棄国への帰還

2118年1月、神奈川沖合。降り頻る雨と鳴り響く雷の音が、暗闇の中で絶え間なく踊っていた。地上、否────海上に浮かぶのは、大型の外国船舶【グローツラング号】。大量の物質を運んでいる。輸入品という名の搾取品。覇権国家となった日本の国力の象徴だ。普段は船員すらいないその船には今、とある重要人物と護衛の男達が乗っていた。そして、低空飛行でグローツラング号を追尾している航空機。ステルス仕様の多用途攻撃機であるそれは、彼らからミカエルと呼ばれていた。彼ら。もといピースブレイカーの隊員達は皆、神や天使の存在を信じている。もうじき作戦開始だ。無言でその時を待つ者達の中でも一際目立つ髪色の男がいた。名を甲斐・ミハイロフ。神という単語を聞くと、彼はいつも一つの記憶を脳裏に浮かべる。

────神?この惨状を前にそんな事を尋ねるなんて、顔に似合わず中々ユーモアがありますね。

古い記憶と言っていい。弟がまだ少年だった頃だ。とある戦場の、とある夕暮れ。橙色に照らされた焼け野原。死臭で鼻が馬鹿になりそうだった。あちこちに転がる死体に囲まれ、思わず零した問い。この世に神はいないのか。それは確信であり、懇願。まだ何かに縋っていたかったのかもしれない。そんな夕陽と共に地平線に呑まれそうなほど微かな声を拾ったのは、側にいた一人の戦士だった。

────神の試練だとでも思っているなら、大間違いですよ。仮に神がいるとしても、そいつは試練も恩寵も与えたりしない。ただ黙って見ているだけです。ほら、ちょうどこの石みたいに。

足元にあった石を拾い、掲げて見せる。無意識に目で追う彼を嘲笑うように、その戦士はそれを思い切り放った。真っ直ぐ向こうへ飛んでいき、重力に従いあっさり地面へ落ちる。あまりの呆気なさに何の反応もできなかった。しかし返事を求めてはいないらしく、戦士はすぐに別の石を漁り始めた。まるで人間を選別する神の如く、石を拾っては捨てを繰り返す。どうやらお気に入りの形が見つからないようだ。

────貴女は、神を信じていないのか。

土や泥、そして仲間の血で汚れた背中を見つめ、問いかける。すぐに答えは返ってこなかった。救いの言葉は期待していない。ただ、その人間が語る様を、焦げた死体を見つめる眼差しを、もう少し見ていたかった。暫くして思い出したかのように振り向くと、戦士は快活に笑う。

────まぁ、信仰心はないですね。有神論者か無神論者かなら、確実に後者でしょう。でも別に、神の存在を否定しているわけじゃない。ただ、居ても居なくても、どちらでもいいだけです。必要としていないと言った方が適切かもしれません。
────それは、貴女が強い人間だからだ。
────強い?違いますね、異常だからです。苦しい時は神に縋るよりも、武器に手を伸ばす。私はね、そういう人間なんですよ。だってその方が、ずっと楽しいと思いませんか?

今となってはその声も、姿も、曖昧だ。次第に褪せていく記憶。この言葉すらも、都合がいいように自分の脳が補完しているのかもしれない。刹那、ミカエルが停止する。それを感じ、甲斐は記憶を仕舞い、瞼を上げた。機体の側面ハッチにあるドアが開く。他の隊員達に続き、彼もまたラペリングロープでグローツラング号の甲板を目指し降下していく。

「神の愛が無限であるように、神の怒りもまた際限がない。兄弟よ、この世の邪悪に鉄槌を下せ」

指揮官の声。と同時に、ミカエル攻撃機からミサイルが放たれる。艦艇や戦車にも対抗できる高威力のミサイルが、グローツラング号のブリッジに着弾。この船の命とも呼べる装置やシステムを備えた中枢は、忽ち爆炎と衝撃波に飲み込まれ、息絶えた。隊員達は甲板に降り立つと、アサルトライフルを構え、無駄のない動きで進んでいく。通報されるのは避けたい。乗船している人間は、皆殺しだ。

その時、船室にいたミリシア・ストロンスカヤ博士は爆発音を聞いた。それまで感じていた荒波による揺れとは異なる衝撃が彼女を襲う。危険を察知し、開いていたノートパソコンで慌てて最後のメールを送信した。

「・・・・ごめんなさい」

一瞬、通報すべきか思案するが、やめた。扉の向こう、すぐ近くで銃声が聞こえる。助けを呼んだところで間に合わない。デスクから護身用の拳銃グロック18Cを取り出し、残弾の確認、初弾を装填する。しかし、完全武装の兵士が相手では、こんな物は玩具でしかない。まずは抵抗、それすら許されないならば選択は一つ────自決しかない。部屋のドアが開く気配がする。拳銃を構え、トリガーを引こうとした次の瞬間、

「・・・・博士・・・・もう逃げきれない」

入ってきた男が言った。その顔には、目を覆いたくなる程ひどい火傷痕。真っ青な瞳が、ミリシアを捉えている。何故、そんな悲痛な顔をするのだろう────。
  
**

一方。ピースブレイカーとは別に、雨風の中を飛ぶティルトローター機があった。そのカーゴスペースには、7人の男女が乗っている。6人の男と、1人の女。不測の事態に備えて待機していた彼らは、今まさにその中でも最悪とも呼べる事態に直面し、その対応へと移る寸前である。

「最優先保護対象はミリシア・ストロンスカヤ博士」

装着した無線イヤホンから、花城フレデリカの声が響く。外務省の特殊部隊的特別捜査機関、通称「行動課」の課長だ。彼女は今、地上から指揮をとっている。ミリシア博士は、日本でとある会議に出席するためにグローツラング号に乗船していた。フレデリカはボスと共に下船予定の港で彼女を出迎えることになっていたのだ。

シビュラシステムに携わる厚生省の権力と権限はトップクラスである。しかし、シビュラシステムが世界進出を進めていることで、外務省にもまた、厚生省に近い権限が与えられていた。二つの機関は対立しているという認識を持つ者もいるらしいが、フレデリカにとってはどうでもいい事であるし、関係もない。実際、彼女の指示を聞いている7人のうち、3人はかつて厚生省公安局に所属していた者達だ。

狡噛慎也。知性と武力を兼ね揃えた、軍用犬のような男。殺人罪の逃亡潜在犯であり、扱い方を誤ればこちらが噛まれ兼ねない危険人物。海外で活動する機会の多い外務省にも、彼は見つけ次第処分の指示が出ていた。その風向きが変わる契機となったのが、SEAUnでの事件。監視官になり得るくらい高かった狡噛の能力は、海外での紛争を経て、より成長を遂げていた。推理力や記憶力、運動神経。全てが常人離れしている。欠点を挙げるとすれば、ヘビースモーカーであることと、感情的すぎること。ぶっきらぼうだが情に厚く、息をするように煙草を吸うのだ。好きな女の前で無意識に格好つけたがる姿は、見ていて面白い。それが本人には全く響いていないのが、なお面白い。申し訳ないが、激務続きのフレデリカにとっては数少ない娯楽となっている。

それから、赤井秀一。元執行官かつ逃亡潜在犯であり、槙島事件で姿を消した人物の一人だ。狡噛同様、頭脳と戦闘能力は文句のつけようがない。中でも、まだ拝んだことはないが、射撃の腕は突出していると聞く。初めて会った時は、潜在犯らしくない男だと思った。高貴な狼を思わせる整った容姿、物腰も柔らかく、場の空気を読むことに長けている。あくまでフレデリカの主観だが、彼女がスカウトした中では最も接しやすい。コミニュケーション能力で言えば、狡噛より何倍も上だろう。だが、それは一面に過ぎない。必要なら無慈悲な選択ができる男だ。いつだって野生の狼になれる。隠しているが、その牙は研ぎ澄まされた日本刀のように鋭い。彼の中に迷いや葛藤が生じるとすれば、ただ一人、心臓とも呼べる女性が関わった時だけだ。

そして、彼ら二人が並々ならぬ感情を向けているのが、彼女────響歌・ルートヴィヒ。監視官でありながら忽然と姿を消した人物。こうして日本に帰国するまでは暫定的な潜在犯という扱いであったが、今回正式に認定されることとなった。異端。その一言がよく似合う。どんな苦境も笑い飛ばせる精神力と、狡噛や赤井と比べても遜色のない、性別の差を全く感じさせない程の戦闘センス。理屈ではなく、直感で動くタイプ。そして、最も恐ろしいのがその人間性だろう。付き合いの短いフレデリカですら、常人とは一風異なる視点や思考に、はっとさせられた瞬間が何度もあった。危険だと理解していても惹かれる何かが、彼女にはある。狼というよりも、ヒョウやジャガーといった猫科の獣に似ている。獰猛さと愛嬌を併せ持った、何癖もある人間だ。

彼らはフレデリカの切り札と言っていい。そもそも三枚もある時点で切り札とは呼べないのかもしれないが、実際そうなのだから仕方ない。そして、彼ら三人に共通しているのは、潜在犯でありながらも、シビュラシステムがその存在価値を認めたということだ。それは執行官にも言えることだが、圧倒的に異なる点がある。彼らは一度シビュラの手を離れた、言わば首輪の取れた獣達。シビュラは、野生の獣を再び飼い慣らすことを選んだのだ。そんな彼らは現在、行動課の特別捜査官として任務に就いている。敵の攻撃機は二機。一方、こちらの機体は戦闘向きではなく、撃ち合えば敗北は必至だろう。

「この天候だと厳しいですね。滑空用のスーツを着ているとはいえ、私じゃ煽られて海にドボンです」

爆発の閃光を視認し、響歌が肩を竦め、首を横に振った。外の状況と己の体格を勘定した、的確かつ早急な判断。彼女を含め、行動課職員達は防弾装備と戦闘服に加え、滑空用の特殊なウイングスーツを身に付けていた。揚力と空気抵抗を利用した、滑空するための、扱いが難しく危険な装備だ。彼ら三人は、通常の半分以下の訓練だけでこのスーツの扱いに習熟してしまった。響歌に至っては、ムササビのようだと燥ぐ余裕すら見せていたのだから、頭の可笑しい連中である。
 
「お前は残れ」

傍にいる赤井が言った。と同時に、カーゴスペースのドアが開き、強風が吹き込んでくる。そして赤井とアイコンタクトを交わし、狡噛が先に飛び出す。一拍置いてから、赤井もそれに続く。次の者が足を踏み出したその時、雨粒の間を縫うように銃弾の雨が飛んできた。敵の牽制だ。近づき過ぎたか。滑空する二人のすぐ側を通過した機関銃の弾が、ティルトローター機を掠めていく。回避のため機体が大きく傾いたことで響歌はふらつくが、持ち前のバランス能力で持ち堪えた。

「一度離脱する。狡噛と赤井は先行してくれ」

ふたりの姿が闇に消えるのを、彼女は表情を変えずに見届けた。心配はしていない。ただ、対象を無事に保護できるのが勝利だとすれば、勝率は1割もないだろう。先行とは言ったものの、他の職員はもちろん、彼らが間に合うかすら微妙なところだ。無線で聞いていたフレデリカもまた、苦い顔をしていた。唯一の救いは、乗り込んだのが狡噛と赤井だったことだ。彼らならば、勝機があるかもしれない。

数メートル下を滑空しているだろう狡噛の姿は見えない。だが、強襲を受けたグローツラング号の爆炎は、確かに視界に捉えている。内臓がひっくり返るような不快感を覚えながらも、赤井は口角を上げた。誰にも見られることのない笑みに宿るのは、微かな愉悦。彼女の傍とは違う、胸の高鳴り。この男となら、理性のリミッターを解放できる。明らかに場違いな心境だが、自戒はしなかった。危険な任務だからこそ、余裕を捨ててはならない。響歌同様、このくらいが丁度いいのだ。波が高いせいで、甲板は水浸しになっている。雨水と海水が混ざり合い、船の揺れに合わせて波を作っていた。ふたりはバランスを取りつつ、着地点を見極める。あと数メートルのところで、スーツを脱ぎ捨てパラシュートを開き、降り立った。

「背中は任せろ」

最優先事項は対象の保護。半歩後ろから赤井が言う。それに視線で答えると、狡噛は拳銃を手に走り出した。

**

甲斐の足元には、ミリシア・ストロンスカヤが横たわっていた。胸から血を流し、すでに絶命している。その時、甲斐と同じく副隊長格のボカモソ・マレーが部屋に入ってきた。

「殺したのか?」
「・・・・待ち構えていた」
「しくじったな、甲斐」

ボカモソの表情と口調が変わる。憑依だ。今のボカモソはボカモソではない。中は指揮官、つまりは甲斐の上官だ。

「申し訳ありません」
「仕方ない。プランBに変更だ」

言葉も動きも淡々と。ナイフを取り出し、ミリシアの首を業務的に切断しに掛かる。素人ではかなり時間と根気のいる作業だが、その手際には迷いも無駄もない。熟練している。ボカモソはすぐに作業を完了すると、黄色の輸血製剤で満たされた筒状の運搬ケースへ、生首を沈め蓋をした。その間、甲斐は目を逸らし、部隊内の無線に注意を向けている。

「撤収準備は?」
「二人、武装した何者かが飛び込んできたようです。只者じゃない」
「俺がどうにかしよう」
「・・・・隊長に任せるか」

ボカモソが言った。唐突に憑依が解け、いつもの彼に戻っている。何事もなかったかのような口調に、甲斐は僅かに目元を歪めた。同じ頃、突入した狡噛と赤井は、船内を並走していた。ヘルメットと防弾装備を身に付けた敵。しかし、強化外骨格に比べれば、対処は容易い。ふたりは冷静に、かつ素早く確実に一人ずつ制圧しながら進んでいく。やり易い。狡噛はそう思った。フォローし慣れているのだろう。日本を出てから、集団に身を置くことはあっても、個人で行動することが俄然多かった。実際、その方が気が楽だったし、こんな風に共闘できる人間がいなかったというのもある。

「敵の数が少ないな」

赤井が言う。狡噛も気付いていた。撤退が始まっている。それはつまり、敵は目的を達成したか、諦めたかのどちらかだ。焦燥が募る。2匹の猟犬は暗い船内を駆け抜けていく。突入して数分も経たずに船室へと到着。部屋の前には外務省のレイドジャケットを着た死体が転がっている。博士を警護していた職員だろう。部屋のドアは開いていた。狡噛が入り口に立ち、銃を構える。しかしすぐに腕を下ろすと、表情を曇らせた。その横顔から状況は察せられたが、赤井は部屋の中程まで足を進める。

「・・・遅かったか」

生死を確認するまでもなかった。血溜まりの中に横たわる死体からは、頭部が切り取られていた。切断面から白い骨が顔を出している。体つきは女性。彼女が保護すべきだった対象、ミリシア・ストロンスカヤ博士。惨い事をするものだ。出血量から察するに、首は死後に切断されたのだろう。致命傷は、胸の傷か。人間を人間とは思わない連中。害獣め。弔っている暇はない。否、弔いはこれからだ。

「行くぞ、まだ船内にいるはずだ」
「はい」

次に優先すべきは敵の追跡。逃走される前に、見つけて捕える。即座に頭を切り替え、ふたりは部屋を後にした。周囲を警戒しつつ、進む。甲板へと続く階段に差し掛かったところで、狡噛が突然駆け出した。風の音。自然のものではない。不自然な、人工的な音だ。2メートルほど後方にいた赤井は、一瞬反応が遅れる。狡噛が先に階段を駆け上がっていく。外に出ると、ティルトローターが今にも船から飛び立とうとしていた。外務省の機体ではない。追いついてきた赤井も隣に並び、銃口を向けようとしたその時だ。背後から迫る気配に、ふたりは振り向いた。突進してきた男が、狡噛の身体へ腕を巻き付けるように拘束し、揃って倒れ込む。尋常じゃない力だ。振り解けない。堪らず呻き声が漏れる。敵の顔を見て、狡噛は目を見開いた。それは、博士の護衛をしていた職員。つい先程、部屋の前に転がっていた男だ。

「っ、うぁ、ぐ」

男の身につけているジャケットのロゴから、赤井も異常を察知する。ただの悪足掻きでないと悟り、横から男の腹に蹴りを見舞う。この距離から撃てば、貫通して狡噛に当たり兼ねない。咄嗟にそう判断しての選択。しかし、拘束は全く緩まない。狡噛はなんとか右手を動かして、男の脇腹に銃口を当てた。それを視認した赤井が半歩下がるのと同時に、引き金を引く。一発、二発────その瞬間、声がした。

「あなたについて以前預言されたことに従って、この命令を与えます」

目が合う。開き切った瞳孔に、青ざめた顔。涙のように、頭から流れた血が眼球を通り、顎先まで続いていた。明らかに死んでいる。ならば何故、動いている。化け物か。

「その予言に力づけられ、雄々しく戦いなさい」

赤井と狡噛の脳内で同じ記憶がヒットする────新約聖書の一節。語りかけるようなその声に導かれるが如く、ティルトローターが飛び立っていく。駄目だ。銃だけでは対抗できない。そう判断した赤井が男を引き剥がしにかかるより前に、その身体から力が抜ける。まるで糸を失ったマリオネットのように。と同時に周囲にあったピースブレイカー隊員の死体が、次々と爆ぜた。自爆用の爆弾。証拠の隠滅にかかっている。船が揺れ、爆音が轟く。本能が告げる。逃げろ。どこへ。決まっている。先の声についての議論は後だ。ふたりは揃って駆け出し、大きく息を吸い、肺に空気を送る。爆風に背中を押される形で海原へと飛び込んだ。

「ふたり共、状況は!?」
「すまん・・・・やられた」

無線でのフレデリカからの問いに、狡噛が波に揺られながら答える。同じく海面から顔を出した赤井は、険しい表情で空を見上げていた。雨の中を颯爽と、敵の機体が飛び去っていく────敗北だ。


やっと始まりました、PROVIDENCE。第1話、ヒロインの出番がほとんどない!!でもやっぱり書いてて楽しいよ。W(甲斐)はアンケートの『絡ませてほしいキャラ』で票数が多かったのですが、元より私が彼を好きなので、絡みは多めにしようと決めていました。ただ、今回の話でも分かるとおり、現在ではなく過去に関わりがあったという設定です。今後もWの脳内にイマジナリーヒロイン(笑)が度々登場します。直接的な絡みもありますのでお楽しみに〜。
まあ、狡噛&赤井の登場率は圧倒的に高くなると思われますが・・・そして、1話あたりのボリュームが大きくなりそうです。詰め込みすぎには注意しつつ進みていきますので、引き続きよろしくお願いしますっ!!

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