プロローグ

「怪我はもういいのか?」

その問いが自分に向けられたものだと認識するのに数秒、その意味を理解するのに数秒かかった。流暢な日本語のおかけで、それが叶ったとも言える。声の方へと顔を向けたテンジンは息を飲んだ。真っ白な病院内に映える黒。長い手足と整った顔立ち。服の上からでもその強靭さを主張する、鍛え上げられた肉体。鼻を掠める煙草のにおい。そして何よりも目を奪われたのは瞳だ。朝露に濡れた葉のような緑。綺麗────その一言が舌に乗りかけた時、男が再び語りかけてくる。

「すまない、日本語が分かると思ったんだが・・・」

今度はゾンカ語だ。こちらも聞き取りやすい発音で、たどたどしさは微塵も無い。長くこの地で暮らす人々と何ら遜色ないくらいに。男はそう尋ねながら、さり気なくテンジンの膝にある本へと視線を向けた。日本語の本を読んでいるということを暗に指摘する、自然な動作だ。男がどこか不安そうに少し眉を下げるものだから、テンジンは慌てて大きく首を横に振った。

「いいえ!いいえ!分かります、日本語!」
「ふっ、そうか」

再び、日本語。大袈裟な反応に、男は喉を鳴らす。笑い方もどこか気品が漂っている。その横顔を見つめながら、テンジンは膝に置いていた本を胸元に導き、抱きしめた。優しげな目元は、少しあの人に似ている。この本の読み方を、身を守る術を、人を撃つということの重みを、テンジンに教えてくれた先生────狡噛慎也。

「君がここに運ばれて来た時に、偶然居合わせてな。酷い怪我だっただろう?」
「そう、だったんですか。まだ少し痛みますけど、大丈夫です。それに、ずっとベットの上だと退屈だし」
「強いな。だが、あまり無理はしない方がいい。休める時に休むのも大事なことだ」
「はい」

叱るのでもなく諭すのでもなく、どこまでも穏やかな口調だった。そうでなければテンジンも素直に頷けなかったに違いない。子供扱いされるのは嫌いだ。なのに、聞き分けよく返事をしたからか、男は満足げに目を細め頭を撫でてくる。しかし不思議なことに、不快な気持ちにはならなかった。慈愛に満ちた手付きと温もりは、遠き日の父を思い起こさせる。

「貴方も怪我を?」

なんだか恥ずかしくなって、誤魔化すように尋ねた。見たところ、どこも怪我をしている風ではない。服から伸びている腕には所々に小さな傷があるが、どれも真新しいものではなさそうだ。

「いや、俺ではなく連れだ。無茶をするのが得意な奴でな。今回ばかりは医者を頼らざるを得なかった」

苦笑しながらも、そう語る声はひたすら優しく誇らしげで、初対面のテンジンですら、男がいかにその人物を大事に思っているのか分かるほどだった。

「とても、大切な人なんですね」

微笑み返すと、男は緩やかに口端を上げた。肯定がなくとも、それだけで返事は十分だ。その時、廊下の向こうから歩いて来た影が、テンジン達の前で立ち止まる。顔を上げて視線が交わった瞬間、なぜか胸が鳴り、思わず手を当てた。なんだろう、この感じ。形容し難い心情に、テンジンは戸惑う。そこに立つ女性は、真っ直ぐにこちらを見つめ、瞬きをした。フレデリカのように目を奪われるほどの美貌を持っているわけでもなければ、ゲリラのような不穏さもない。なのに何故か目が離せない。

「検査結果は?」
「問題ありません。予定通り退院していいそうです」
「そうか。なら、早速発つぞ。約束に間に合わない」
「その前に何か食べて行きませんか?このところ胃に優しいものばかりだったので、刺激が欲しくて」
「却下だ」

ピシャリと断られると、彼女は頬を小さく膨らませた。まるで幼子のような振る舞いに、テンジンは目を見張る。なんというか、様になっている。本気で拗ねているのだ。世の中にはこんな大人もいるのか。

「出店で何か買ってやるから、それで我慢しろ」
「やった!じゃあ肉まんモモでお願いします。あれ、美味しいんですよね」

目を輝かせ軽くジャンプをする。なんだか可愛い人だ。テンジンは自然と笑顔になった。肉まん一つに無邪気に喜ぶその人が、戦場では全く別の顔を見せるだなんて、彼女は想像すらしていない。女が日の差し込む廊下を軽やかに歩き出すと、男はテンジンを振り返る。

「それじゃあ、お嬢さん・・・お大事に」
「っ、ありがとう!」

ひらりと手を上げ、去って行く。一度も振り返ることなく。不思議な二人組だ。全く印象が違うのに、どちらも他者を惹きつける魅力があった。磁石で言えばNとS。だからこそ、彼らは惹かれ合うのかもしれない。

「可愛い子でしたね」
「そうだな。お前より何倍も素直だ」
「ご冗談を。比べる対象が間違ってますよ。マイナスとプラスじゃ、比較の必要すらないでしょう。ところで、さっきのラジオ聞きました?」
「ラジオ?」
「フリッカの言ってたとおり、狡噛がひと暴れしたみたいです。結果、平和は守られた」
「彼らしいな」

愛しいその姿を浮かべ、女は微笑んだ。それを感じとり、男も頬を緩める。ほんの少し先で待つ再会に胸を躍らせながら。

**

2117年11月。南アジアの小国、チベット・ヒマラヤ同盟王国。長い放浪の中での一時だったが、狡噛はこの土地で復讐を誓う少女ーテンジンーと出逢い、心を決めた。日本へ戻る。あそこにはまだ、自分に出来ることがある。

「悪いけど、少し寄り道するわよ」
「構わない。どうこう言える立場でもないしな」

走り出した車内で、フレデリカが言った。舗装されていない道のため、進むたびに座席と共に体が大きく揺れる。

「あら、意外に素直なのね。それなら、日本へ帰国する前に一つ頼まれてくれる?」
「・・・なんだ?」

仕事を手伝えと頼まれたが、ひょっとして便利な駒が欲しかっただけではないのか。だが、そう疑ったところで、すでに了承してしまったのだから無意味である。諦めたように大きく息を吐き、狡噛は尋ね返した。

「この先で、人と会う約束をしているの。私の代わりに迎えに行ってちょうだい」
「迎え・・・連れて来いということか?」
「そうよ。安心して。話は通してあるから、拒否されることはないわ。貴方と同じで、次の仕事を手伝ってもらうことになってる」

その仕事の内容とやらも知らされていないが、大方予想はつく。国外の人員を招集しなければならないほどの事案。外務省が担当しているということは、対外的な案件なのだろう。自惚れているわけではないが、それなりに腕は立つ方だと自負している。そんな自分の他にも声をかけているのだから、それだけ肝入りということか。

「着いたわ。ここからは歩いて行って」
「了解だ。それで、相手の特徴は?」
「行けば分かるわよ」

ドアを開けながら質問すると、フレデリカはそう返した。全く答えになっていない。怪訝そうに睨みつけてくる狡噛と、視線を合わせようともしない。性別すら知らされず、どうやって連れて来いと言うのか。ふと、一つの懸念が生じた。狡噛はそれをそのまま口にする。

「まさかとは思うが、俺を試すつもりか?急襲されるわけじゃないだろうな?」
「疑り深いのね。誓って、相手には貴方への悪意も敵意もないわ」

それはそれで奇妙である。日本なら兎も角、紛争ばかりの土地で、初対面の相手に悪意も敵意もない人間がいるものか。子どもですら、復讐心を抱くような世界なのだ。狡噛の脳裏に、無邪気に笑うテンジンの姿が浮かぶ。どうか健やかに、そう願わずにはいられない。返答を得ることを早々に諦め、狡噛は歩き出した。決して警戒は怠らずに。そんな彼を、見つめる影が二つ。生命を嘲笑うかのような高い山々を背に、吹き荒れる風に髪を靡かせ、並んで笑う。ひとりが駆け出し、その名を呼んだ。傍にいた男も、緩やかな足取りでそれに続く。

「狡噛!」

風音を吹き飛ばすような声。鼓膜を揺らしたその音に、狡噛は身体を硬直させた。振り向く前に、今背後にあるだろう光景を想像する。少し高い跳ねるような声音、懐かしい気配。一旦目を閉じて、振り返りながら瞼を上げた。その途端、上半身が衝撃に襲われ、久方ぶりの香りが鼻を掠める。飛び込んできた身体を咄嗟に支えてやると、首に回された腕がさらに力を増した。そうしてやっと実感する。嗚呼、戻って来たのだ、と。真横にある首元に顔を埋めてから、狡噛は噛み締めるように名前を呼ぶ。

「響歌」
「ね、ちゃんと帰って来たでしょ────元気だった?」
「身体はな」

含みのある答えに、響歌はゆっくりと拘束を解き、狡噛を覗き込んだ。浮かべていた笑みを消し、非難の眼差しを向ける。何よりも心に重きを置く彼女にとっては、無視できない返答だったのだろう。しかし、狡噛は微笑を崩さない。

「お前の所為だ。だから、これからは傍にいろ」

淀みのない希求。僅かに瞼を動かした響歌の半歩後ろで、赤井は小さく笑った。愛に惑う姿を眺めるのが楽しくて仕方ない。主役でないからこそ、心置きなく鑑賞できる。ここは、特等席だ。

「卑怯な言い方するようになったね。でも、いいよ。私の前では優しくあろうとしなくていい。貴方らしく、心のままに。それだけ守ってくれれば、何も文句はない。ねえ、狡噛────傍にいてほしいならさ、ちゃんと繋ぎ止めておいてよね」

挑発するように狡噛の頬に触れ、響歌は美しく微笑んだ。風が吹き、その背でルンタがはためく。皮膚から伝う指先の感覚は、これからも狡噛を人たらしめる光だ。

「上等だ」

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