1. 一君とはそれなりに仲が良い方だと思っている。寡黙で少し天然だけれど、相手を気遣うことができる人。その気遣いは分かりづらいから中々伝わらない。それに彼は左利きだ。この御時世に左利きで刀を握る人間は少なく、右手に矯正する者がほとんどだと聞く。それでも彼は左手で刀を振る。その方が強いからだと言っていたが、だからと言ってそれを曲げずに貫ける人は多くない。総司も彼と稽古するのが一番楽しそうだった。

    「誠志郎さんのことは聞いた」
    「そっか…。一君も京に来てたなんて知らなかった。皆は元気?」

    巡察の途中らしかったが、話がしたいと言えば新選組の屯所でと言うので全力で抵抗する。怪訝な顔を見せたが隊士達を送ってからならばと頷いてくれた。一君相手だとボロが出そうで、すぐに話を逸らす。兄が殺されたときには既に、彼は試衛館に顔を出さなくなっていた。総司が酷く寂しがっていたのを思い出す。

    「ああ。しかし苗字、何故京にいる?土方さんからは試衛館にいると聞いていたが」
    「言えない、ごめんね。お願いだから、皆にも私が来ていることは言わないで」

    京にいながら皆に会いにいかない。土方さんなどは、それだけで私が何をしようとしているのかを勘づきそうで怖い。やっと見つけたのだ、ここで止められる訳にはいかない。

    「それは出来ない」

    ばっと振り向けば涼しい顔が『否』と言っている。思わず顔が引きつる。そういえば頑固者、良くいえば真面目だったのを忘れていた。はぁ、と溜息を吐く。

    「分かった。ただし、その時期は私に決めさせて。それまでは黙っていてほしいの」
    「あんた、まさか…。いや、承知した。どうこう言う権利は俺にはない。決めたら曲げない奴だと知っている。しかし、忠告はさせてもらうぞ。一度、人を斬れば今のお前には決して戻れない」

    "誰を″と言わない所が彼らしい。あくまで忠告で、制止ではない。そして、その言葉で彼は人を斬ったことがあるということを確信する。だとしたら恐らく総司も同じように…。

    池田屋の事件でも斬ったのだろうか。あの騒動で新選組の名は一層有名になった。そうなれば自然と任せられる仕事、つまり人を斬る機会も増える。総司がまた、遠くなる。会ったわけでもないのに、人を斬る度に総司が総司ではなくなってしまう気がして畏怖すら覚える。二度と会うことはないのだから、その真意を確かめることはできないのに。

    「ありがとね、一君」

    お礼を言って、ひと月に一度の頻度で凪屋に来てほしいと伝える。悲願の成就が確実になるまでは居場所を知られるわけにはいかないし、会うことも避けたい。

    「(いつから、こんな悪い子になったかな…。なんて、良い子だったことなんて一度もないか。叱ってくれる人も、もういない)」

    −−−−−

    そして、元治二年三月。初めてあの男と会ってから一年以上が経っていた。この時には、せめてどこに住んでいるのか聞いておけばよかったと後悔した。いくら約束したとは言えど、相手はしがない街娘だ。約束を守る道理などない。

    しかし、男は約束通り店に来た。萎んでいた復讐心に再び火が灯る。まだ、まだ、確実に殺せる舞台を用意するまで耐えろ。凪屋では殺せない。この男が油断しているとき、尚且つ一人でいるときでなければ駄目だ。決して弱くなかった兄が対峙して、殺された相手なのだから。

    「あの、今来たお客さんの事知っていますか?」
    「ああ、あん人。うちの常連やったんや。せやけど、最近はぱったり来なくなって。確か街はずれに住んどる言うとったな」

    その日店を出た奴を尾行して、家の場所を突き止める。本当に街はずれの小さな家だ。街はずれ、都合がいい。誰かに邪魔される可能性は低いに越したことはない。決行するなら夜だ。それも、一君に会う日の夜。試衛館の皆に所在が伝われば、すぐに誰かが私の所に来るだろうから。

    それから数ヶ月、暇の全てを男の行動を観察するのに費やした。いつ家を出て、いつ戻るのか。それは何日間隔か。行動の傾向を掴んで、実行に移すのは九月と決めた。直近で、一君が来る日と、男が確実に家にいる日が一致する月。

    −−−−−

    九月のその日。ひと月に一度、一君は律儀にその通りにしてくれている。本当に真面目だ。朝から降り出した雨のせいか、雫を鬱陶しそうに払っている。頬にも付いていたので拭こうと手を伸ばして、やめた。いや、できなかった。総司と初めて会った日を思い出したから。今はもう着物の裾程度では拭えないほどの血を浴びているのだろう。顔に出ていたのか、大丈夫かと肩を揺すられて我に返る。

    謝って昼まで待ってもらうように頼めば、小さく頷いて団子を注文されて笑いそうになった。生憎、ここは料亭なので甘味はないからと高野豆腐を出そうとしたら引ったくられた。どうやら好物らしい。

    昼過ぎから暇を貰って自室に彼を通せば、店主が冷やかしてきたので、苦い顔で否定する。私とは対照的に能面のような一君。真面目なのか堅物なのか。とはいえ、彼が腹を抱えて笑う姿を想像して『これはないか』と首を横に振る。いつもなら自室に通すことはないから、聡い彼は察しているだろう。

    「一君、今までありがとう。もう、いいから」
    「心は変わらんようだな」

    目を合わせて、礼を言えば間髪入れずにそう返ってくる。心は、変わらない。まだ引き返せるとしても、闇へ。この手で殺すと誓った。

    「うん、損な役回りさせてごめんね。馬鹿だよね本当。自分が自分じゃなくなるのが怖くて堪らないのに、譲れない。折角一君が忠告してくれたのにね。兄さんが死んだとき思ったの。兄さんの信念は近藤さん達が連れて行ってくれる。だけど兄さんの無念は私が晴らさなきゃって。あの人のことは私が一番分かってる」

    武家の生まれでもないのに、武士を志し、そして何一つ成し遂げることなく死んだ愚かな兄。それでも大切だった。

    「そうか。約束通り皆には伝えさせてもらう。…総司に、伝えることがあるのではないのか?あんたにとって譲れなかったのは復讐だけではないだろう」

    いつも一言二言が常だから、つらつら言葉を並べられて面食らってしまう。

    「なんだ、お見通しか。それじゃあ言伝をお願いしてもいい?一つだけ、一つだけ後悔があるの。約束を…っ、させてしまった。違えるって分かってたのに。だから『待っていられなくてごめんね。』って、伝えて」
    「ああ、必ず伝えよう」

    短く答えて彼はすぐに出ていった。これで退路は断たれたということだ。誰かが訪ねて来る前に、ここを離れなければいけない。すっと立ち上がり、着替えを済ませ刀を取る。兄の刀だ。今日の夜、奴を殺す。
    人を殺す前なのに不思議と心は穏やかだ。幼子が蝶の羽を毟るように、蟻の上に石を落とすみたいに私は人を殺す。

    −−絶対に名前のところに帰ってくる。
    「会いたいな…」

    −−僕は君が生きていることがこんなに嬉しい。
    「ごめんね」

    −−僕は君が好きだよ。
    「私も大好きだよ、総司」
 - 表紙 -