- 総司が泣いた。たぶん初めてのことだ。少なくとも私の前では。京の都で再会してから目に涙を浮かべることは数回あったけれど、あんな風に頬を濡らすのは見たことがない。思わず手でその瞼を塞いでしまった理由は、驚きと、あとは今の私の顔を見られるのが気恥ずかしかったからだ。
大切な人が泣いているのに、私は笑った。頬の筋肉がだらしなく緩まる。総司も私と同じように不安になることがあるのだと、それを他の誰でもない私にぶつけてくれることが堪らなく嬉しい。聞いてみれば、なんて事ない笑い飛ばせるくらいの、そんな悩みだ。でもそれは"私にとって"であって、総司にとってはとても杞憂に終わるようなことではなくて。
どうしたらこの想いが伝わるのだろう。感情とは厄介だ。捨て去ってしまえたら楽なのかもしれないけれど、それは総司への愛情すら失うということだから、やっぱり手放せはしない。少しでも自信を持ってくれるように、そう願って紡いだ言葉が届いていると信じたい。
甲府から江戸へと戻って数日後。珍しく総司が卵粥が食べたいなんて言うから、張り切って街へ出かけた。
「じゃあ、ちょっと行ってくるね」
「うん、気をつけて。暗くなる前に帰って来なきゃ駄目だよ」
遊びに出る子供じゃないんだから、と苦笑した。いつも心配になるくらい食が細いから、希望を言われるだけで足取りが軽くなる。卵を探すのに少し手間取ったが材料を揃えることができた。強い春風が吹いて髪が乱れる。戻って、声をかけるために襖戸を開けた。
「ただいま……びっくり、何してるの?」
「よお、邪魔してるぜ」
緩く微笑む左之さんと、ぺこりとお辞儀をする千鶴ちゃんの姿に驚く。私の問いに左之さんが団子の包みを掲げる。なるほど。そういえば、記憶が戻ってから彼とはきちんと話していない。色々と恥ずかしい姿を晒したのを思い出して、頭を振った。
「お前も食うだろ?どうした、その髪。ぼさぼさじゃねえか」
「さっき外に出てたら凄い風に吹かれたのよ」
総司だけしかいないと思っていたから、手で何となく直しただけだった。溜息を吐いた私の頭を、男らしい手が撫でる。またか、と思ったけれど左之さんにこうされると安心する。それは、たぶん思い出すから。その優しさは兄と似ているのだ。
「ちょっと左之さん。僕の前で何してるのさ」
「いいだろうが、これくらい。いつもお前が独り占めなんだからよ」
「総司も撫でてもらったら?」
「君、楽しんでるでしょ」
不貞腐れる総司に、千鶴ちゃんと目を合わせて笑った。四人で団子を食べて、なんてことない会話をして時間が過ぎる。空が夕日に染まると、二人が席を立つ。また来ます、と言った千鶴ちゃんの後ろで左之さんが笑う。"次"を約束しないことに違和感を覚えた。まさか、と立ち上がる。総司の戸惑ったような声を背中に受けながら外へ出て、走った。
「左之さん!!」
「…おう、どうした?」
その顔はいつも通りの筈だ。それなのに、夕日を背に微笑む姿を二度と見られない気がする。もう頭を撫でてもらえない予感がする。
『後悔だけはしたくねえ』
思い出すのは新八さんの言葉。左之さんは大人に見えて、実は彼と同じくらい真っ直ぐな所がある。だからきっと、決めた道を進むに違いない。見守る千鶴ちゃんはたぶん二人の決意にまだ気付いていない。私も確証があるわけじゃないから、決定的な言葉は送らない。
「ありがとう。記憶を失くした私を見つけてくれたこと、慰めてくれたこと。他にも沢山」
「なんだよ藪から棒に」
「言いたくなったから。だってこんな時代に生きてるんだもの、伝えられる時に伝えないと」
「…ふはっ、違いねえ」
「新八さんにも伝えておいて」
私の意図が伝わったのか、砕けたように笑う。軽く手を挙げて去って行く後ろ姿は見たことないくらい晴れやかだった。離れていても共に闘うことはできる。小さくなった背中に呟いた。
「また会う日まで−−さようなら」
−−−−−
そして慶応四年四月二十五日。運命は残酷なのだと思わずにはいられない。それは私だけではなく総司からも奪っていく。ぎゅっと握りしめていた大事なものが隙間から零れ落ちるように、花弁が散るように儚く。
「近藤さんが……」
言葉が続かない。最後に会ったのは甲府での戦いの時だ。買い物を済ませて歩く道。『新選組の近藤勇が斬首されるらしい』と、そんな会話が耳を掠めて立ち止まる。そんな、まさか。
「総司」
無意識に口をついた言葉にはっと目を見開く。私は何て合理的な人間なのだろう。言い換えれば酷く自分本位だ。捕まって、武士らしく腹を切らせてすらもらえない、夢半ばで新選組の行く末を見届けることなく散る。近藤さんが一番つらい。その彼を案じるより先に、総司のことが真っ先に頭に浮かんだ。
伝えるべきか否か。嫌な役回りだな。でも、もし逆の立場だったら私は知りたい。大事な人の命が散るその瞬間に何も知らぬままいるなど耐えられない。せめて心だけでも寄り添っていたいと思う。それに、総司は絶対に行こうとする。羅刹と病を背負いながらでも。
他の隠し事なら、もっと上手く繕うことができたかもしれない。戻ってきた私の様子がおかしいことに総司はすぐに気づいた。隠すつもりはないけれど、喉に言葉がへばりついて出てこない。早く言わなければ手遅れになる。言え、と心を鼓舞して口を開く。
「総司っ……近藤さんが、斬首される」
「なに……言ってるの?っ、そんな質の悪い冗談、笑えない………本当、なの?」
翡翠が風に吹かれる炎の如く揺れた。何も言わず、目を逸らさない私に縋り付く。その唇は小刻みに震えていた。まだ、泣いてはいない。
「近藤さんは、どこにいるの?」
「板橋の刑場よ……行くの?」
「当たり前でしょ」
春の暖かな日差しは、総司にとっては業火のようなのだろう。歩くだけでもままならず。それでも足だけは前へ、近藤さんの元へ。でも万全ではないから、どうしても歩みが遅い。女の私の方が速いくらいだ。刑場が近づくにつれて総司の息遣いは荒くなっていく。心が身体を急かす。
そして、鼓膜を揺らしたのは歓声。何も知らないくせに、好き勝手に騒ぎ立てるな。拳を握った。心が奈落に堕ちる。たった今、あの人は散ったのだ。憧れた武士としてではなく、罪人として。
「嘘、でしょ……近藤さん、近藤さん!!!」
「総司っ、
今にも倒れそうな身体を引きずって進もうとする総司を止めようとしたけれど、その手は空を切った。止められるわけない。憎悪、後悔、哀しみ。忘れもしない、あの日の私と同じ。負の感情に呑まれた私を認めてくれたのは紛れもない彼だ。涙を流しながら蹲って縋り付いてくる、この人だ。
「どうして、どうして近藤さんがっ、死ななきゃならないんだ!!なんで…、なんでっ……」
慟哭する。ああ、あの日の貴方の気持ちが分かったわ。大好きな人が泣いていたら手を伸ばさずにはいられない。強く、強く抱き締める。立ち上がらせてみせる。前を向くための涙なら、流して、流して、流し尽くせばいい。
どれくらい経ったか。生きて、前に進んでほしい。一心にそれだけを願った。貴方が私にしてくれたように、楔となれるように。ぎゅっと力を込めた腕の中で総司が身じろぐ。
「名前、苦しい……」
「ごめん」
「あの人こそが僕の生きる意味だったのに、何も返せないまま死んじゃうなんて。近藤さんがいなくなったら僕には何も残らないって、そう思ってた……でも、違うよね」
ぽつぽつと、総司が語る。何も返せないまま……兄を失って、同じことを思った。いくら後悔したって時は巻き戻ったりしない。後戻りできないなら、一心不乱に生き抜いて。そしたら、また笑って逢えるから。未だ定まらない心を整理するように、それでいて確信めいた言葉で。膝を突いたまま微笑んで、顔を上げた。
「僕には名前がいる−−だからまだ、闘える」
「土方さんの所へ行くのね」
「うん、僕はあの人に会わなきゃならない。−−−ごめんね、君を置いてはいけない」
「何を今更、どこまでも一緒よ」
ねえ、総司。私は今、ちゃんと笑えている?心を隠すのに慣れすぎて、下手くそかもしれない。でも言われたのよ、笑っていろって。他の誰でもない近藤さんに。貴方の隣なら、私でも素直で勇敢な人間になれる。共に走り抜いたその先で見えるのは、どんな景色だろう。まだ見ぬそれを想像したら、自然と笑みが溢れた。