深淵、口を開く

「狡噛が消えた?」

室内に声が響く。一つ事件が片付くとこれだ。指揮者様は観客を休ませる気は毛頭ないらしい。こんな立て続けに出動するなんて、平和な国とはよく言ったものだ。皮肉を込めて心で笑った。それから部下達を連れて現場に向かうと、狡噛以外の面々が揃っている。視線を巡らせれば、すぐ側の道路は地球温暖化の影響だろうか水没していた。あと数年もすれば、自分達が今立っている場所も水に沈むだろう。

「ずっと同じ場所にはいられない」

小さく呟いて頭を整理する。内容をまとめると、こうだ。まず、友人−船原ゆき−からの呼び出しを不自然に思った朱が狡噛に相談。指定された場所、旧新橋駅に二人で向かった。明らかに罠だと思われたが、実際その友人に連絡が取れていないこともあり、狡噛が単身地下へと踏み込む。しかし、彼との通信が途絶えたことで応援を呼ぶに至ったということだ。彼が消えた通路は、汚染水で満たされている。鼻をつく嫌な臭いに響歌は顔を顰めた。

「騙されたのは、君だけじゃないのか?初めから逃亡する目論見でこの状況を演出したのかもしれん」

宜野座が言う。険悪な雰囲気を察して、征陸が間に入った。再開発の繰り返しで付近のマップデータが正しいとは限らない。しかし、水没してしまっている以上はその正否は不明。とりあえずは、マップが正しいと仮定し進めようと征陸は言った。それを背中で聞きながら、響歌は真っ黒な水面を見つめる。

「まさか入るつもりではないですよね?」
「いえ、少し考え事です」

降谷が横に並び尋ねると、曖昧に笑い返した。振り向いて、朱の話に耳を傾ける。彼女が言うには、途中までちゃんとマップ通りに進んで通話もできていたらしい。しかし、ある地点から急に異常なスピードでマップ上を突き抜けるように移動した。乗り物に乗ったのだと推理した朱が地下鉄路線の有無を聞くと、あるにはあるが60年も前に廃線となっているとのこと。

「お二人とも、敵の目的はなんだと思いますか?」
「ここまで面倒なことをしているんです、狙っていた獲物が釣れると確信して糸を引いているのでしょう。つまり、目的は狡噛執行官の方かと」
「常守監視官との通信が不可能になった時点で、狡噛君ならば戻るだろう。しかし、それ以降も彼は進み続けている。敵は釣れるのが彼で、そのための準備をしていた。どうやら彼らは相思相愛のようだ」

さらりと述べた部下達を誇らしげに見つめると、頷いた。そう、目的は朱ではなく狡噛だ。彼は優秀な刑事だと分かっているが、嫌な胸騒ぎがする。今の彼には手綱がない。早く見つけないと、手遅れになる。

「響歌、焦るなよ」
「っ・・・はい」

いけない、暴走してどうする。手綱がないと不安なのは自分の方かもしれない。響歌は己の手綱を引いてくれた部下に小さく礼を言った。場所を地下へと移すと、ここ一帯に局所的なジャミングが発生していることが判明する。妨害電波の出所は南西の方角、マップ上では何もない場所である。やはり、マップは信用しない方が良さそうだ。宜野座の指示でしらみ潰しに捜索することになる。続いて、眼光鋭く非情な命令が下された。

「狡噛は見つけ次第、ドミネーターで撃て。警告は必要ない」

まだ脱走と決まったわけではないと異議を唱える朱に、宜野座はさらに冷たく返す。やましい事がなければパラライザーで済む、と。その返答に朱は激情を露わにする。友人を殺しても構わないのかの問いに、もしエリミネーターが起動し狡噛が死ねば、それは朱の責任だと言い放った。

「どうだ、自らの無能で人が死ぬ気分は」

傍観を貫く響歌に、赤井が一瞥を投げかける。止めるどころか、彼女は座り込み壁を見つめていた。赤井の視線に気付くと、肩をすくめ人差し指を左に向けた。その先にいた征陸が宜野座の襟首へと手を伸ばす。片腕で宜野座を持ち上げ、一言。

「それくらいにしとこうか、ちょっと陰険すぎるぜ」

思いもよらぬ行動に、皆が驚く。征陸が人として宜野座に説教するのは珍しい。言われた本人も何が起きたのか分かっていない様子。暫しの沈黙を裂くように、静かな声が通路に響く。

「前から訊きたかったんだけどさ・・・宜野座は、執行官として生きるのと監視官として死ぬの、どちらか選べって言われたらどっちを選ぶ?」

座ったまま、響歌が宜野座を仰ぎ見る。再び、沈黙。早く狡噛を探さなくてはならない状況で、彼女は急かすことなく答えを待った。言い淀む宜野座に、一度だけ瞬きをして立ち上がると、嬉しそうに笑った。

「安心した。何に怯えてるか知らないけど、そこで迷えるなら宜野座は大丈夫だよ。狡噛やマサさんと同じだから。引き金を引くか否かの判断を下すのは私たち人間、心がある。だから、この目で見てきたものを信じようよ。科学の力で測られた数値じゃなくて、今まで私達が見てきた狡噛を。彼は、逃げる気ならもっと上手くやるよ。少なくとも、こんな風に朱ちゃんを傷付けるやり方は絶対にしない。賭けようか。死ぬのは御免だから、そうだなぁ・・・もし私が負けたら、素っ裸で局内を歩いてもいい」

本当にやりそうだと全員が思った。未だ言葉を紡げないでいる宜野座の肩を、響歌が叩く。「大丈夫だ」なんて根拠のない言葉だ。しかし今まで、誰かにそう言われたことはなかった。その言葉をかけてほしかった人達は皆、自分を置いて行ってしまったから。もしかしたら耳を塞いでいただけで、ずっと聴こえていたのかもしれない。そのときコール音が響く。

「狡噛からです!」
「こっちの位置は探知できるな?現在コード108が進行中、至急応援を。繰り返す、現在−−−」

その声に皆の目に光が戻り、宜野座の指示が飛ぶ。一係は朱と征陸が狡噛を捜索、残りのメンバーで妨害電波の発信源の破壊にあたる。それを横で聞きながら響歌は左胸を撫でた。そこには、ホルスターに入れた拳銃がある。これを使うことになるかもしれない。狡噛の声には焦りが滲んでいた。汗が背中を伝う感覚に鼻で笑う。守りたいと言えるほど、彼は弱くない。もし失えば後悔すると分かっている。勝手に重石と位置付けて、捨て去ったつもりになっていた。結局、囚われたままのくせに。喉を鳴らしたあと、ダンッと壁を殴り付ける。走り出そうとしていた面々が動きを止めて響歌を見た。

「宜野座、そっちは任せた。私達も狡噛を探す」
「おい・・・もし堕ちたりしたら許さないからな」
「たぶん、宜野座と私では最悪の定義が違うよ。私は死なない。命の懸け時は弁えてるから心配しないで」

目を合わせずにそう言って走り出す。その後を降谷が追う。赤井は振り返ると、宜野座に告げた。

「堕とさせはしない、そのために俺がいる」

ドローンを伴い、ひた走る。朱は必死に足を動かしながら、前を行く響歌の背を見つめた。あそこまで彼女が感情を露わにするのは初めてだ。それだけ精神的に追い詰められている。

「道が分岐してる・・・二手に分かれましょう。私達は右へ行きます。狡噛を発見したら、連絡を」

狡噛のことはもちろんだが、別の不安が朱を襲う。雑賀の言葉が現実になってしまうのではないか。美しい花弁が一枚ずつ落ちていく。右折するときに見えた横顔は、笑っていた。祈るようにドミネーターを握ると朱は再び走り出す。守ってほしいと祈る相手は、神か巫女か。信じる者は救われる。それなら、彼女を救ってくれる相手はこの世界に二人しかいない。彼女自身とそして、赤井だけだ。

「二人とも、全神経を使ってください、っ!?」

足を止める。赤井と降谷が響歌の左右に付く。一瞬、刺すような殺気を感じた。しかし次の瞬間にそれは消え、静寂だけが残る。腹で息を吸い、吐き出した。お陰で焦燥感が抑制され、冷静さを取り戻す。

「響歌、あの先だ。俺が先行する」

赤井がクイと顎をやった方向は、薄明かりが差している。見たところ、開けた空間が広がっているようだ。降谷は、最後尾から華奢な背中を見つめた。標的である男も、障害となる女も、自分に背を向けている。今ここで気配を断って彼女を拘束すれば、容易く奴の背中を撃ち抜ける。なのに、殺意とは別の欲望が先を行く。この席で、見ていたい。そんなことを思う自分があまりに滑稽で小さく笑った。そっと左手で口元を覆い、表情を消す。脳内に巫女の声が反響する。

−−−君には、監視役を担ってもらう。あれは、大いに使える。些か愛国心に欠けるが、強靭なメンタルは疑いようがない。彼を釣る餌として、泳がせろ。

この国に秩序と安寧を。その信念は変わらない。巫女の意思に背反するつもりはない。しかし、手段はこちらで決めさせてもらおう。手足になる覚悟はあるが、道具になる気は毛頭ないのだから。彼女は障壁であり監視対象であり、蜜でもある。数秒間の思考ののち、青い瞳を開く。凛々しい背中を再び追いかけた。

「あー、あれですね・・・物騒な場所だと逆に平常心に戻りますよね。なんですか、ここは?悪趣味ですね」
「どうやら狩場のようだな」
「おい、何を嬉しそうにしてる。変態か」

響歌が顔を歪めると、赤井は薄く笑みを浮かべ返答した。それに降谷が軽蔑の視線を向ける。3人が出た場所は、明らかに異常だった。薄暗い空間は迷路のように入り組み、あちこちに弾痕が残っている。警戒しながら、ゆっくり進んで行く。人の気配はしない。先頭を行っていた赤井がふと足を止め、視線で床を見るように促す。残りの二人がそれに倣うと、そこには点々と血痕が続いている。響歌は目を細め、それを追うように手で合図を送る。暫く歩き、ある角を曲がると景色が変わった。見慣れた後ろ姿に走り出す。

「マサさん!狡噛は…っ、

見つかったのかと尋ねようとして留まる。その姿は征陸の傍らにあった。酷い傷だ。息をしているのは彼の生命力の賜物だろう。お陰で一先ずは大丈夫そうだ。一瞬でそこまで思考すると、響歌は征陸に尋ねる。

「朱ちゃんはどこです?」
「分からん!一人で突っ走って行った」

そう吐き捨てながら、さらに奥を見やった。見える範囲に朱の姿はない。正義感の強い彼女のことだ。敵の後を追ったに違いない。まだ事件は終わっていないということだ。分からないということは、ここに来た時点では狡噛しかいなかった。つまり征陸は、敵の姿を見ていない。

「彼女を追いましょう、一人では危険です」
「僕はここに残ります。応急処置なら心得があるので手伝えますし、他に敵がいないとも限りません」
「分かりました。では、ここはお願いします」

この場に残るという降谷の提案に、響歌は頷く。赤井と視線を合わせ、走り出した。すれ違いざまに降谷が「失敗るなよ」と呟く。赤井はそれに一瞥を返し、上司の後を追った。半歩前を行く響歌の横顔は、いつも通りに見える。しかし赤井の胸には一抹の不安が居座っていた。さっき感じた殺気、狡噛が致命傷を負うほどの相手。彼女が望む真実の端が見え隠れしている。その時、ダンと銃声が鳴った。それも一回ではない。息を浅く、気配を消しながら音を頼りに走る。続いて悲鳴が二人の鼓膜を揺らした。近い。響歌は走りながら、左胸にあった拳銃を取る。視線の先にある扉の両脇に立ち、赤井が頷くのを合図に突入する。扉をくぐるとすぐに、座り込む朱の姿が見えた。

響歌と赤井が突入する十数秒前。朱の目の前で船原ゆきの命が散った。ついこの間まで悩みを相談したり、他愛のない話をしていた友人だった。自分の無力さを受け入れられずに、ただ呆然と宙を見つめる。ポタポタと血が滴る音と共に、槙島聖護の足音も遠ざかっていく。その刹那、銃声が反響した。弾丸が槙島の鼻先をかすめる。次の瞬間、朱の視界は一変した。目の前には銃口を標的に向ける響歌の背中、隣には朱を庇うように片足をついた赤井の姿がある。張り詰めた空気が肌を刺激する。刺すような敵意を受け、槙島は足を止めると響歌に視線を向けた。

「ああ、君か・・・どうして頭を撃たなかった?」

蜜色の瞳が僅かに大きくなる。まるで自分のことを既に知っているかのような口振りに響歌は目を細めた。握っていた拳銃を下ろし、今度はドミネーターの照準を定める。

『犯罪係数21、執行対象ではありません。トリガーをロックします』

無機質なその言葉を聞いた瞬間、響歌は笑みを零した。20年以上の間持ち続けていた疑念が確信に変わったのだから、嬉しくもなる−−−巫女は、常に正しいわけではなかった。不要とばかりに鉄の塊ドミネーターを床へと手放すと、再び拳銃を握り直す。撃つか否かの選択をさせてくれないどころか、裁くべき相手として認識すらしないとは笑える。正しき義を持たずして、国を守れるわけがない。深呼吸をひとつして、引き金に指をかけた。

「どうやら聞いていた通りの人間らしい。君の魂の輝き、見せてもらうとするよ。どうかと共に僕を楽しませてくれ−−−羽賀響歌」

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に痺れた!