- 会津の冬はかなり冷え込む。寄り添って、互いの熱を分け合うように夜を超えた。総司の腕の中は、最も安心して息ができる場所だ。それは今も昔も変わらない。三日のうち一日は、私が総司を抱き締めるようにして眠った。髪を撫でるとあっという間に寝息を立てる姿が愛しい。
「あれ。君、また来たの?」
寒い朝に総司が言う。その視線を追えば、真っ黒な塊を膝に乗せている。秋口から顔を出すようになった黒猫だ。親猫が子猫を愛でているように見えて笑ってしまった。ごろごろと喉を鳴らして、総司の膝の上はかなり居心地がいいらしい。
「名前を付けてあげたら?」
ここに居着いてだいぶ経つし、どうせ冬の間は毎日来るだろう。猫は寒いのは苦手だ。それに、そんなに可愛がっているのだから名前を付けてやった方がいい。私の提案に総司は穏やかに笑う。それだけで返答はない。
「離れ難くなるのは嫌だな…」
独り言のように呟く。愛着を持てば、それだけ別れが辛くなる。それでも迷わず私には手を伸ばしてくれるのが嬉しい。だけど何かを大切に思うことを躊躇しなくてはならないなんて、そんな迷いはどうか今ここで斬り捨てて。
「総司」
名前を呼んだだけで、しまったという顔をするから失言に気づいたらしい。不穏な空気を察したのか、黒猫が仲裁するように私の膝に移動する。その背を撫でて顔を上げれば、総司は叱られるのを待つ子供のような表情で話し始めた。
「僕は…君を残して先に逝く。新選組で戦っている頃は何かに恐怖を感じたことなんてなかったのに……名前と共に過ごして初めて、死ぬことを怖いと思った。死んでこの身が朽ちたら、どうせ何も感じなくなるのにね。この畏怖の理由は息が止まることでも、身体の痛みでも、灰と化すことでもない。そんなことはちっとも怖くない。嫌なんだっ、……死にたくない。君と生きていきたい。僕はただ、名前と離れることが途方もなく怖い」
総司が弱い自分を見せたことは数えるほどしかない。労咳は死病、特効薬はない。それに、羅刹の毒も消えたわけではない。もしかしたら朝目が覚めたら、その身は灰となっているかもしれない。弱気にならない筈がない、怖いに決まっている。
「ごめんね。私は…貴方と一緒には逝けない」
「は…く、はははは!最初が慰めの言葉じゃないなんて、名前らしいや。分かってるよ、君はそういう子だ。僕が隣にいなくても、君には生きてほしいって思ってる。あーあ、本当は名前が泣き出してから言うつもりだったのに」
涙を浮かべて笑ったあと、口を尖らせて不満そうに言った。予想より柔らかい空気に、肩透かしを食らったような気分だ。
一人で生きていくと決めたのはごく最近だ。向き合っているつもりでいて、目を背けていた未来。それを咀嚼し、総司がいない人生を歩いて行く覚悟を決めるまでかなりの時を要した。
「心中するって言われるのも結構そそられるけれどね…君の思いを、聞かせて」
「……最初はね、貴方がいない世界が堪らなく怖かった。想像するだけでも震えて涙が出るのに、そんな様で生きていける筈ない。だから一緒に息をするのをやめてしまえばいいって思ったわ。その方がきっと、ずっと楽だもの」
総司の鼓動と同時に私の時間も止めてしまうのは容易い。だけど、そんな私なんて総司はきっと嫌うだろう。それに、総司が好きだと言ってくれた"強くて眩しい人間"でありたいと、そう思うから。
「でも、もし私がこの喉を掻き切って貴方の所に逝くとして……そんな私を貴方はきっと抱き締めてはくれないでしょう?それに、死んでもいいって思える瞬間まで生きてやるって誓ったの。だから、この鼓動が自ら止まるまで見られる景色を、聞こえる音を、全部感じてから追いかける」
ちゃんと伝わっただろうか。顔を上げれば、総司が笑っている。大好きな陽だまりみたいな顔をして。伸ばされた手が私の髪を撫でて、流れるように頬へ添えられる。擦り寄るように頬擦りすると、くすりと笑う気配がした。この温もりをいつか感じられなくなる日が来る。
「貴方の鼓動を背負って生きるわ」
「っ……名前は本当、頼もしいね」
声を詰まらせて言って、抱き締められた。途端、膝から抗議の声が上がる。すっかり忘れていたけれど、最初はこの子の話をしていたんだった。総司も同じらしく目を丸くして、毛を逆立てた黒猫を見る。それが可笑しくて二人で目を合わせて笑った。
「君のこと忘れていたよ。ほら、おいで」
ちっちと声を出して呼ぶけれど、未だ警戒して近づいて来ない。その様子は少し総司に似ている。真っ黒な毛並みを見て思い出すのは、
「夜みたい」
ぴくりと耳を揺らして、黄色の双眸がこちらを見つめている。どうやら気に入ったようだ。名付けたつもりはなかったのだけれど、尾を立てて鳴き声をあげる姿が愛らしい。機嫌を直したのか膝へと戻り丸まった。毛並みに沿って撫でてやると、心地良さそうに目を細める。それを見て総司が心無しか不機嫌そうにしているのが可笑しい。猫にまで嫉妬しなくてもいいのに。
「名前……これ、どうしたの?」
呆然とした声に視線を巡らせる。秋に買ったびいどろ製の容器。総司はそれを手に取って懐かしそうに目を細めた。見覚えがあるのだろうか。尋ねる前に総司が先に口を開いた。
「誰のだろう、こんなに小さかったかな……もし僕が灰になったら、腕一本分くらいはこれに収まっちゃうかもね」
とある冬の日、私達は未来を見据えた。それは暗くて恐ろしい未来なのに、不思議と心は穏やかで。きっとそれは貴方との思い出が、貴方への愛が、私の心臓となるからだ。色々な景色や音を感じ尽くしたら、また逢えると信じているから、胸を支配するのは悲しみだけじゃない。
日差しが雪を溶かして、春がやって来た。縁側で二人並んで金平糖を頬張る。"よる"と名付けた黒猫は、蝶を追いかけて飛び回っている。思わず顔が綻んだ。
「名前、散歩に行こう」
確かにいい天気だ。頷こうとして戸惑う。切なそうで泣き出しそうな、それでいて時が来たと全てを享受したような顔。それを見て嗚呼、今日なのだと理解した。一度だけ目を閉じて、私は笑う。
「そうね、桜が見たい。きっと見頃よ」
草履を履く前に総司がよるの頭を撫でる。小さく鳴き声を漏らすのを見て満足そうに笑った。暖かな空の下、手を繋いで歩く。少し行けば、桜が咲いている。京や江戸に比べると開花は遅い。散る直前の、開き切った蕾が視界を桃色に染める。木の真下で足を止めると、振り向いて言う。
「お別れだ」
「……うん」
油断すると涙が溢れそうで、瞬きを我慢した。それを見透かしたように総司が笑う。腕を引かれて、導かれるがままにその胸に顔を埋めた。耳を押し当てれば、規則正しい鼓動が聞こえる。まだその心臓は動いているのに、さよならだなんて信じたくない。
「"次"を望まずにいられない。僕は潔い人間だと思っていたのに、大事なものに対しては本当に執着するみたい」
「離さないで、最後の最後まで」
心に直接語りかけるような声。もしもまた逢えたならと−−−希望を持つことくらいはどうか許してほしい。泣かないで笑って見送るから。
「名前−−−大好きだよ、ずっと君だけを想ってる。忘れないで、たとえ触れられなくても傍にいる。心は君に預けておく」
「うんっ…、大切に持ってるわっ、いつかきっと逢いに行くから!!」
何度その名を呼んだだろう。それだけで嬉しそうな顔をするのが、いつも愛おしくて。大好きな声で名前を呼ばれるのもこれで最後。堪らなくなって縋り付くように胸元の着物を掴む。添えられた手に促されて顔を上げた。
「いってらっしゃい、総司」
『さよなら』は言わない。声は震えていなかっただろうか、笑えているだろうか。私は今、貴方が誇れるような人間になれているだろうか。
「いってきます」
潤んだ翡翠が灰色に染まって、しっかり捕まえていた筈の身体が輪郭を失う。灰と化したその身を包み込むようにして膝をついた。手の中に着物だけが残る。途端に溢れ出す涙を拭ってくれる手は、もうどこにも無い。
「うぁ……そう、じ!総司!!」
落ちた涙が灰色に滲んでいく。心と身体にぐっと力を込めて震える手で胸元から取り出したのは、びいどろのあの容器だ。鼓膜を支配する生前の総司からの言葉。
−−−灰になっても、どうか君と共に。名前が見る景色を僕にも見せて
春風が連れて行ってしまう前に、必死に両手で掻き集めて。砂よりも軽く柔らかい感触の粒が筒状の容器を埋める。掬えなかった灰達が、強く吹いた風に舞い飛んでいく。未だ流れ続ける涙が顎の先から地面に落ちた。ぎゅっと蓋を閉じて空に掲げれば、日の光に照らされてキラキラと輝いた。全然違う色なのに、何故かそれが大好きな瞳に見えて声を上げて笑う。
「たとえ傍にいられなくても、貴方を永遠に愛してる。私のこと、ちゃんと見ていてね……そうじゃないとっ、ふらふらどこかに行っちゃうから」
小さなびいどろを抱き締めて、足に力を込める。大粒の涙が頬を伝うのを止めようとは思わなかった。だってこれは総司への愛情の証だから。貴方を想い、泣いて、笑って。それは心が生きているということだ。何千回も、何万回も繰り返して、この生を終えたら名前を呼んで抱き締めて。
「ほんの少し手を離すだけよ。きっとまた逢えるから、何も怖いことなんてないわ」
桜が咲く中、世界で一番大事な人は霞のように消えた。それでも私は息をする、歩みを止めない。心に残してくれた灯りをずっと抱いて生きていく。道に残る足跡は一つになったけれど、振り向くことはない。だって、貴方は後ろにはいない。私は往く、愛しい人の待つ場所へ。
−−完−−