ましくて、目を伏せた。

    「名前君、どうやら迎えが来たようだ」

    そう言われて顔を上げると、少し離れて立っている人。陽の光に照らされて、薄茶色の髪がきらきらと眩しい。傍まで来て、目を細めると、静かに呟いた。

    「帰りは僕が送るから」

    たった一言。返事をする間もなく手を取られ、歩き出す。咄嗟に近藤さんを振り返ると、穏やかに手を振っている。『大丈夫だ』とそう言われた気がした。

    屯所の中を手を引かれて進む。その後ろ姿を見つめて、思う。握られた右手は少しの力で振りほどけるくらい優しい。歩幅は小さく、男性のそれではない。どうして、こんなにも大事にしてくれるのだろう。私は貴方に何もあげられないのに。

    桜の木が並ぶ。もう盛りは過ぎたのか、花弁が散り始めている。その中の一枚を目で追っていたら、繋いでいた右手が自由になる感覚がして慌てて視線を戻す。

    「名前。僕の名前、呼んで」

    視線が絡まる。行き場を失った幼子みたいに翡翠が揺れている。そんな顔をしてほしくなくて、向かい合って両手を握った。記憶を失くしてから初めて紡ぐ、今まで幾度も呼んだであろう名前。宙に舞うことのないように、その三文字を唇にのせた。

    「−−−総司」

    その声は、この想いは、届いただろうか。
    不安げに揺れていた緑色の目が潤む。男の人がこんな風に泣くのを初めて見た。鼓動が高鳴る。手を握ったまま、貴方は笑う。
    それがあまりにも儚くて、握った手に力を込めた。泡沫のように消えてしまわないように、遠くに行かないように。

    「…僕を忘れちゃった名前なんか嫌いだって、言えればよかったのに」

    それを聞いて強張る身体。触れ合った手をほどき、身を引きそうになるけれど、貴方がそれを許さない。

    「そんなの嘘でも言えるわけない。簡単に手放せるわけない。悔しいけれど、本当だよ」

    その手が震えている。忘れてしまうのと、忘れられてしまうのは、どちらが苦しいのだろう。きっと比べられない。この人も私と同じ様に怖くて、辛くて、苦しい。

    「名前は狡いよね。名前を呼ぶだけで、僕をこんな気持ちにさせる。あの日、君が川底に落ちていくのを見て、胸の真ん中に穴が空いたみたいだった。それを埋めるために剣を振るったのに、穴はどんどん大きくなってさ」

    半年前のあの日、私は何を思ったのか。これまで貴方のことを思い出すことなく、温かい人達に拾われて、のうのうと生きていた。
    土方さんは彼が私を見限ることはないと言ったけれど、本当にそうだろうか。愚かにも彼を忘れ、その心に癒えない傷をつけた女を、どうして愛することができようか。こうして触れてもらえる価値など、ない。

    「やっぱり駄目…」
    「え?」
    「昨日から自分を卑下し続けて、こんな私を愛してくれる筈ないと言い聞かせて、たとえ拒絶されても傍にいようと思いました。それなのに、さっきのように『嫌いだ』という言葉に怯えるなんて矛盾してる。本当は…心の底では、貴方が今も変わらず私を愛してくれていると信じたかった」

    また、涙が溢れてくる。雨でも降っているのではないかと錯覚するくらい。
    彼が言ったように私は狡くて卑怯者だ。言葉や態度で、彼が私をどう思っているかなんて、痛いほど伝わってくる。それなのに、そんな風に笑うから、言葉にしてほしいなんて我が儘を言いたくなる。私の心を見透かしたみたいに、目を細めて彼は言った。

    「たとえ君が僕を忘れてしまっても、僕は……名前が好きだよ。だからさ、責任取ってよ。この胸の穴は君が空けたんだから、他の誰かに埋められるわけないじゃない。また名前で一杯にしてくれたら、僕を忘れちゃったことも許してあげる」

    天邪鬼はどちらだろう。狡いな、と思った。隣にいなければできないことを望むのに、愛を語るのに、傍にいてとは言わないなんて。私が何て答えるか分かっているだろうに、意地悪そうな笑顔を浮かべて待っている貴方が愛しくてたまらなくなる。

    「ずっと傍にいます。でも…、貴方との思い出を忘れてしまったままで心から『愛してる』と言うことはできません。全て思い出して、この気持ちに自信が持てるようになったら、必ず伝えると約束します」
    「ふうん、御預けってこと?僕は気の長い方じゃないんだけどな…、それなら代わりに一つお願い聞いてよ」

    嬉しそうに再び手を取って歩き出す。門を抜けて外へ。昨日ここをくぐった時とはまるで別人のようだなと苦笑する。

    「そんな他人行儀な話し方、しないで」
    「……へ?」
    「…間抜け面。聞こえたでしょ、分かった?」

    もっと意地悪な、とても叶えられそうにないことを頼まれるのかと思っていた。
    菓子を買ってもらえない子供みたいに、ふいと視線を逸らして。不貞腐れた横顔を覗くと、その目元がうっすらと赤く染まっている。もしかして、照れているのだろうか。胸がきゅっとする。この気持ちは何て言うのだろう。
    くすっと笑って『分かったわ、総司』と答えれば、とても満たされた顔をするから、胸がまた鳴った。
 - 表紙 -