- 季節が変わって初夏を迎える。慶応三年六月には新選組の屯所が不動堂村に移されて、一緒に街へ出かける回数も減っていった。総司が床に伏せる日が多くなったからだ。そんな日は私から会いに行くけれど、その度に総司の腕が細くなっていくように感じられて。貴方の為に私ができることは何だろう…。そんなことを考えていると、いつも見透かしたように抱き竦められる。私の方が元気付けられてどうするのだと自分を戒める日々が続いた。
剣の稽古は怠らなかった。斎藤さんに教わった通り刀を握って、素振りを千回。ただ振るのではない。敵がいることを想定して振るう。最強の使い手になる為ではなく、後悔しない為に。手には血豆ができて、女の手とは思えない。総司と会った後、綺麗ではない掌を見つめながら帰る途中。
「君はたしか、沖田さんの……」
「……山、、中さん」
「山崎だ」
「ごめんなさい、人の名前を勘で呼ぶなんて失礼でした。初めまして、苗字名前と申します」
話すのは初めてだ。門まで送ろうと言われて驚いたが、結果的にこれは吉と出た。山崎さんは新選組の医療担当らしい。そして、総司の病気のことも知っていると言われて、詰め寄った。それに彼がたじろくのも構わず続ける。
「お願いをしてもいいでしょうか?」
「自分に?まあ、できることなら…、
「病のこと、食事や注意すべきことを教えてほしいんです!図々しいことは承知の上ですが、どうかお願いします」
「君は本当に…あの人のことが大切なのだな」
感心したような声音ではなく、呆然と呟いた様子だ。顔を上げると、目が合って。結局教えてくれるのか、くれないのか。とりあえず、私の気持ちを伝える。思いを言葉にするのは得意ではないけれど。
「大切な人なら他にもいます。新選組の皆さんは私にとって恩人であり、大事です。今お世話になっている家の人達もそうです。だけど、愛しいと感じるのも、傍にいたいと思うのもたった一人、総司だけです」
暫しの沈黙のあと、黙って聞いていた山崎さんが息を吐く。そして、空を仰いで言った。
「いつも人を食ったような態度のあの人が好いているというから、どんな女性なのかと思っていたが……。分かった、俺にできることはしよう。今度君が来るときまでに、諸々をまとめておく」
また一つ、やるべき事が増えた。落ち込んでいる暇などない。立ち止まるな、進め。ただひたすら前へ。自らを鼓舞するように傷だらけの手を握り締めた。
慶応三年十一月の末頃。甘味処での勤めを終えて、夕餉の支度をする前に日課となった素振りをしていた。あと百回まできたとき、気配を感じて振り返る。そして、思わず刀を取り落とした。
「中々の太刀筋だ。気配も感じ取れるようになったか。−−−久しいな、苗字」
「斎藤さん?どうして…」
緩い笑みを浮かべているのは紛れもない、斎藤さんだ。離隊したのではなかったのか。あまりの驚きで声が出せない私に、彼は淡々とした口調で語った。再び新選組に復帰することになったこと、時々なら稽古を見てくれることも。
斎藤さんは変わらない。最後に会ったときのままだ。それなのに、総司は一年も経たぬうちに目に見えて弱っている。どうして、どうして総司なのだろう。他の誰かが身代わりになればいいなんて考えすら浮かんでくる。
折角の再会で暗い顔をしては失礼だと、作り笑いで誤魔化した。斎藤さんの帰還で総司が少しでも元気になってくれるといい。
−−−−−
一日千秋の思いで待ちわびた日は、足音すら殺してやって来た。何故、同じ日だったのかは分からない。心を支配した悦びは、鉛の弾で穿たれる。
慶応三年十二月十八日。雪がちらつく中、いつも通りに稽古や畑仕事をこなし、布団に潜り込んだ。疲れていたから、眠りは決して浅くなかったはず。ふわふわとした意識の中で聞こえた声は、知らないはずなのに懐かしかった。
『名前、起きろ。そろそろ朝餉ができるぞ』
姿は見えない。声も出せない。たったそれだけの夢。飛び起きると、真夜中だった。叩き起こされた気分だ。隣を見れば、いつものように太一が眠っているだけ。
「そう、じ……?」
全身が心臓になったみたいな感覚に胸を押さえた。声を上げそうになるけれど下唇を噛んで堪える。枕元にある刀を取り、ふらふらと立ち上がって外へ。玄関先にある木に背中を預けて必死に耐えた。身体の震えが収まってやっと、理解する。
頭を駆け巡るのは記憶−−−兄の顔、総司との思い出、復讐の結末。聞いただけの仮初の記憶が、比べ物にならないほど膨大な真実で塗り潰されていく。不鮮明だった情景が輪郭を持ったような、糸と糸が結ばれるような感じがした。あまりに突然のことに暫し呆然とする。
「記憶が…これが、私…っ、行かなきゃ!」
裸足のまま駆け出す。足がもつれて、転んだ。地面に突いた手の豆が潰れる。声が漏れて、膝もじくじくと痛むけれど構わず走る。走る。走る。月明かりが照らす道を駆け抜けながら、私は涙を流して笑っていた。全速力で走っているせいで、それは頬を伝うことなく後ろへ散っていく。冬の寒さが肌に刺さる。速く、もっと速く走れ。一刻も早く、総司の元へ。
息を切らして屯所に駆け込む。門の所で隊士に止められた。声を荒げたものの、私が女と見て躊躇したようだ。こんな所で時間を取られるわけにはいかないのに。
「おい、待て!通していい。彼女は自分が連れて行く」
声の方をはっと見ると、恰幅のいい隊士。誰だろう、知り合いではない。こちらへ、と促されるまま付いて行く。案内されたのは、何度か行った総司の部屋ではない。どうして胸がざわつくのか。顔を出した平助と左之さんが私を見て驚愕する。
「名前!?お前、どうしてここに…」
「馬鹿野郎!!平助、入れるんじゃねえ!」
開けられた戸の隙間から見えた。近藤さんと並んで眠っている総司の姿。病床に伏せているのなら、自室にいるはずだ。私に見せまいとしているのか、左之さんが叫びながら目の前に立つ。
「どいて左之さん!お願いだから総司に会わせて!」
「お、まえ…まさか記憶が……」
呼び方で、私の記憶が戻っていると察したらしい。一瞬の隙を突いて、部屋に入り込む。中にいた全員が何か言って、気が付いた土方さんが駆け寄ってくる。私の耳には何も届いていない。肩を掴まれるまま振り向いて、静かに言葉を紡ぐ。
「土方さん、説明していただけますか?」
−−−−−
場所を移すと言われたが、首を横に振った。そんな私に眉間の皺を深くして、土方さんが溜息をつく。彼が座ると、私も真正面に腰を下ろした。他の面々も出て行くつもりはないらしい。
「−−記憶が、戻ったのか?」
「はい。それでなければ夜中に訪ねて来たりしません。でも来て正解でした」
そう言って、未だ目を開けない総司を見つめる。視線を戻せば、土方さんは悔しそうに顔を歪めた。この人は優しい。今もどうせ、いらぬ事を考えているのだろう。
「あの日、何があったのか話せ」
聞いているのは私なのに、と一瞬思った。でも土方さんは遠回しな言い方はしない。つまり、必要なことだから聞いているということだ。もう二年以上前になる、あの日の記憶を辿る。
「土方さんが聞きたいのは、兄の仇についてですか?それとも、私があの日に見た新選組の隊士についてですか?」
空気が凍る。冷や汗が背中を伝った。怖い。
あの夜、私は人を殺した。彼らはそう認識しているし、私もそう思っている。あいつは自ら喉笛に刀を導いた。けれど、刀を握っていたのは私。殺したいと思ったのも私。
そして、私を川底へと突き落とした男は新選組の隊士だった。それも普通じゃない。修羅か、羅刹か。顔は思い出せなくても、記憶に刻まれた白い髪に緋色の目。あれは私が見てはいけないもの。
「(…背負ってやる、そして生きてやるわ。あんたの望み通りに)」
『生きてほしい』と言われたときは、冗談じゃないと思った。だけど今は、何を背負わせられようと生きたい。"生"をこんなにも望んでいる。兄には悪いが、武士のように潔く死ぬことはできない。
「私を、殺しますか?」
投げやりな言い方はしなかった。私の言葉に背後から声が上がる。土方さんや一君は表情を崩さない。自分でも、こんなに冷静でいられることが不思議でならない。譲れないものがある。傍にいると誓った。だから縋り通してみせる。
「死ねと言えば、死ぬのか?」
「それはできません。監視下においてくださって構いません。その為に人員を割くのが難しければ、牢獄にでも入れてください。只で食わせるわけにはいかないと仰るのなら、下働きでも何でもします。ですが、死ぬのは嫌です。それでは総司の傍にいられませんから」
土方さんの頬がヒクヒクと動く。折角の色男が台無しだ。その横で山南さんが宥める。一君は笑みを浮かべ、後ろにいた新八さんと平助が両隣に並んで肩を組んでくる。左之さんがケラケラ笑いながら言った。
「だってよ、土方さん。どうするよ?」
「てめえら…楽しんでんじゃねえよ。おい、名前。死にたくねえって言うなら、覚悟を決めろ。これからお前に話すのは、総司にも関係することだ。だが、聞けば後戻りはできねえぞ」
選択の機会を与えてくれるのか。他の皆も口を挟むつもりはないらしい。これから聞かされるのは平凡な農民の娘であれば、きっと一生知ることはなかった話。あれこれ考え始めようとしたけれど、やめた。床の木目を見つめて笑う。
「昔から、自分が大っ嫌いだったんですよ。殻を破れず、兄も守れなかった…。でも総司は、私を認めてくれました。だからですかね…私、今の自分は嫌いじゃないんです。後戻りなんてしたら、そんな自分を否定することになる。また臆病で意地っ張りなだけの女に成り下がるのは真っ平御免です。とどのつまり−−−望むところですよ」
大嫌いだった自分。私は私にしかなれないのに、他人ばかりを羨んで。臆病な所為で、大事なものが失くなるのをただ見ているしかできなかった。取り戻そうと必死になって、結局何一つ得られず。
−−−名前が好きだよ。
そんな私に愛をくれた、空っぽだった鉢に水を注いでくれた。花が、咲く。この花は貴方の為に。それがたとえ徒花でも、笑え。