1. 初夏を迎える前に、始めたことがある。毎日ではないけれど、街の甘味処で働くことにした。少しでもお金を貯めて、太一達に返す為に。総司に話したからか、新選組の面々が度々立ち寄ってくれた。その時は決まってあの浅葱色の羽織を纏っていない。街での新選組の評判は良くないから、それを気にしているのかもしれない。

    その年の夏はあっという間に過ぎていった。光陰矢の如し、とはよく言ったものだ。じりじりと太陽が照りつけて、気怠くて、心も身体も緩みそうになる毎日。
    そんな私を総司が急かすように外へと連れ出して。半月に一度の逢瀬は、毎回違うことをした。約束通りに団子を食べて、川辺に座って魚を眺めたり、猫を愛でたりもして。雨の日は縁側に座って金平糖を頬張った。

    「驚いた。京でも星はこんなに見えるんだね」

    八月。いつもより少し遅くなった、家までの帰り道。夜空を仰いで総司が言う。つられて私も見上げれば、きらきらと瞬く星々。一人で眺めるよりもずっと輝いて見える。見とれる私の横で総司が小さく咳をした。風邪が長引いているのか。この前会った時もしていたなと思い出して、気遣うように見つめれば『何でもないよ』と笑う。だからまた、何も言えない。

    −−−−−

    そして、秋。慶応二年九月のこと。街では三条大橋の制札が引き抜かれて騒ぎになっていた。総司の話では、それを受けて新選組が警護をすることになったらしい。守るのが札では張り合いがないとぼやいていたけれど、私は正直ほっとした。総司が人を斬る機会が減るのだから。

    それから数日。夕餉の支度をしていると、戸を叩く音がした。こんな時間に客とは珍しい。不審がる私の横を太一が走り抜ける。しまった。夜盗の類かもしれないと慌てて後を追う。

    「あ!総司兄だ!!」
    「こんばんは、名前はいる?」

    その声に驚きを隠せない。今日、総司と会う予定はない。それに会うのは専ら昼間だ。何か急用だろうか。ぽかんと口を開けたままの私を認めて、くすっと笑った。

    「やっぱり、もう夕餉の準備しちゃった?」

    菜箸と小皿を持っている私を見て、そう尋ねられる。聞けば、例の制札警護で原田さんが犯人を捕縛したらしく、その報奨金で飲みに行くから一緒にどうかと誘いに来たそうだ。勿論、行きたい。だけど、夕餉の準備を任されている。二つ返事で頷くことができずに思案していると総司が見るからに気落ちした様子を見せる。私は、これに弱い。たぶん半分は演技だろう。そうと分かっていても叶えてやりたくなる破壊力だ。

    迷う私の背中を押したのは、あろうことか太一だった。ついこの前までは総司に闘志剥き出しであった筈なのに。いつの間に仲良くなったのだろう。そういえば、さっきも名前で呼んでいた。男同士とはそういうものなのかと首を傾げる。結局、夫婦にも『行っておいで』と言われて頷くしかなかったのだが…。

    −−−−−

    土方さん達と合流し、島原へ。店に向かう途中、総司が永倉さんと話している隙に斎藤さんに近づく。ちらと寄越した視線が『何用だ』と問いかけてくる。

    「実は、お願いしたいことがあるんです。後で少し時間をいただけますか?」
    「…別に構わんが」

    こっそり耳打ちすると、無表情のまま頷いてくれた。それから暫く歩いて、角屋という店に着く。どうやらここが目的地らしい。永倉さんの号令のもと、皆次々に入っていく。

    全然関係ない私までご馳走になっていいのかと思うが、ここまで来たのに帰るのも馬鹿みたいだ。割り切って総司の後に続く。振り向けば千鶴ちゃんが迷う素振りをしているのが見えて、自分のこういう所が『図太い』と言われる所以なのかもしれないと反省した。彼女のような謙虚さを私はどこに置いてきてしまったのだろうか。

    −−−−−

    出された料理は見た目も綺麗でとても美味しい。ただ、こういう店の料理は少し苦手だ。丁寧に食べているつもりでも、正しい作法に倣えているか不安だし、何より私は農民の出。きっと元来、庶民的な舌なのだろう。

    話題は自然と制札警護に移る。八人いた土佐藩士のうち、捕まえられたのは三人。決して簡単な事ではないと分かっているが、それで二十両も報奨金が貰えるとは驚きだ。原田さんの話では、一度捕らえた藩士の逃亡を手助けした者がいたらしい。しかもその人物は千鶴ちゃんによく似ていたと言うのだ。

    「ねえ。それってさ、前に平助と巡察の時に会った子かもしれないよね?確か、南雲薫って言ったっけ」

    総司が口を開く。それを聞いてひとり溜息を零す。私は新選組の隊士ではない。千鶴ちゃんのように例外的に身を置いているわけでもない。この空間で自分だけが除け者に感じる。

    千鶴ちゃんの方が私よりも遥かに総司の傍にいる時間が長い。私よりもずっと総司を助けてあげられる。女同士だからか嫉妬は何の罪もない千鶴ちゃんに向く。嫌だ、こんな気持ち。爪が食い込むくらいに手を握った。

    隣にいたいという私の我儘に、付き合わせているのではないかと思ってしまう。総司はきっと邪魔なら邪魔だとはっきり言うだろう。半月に一度は私の為に時間を割いてくれているのだから、それはない。十分満たされている筈なのに、もっと欲しくなる。今以上を望みたくなる。なんて、貪欲なのだろう。どす黒い感情に呑まれそうだ。

    「名前、聞いてる?千鶴ちゃんに芸妓の恰好をさせることになったから、名前も着てみなよ」
    「私はいい」

    意図したよりも、冷たく強い口調に自分で驚く。はっと顔を上げれば、総司だけでなく原田さん達も戸惑っているようだった。いたたまれない気持ちになって俯く。千鶴ちゃんが退室してからも、総司の何か言いたげな視線を感じた。愛想笑いすら上手くできなくて、目を合わせられない。こんなの子供と変わらないじゃないか。

    千鶴ちゃんが戻ってくるまでの四半時、自己嫌悪の念に囚われて、会話も食事もままならなかった。芸妓姿の彼女はとても綺麗で、自分が余計に醜悪に思える。やがて酔いが回ってきたのか、原田さんの奇妙な踊りが始まって。皆手を叩いたりして和やかな空気の中で、自分を戒めるが如く唇を噛み締めた。

    「(…早く帰りたいな)」

    そう心で呟いた刹那、肩を掴まれて振り向く。斎藤さんだ。そういえば、『お願いがある』と伝えていたことを失念していた。合図を送り、障子で隔たれた小部屋へ移動する。

    「すみません、お願いしておいて忘れて帰るところでした」
    「……総司と何かあったのか?」
    「っ!いえ、大丈夫です。私自身の気持ちの問題なので、なんとかなりますから」

    嘘だ。自分の心なのに持て余している。でも、今ここで吐き出してしまえるほど彼とは気心の知れた仲ではない。それに加えて、なけなしの自尊心が助けを請うのを邪魔する。思考を断ち切って、言い聞かせた。心の整理は後回しだ、他にやるべき事がある。真っ直ぐに青色の双眸を見つめ、望みを口にする。

    「お願いしたいのは別の事です。−−私に、剣術を教えてください」

    ぴくり、と眉を上げたかと思えば目を細める。本当に表情の変化が乏しい人だなと思う。まあ、変化があるだけでも珍しいのかもしれない。だとすれば、眉と目が動いたのなら健闘した方だ。

    「何故俺に頼む。総司の方が適任だと思うが」
    「それも考えました。でもきっと、総司は私が剣を取ることを望まない。それに、斎藤さんなら駄目な所を的確に指摘してくれるでしょう?」

    最初は総司に教えてもらおうと思った。でも反対されるのが目に見えている。自分が守るから必要ないと、そう言われるだろう。

    「その時になって後悔するのは嫌なんです。それに……もう二度と、大切な人を失くすのは御免ですから」
    「……あいわかった、引き受けよう。ただし、俺の指導は甘くはない。全力で臨め」
    「はい。よろしく、お願いします」

    深くお辞儀をして顔を上げると、斎藤さんが穏やかに笑っている。初めて見る顔だったから、凝視してしまう。それに気付いたのか鋭い眼光が飛んできて、慌てて目を逸らした。
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