美しい不協和音

「弥生はさ、響歌と初対面だったっけ?」

聞き慣れた気怠げな声が部屋に響く。見慣れた真っ赤な唇がそう問うのを、六合塚はカップ麺を啜りながら受け止めた。響歌・ルートヴィヒ−−−2ヶ月ほど前から一係の捜査に加わるようになった監視官。狡噛や宜野座とは同期だと聞いた。ほんの数ヶ月しか見てきていないが、分かる。彼女は他と何か違う。

「ええ。あたしがここに来た時には彼女、もうアメリカに派遣されていたから」
「それじゃあ、今度話してみるといいわ。とっても面白い子だから」

潜在犯に面白いと評される女性。それは恐らく、危険と同義。それでも所詮は健常者。潜在犯の思いなど理解できるわけがない。こんな所に閉じ込められている自分達に、何か齎してくれるはずがない。「機会があればね」と曖昧に頷きながら、六合塚はそっと目を伏せた。その時、部屋の扉が開く。

「志恩、見て!この前お勧めしてもらった…あれ、ごめん。お取り込み中だった?」

入室してきたのは、たった今話題に上がっていた彼女だ。さっきまで心で貶していた手前、六合塚は無意識に視線を逸らした。それに傷付く様子など一切なく、響歌はモニターの前に座っていた唐之杜に近付く。

「いいのよ。それで、どしたの?」
「ほら、志恩が勧めてくれたシャンプー使ったんだ。サラサラだよ!さすが女神様!」

両手で左右の髪を摘んで見せる。まるで子供だ。六合塚はそう思いながら、彼女の指先を盗み見る。そして少し驚いた。それを悟られないように、すぐに心を鎮ませる。

「それ、元々は弥生が教えてくれたのよ」

チラと視線を寄越しながら、唐之杜が言う。まさか話を振られるとは思っていなかった。恋人である彼女とは仕事以外の会話もやぶさかではない。スキンシップも美容に関する話も心躍る。しかし、会って間もない目の前の女性は違う。仕方なく無表情で向き直ると、視界の中で響歌はさぞ愉快そうに笑った。

「嫌いな人には嫌われても何とも思いませんが、好きになれそうな相手に拒絶されると些か傷付きますね」

六合塚は今度こそ目を見開いた。こちらを見つめる大きな瞳に、一瞬たじろぐ。それを見て、響歌の唇はさらに大きな弧を描く。それよりもさっきの発言だ。思っても普通は言葉にしないだろう。やはり、この女性はどこか違う。それは悪い意味でなのだが、触れたくなるのは何故か。分からない。

「嫌いに認定するのはちょっと話してからにしませんか?それで変わらないなら嫌いでいいです。嫌いな相手って、その人がどんな善行をしても好きにはなれないですもん、不思議なことに。あれですね、生理的に無理ってやつです」

流れるようにそう言うと、六合塚の隣にちょこんと座った。何も紡げないでいる恋人を、唐之杜は面白そうに眺める。傍観に徹するために、煙草に火を付けた。響歌はスキップしながら心に割り入ってくるのだ。たとえ自分の嫌いな相手でも、彼女は態度を変えない。飄々と、踊るように、生きている。

「えーと…六合塚弥生さん、でしたっけ。こうしてお話するのは初めてですね。私の部下は男二人ですし、ここは目の保養になります。何故か親友と呼べる女友達はいないんですよね。あ、ここ笑う所です」

頭が良いんだろう。考えている素振りがない。決して早口ではないのに、何故か言葉を挟めなかった。そして、彼女は未だ笑みを浮かべたまま吐き捨てる。

「志恩と言い、こんな綺麗な女性を牢屋に閉じ込めるなんてシビュラは悪魔ですね。信者には恩寵を、それ以外には絶望を。まあ、その恩寵も私にとってはゴミなんですけど……すみません、失言でした」

態とらしく微笑む。少しも悪いと思っていない。それを敢えて悟らせたのだ。その恩寵を喉から手が出るほど欲している人間は大勢いる。ゴミ−−−持つ者が持たざる者に言えた言葉か。顔を歪める六合塚を見て、響歌は嬉しそうに喉を鳴らした。

「やっぱり私、貴女のこと好きになれそうです。この国の人々が大切に持っているもの…さっきの話の中での恩寵は、私には少しも輝いて見えません。苦しくない人生に価値などない。だって何の苦痛もなく手に入れられる幸せなんて、高が知れてると思うから」
「潜在犯の人生は、苦しいだけ・・です」

辛うじて叫ぶのを堪えて、六合塚は絞り出すように呟いた。やはり結論は変わりそうにない。会話を続けるほどに嫌悪感が膨れていく。これではとても好きにはなれない。

「確かに、諦めてしまう人は大勢います。でも貴女は違う。好きなものがあって、大切な人がいる。もしそれらが脅かされれば、貴女は闘う…そうですよね?それは、檻の中で人形に成り下がった奴らには出来ないことです。その心は、巫女が与える恩寵なんかより何倍も尊く、そして美しい」

何故、絆されるのだろう。理由は一つ、本心だと本能的に分かるからだ。執行官は他の潜在犯よりは自由が許されている。しかし、それはあくまで"まだマシ"なだけ。自分は限られた生活の中で、没頭できる何かがあり、大切な人がいる。それを最大幸福と捉えろと言うのか。容易く首肯できるわけがない。

「あら、黙っちゃうなんて珍しいわね」
「別に…ただ、不毛だと思っただけ」

唐之杜の言葉に、六合塚は視線を逸らす。精一杯の抵抗だった。このまま続ければ、きっと流される。"諦めること"がひどく難しくなってしまう。葛藤する六合塚の心を目掛けて、響歌はさらに追い討ちをかけるように言葉を落とした。

「どちらが檻の中か、誰が決めたんでしょうね」
「慎也君も言ってたけど…ほーんと、視点が違うのよねぇ。ドキドキしちゃう」
「捻くれてるだけだよ。もちろん健常者は潜在犯より物理的自由はある。でも心はどうなんだろう……だってさ、街を歩いてる人よりも心が息をしてる執行官を私は知ってる。狡噛にマサさん、貴女達ふたり、赤井さん。仮に扉の無いどこまでも続く柵なら、どちら側が檻の中かなんて分からない。『向こうが檻の中』だと思っている側が家畜だってこともある。それって、すごく滑稽。だから笑ってやればいいですよ、不自由なのはお前らだって。その時は是非、私も呼んでくださいね。柵を乗り越えて、そっちに行きますから」

清々しい顔で笑う響歌に、唐之杜は「もちろん、大歓迎よ!」と言いながら燥ぐ。一方で六合塚は緩みそうになる口元を誤魔化すように、大きく息を吐いた。対抗心を持ったところで意味がなかったのだ。彼女は最初から自分と争うつもりなどない。ここに居るしかない、執行官が立っているのはそういう場所だ。そこに自ら行ってもいいと、そんなことを宣う健常者。確かに、面白い危険な人だ。

「さてと、話は終わりです。それで、どうです?やっぱり、私のことが嫌いですか?」
「……正直、苦手です」
「ははっ!それは良かった」
「良かった?」
「嫌いは好きと対義関係。しかし苦手はまだ、好きになれる余地がある…私にもそういう相手がいるので」

そう言って笑いながら、響歌は青眼の部下を思い浮かべる。嫌いに寄っていた苦手意識が、今はほんの少し好きに寄りつつある。恐らく完全にどちらかに寄ることは二度とない、曖昧な意識。

「ね〜え、せっかく女子三人が揃ってるんだから、もっと楽しい話しましょうよ。ほら、恋バナとか」
「いいね!二人の馴れ初め聞かせてくれるの?」
「……ご存知だったんですか、あたし達のこと」

呆然と尋ねる六合塚とは対象的に、唐之杜はふっと笑った。響歌もまた、悪戯後の子どものように喉を鳴らす。得意げなその顔は、普通なら神経を逆撫でされるものだろう。しかし、それすら美しく見える。

「直感、ですよ。六合塚さんはこの前会ったばかり。私が見抜けた理由は、志恩の方です」
「やだ、そんな熱視線で私のこと見てたの」
「アメリカに行く前より、雰囲気が柔らかくなったから。最初はここでの生活に慣れたからかと思った。でも、ちょっと見てたら違うと分かったよ。心を豊かにしてくれる相手が現れた、それが六合塚さん。他の執行官も疑ったけど、それらしい感じはなかったしね」

何でもない事のように推理を述べる。たった数日ならまだしも、彼女がアメリカに在国していたのは4年間だ。それだけの時間を経てなお、ただの同僚の変化に気が付いた。恐ろしい。

「御名答、流石ねぇ。弥生とはとーっても仲良しよ。添い遂げる覚悟もしてるわ」
「へぇ、いいなぁ。私も志恩の胸に埋もれたい」
「あら、いつでも大歓迎よ……ところで、響歌の方はどうなのかしら?」

邪な願望をサラッと受け流し、唐之杜はくるりと椅子を回転させた。当の響歌は、質問の意味が分からないのか瞬きを繰り返す。珍しい表情に唐之杜は笑みを深くして尋ねた。

「恋愛事情。執行官の彼、結構イイ男じゃない?」
「降谷さん?志恩、ああいう人がタイプだったんだ」
「んもうっ、違う!黒髪の方よ」
「黒髪って・・・それはあり得ないよ」

脳内に浮かぶ一人の男−−−赤井秀一。響歌は即座に否定した。誤魔化しではない、全く以って本心だ。恋愛的な意味で響歌が赤井を想うことはない。今までも、そしてこれからも。しかし、彼は決して第三者ではない。むしろ誰より近く大事な存在である。

「何故ですか?赤井執行官は、貴方が見出した人材だと伺いました。それに、お互い心を許している」
「私があの人を見つけたわけではありませんよ。あの人が私を呼んだんです。六合塚さんが仰ったような存在が、等しく恋情に結びつくとは限りません。あの人と私は、恋人同士のように触れ合う必要などないんです。愛する人とのキスやセックスは、心の繋がりを確かめ合う行為ですが、私達の心には結び目などありません。綻ぶ余地がない、ひとつですから。まあ、好きか嫌いかと訊かれれば…愛していますよ、心底ね」

語られた内容だけだと、ひどく淡白な関係に思えるかもしれない。しかし、普通ならあり得ない。監視官が、執行官の心に己のそれを癒着させるなど、正気の沙汰ではない。社会的に交わらないのだ。いつか必ず、その心を元の姿に帰さねばならない日が来る。結び目なら指先で解くことができるだろう。しかし、ひとつになってしまったなら、それはもう断ち切るしか術がない。傷口からは真っ赤な血が溢れるのが目に見えている。それこそ一生残る傷痕となる。六合塚は理解することを諦めて、目を伏せた。

「それもまた一つの愛ってことね。それしても、一度くらいは寝てみたのかと思ったのに、残念だわ」
「一緒に寝たことならあるよ」

唐之杜が頬杖をついて不満げに言えば、爆弾発言が飛び出す。しれっとしている響歌を、ふたりが見つめ返した。怪しげな視線を受け止めて、彼女は楽しそうに笑い、そして言った。

「でも、ふたりが期待している意味じゃなくて、文字通りの意味。私が赤井さんの部屋で寝ちゃったことがあって、仕方ないからベッドに運ばれて朝まで、
「ちょっと、それで何もなかったの!?」
「うん。起きたら目の前に胸板だったから、ちょっと焦ったけど。大きな犬みたいない感じ」

とても信じ難い。響歌は決して女性として魅力が無いわけではない。顔立ちは整っているし、サラサラと柔らかい髪は誰でも撫でたくなるだろう。まあそれ以上に変わっているから、彼女を知る人物はその異質な面に気を取られ、女性として認識しないといったところか。それにしたって、同じベッドで寝て普通に朝を迎えるとは、赤井が鉄の理性を持っているとしか思えなかった。

「せっかく可愛いのに、勿体ないわね」
「はは、ありがと。でもいいの。私は結局、私以外を選べない。それなのに求めるなんて分不相応でしょ」

少し切なげな声音に、何も言えなくなる。覚悟しているようで、まだ愛に未練があるのだろうか。それは一体、誰に対するものか。唐之杜の脳裏にある男の姿がよぎる。しかし、それを尋ねることはしなかった。求めればいいなどと、言えるはずがない。彼女は、報われる確証のない想いを持っていられるほど、生半可な道を歩んではいない。小さな偽善は惑わすだけだ。

「そう…分かったわ。もし人肌が恋しくなったら、いらっしゃい。私と弥生が慰めてあげる」
「なんであたしまで・・・それ以前に、他人に縋ったりしないでしょ、この子」
「あれ、なんか急に仲良くなれた気がします」
「気のせいよ」

プイと視線を逸らす六合塚に、唐之杜と顔を見合わせ笑った。その時、響歌が手首の端末に視線を落とす。赤井からの呼び出しだ。

「ごめん、行かなきゃ」
「事件ですか?」
「いえ、さっさと戻って来いってことだと思います。それじゃ、私はこれで。楽しかったです、とても」

立ち上がり、微笑む。ふわりと香る自分と同じ髪の匂いに、六合塚は妙な気分になった。ヒラヒラと手を振り背を向ける響歌を、思わず引き止める。

「あの、一つ訊いてもいいですか?」

出口へと向けていた足を止め、響歌は六合塚に視線を戻した。不思議そうな顔をしながら「どうぞ」と頷く。唐之杜も何を尋ねるのかと、黙って見守った。

「何故、左手の中指だけ爪を伸ばしているんですか?それ以外の指は右手同様に綺麗に整えられている。さっき、髪を摘んで見せた時に気になったので」
「ああ、これですか…まず、私は右利きです。引き金を引く時に邪魔にならないように、右手の爪は常に短くしています。次に左手ですが・・・、
「っ……な、にを」

そう呟くのがやっとだった。話しながら左手を掲げたかと思えば、次の瞬間その爪先は、六合塚の喉元を捕らえていた。皮膚から伝わる鋭い感覚に、思わず唾を飲み込む。ドクドクと心臓が鳴る。ここまで死を身近に感じたのは初めてだ。

「左手をフリーにしておくのはあまりに愚か。ドミネーター無しでも戦う術を用意しておくべきです。あれは私達ではなく巫女の意思に基づいた武器。もしもその意思が相容れないものであれば、ドミネーターではなくこの手で敵を無力化しなくてはならない。これはそのための刃です」

そっと手を収めると、響歌は今度こそ部屋を出て行った。未だ脈打つ心臓に手をやって、六合塚は大きく息を吐く。途端、クスクスと笑う声が聞こえてきた。

「ね、言ったでしょ。面白い子だって」
「・・・未知の生命体の間違いでしょ」

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に痺れた!