1. 道場−試衛館−での日々は私にとって初めての事だらけだ。近藤さんからは護身術程度の剣術を学んだ。

    『君は女子だから、身体全部を使って剣を振るしかない。その分体力の減りが早いが、身体が軽いから速く動ける。これは強みだ』

    稽古は好きではないけれど、知ることも多い。重心のかけ方、最適な間合い、目線で相手を動かす方法。
    彼の指導は分かりやすい。普段は優しいくせに、稽古となると別人の様に厳しかった。欠点を隠さずに指摘してくれる人は兄以外では彼だけだ。加えて、彼は兄に似ているから、より一層叱られている気分になる。

    そして、今まで土仕事や針仕事をするばかりで友人と呼べる人はいなかった私にとって、総司は間違いなく"特別"だった。

    近藤さんと一緒にいたいだけかもしれないが、私が稽古をするときは傍で見ていたし、食事のときはいつも隣だ。兄が野菜を売りに街へ出た際に買ってきてくれる金平糖を二人で分けて食べたりもした。

    近藤さんの前では背伸びしたいらしく、好き嫌いもしないし、我が儘も言わない。でも、私と一緒のときは違う。平気でネギを私の椀にいれてくるし、濡れた髪を拭いてくれだの、蛍を見に行こうだの頼み事が多い。
    それを嬉しく感じる自分が不思議だ。他の奴らに頼まれても絶対に引き受けないのに、総司との時間は心地いい。これから先何があっても、ずっと忘れることのない思い出。

    −−−−−

    十六になっても私の剣術は上達しない。元々才能がないのだ。でも体を動かすのは嫌いではないし、気分転換には最適だった。

    近頃、道場に出入りする人がいる。背中に木製の箱を背負った男だ。そう、男なのだけれど、女の様に美しい。『土方』と名乗ったその人は、意外に口が悪く少しだけ親しみを覚えた。背中の箱は薬が入っているらしい。

    一方、総司は親しみどころか目の敵にしているのだけれど、理由は聞かなくても分かる。土方さんは近藤さんと仲が良いから。一言で言えば嫉妬である。仲が良いのはたぶん、同じ夢を抱いているからだと思う。
    −−武士になる。
    そんな絵空事を口にする人が兄と近藤さんの他にもいるとは。私といえば相変わらず、その夢に対しては否定的だ。言葉にしたことはないけれど、叶うわけないと思っているから。

    「お前は女のくせに剣を学んでどうする気だ?」

    だから、彼にそう聞かれたときには動揺した。否、正直なところ『貴方がそれを言うの?』と言いたかった。農民でありながら剣を振ることと、女が剣を学ぶことに差を見出せない。それなのに言い返すことができなかった。彼を否定することは兄を、そして近藤さんを否定するのと同義。
    分かっている。彼等は私とは違う。中途半端に剣術を学んでいるような奴は目障りだ。
    無意識に拳を強く握ったせいで爪が皮膚に食い込む。お陰で少し冷静になれた。

    「本当は羨ましい…のだと思います。私には武士になると大声で言える度胸も、それだけの才能もありません。ましてや女ですし。だから卑屈になって、否定ばかりしていました。所詮は叶わぬ夢だと。そのくせ、言葉にしてしまうことで嫌われたくもない。自分勝手…ですよね」

    傷つきたくないし、傷付けたくもない。一人だけ置いて行かれるのも嫌。子供だ。
    だって、私には何もない。何にもなれない平凡な農家の娘。兄のような優しさも、近藤さんのような人徳も、総司のような才能もない。
    唇を噛む。かろうじて泣いてはいないけれど、足に力を入れようとするのに上手くいかない。

    「土方さん。なに名前のこと苛めてるんですか?」

    見慣れた背中が私を庇う。安心する。今はもう私よりもずっと背が高くなって、背伸びをしなければ頭を撫でられない。剣術の腕は今や道場一だ。それなのに、総司は優しい。それが、嬉しいのに時々苦しくなる。今も変わらず天邪鬼。

    「別に苛めてねぇよ。お前と口喧嘩は面倒だ。オラ、行くぞ二人とも。近藤さんが呼んでる」

    土方さんは何も言ってこなかった。総司もあれ以上掘り返すこともなかった。もしかしたら私達のやりとりを聞いていたのかもしれないけれど、尋ねる勇気もない。大切な人にさえ、曝け出せない本心。当然だ、自分でも持て余しているのだから、人に見せられるわけがない。

    −−−−−

    それから試衛館には次第に人が増えていった。天然理心流に入門する者、他流試合で訪れ、そのまま居座る者など理由は様々なのに、まとまりがあって何より楽しかった。

    『名前、昔より笑うようになったな』

    だから兄がそう感じたのはきっと間違いではない。この頃は憎まれ口を叩く回数も減り、やっと普通の兄妹になれた気がした。

    私の試衛館での記憶は十九で止まっている。あの頃は門弟と食客の違いはあれど、みんな毎日のように剣を振るっていた。私も稽古は続けていたけれど、九年前の延長だった。男女の違いを抜きにしても差はどんどん開いていく。例え男に生まれても皆と同じ様にはいかないだろう。

    兄は近藤さんや皆と夢物語をいつも楽しそうに語っていた。そして、夢は本当になろうとしている。

    「幕府が家茂公の警護のため浪士を集めるそうだ。俺は近藤や土方君達と共に京に行こうと思う。お前は…いや。決めるのはお前自身だ。だが、決して安全な旅路ではないことは覚えておいてくれ。女としての幸せが欲しいなら、ここに残るべきだ」

    その夢が嫌いだった。今も、嫌いだ。兄を、総司を連れて行ってしまう。その夢に二人は必要だけれど、私は不要。悔しくて、苦しくて、寂しくても最後くらいは良い子でなければならない。だから、兄にそう言われたとき用意していたままの言葉を吐いた。

    「私は、ここに残るよ」
    ___置いて行かないで。

    心は真逆のことを叫んでいたけれど、もう、決めた事だ。兄の言う“女としての幸せ”を欲しいと思ったことはない。それよりも“名前としての幸せ”が欲しい。けれど、それは私の我儘だ。揺らぐな。迷うな。縋り付きそうになるのをぐっと堪えて、兄を見ると、いつもみたいに仕方なさそうに笑った。きっと見透かされている。行かないでほしいと私が思っていることを分かっていても、捨てられないから、何も言わずに笑うのだ。

    ここでの日々は無限じゃない。大切な人達との時間に決別を。また凡庸な娘に戻れるように。毎日言い聞かせながら、思い出を心に刻みながら過ごした。

    −−−−−

    「名前、こんな所にいたの?」
    「総司」

    名前を呼べば、嬉しそうに目を細める。二人縁側に並んで、月を眺める。私が一番知っている。総司が誰よりも頑張ってきたこと、心を許した相手には優しいこと、ネギが嫌いで金平糖が好きなこと。猫みたいに気まぐれで振り回されてばかりだったけれど、落ち込んでいたら手を引いてくれた。

    「(寂しいな…)」

    近藤さんが将軍上洛に伴い京都に赴くのだ、総司は絶対に付いて行く。
    兄には夢があるのと同じように、“近藤さんの為だけに剣を振るう”生き方を総司は捨てない。決して自身の譲れないものと天秤にかけて、私に天秤が傾くわけがない。ここが、潮時。

    「名前は一緒に京に行かないって聞いた。どうして?」

    そら来た。分かっていて聞いてこない兄とは違い、総司は分かっていても尋ねてくる。心に入り込まれるのは嫌いなのに、昔から総司に嘘はつけない。

    「付いて行く理由がないから。私は剣だって満足に振るえないし、武士になりたいわけでもない。足手まといになるだけ」
    「ふぅん。僕と離れて寂しくないの?」

    いつもの余裕顔で聞くから、お望み通り答える。

    「寂しいに決まってる。でも、泣きついたって総司は行くでしょう?」

    得意気に言って隣を覗きこめば、少し驚いた顔。珍しい。可笑しくて、寂しくて、くすくす笑いながら泣いた。総司はずっと手を握っていてくれた。いつもなら憎まれ口の一つや二つ言ってくるのに、ぼんやり夜空を眺めているだけなのが苦しい。
    慰めの言葉も言わないのが総司らしい。昔から冗談は言うのに嘘は言わなかった。

    「僕は…、僕は君が好きだよ」

    これも、嘘じゃない。重ねていた手に力を込めれば強く握り返してくれる。はらはらと涙が溢れて、顎を伝って落ちていく。

    「君に傍にいてほしい、僕が守るからって言うつもりだった。だけど、僕の命は近藤さんの物だ。君を守って死んだら近藤さんを守れない」
    「うん。大丈夫、ちゃんと分かってる。ずっと手を繋いだままじゃいられない。総司はもっと速く走れるもの」

    左頬の涙を拭う手が優しい。好き。好きよ、総司。『無事に帰ってきて』『待ってるから』、音になって入り口から出そうになった言葉を呑み込む。どうか憶えていて、心の端でいい。それだけでいいの。


    文久三年のこと。思い出せる中で一番綺麗な記憶。その後、私が平凡な娘に戻ることはなかった。私は進む。平凡とは程遠い、闇へと真っ直ぐに。
 - 表紙 -