「シビュラシステム統治下において、法律など不要・・・本当にそうでしょうか?」
第三者が見れば、その様はまるで、肉食獣の群れに囲まれた兎のようだ。しかし、彼女は決して屈しない。そういう胆力と志を持っている。
「君は一体、何を懸念しているのかね?」
総務省の事務次官が鬱陶しげに問うた。彼女が何を案じているのか、まるで理解できない。声にそう滲んでいる。その背後にあるプロジェクターに表示されているのは本会議の名称。シビュラシステム関連産業海外展開検討委員会。それを視界の隅に捉えながら、朱はふと思う。あの人はどんな顔をするだろう、と。
────海外展開、ねぇ。シビュラに認められた入国者だけが日本国民になれるって?ほとんどが濁ってるのに?人が生きる世界のことを、AIに全て委ねるの?貴女はシステムからの支配じゃなく、システムとの共存を望んだはずでしょう?
誰もいないはずの隣席で、幻影が笑う。それは嘲笑ではなかった。ただ愉快だと、子供のように無邪気な顔で問いかけてくる。少なくとも、朱にはそう見えたし、そう聞こえた。否、もしかしたら願望なのかもしれない。この圧倒的な劣勢下で、自分を曲げないように。
「法律の廃止は国際法をも否定します。日本が世界と向き合うべき時に、
「現にSEAUnでは成果を出している。シビュラシステムはグローバルな新しい世界秩序と認められたんだ。であれば、国内外を問わず、法律など不要になる」
今度は外務省の事務次官が刺々しく言った。きっと彼らには、空虚な理想を語る、経験の足りない小娘に見えているのだろう。それでも、引かない。法律は人々の思いの結晶だ。この時代で、自分の目の前で、それを壊すわけにはいかない。愚直とも呼べるほどの遵法精神を胸に、朱はそこに立っていた。
「好きにさせていいんですか、慎導さん。厚生省の路線から外れていますよ、彼女は」
「いいんだよ。彼女の色相、君よりクリアだろ?」
厚生省事務次官である原和夫の問いにそう答えたのは、慎導篤志。厚生省の大臣官房統計本部長だ。年齢のわりに真っ白な髪と、皺の刻まれた頬に黒縁の眼鏡。レンズの下にある瞳は、柔和な色を放ちつつも、底知れぬ何かを秘めていた。
「法務省の意見にも、耳を傾けるべきでは?」
再び朱が発言する。法を司る機関、法務省。皆の視線が、その代表である法務省事務次官へと向く。急に話を振られ慌てたのか、絞り出した声には覇気がない。
「法律の完全廃止、法務省は解体・・・というのは、どうにも乱暴な」
「法治国家という概念が、シビュラによってその役目を終えたのだよ!」
議論の進捗状況と法務省の歯切れの悪さに、苛立ちが限界を迎えたのだろう。総務省事務次官が声を荒らげた。それに堪らず朱が反論する。
「そうした事は、ノナタワーの密室で決めず、国民の総意を問うべきです!」
「その総意が、システムを認めているのだ。君は、自ら厚生省を軽視するのかね?」
「違います!日本が近隣諸国から搾取し、略奪経済を拡大させる今のやり方を、懸念しているんです」
「めちゃくちゃだ!」
「日本は略奪も搾取もしていませんよ。武器輸出は世界平和に繋がります。嘘だと思うなら我々の色相を見てください」
中央省庁の頂点である厚生省を軽視するとは即ち、シビュラシステムをも軽視することだ。朱は声を大にして否定する。彼女はシステムの重要性は認めている。だが、肯定か否定か。この国は今、そのどちらか一方を選べる段階にはない。議論の最中、テーブルに置かれた篤志の右手の下でデバイスが震えた。彼はそっと手を退け、液晶を見つめる───パッケージの死亡を確認。公安に介入された───どうやら、ミリシア・ストロンスカヤは殺されたらしい。一向に進展を見せない会議の様子と、メールの内容に対する落胆で、篤志はそっと深く溜息をついた。
「輸出の拡大と同時に、開国の範囲を拡大する道はありませんか?」
「たかが刑事が」
朱の発言にそう吐き捨てたのは、あろうことか厚生省の事務次官だ。彼も篤志と同じく元監視官であったが、大した実績は残せていない。朱への嫉妬もあるのだろう。しかし、私情を持ち込み過ぎだ。あまりにも会議に相応しくない発言に、朱は怒るより先に戸惑ってしまう。
────役人ですらこれだもん。いや、役人だからこそかな。お先真っ暗だね、この国は。役職なんかで人の価値は測れない。ここの連中はその良い見本だよ。
再び、幻影が口を開く。そして席を立ち、朱の肩に手を置いてきた。その感覚は、思わず振り返りそうになるほどにリアルだ。その「たかが刑事」発言を皮切りに、他省庁の面々も便乗するように声を上げ始めた。篤志は思う。こんなものは会議とは呼べない。時間切れだ。デバイスを胸元の内ポケットへ入れ、部屋を見回しながら言った。
「まあまあ。皆さん、落ち着いて。これではまるで、シビュラ導入以前の混乱のようだ」
静かで悠然とした口調ながらも、効力は絶大であった。皆が口を噤み、篤志を見つめる。その姿を見て、朱は響歌を思い出した。似ていると、そう感じた。もちろん彼女はこんな会合に出席することすら拒むだろうし、そもそも進んで他の人間を宥めたり、場を収めたりはしない。それでも、一言発するだけで、何故か周囲が耳を傾けてしまう。そんな雰囲気を、篤志もまた持っている。
「どうにも現在の世界情勢についての状況認識が、常守監視官と他の方々ではまったく異なるよですね。今、世界はようやく混乱から立ち直ろうとしている。そろそろ日本第一の考えだけでは危うい。常守さんの主張のうち、その点については私も同感だし、皆さんもそうでしょう」
朱に全面的に同意するわけではないが、否定もしない。しかも、最も重要且つ跳ね除けられない論点へと軸を修正した。誘導が上手い。計算した上での語り口。
「実はこの会議に、日本と世界の関係を明らかにしてくれるゲストが来るはずでした」
「見当たらないですが・・・」
「ええ。彼女は間に合わなかった。しかしいずれ、彼女の用意した研究成果がその仕事を果たします」
その時、朱のデバイスに緊急通信が入った。鳴り響いた警報音に、朱はすぐさま席を立つ。それまで全く存在感のなかった法務省の事務次官が嫌味を言ってくるが、聞こえないフリをした。
「厚生省さんもなかなか難しいお嬢さんを抱えてますね」
続いて外務省。お前に何がわかる。内心そう思ったが、篤志は努めて笑顔で答えた。
「彼女は局長のお気に入りでしてね。まあなんにしても、今日はここまでにしましょうか」
会議を抜けた朱は、廊下で通信に応じる。相手は後輩監視官である霜月美佳。内容はこうだ。海上保安庁より、漂着した外国船舶から多数の死亡者が発見されたとの通報があった。生存者はゼロ。銃撃戦の痕跡があるとも。物騒な単語に朱は眉を寄せる。
「急いでください。政治家ごっこなんてやってる場合じゃないですよ」
「すぐに向かうわ」
霜月の皮肉が、今は心地よくすらある。朱の行動を全肯定しない彼女は、稀有な存在だ。考えるきっかけを与えてくれる。
「会議は終わらせておいたよ」
急に背後から声をかけられ振り向けば、篤志が近くに立っている。気配を感じなかった。切れるのは頭だけではないらしい。
「申し訳ありません」
「・・・緊急の事件かね?」
「はい、外国の船で事件が」
「もしかして、グローツラング号?」
「なぜそれを?」
「私が呼んだゲストが乗っていた船だ」
現場である神奈川県鎌倉市方面に向けて走らせる車には、篤志も同乗した。彼の所属する統計本部は、厚生省全体の方向性に影響を与える。統計データをもとに、厚生省の今後を示す少数精鋭のエリート集団。慎導篤志はその長だ。
「ミリシア・ストロンスカヤ博士・・・今回の委員会に、外部専門家として海外から招聘していた女性だよ」
「専門分野は?」
「行動経済学と統計学の世界的な権威だ。その視点からシビュラシステムが世界に与える影響を研究していた」
行動経済学。経済学に心理学の要素を組み込んだ学問。朱はそこで、行動経済学が再現性の怪しさから、前世紀に信頼性を損なったことを指摘した。篤志はそれに頷きつつ、無価値な学問ではないと返す。行動経済学だけでは不完全だとしても、他の学問と組み合わせれば新しい理論が生まれる可能性もある、と。朱が具体例を尋ねると、篤志は徐に答えた。
「博士の研究は、ある種のシミュレーションプログラム用基礎理論だった。通称ストロンスカヤ文書。それを使えば、シビュラが世界に与える影響を予測できる。事実、SEAUnも彼女が推測したとおりの過程を歩んだ・・・嫌そうな顔をしたね。わかるよ、その気持ち」
表情の僅かな変化に気付かれた。よく相手を見ている。警戒した方が良さそうだ。心を見透かされているような感覚に、朱は一瞬、雑賀を思い出した。
「博士とはどこで?」
「入国管理局にいた時だ。君にも会わせたかったな」
「慎導さんはお一人で入国者受け入れを実現したと伺っております。その為に法の存続を訴えた、とも」
「大変だった。難民は皆殺し、なんて真面目に検討する連中もいてね」
シビュラシステム導入後も、人口激減問題は残っていた。それを解消するためには、入国者受け入れしかない。「色相がクリアで、何かしらの技術を持った者だけを受け入れる」というのが長い間の基本方針であった。働いてほしいが、選挙権や永住権は与えたくない。ようするに、奴隷である。そんな方針を非常識であると一蹴したのが篤志だ。SEAUnの一件後、彼によって入国管理局の新体制が整えられた。
「ちなみに、開国と法の存続がセットの理由、分かるかね?」
「大半が紛争経験者だからです。シビュラ基準では受け入れが難しく、国際法に基づかない限り開国はできません」
「そのとおり・・・そしてその結果、復興する世界から日本は取り残される。今のままで世界情勢の急変に対応できるとは思えない」
流石だ。何年も先、自分がいないだろう未来のことを見据えている。篤志の言葉には説得力がある。その裏にある全てを理解できないままでも、聞き手を納得させてしまうような効力。一種のカリスマ性だろう。
「慎導さんは、どのようにして受け入れを実現したんですか?」
「まず、今の君みたいに周囲に疎まれないよう気を使った」
「・・・・はい」
揶揄い混じりにそう言われ、朱は肩を落とした。自覚はある。もっと上手くできればと思うが、どうにも難しい。篤志はそんな彼女をフォローするように、自分と朱が少し似ていると付け足した。若い頃は自分もそうだった、と。とてもそうは思えなかった。今の篤志は、朱とは正反対のタイプに見える。
「個人の意志を組織内で貫けば、政治的な軋轢が生まれるだろう。その軋轢ごと彼らを受け入れるんだ」
軋轢という単語に、朱は真っ先に狡噛のことを思い出した。そして、響歌のことも。相容れない考えのものと衝突したり、敬遠していてはいけないということだろうか。
「受け入れるのは得意だろう?執行官との付き合いの延長だ。それに、監視官は長くやる仕事じゃない」
「元監視官としてのアドバイスですか?」
「そんなところだ。何かを変えたいなら、上を目指しなさい。君には期待しているんだから」
「・・・私にですか?」
「期待しなきゃ嘘でしょ。シビュラシステムを疑いながら生きているのに、その色相は素晴らしい」
「私は、システムの価値は認めています。ただ、他に信じるものがあるだけです」
「いいね・・・そういうの」
表情を引き締め、朱は言った。その横顔に、篤志は微笑む。とらえどころのない笑みだ。そんな感想を抱いていると、眼鏡のレンズの向こうにある目が、一瞬だけ優しげに細められる。突然の人間らしい仕草に戸惑った。するとすぐに、篤志が小さく謝罪してくる。
「すまない。今の君の顔が知り合いに似ていたものだから、ついね」
「・・・・その人とは旧知の仲で?」
「ああ。しかし、親しくはない。私はもっと仲良くしたかったんだが、生憎向こうからはひどく嫌われていてね。もう10年以上も会っていないよ」
「ご健在なんですよね?」
「勿論、生存本能の塊のような人間だ」
懐かしそうにそう言って、篤志は窓の外へ視線を移した。どうやらこの話は終わりらしい。一拍置いてから、再び話の軸を戻される。
「何故、法律の廃止を進める連中が君を嫌がると思う?」
「シビュラシステムが法の廃止を求めている。それに逆らうのが嫌だからでは?」
「それも勿論あるだろう。だが、一番大きな理由はもう『考えることに疲れた』からだと私は思う」
返事に詰まる。意味が一瞬理解できなかったからだ。困惑する朱に、篤志は丁寧に解説してくれた。法律とは人間が定め、人間が運用する。大半の人間には、それが面倒なのだと。責任をとりたくない人間にとって、法律は重すぎる。思考することを止め、感情すらも捨てて、全てをシステムに委ねたい。そのためには、朱が邪魔なのだ。反論ができなかった。車窓から見える街並みに目を向け、朱は言い様のない恐怖に襲われる。
──── 判断を下すのは私たち人間、心がある。
身体が硬直する。時が止まったかのような心地がした。後部座席に幻影が現れる。記憶の中にある、瑞々しい姿のまま。
──── 目も耳もあるくせに、見も聞きもしない。
最後の会話。あの時も、彼女は笑っていた。いつも小馬鹿にしたような言動ばかりだったが、全て正しかった。根拠のある軽蔑。それはむしろ、彼女なりの忠告だったのかもしれない。このままでは、待っているのは破滅だと。この国の行末は、決して明るくなどないのだと。
──── 己の愚かさを自分で抱えることが出来ない人間が日本には大勢いる。
あの言葉の意味は正に、先の篤志と同じではないか。目を向けるべきは外だけじゃない。膿は中にもある。彼女は、嫌になるくらいそれを知っていた。出会った頃よりずっと前から。
「・・・・響歌さん」
無意識に震える声で名前を呼んでいた。その小さな呟きが隣にいる篤志に聞こえていたかは分からない。彼の変化に気を配る余裕など、朱にはなかった。