1. ※沖田視点。時系列は弍拾壱話〜弍拾伍話です。

    名前に見られた、血を吐く姿を。部屋に連れて来たのに、何を話したらいいのか分からない。いつだって、誰にだって、こんなに惑うことはないのに。この子を前にすると、僕は嘘をつけなくなる。目を合わせられなくて俯いていたら口元を拭われて、あの日を思い出した。どうして、泣きたくなるんだろう。

    名前は会った時からずっと変わらない。なのに、僕の身体はどんどん枯れていく。散り急ぐ桜みたい。咲いて咲いて、それが近藤さんの為になるなら何だっていい。そう思っていたけれど今は、名前の隣でずっと咲いていたい。そんな気持ちのまま病のことを告げると、あの子は言った。

    「自分で決めて、そこにいるのでしょう?それが総司の望みで、譲れないものなら、私はそれを叶える為に傍にいるわ。新選組を離れることが貴方にとって本当の死、だものね」

    名前は自分の為に言ったのだと分かっている。僕と同じように、好きだから傍にいるんだ。自惚れているわけじゃない。もし君が僕の隣で笑ってくれるなら、何度だって咲いてみせる。

    −−−−−

    慶応三年の十一月。あいつが、南雲薫が僕の所に来て言った。今の僕に戦えるのか、と。変若水を引っ提げて、僕の神経を逆撫でしてくる。結局お望みどおりに僕は羅刹になったわけだけど、近藤さんの仇を討てた。現況である薫のことを斬り損ねたことを除けば、後悔はしていない。その筈なのに、名前に会うのが怖いなんて矛盾してる。

    御陵衛士の残党に銃で撃たれて意識を手放して、次に目を覚ましたときは、また布団の中にいた。人を捨て羅刹になっても、床に伏しているなんて情けないな。暗い、どうやら夜みたい。どれくらい寝ていたのかな。そして初めて気がつく、自分以外の気配。首を動かして見えたのは、僕の左手を握りながら猫みたいに丸まった名前の姿。無意識に動かした手に反応して、その目が開く。

    「名前」

    自分の声があんまり弱々しくて笑いそうになって。途端、首元に抱き付いてくる。泣きながら何度も僕の名前を呼んで。らしくない。こんな泣き方いつもならしないのに、と狼狽る。

    「わた、し…私、貴方が好き。大好きよ」

    鼓膜を揺らしたその言葉。ずっと待っていた。君だけを選べない僕の傍にいてくれる。それだけでも奇跡なのにね。嘘でも『愛してる』と言ってくれていたら、僕はきっと嬉しかった。それでも名前は頑なに愛を吐こうとしなくて、誰かに笑いかけるのを見る度に嫉妬心が疼いた。

    ああ、やっぱり君が好きだ。近藤さんに対する気持ちとは違う。こんなにも愛しくて、時々どうしようもなく切なくなる。『おかえり』と笑う君を抱き締めたいのに腕が思うように挙がらない。久しぶりに触れた唇は少し冷たくて。それが何だか強かな名前らしくて心が熱を上げた。

    −−−−−

    桜の蕾が膨れ出す季節。土方さんの言葉に我を忘れて激昂した。だって近藤さんも甲州に連れて行くなんて。でもそれは、あの人自身の望みらしい。それなら僕も行かなくちゃ。立ち上がろうとして咳き込んで、目の前に置かれた真新しい洋装を見つめる。足手纏いだと言われて、言い返せなかった。この人はいつも本当の事しか言わない。

    「まず身体を治せ。待ってるぞ」

    それなのに見限ることはしない。それがどこか近藤さんに似てるから苛々するんだ。いつだって視線の先にあった、何度も見た背中が去って行く。あの人の隣にはいつも土方さんがいた。その場所にいたいと思い続けて何年経ったかな。

    「名前、お願いがあるんだけど−−−髪を切ってほしいんだ、この服に合うように」

    近藤さんを真似た髪をほどいて撫でた名前が、感極まった様子で抱き付いてくる。大人になってから、この子は気持ちを態度に出すのを躊躇わなくなった気がする。僕も見習わなくちゃいけない。

    軽くなった髪の重さの分だけ速く走れるようになればいいのに。そうすれば近藤さんに追いつける。そんな突拍子もないことを考えて、何を馬鹿なと自嘲した。名前が振り向いた僕を見て微笑む。ふわりとした笑顔が雪を溶かす。これだから君だけは置いていけない。否、違う。もしかしたら腕を引かれているのは僕の方かもしれないな。

    −−−−−

    名前と二人、馬に乗って甲府へ走る。反対されると思ったけれど、さらりと了承されて拍子抜けした。そして告げられた思い。この子はずっと強い人間だったけれど、覚悟を見せつけられた気持ちがした。

    血に飢えた、どこにもぶつけられない衝動をあの子を抱き締めることで吐き出した。その間はまだ、人でいられるような心地がして。だからこれからも羅刹に呑まれることなく、進んで行けると思ったのに、

    「貴方を人のまま死なせてあげるのと、鬼として生かすこと。そのどちらかなら、私はきっと後者を選ぶ。でも勘違いしないで。−−−たとえ鬼と化しても地獄に堕とさせはしない。人でなくなった心は私のを分けてあげる。私が隣にいる限り、総司を鬼にはさせない」

    思いも寄らない言葉。鬼に片足を突っ込んでも、引き上げるなんて。そんなこと言う女の子、この日の本に君だけだろう。でも本当にやってのけそうだから不思議だ。

    よく晴れた空の下を走りながら、腰に感じる腕の感触。たったそれだけで何故か嬉しくて。負けるのは嫌いだし、弱い姿なんて見られたくない。でも相手が君なら抱き締めるのも、抱き締められるのも悪くない。

    戦はすでに始まっていた。銃声が響き渡る中、走り出す。近藤さんの所に行くことだけを考えて駆けながら、その後ろを名前が着いて来ているのを感じる。捉えたのは近藤さんと千鶴ちゃん、そして薫の姿。考える暇もなく飛び込んだ。また挑発してくるから、苛つきながら刀を振るって。これで止めだと思ったとき、羅刹化が解けて息苦しさが胸を襲ってくる。咳き込んだ僕に薫が言う。

    「言ったよね、変若水じゃ労咳は治らないって。そういえば沖田、随分大事にしてるみたいじゃないか。短い命なのに笑えるね」
    「……っ、何の話?」
    「お前がいつも一緒にいる、あの女さ。殺さなくてもすぐに死ぬような奴の傍にいるなんて、どうかしてる。−−なあ、目の前であいつを殺したら、お前はどんな顔するのかな?」

    血が沸騰するのを感じる。だけど、怒りで身体が震えることはなく、心は冷静さを保ったままで殺意だけがゆらゆらと燃える。独りでに笑みが溢れた。肩を揺らして笑う僕を、薫だけじゃなく近藤さん達も怪訝そうに見る。

    「君、ある意味才能あるんじゃない?」
    「なんだと?」
    「初めてだよ。新選組も近藤さんも関係なく、ただ誰かを斬りたいと思ったのは」

    静かに燃える炎の如く空気が凍る。溢れる殺気とは裏腹に、身体は言うことを聞かない。それを嘲笑うように薫が斬りかかってくる。ダン!と銃声が聞こえて顔を上げる。

    「な、に−−はっ…馬鹿だな、お前。自ら殺されに来るなんて!おい沖田、そこで見てるといい。大事なものが失くなるのをさ!」

    視線を追って見えたのは、銃を手にした名前の姿。あの子のことだからノコノコ出て来ることはないと思っていたけれど、まさか猟銃を携えているなんて想像もつかなかった。

    咄嗟に名前を呼んだ。戦場に連れてくれば、こうなることは分かっていたはず。それでも傍にいてほしかったし、名前もそれを望んでくれた。だけど斬り合いの中にまで伴ってはいけない。あの子もそれを分かっていて、剣以外で戦う術を模索して出した答えが今だ。

    そして結局、薫から名前を守ったのは風間で、僕には叫ぶだけしかできなかった。自分の無力さが憎い。やっぱりあの子には僕よりも強くて、永く傍にいられる人の方がきっとふさわしい。ふっと、そんな考えが頭をよぎった。小さく名前を呼んだら駆け寄って来た君に、僕はちゃんと笑えていたかな。

    −−−−−

    江戸へ帰って問うてみた。懇願した、と言った方がいいかもしれない。僕の心にできた綻びを埋めて、否定してほしい。君なら僕の不安なんて笑い飛ばしてくれると思いながら、心のどこかで背を向けられるのを恐れていた。

    「ねえ、名前」
    「……どうしたの?」

    夜。横になる僕の枕元に座って、名前が笑う。子供にするみたいに先を促される。言ってごらん、と。昔から名前は僕を甘やかすのが上手だ。でも僕は−−−、

    「君には、僕よりもふさわしい人がいるのかもしれない。放っておいても朽ちていくっ…、君を守れないっ、君に何一つしてあげられない!貰ってばかりだ……」

    泣きそうになって、両手を目に当てて必死に涙を隠した。名前は黙ったままで、驚いた様子はない。と言っても、視界は塞がっているから見えないけれど。

    「優しいところ、誰かを尊敬できるところ、目を見て話してくれるところ、冗談を言って笑わせてくれるところ、あと時々意地悪なのも、
    「ちょっと待って、急にどうしたのさ」
    「総司の好きなところ」
    「は……」

    指折り数えて、つらつらと。涙が引っ込んで、手をどかして名前を見る。意図が掴めない。まさか、僕の言いたい事が伝わっていない?この子に限ってそんなはずない。

    「強いとか弱いとか、命が短いとか長いとか、どうでもいいのよ。仮に貴方が私に何一つくれなくても、ね。−−いい?総司より強くて、永く傍にいられる人でも貴方にはなれない。例えば羅刹でもない、労咳でもない沖田総司がもう一人いたとしても、私は"貴方"がいい。だって、私と出会って、一緒に金平糖を食べて、兄さんが死んだ時に抱き寄せてくれたのはこの世で貴方だけよ」

    ゆっくりと言い聞かせるような名前らしい言葉。目に溜まった涙が頬を伝う。僕の両目にそっと置かれた右手に、自然と目を閉じる。その手に自分の左手を重ねた。僕が欲しているから吐いたわけじゃないのに、君がくれるのはいつだって僕が望んでいる言葉ばかり。

    「"今"だけじゃない、今まで貴方と積み重ねてきた"全て"が理由なの。そんなちっぽけな憂いなら、いつだって私が一掃してあげる」

    ほら、また。ふわり、と笑った気配がして贈られる言葉は僕に優しい。だからもう迷うことはない。また胸を張って君の隣に立つから、どうか手を離さないでいて。