1. ※沖田視点。時系列は拾参話〜拾肆話です。

    名前と試衛館で離れて三年、京で別れて半年が経った。一日に一度は必ずやる事がある。夜、布団に入って目を閉じてから、名前が僕の名前を呼ぶ姿を思い浮かべる。十年以上一緒にいたのに、ほんの短い間会わないだけで君の姿や声を容易く思い描けなくなりつつある。あの子がいない左隣が少しずつ平気になっていくみたいに思えた。嫌いだ。名前を、一番大切な人を忘れていく自分が、心底嫌い。

    そんな日々を過ごしていた四月のある日のこと。その日は僕と平助の隊が巡察に出る予定だった。

    「総司!俺、急に行けなくなっちまった!今度団子奢るからさ、悪りぃ」

    必然的に僕の隊が長い時間、それも広い範囲を見て廻る羽目になった。そのくせ行けない理由すら言わないなんておかしい。

    街を歩きながら自分でも殺気立っているのを感じる。お陰で不逞浪士に手加減できなくて、羽織と手を血で汚した。剣を振るったことで、少し胸がスッとする。人を斬って気持ちが落ち着くなんて、あの子が見たら何て言うだろう。そう考えて、自嘲した。この生き方をやめることはできないのに、名前にだけは僕を許さないでほしいと思うのは我儘かな。

    全部、全部、この剣で屠ることができればいいのに。あの子を忘れていく自分も、些細なことに苛つく心も、この身体を蝕む病魔も。全て、消え去ればいい。

    −−−−−

    日が沈むころに屯所に戻った。平助に文句の一つでも言ってやろうとしたのに、部屋にも広間にもいない。変だ。平助だけじゃなくて、他の皆も誰一人見当たらない。

    血の付いた刀と手を洗う為に井戸へ向かっていたら、近藤さんの声が聞こえた。ばっと顔を上げて、その姿を探す。あの人の声を聞き間違える筈がない。やっぱり、そうだ。名前を呼びながら駆け寄ろうとして、顔が歪んだ。どうしていつも邪魔ばかりするのかな、あの人は。

    僕の姿を認めた土方さんが珍しく焦ったように踵を返す。近藤さんは笑って『おかえり』と言ってくれたけれど、この人は嘘が下手だ。何か隠していることはすぐ分かった。

    肩を掴んで止めようとする手を払って、廊下を進む。後ろで近藤さんが僕の名前を叫ぶけれど、どうしてか抵抗した。角を曲がって、驚く。平助を含む皆が勢揃い。浪士を斬って一度は引っ込んだ鬱憤が再び湧き上がってきた。僕を除け者にして何を話していたのかな。そんなことを一瞬考えたけれど、すぐにどうでもよくなる。

    「っ、名前?」

    意図せず声が出た。名前だ、名前がいる。僕の目の前に、手の届く距離に。目を大きくさせて僕を見ている。心臓が煩いくらいにドクン、ドクンと脈を打つ。胸の中を一気に悦びが支配した。それなのに、無意識に伸ばした手を君は握り返してはくれなかった。

    「そんな貴方は、知らない」

    石で頭を殴られたような気分だ。それは、拒絶の言葉。街の人達にいくら陰口を言われようが、冷ややかな目を向けられようが、痛くも痒くもなかったのに。僕の願った通り、君は人を斬って平気でいる僕を許さない。こんな僕を享受しなくていいと思っていた筈なのに、心が泣いた。名前の言葉一つで僕の心は容易く血を流す。

    −−−−−

    左之さんの部屋で座り込んだ途端に名前が謝罪した。さっきの言葉に対してだ。近藤さんは兎も角、どうして土方さんと左之さんが一緒なんだろう。僕と名前のことなのに。

    苛々するな、本当に。御託を並べる土方さんにも、僕と目を合わせない名前にも。声を上げようとしたけれど、できなかった。

    「記憶を失くしても変わらねえな、お前は」

    土方さんの言葉が頭で反響する。記憶を失くす?誰が?心で自問して、行き着いた答えに呆然とした。喉がカラカラに渇いて、いつもの調子で茶化すことも難しい。

    「……土方さん、今何て言いました?僕の聞き間違いですよね?」

    どうして、何も答えないのかな。今こそ、いつもの口煩さを発揮してほしい。誰も口を開かない。この時にはもう、分かっていた。嘘だったら否定する筈なのに、名前は俯いて膝の上で手を握ったまま。揺れ動く心を隠す事ができない。震える声で懇願する。

    「嘘……だよね、名前?ねえ、僕の目を見て。総司って呼んでよ」

    亀裂が入って、胸の穴がまた広がっていく。名前を呼んで、お願いだから。それだけで、この侵食は止まるから。

    「……ごめん、なさい」

    こんな気持ちになるのは生まれて初めてだ。言葉では言い表せない。姉上に手を引かれ試衛館に来たときとも違う。京に来たばかりの頃に土方さんから江戸へ帰れと言われたときとも違う。哀しいのか、悔しいのか。

    左之さんに手を引かれて名前が出て行く。立ち上がって、目が合った。僕にはとても声をかける余裕がなくて、その目に映る頼りない自分を見つめるしかできない。僕はこんなに弱いのか。一番組組長が聞いて呆れる。

    僕がこんな様でも君は、瞳に涙を溜めて今にも泣き出しそうなくせに、絶対に泣かないという気概を見せた。変わらないな、強気なところは。僕の好きな君のまま。だから余計に記憶を失ったとは思えなくて、ふいと目を逸らした。

    −−−−−

    「冗談…、じゃないんですね…」
    「あいつは、川に落ちてからの記憶しかねえ。どうやら頭を打った所為らしい。しぶとい野郎だ。今は街外れの農家に世話になってるそうだ。原田の話が本当だったとはな…」

    確か二日前、左之さんが巡察中に名前を見かけたと騒いでいたっけ。真実かは分からないけれど、名前は誠志郎さんの仇を斬った。あの子が僕から逃げるなんて、ましてや罪の意識に背を向けるなんてあり得ない。だから、左之さんから逃げられたと聞いた時は、絶対に別人だと思っていたのに。

    「記憶がないって、何一つ覚えていないんですか?……誠志郎さんのことも?」

    違う。本当に聞きたかったのは誠志郎さんのことじゃない。本当に僕は往生際が悪いな。現実を拒んだところで、何も変わらない。やるべき事は分かってる。簡単に捨てられる存在ものじゃない。『記憶が無いならもういいや』と、『僕を忘れた君なんて嫌いだ』と言えたら楽なのに。胸の穴が、この空虚感が、君を渇望している。

    正直に言ったら、あの子は受け入れてくれるかな。きっと戸惑いながら、手を握ってくれるんだろう。それを想像して静かに笑った。
 - 表紙 -