1. 「雨、降らないといいね」

    五日後に兄達はここを発つ。家路の途中、横を歩く兄にそう言った。近頃は雨の日が多い。降らなすぎるのも困るけれど毎日というのも考え物だ。唯でさえ空元気を持続させるのが難しいのに、より気分が沈む。
    兄はどこか上の空で私の言葉も耳に入っていないらしい。短く息を吐けば、小さく名前を呼ばれた。

    「必ず帰ると約束はできない。お前には苦労ばかりかけて本当にすまない。だが俺はっ…!」

    パチン!と目の前で手を叩く。

    「帰ってきて、なんて言うつもりない。そんな保障がないって分からないほど馬鹿じゃないわ。それに、私まだ十九よ。苦労した、なんて言わないで。親が生きていたらって思ったことは確かにある。でも、兄さんがいた!一人じゃなかった!」

    本当にこの兄はお人好しが過ぎる。炊事、洗濯、掃除も一人でやれる。ただ、少し寂しいだけ。見上げれば、いつもの顔で笑う姿も見納め。目を合わせて笑う。優しい、自慢の貴方の為に。

    「しっかりね、兄さん」

    −−−−−

    それから二日経ったその日の夜は酷い雨だった。頭にこびり付いて消えない記憶。消したいのに、忘れられない、光景。
    両親を飲み込んだ川は濁流と化し雷が轟いていたから、中々眠れなかったが布団に入り数刻経ち、やっと瞼が閉じかけた時だ。丑三つ時。カラン、と音がする。聞き慣れた、鞘が落ちる音。はっと目を見開く。さっきまで目を開けていたから暗闇でもよく見えた。そっと襖の隙間から覗けば、稲光に照らされた、赤。血だ。気道が狭くなる感じがして、上手く呼吸ができない。泥人形の如く倒れ伏しているそれ。見慣れた鶯色の着物と茶色の髪。声が、出ない。兄の傍に立つ影がゆるりと動く。

    「これで今日も…戻らなければ、京に」

    踵を返そうとしたその時に、また雷が轟く。その左腕に刀傷、兄の抵抗の跡だ。足音が遠ざかる。追わなければと頭が叫ぶのに、地に縫い付けられたみたいに動かない足。気配が消えて四半時ほど過ぎただろうか。体感では数刻に感じた。結局、最後まで臆病で意気地なし。

    「うぅぅ……、あぁぁぁぁ!」

    眠る前に着物を繕うのに使っていた針を手の甲に突き刺す。やっとこ立ち上がり転がるようにして兄の元へ。肩を揺すって名前を呼ぶ。もう、遅い。その目は闇だけを映していた。
    崩壊の音がする。亀裂がはいって、がらがらと音を立てて崩れていく。

    「あぁぁああ!どうして、どうしてよ!私にしてよ!殺すなら、私を殺して!」

    慟哭する。憎い。憎い。憎い。憎い。殺してやる。道連れにしてでも、あいつを、この手で。

    −−−−−

    それから気を失って、また数刻が過ぎただろうか。雀が鳴く声が聞こえる。朝が来たのだと分かったけれど、瞼を開けたくなかった。その光景を二度と目に映したくない。視界を塞いでも、血の臭いが、握った手の冷たさが夢ではないと語りかけてくる。

    「なんで土方さんまで付いてくるんですか?迎えくらい僕一人で平気です」
    「仕方ねぇだろ。近藤さんに言われちまったら」
    「(…嫌だ。まだ一人にして、お願いだから)」

    規則的な足音が止まる。

    「どうした総司?」
    「血の、臭い…っ!名前!!」

    今まで一度も聞いたことのない焦った声。息を呑む気配がして少しだけ瞼を開けると、薄目の視界の中で立ち尽くす姿が見えた。

    「な、なんだこれは…、冗談だろ…」

    助けて、助けて。私の心臓をあげるから、この人を生き返らせて。そう願いながら手を伸ばす。愛しい人が駆け寄って、兄の血で塗れた手を握ってくれる。

    「名前!名前!」

    翡翠みたいな瞳が揺れている。私を引き戻す声。身を起こせば、その腕に息が詰まるくらい強く抱き締められる。流し尽くした涙がまた溢れる。今まで、こんなに泣いたことはない。

    「…土方さん。誠志郎さんは?」

    その問いに目をぎゅっと瞑ると、頭を抱え込まれる。見なくていい。聞かなくていい。そう言われた気がした。

    その後、駆け付けた近藤さん達によって兄の遺体は試衛館内の一室に運ばれた。総司に手を引かれて、その部屋に入る。誰も口を開こうとしない中、最初に開口したのは土方さんだった。

    「誰の仕業だ?名前、下手人を見たか?」

    その問いに俯いていた顔を上げる。膝の上で握りしめていた手に更に力を込める。そう、見なくていい訳はない。聞かなくていい訳はない。無情にも奪われたのだ。黙っていられる訳がない。

    「顔は、見ていません。声を聞いた限りでは男でした。あと、左腕に刀傷が。兄さ、兄が付けたものだと思います。ごめんなさい、何もっ…!何もできなくて、ごめんなさい。私が、私が代わりに死ねばよか…、

    私の言葉はドスッという鈍い音に遮られた。隣を見れば総司が刀を畳に突き立てながら、あの燃えるような瞳で前を見据えている。

    「もう、いいですよね土方さん。この子ろくに寝てないので休ませます」

    引きずられるように部屋の外へ。掴まれた手首が痛い。痛いのに放して欲しくないと思った。

    「怒ってるの?」

    布団に寝かされ、眠るまで隣にいると言った彼に問う。顔を歪めたかと思えば、ふっと綺麗に笑う。

    「…だって名前、『自分が死ねばよかった』って言おうとしたじゃない。君が生きていることが僕はこんなに嬉しいのに」

    代わりに死ねばよかったと思ったのは嘘じゃない。夢の実現を目前に散った兄より、何も持っていない自分が死ねばよかったと。そのくせ一人残されて兄が夢見た武士のように腹を切って死ぬ度胸もない。それなのに望んでくれる人がいる。生きていてよかったと言ってくれる。精一杯の『ありがとう』はあまりに小さくて貴方には聞こえなかったかもしれない。

    「(生きるよ。だけど、ごめんね。私は…)」

    覚悟と謝罪をしながら、意識は沈んでいった。

    −−−−−

    半日も眠っていたらしい。食欲もない腹に申し訳程度の白米を押し込みながら、起き抜けの土方さんとの会話を思い出す。

    『起きたか。明日、俺達は予定通りここを発つ。お前はどうする?』
    『土方さんは優しいですね。私が付いて行っても良いことなんてないでしょうに。加えて今の私は万全ではないです。足手纏いになるからって理由で行かないと言ったんですから、答えは変わりません』
    『総司にはなんて言うつもりだ?あいつは納得しないぞ』

    そうだろうなと思った。意地悪だけど優しいのを知っている。背中を押さなければいけない。悲願を成就させるために。偽善者ぶっても、結局自分のためかと自嘲した。

    「名前を置いていくって…冗談ですよね、土方さん?誠志郎さんが殺されたばかりで、そんな彼女を置いていくなんて!近藤さんも何か言ってください!」
    「冗談なんかじゃねぇ。こいつは置いていく」
    「総司。これは彼女自身が決めたことだ。俺も、そしてお前も曲げることはできまい」

    お前はどうする、と聞いてくれた土方さんは優しい。近藤さんは最後まで納得してくれなくて、それが兄を思い出させて少し切なくなる。土方さんに掴みかかろうとするのを抑えながら近藤さんが言えば、不貞腐れたように座り込むものだから笑ってしまった。

    「近藤さん、土方さん。少し総司と話をさせてください」

    −−−−−

    「総司、こっち向いて」

    二人が退室してから、そっぽを向いたままの顔をむんずと掴み目を合わせる。ああ、やっぱり猫みたいな髪の毛だ。総司の髪を撫でることも、きっともうない。

    「ちょ、痛い!君って時々強引だよね」
    「いいから聞いて。私は一人でも大丈夫。ここでちゃんと生きて行くから。周斎先生が試衛館に住まわせてくれるって。でも近藤さん達には総司が必要なの。それに総司は近藤さんの傍にいなくちゃ、ね?」
    「なにそれ、まるで名前には僕が必要ないみたい。…ずるいよね、ほんと。僕が近藤さんを切り捨てられないって知ってるのに、離れて行くなんて」

    子供に言い聞かせるみたいに諭せば、揚げ足を取られる。口喧嘩には自信があったはずなのに。必要ないなんて思っていない。ずっと隣にいてほしい。でも、そう言ったら総司は私を連れて行く。そうなれば私の悲願は叶わない。

    「(私達はお互いだけを選ぶことができないみたい。貴方がその生き方を選んだように、私も復讐を選んだから)」

    ぐっと唇を噛めば、腕を掴まれ抱き締められる。

    「約束して、待ってるって。僕も約束するから。絶対に名前のところに帰ってくる」

    頷くことはできない。両方なんて選べる訳ない。だって総司みたいに強くない。
    だから、約束を破るのは私。嘘を付くのは、これで最初で最後にするから。
    絶対に忘れない、貴方が私にくれた時間も想いも全て。

    泣くだけの私の髪を撫でて微笑む。『待ってる』って言わないことに気付いてる?気付かなければいい、いつもの自信過剰を発揮してくれればいいと思った。

    緑色の瞳に映った自分を見るのもこれで最後。引き合うように唇を吸われる。その刹那は一生で一番満たされた時間。もう二度と訪れることのない幸福。
    ___さようなら。
 - 表紙 -