指揮者の再来

狡噛が元監視官だということを知らされた朱は、彼が潜在犯堕ちするきっかけとなった標本事件について調べていた。データベース検索はせずに縢や唐之杜を尋ね、その概要を知る。人間の残酷さを形容したような事件だ。分析室を後にして廊下を歩きながら、そう思った。視線を上げて見えた姿に思わず声をかける。

「狡噛さん!」
「ああ、あんたか」
「どこに行くんですか?」
「トレーニングだ、一緒に来るか?」

今日の彼は非番だから部屋にいるのかと思っていたが見た目通り鍛錬は怠らないらしい。朱もまた当直ではない。それに、同行していれば何か分かるかもしれない。誘いに頷くと同時に歩き出した狡噛の背中を追いかけた。狡噛は慣れた様子でトレーニングルームに入って行く。恐らく常連なのだろう。朱は珍しそうに見回しながら進んで、ぶつかった。言わずもがな狡噛の背中にだ。鼻をさすりながら、顔を上げる。

「どうかしたんですか?」

何も答えない狡噛の横から、中の様子を窺う。そこには先客がいた。絶え間なく拳を打ち合う音が室内に響く。動く影はふたつ。両者共に見覚えのある二人だ。一人は赤井秀一、特別対策室の執行官で狡噛とも仲が良いと聞く。そしてもう一人は朱の先輩であり狡噛の同期でもある響歌・ルートヴィヒ。楽しそうに笑いながら殴り合う二人に朱は戸惑いを隠せない。暫く観戦していると、妙な違和感を覚えた。小さく声を漏らした朱に横から狡噛が言う。

「気が付いたか、嫌なリズムだろう?」
「はい・・・なんというか、変な感じです」
「赤井さんは 截拳道ジークンドーの使い手。敵に回したくない相手だ。サシでやったら俺も勝てるか分からない」

狡噛の言う通り、赤井の動きには無駄がない。息を乱さず繰り出される攻撃は、自分ではとても防ぎ切れないだろう。何より、狡噛が勝てるか分からないと断言したことが赤井の強さを証明している。しかし、先ほど感じた違和感の理由は赤井ではなく響歌の方だ。

「響歌さんの方はなんて武術ですか?」
「さあな・・・軍隊格闘技が基らしいが、あそこまでいくと完全に我流だな。独特のリズムで打ち込んでくるうえ、関節の柔らかさと女特有の素早い滑らかな動きがプラスされている。何度か手合わせしたが、俺が無意識に手加減していたとしても、かなり厄介だ」

ダン、と大きな音と共に響歌の身体が宙に舞う。赤井に飛ばされた勢いを上手く受け流し、再び構えるのかと思いきや、スッと手を挙げてタイムの合図をした。息を吐いて、入口で立ち尽くす朱と狡噛に手を振る。

「狡噛、朱ちゃんに稽古つけるつもり?せっかく可愛いのに筋肉ダルマにしたら許さない」
「つまりお前の同類にするなと言うことか」
「おいこら、誰がゴリラだ。赤井さん、コテンパンにしてやってください!」
「お前・・・普通に逃げ出す言い訳だろ、それ」

赤井の背中に隠れ指を差してくる響歌を、呆れたように狡噛は見る。彼女は決して鍛錬好きではない。こうして赤井が声をかけなければ、サボりがちだ。まあ、実際やり始めれば楽しんでやるのだが。狡噛が嘆息していると、赤井が構えを取る。途端に始まる戦闘に朱は後退った。響歌は隣に並ぶと、愉快そうに観戦している。

「あの、響歌さん」
「んー?」
「標本事件について、ご存知ですか?」

その問いに驚くことなく、感心したように朱を見つめながら彼女は微笑んだ。そして視線を狡噛に戻すと、目を細めて話し出す。彼女が口を開く度に胸の高鳴りを覚える。何を言い出すのか、どんな表情を見せるのか、その一挙手一投足に興味を惹かれる。

「私は日本にいなかったから、知ってるのは書類上の情報だけ。みっちゃんのことはもちろん残念だけど、私達は刑事だからね。いくら平和な世の中でも、仲間の死に直面することはある。監視官で居続けるために必要なのは、それでも壊れない強靭な精神」
「みっちゃん?」
「佐々山光留。だから、みっちゃん」

突然出てきた渾名に思わず聞き返してしまった。些かフランクすぎる気もするが、彼女は征陸のこともマサさんと呼んでいる。しかし何故か狡噛や宜野座のことは、渾名で呼ばない。何か法則があるのだろうか。しかし、それを突っ込む間もなく響歌は続ける。

「狡噛は優しすぎ。だから、3年間ずっと真相を追い続けてる。私には、闇に呑まれていく彼を見ているしかできない。しかもご存知の通り、あろうことか見守る役すら貴女に押し付けた。薄情なうえに、エゴの塊だよ。それにしても、こんなに早くあの事件に行き着くなんて流石エリートだね。もしかして、誰かサポーターがいたのかな?」
「宜野座さんの忠告です」
「なるほどね。刺々しいくせに根っこは優しいんだよなぁ。これは内緒だけど・・・私ね、狡噛が潜在犯になった経緯を知ったとき安心したんだ」

驚いて響歌を見るが、ヒラヒラと手を振って出て行ってしまった。改めて、先の言葉を反芻する。一瞬、潜在犯になったことに安堵したと言ったのかと思った。だが違う。その経緯に安心したと彼女は言った。また言葉一つに翻弄されている。

「なんだ、響歌は逃げたのか」
「あ、もういいんですか?」

声をかけられ振り向けば、狡噛と赤井が立っている。こうして二人並ぶと、威圧感がある。どちらも高身長だし、何より強面だ。そんな朱を一瞥して、赤井も部屋を出て行く。相変わらず読めない人だ。

−−−−−

「つまり、金原と御堂の犯行に同じ人物が関与していたっていうこと?」

唐之杜の話をまとめるように響歌が言う。分析官の見立てによれば、ドローン暴走事件のプログラムとアバター乗っ取り事件のホロハッキング、両者は同じプログラマーが作成したものらしい。しかし、ドローン事件の犯人である金原の供述は『ある日いきなり郵送されてきた』というもので参考になりそうにない。

「そもそも金原が殺人を犯すと、送り主はどうして予測できたんだ?」
「とっつぁんも職員の定期検診記録だけで金原に的を絞ったんだ。同じ真似をできる奴がいた」

宜野座の問いに狡噛が答える。何かを確信したような言い方に、響歌はそっと目を伏せた。帰還を喜ぶべきか、それとも嘆くべきか。少なくとも、狡噛にとっては好機に違いない。

「動機は金原と御堂にあった。奴はきっとそれだけで十分だったんだ。殺意と手段。本来揃うはずのなかった二つを組み合わせ、新たに犯罪を創造する−−−それが奴の目的だ」

そう言って立ち上がり、狡噛は部屋を出る。舌打ちをして宜野座がその背中を追いかけた。シンと沈黙が支配する中、朱が戸惑うように響歌に視線を送る。その横顔には動揺も、焦りも見られない。たわいのない諍いだとでも言うように、いつも通りの表情だ。

「宜野座だけじゃ心配なので、私も行って来ます。狡噛の推理の正否はともかく、志恩の言う通りなら放ってはおけません」
「お前はどうなんだ、彼の推理は正しいと思うか?」

出て行こうとする背中に赤井が問う。朱はそれを固唾を飲んで見守った。彼女はなんと答えるのだろう。標本事件について知っており、何より狡噛に近い。それでもこの人は情けや慰め、感情に流されて狡噛に同調するようなことはない。

「分かりません。ただ、マキシマは存在します」

きっぱりと響歌は答える、笑顔を添えて。そのまま歩き出す彼女を追う者はいない。赤井でさえも、大きく息を吐いて腕を組んでいる。響歌が二人を連れて戻るまで、誰も口を開かなかった。

「お前はいるかどうかも分からない幽霊を追いかけているんだ!」

響くのは、宜野座の声。現実主義者の彼らしい言動に響歌は小さく笑った。やはり自分と違う人間の思考は興味深い。一度踏み入れた、あの部屋で狡噛は絞り出すように口を開く。

「佐々山は突き止める寸前までいった。あいつの無念を晴らす。そのための3年間だった」
「それにしたってこの部屋、陰気すぎ」
「響歌・・・何しに来た?こいつを止めるつもりがないのなら戻れ」

鋭い視線を、楽しそうに受け流す。彼女は宜野座にとって理解しがたい存在だが、普段はここまで刺すような接し方はしない。狡噛だけでも手を焼いているのに同じ監視官の手綱まで握ってはいられないのだろう。

「宜野座が幽霊と言ったように、確かに今の段階では存在証明はできないかもしれない。だけど、不在である証明もできない」
「不在の証明ならできる。仮にそんな奴がいたとしてシビュラが逃すわけがない」
「だけどそれは、《シビュラが常に正しい》って前提があればこそでしょ?その前提条件がなければ、宜野座の証明は成り立たない」

部屋の奥へと響歌が進む。狡噛と宜野座の間に立ち、宜野座の言葉を根っこからへし折った。しかし、シビュラが正しい−−−それはこの社会に生きる人間にとって前提などではなく、真理だ。当然あるべき真実。

「狡噛とは関係なく、私はその幽霊は実在すると考えてるよ。たださっきも言った通り、証明はできない。帰納的に推理した結果だよ」
「それでお前は、狡噛と組んでそいつを追うのか?」

そんな目もできるのかと、響歌は興味深そうに宜野座を覗き込んだ。軽蔑に全てを振った視線を向けられてなお、彼女の唇は緩い曲線を描いている。このまま煽られては面倒だと、見兼ねて狡噛が立ち上がった。

「まさか!でもコンダクターが動き出したことは間違いない。手ぐすねを引こう。確実に、一つずつ、摘んでいく。そうすれば幽霊が実在するか自ずと分かる。今まで通りに職務を全うすることが、目的への近道だよ。尻尾を切るだけじゃ意味がないからね」

響歌は笑う。マキシマの存在すら過程なのだ。狡噛にとっての終末も、彼女にとっては寄り道に過ぎない。宜野座が抱く、親友が遠のくことに対する恐怖すらスパイスなのだろう。

−−−−−

その中心には異常な光景があった。作品と言うべきだろうか。美しい少女の彫刻だと、普通の人間ならば思うのかもしれない。しかし、彼らは違う。現場に招集された刑事達が揃って息を飲む中、響歌は目を見開いた。宜野座ら1係のように標本事件を連想したからではない。その作品に既視感を覚えたからだ。側頭部を抑えて漏らした小さな呟きを、赤井だけが拾った。

「どの本だったかな」

しかしその呟きの真意が分からず、何も返せない。かつての事件に通ずる異常性を感じ取ったのだろう。宜野座は狡噛に待機を命じ、監視役として朱を帯同させることにしたらしい。大人しく去ろうとする狡噛の鼓膜を、響歌の声が揺らす。

「宜野座、少し時間をもらってもいい?」
「どういう意味だ?」
「実家に帰りたいの」

これには流石の宜野座も二の句を継げずに目を見開いた。狡噛と朱も思わず足を止め、振り向く。その意図をなんとなく察したのは赤井と降谷の二人だけだ。降谷はクスッと笑い、赤井は無表情を貫いているが内心では呆れていた。

「この忙しいときに何を言っている?」
「待ってくれ、宜野座君。里帰りをしに行くわけではない。響歌、訳を話せ。何か掴めそうなんだろう?」
「ええ。たぶん、朗報を持ち帰れると思う。この場で分かればよかったんだけど、さすがに作者まではインプットしてないから」
「作者・・・一体何の話をしているんだ」
「戻って来てから説明する」

納得のいっていない宜野座を差し置き、響歌は部下ふたりに向き直る。正直言って、宜野座以外もさっぱりだ。執行官達に指示を伝えるその背中を一瞥し、狡噛は命令通り宿舎へと戻る。追いかけてくる朱の気配を背中に感じながら、すでに走り始めた同期に焦りにも似た思いを抱いた。自分はまだスタートラインに突っ立っている、糸口すら見つかっていないのだ。

「降谷さんは残って技術面から探ってください。見たところ、ただ切って飾っただけではないようです。特殊な技術が使われているなら、ある程度は絞ることが可能かもしれません」
「分かりました。被害者の周辺については?」
「狡噛の推理通りなら、実行犯は別にいます。恐らく被害者に近いのは実行犯そちらでしょう。例外もいますが、殺意を抱くなら普通はそれなりに近い相手。実行犯は私の方で大体の目星をつけます。赤井さんは私に同行してください」

了解、と執行官達の声が重なる。降谷は護送車へ、赤井と響歌は別の車へと乗り込んだ。久しぶりの帰省だが、どうやらゆっくりできそうにない。

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に痺れた!