Hide and Seek

※ドイツ語の表現が出てきますが、筆者にドイツ語の知識がないため曖昧です。詳しい方がおりましたら、そっと教えていただけると幸いです。



「私の記憶では、初めましてだと思うのですが……貴方は、私を知っているみたいですね。誰に、聞いたんですか?」

槙島が呼んだ"羽賀"は響歌の旧姓。これまでの事件から、槙島側に優秀なハッカーがいるのは間違いない。その高度な技術を駆使すれば、監視官の経歴など容易く調べられるだろう。だが、彼が響歌のことを調べる理由はない。エリートではあるが特筆すべき経歴ではないし、目立つほどの功績を残しているわけでもないのだから。言ってしまえば一般市民の自分に彼が興味を持つ要素がないのだ。それに、"聞いていた通り"と言ったことからも誰かに響歌のことを教えられたに違いなかった。

「僕は槙島聖護……成程、顔色ひとつ変えないか。予想はできていた、ということかな」
「いいえ、貴方の正体にそれほど興味がないだけ」
「そうか・・・話を戻そう、ヒントだ。君のことを誰から聞いたかだが、君をよく知る人物で僕と接触する可能性がある人間はそう何人もいないだろう?答えはすでに出ているはずだ。そう、彼だよ。君達にはこれから存分に楽しませてもらいたいと思っている。ただ、今はまだその時ではない」
「っ、待て!!」

感情のままに叫ぶ。"いつか"がやって来た。従兄かれとは望む形で再会することはないと覚悟していた。逃しはしない。地に転がっているドミネーターを拾い上げ、駆け出す。高揚感に胸が支配される。場違いな感覚に響歌は嗤った。瞳に映った横顔に赤井は表情を険しくする。まずい、呑まれかけている。このままでは戻れなくなる。その危うさに警鐘を鳴らすが如く大声で名前を呼んだ。

「響歌!!」

ピタリと動きを止めて、数秒。振り向いた彼女の顔はいつも通り、凛として美しかった。緑色の瞳を真っ直ぐに見つめ返し、柔らかく微笑む。

「二人を頼みます。引き戻してくれて、ありがとうございました」
「俺が行くまで決して深追いはするな」

頷くと響歌は走り出す。自分を生かせといった口で、待機を命じるなんて矛盾している。しかし、自身が望んだ約束を己の手で違わせる気はない。常に自分のために生きてきた。誰かのために見えても、結局は自分のためだ。今も、響歌は自分のために駆けている。重要なのは、命綱を握ってくれている人がいるということ。赤井を後悔させたくないという思いは、必ず響歌を人たらしめる楔となる。

上司の背を見送ると、赤井はピクリとも動かない船原ゆきに近付く。手錠で柵と繋がれていた手首に触れてみても、脈は伝わってこなかった。鎖を拳銃で撃ち抜き、外す。支えを失った身体を右腕で抱え、朱の元へと戻った。宙を見つめたままの彼女の肩に触れ、声をかける。

「常守監視官、悪いが自分で歩いてくれ」

両手を塞がれては、不測の事態に対応できなくなる。しかし、赤井の言葉に反応は無かった。目の前で友人を失ったのだ、無理もない。だが、ここで時間を浪費するわけにはいかない。一刻も早く彼女の後を追わねばならないのだ。息を吐き、抱えていたゆきの身体を肩に担ぐ。自由になった右手で朱の腕を掴み立ち上がらせて、歩き出した。躓きそうになる朱の視界に、だらんと力無く揺れるゆきの姿が映る。これは現実なのだと思い知らされる。胸を無力感が襲った。涙を流す資格すら、自分には無いのかもしれない。

「っ、お嬢ちゃん!赤井!」
「征陸さん、後は頼みました。響歌が追っています。私も行かねばなりません」

朱を引き渡し、床にゆきの遺体を横たえながら赤井は言った。朱の様子から、彼女が行方の分からなくなっていた友人なのだと征陸は瞬時に理解する。その命がすでに尽きていることも。征陸が「分かった」と短く答えると、赤井は来た道を引き返して行く。その背中を見送ってから、征陸は朱の肩に手を置いた。自分が器用じゃないことは、息子との関係からよく分かっている。それでも、いないよりは良いはずだ。その手の温かさに朱はきつく目を閉じた。

−−−−−

小さな足音を響かせながら、鉄の床を踏む。拳銃はホルスターに、手に握るはドミネーター。槙島にドミネーターは作動しない。響歌がドミネーターを握るのは、彼と対峙した時のためだ。神経を研ぎ澄ませ敵の気配を探りつつ、息を整えた。

「響歌」

薄暗い空間に響くのは、低く穏やかな懐かしい声。ずっと聴いていたいと思うくらい好きな音。ゆっくりと歩いて来たその人は、5年前と同じく柔らかな笑みを浮かべてそこに立っていた。響歌・ルートヴィヒという人間の一部−−−男の名は羽賀響輔。最後に会ったとき薄ら生やしていた髭は綺麗に剃られ、髪も少し短くなっている。あの時よりも今の方が若く見えた。槙島は一歩離れて、二人の様子を興味深げに観察する。

「会えて嬉しいよ。暫く見ないうちに随分綺麗になったな。僕の後ろを着いて歩いていたのが嘘みたいだ」
「兄さん・・・今まで姿を見せなかったのは何故?やっぱりあの事件が原因なの?」
「おいおい、久しぶりに会えたんだ。もう少し穏やかにいかないか?」

肩を竦めてそう言った。それでいて瞳は真剣で、見定めるように響歌を見つめている。臆することなく真っ直ぐに見返す従妹に、響輔は髪をかき上げると小さく息を吐いた。彼女の質問に対する答えはイエスだ。5年前、父母を死に至らしめた人間を一人殺す度に、自分の化けひとの皮が一枚ずつ剥がれていく気がした。殺人という行為に手を染めた自分は巫女の裁きを受けるはずだった。しかしシビュラは憎らしくも、裁かれるべき罪を犯した響輔を生かすと判断した。否、判断すらしていない。それまでと同じように、一市民として認識しただけだった。父母を殺めた人間を裁けなかった巫女になど、端から期待していなかった。そのはずなのに心の隅で裁いてくれることを信じ、望んでいた。

化け物となって彷徨う中で槙島聖護と出会い、自分のような人間は他にもいるのだと知った。人間の魂の輝きを見たいと槙島は語っていたが、目的を持つ彼とは違い、響輔には叶えたい望みなどない。たとえこの社会で何をしようが、見向きもされないのだから。そして3年前、槙島から気がかりだった従妹の近況を知らされた。ひたすらに、真実へと突き進んでいる。脳裏によぎるのは、シビュラの真価を問う−−−そう言って自らその中枢へと飛び込んで行った小さな背中。自分には、復讐という形でしか巫女の万能性を否定できなかった。抜け殻のように生きるくらいなら、勇敢な彼女の糧となろう。刑事として生きる過程で、シビュラに対する小さな疑念を集めながら彼女は響輔を捜すだろう。そして遠くない未来で対峙した時、響輔じぶんの存在こそが響歌の疑問への最終回答となるように。それが終わったら、喜んでこの命を投げ出そう。

「叔父達を殺したのは、僕だ。その銃を向けてみろ。20年前にお前が抱いた疑問への答えがここにある」

両手を広げ、笑う。彼は何人もその手で殺し、槙島に同行している。それでもし犯罪係数が正常値ならば、それは彼もまた巫女の視界に映らない人間だということの証明だ。一度深く呼吸をしてから、震える指先に気付かぬフリをして響歌が腕を上げる。ドミネーターを向けようとしたその時、

「ぐっ・・・き、さま」

突如、鳩尾に走る衝撃。意識を手放す直前、自分に何が起きたのか響歌は瞬時に理解する。さっきまで視界の端で捉えていた槙島が、真横にいた。油断した。閉じかける瞼を気力で支え、睨む。緩い笑みを浮かべ、槙島は言った。

「素晴らしい精神力だ」

倒れ込む彼女を響輔が抱き留めた。そっと頭を撫でてから、鉄の柵に寄り掛からせる。そして槙島へと視線を移し、目を細めた。小さく息を吐き、蜜色の瞳を仰ぎ見る。

「勝手なことをされては困る」
「困る、ね……僕は、音楽家だ。糸目の彼のように貢献はできないし、あんたに協力するなんて言っていない。何を企んでいる?」
「結末を知ってしまうのはとても退屈だ。僕は常に目的の為に行動している。それだけは確かだよ。君の望みは彼女の糧となること、そうなんだろう?」

全く質問の答えになってはいないが、どうやらこの場で答える気はないらしい。眉を顰める響輔に、槙島は振り向きざまに笑う。

「それなら行こう。今はまだその時ではない。それにそろそろ彼が来る。猟犬よりも厄介そうだ」
「彼?」
「忠実でとても鼻の効く、黒い狼。彼女の理性だよ」

それを聞いて思い浮かぶ一人の男。直接話したことはない。響歌が以前語っていた、優秀な手綱。ほんの十数分前のこと、傍らに佇むその姿は、確かに厄介そうだった。彼女より先に響輔の気配を察知し、殺気で牽制してきたあの男。響輔は一度瞬きをしてから、目を閉じたままの響歌を振り返る。

「(できることなら、最後はどうかお前の手で・・・薄情な兄で、ごめんな)」

−−−−−

走る、ただ走る。ゆきの血痕が残る床を踏みつけ、赤井は響歌の背中が消えた方へ進んでいた。踏み込んだその先で、頭を垂れた人影を視認する。見慣れた体躯、流れるような髪、響歌だ。身体中の血管が熱くなる感覚に身を任せ、殺気を撒き散らしながら近付いた。周囲に人の気配はない。瞳を閉じたままの彼女の首元に触れる。指に伝わる規則正しい脈拍にホッと胸を撫で下ろした−−−生きている。続いて外傷の有無を確認する。着衣に乱れはない、撃たれたりもしていなさそうだ。どうやら気を失っているだけらしい。上司の生存を確かめ、初めて傍らに置かれた物に視線を移す。茶色の立方体型の箱。大きさから見てヴァイオリンのケースだろう。

「(やはり、響輔かれか)」

長居は無用。ケースを右手に持ち、響歌を腕に抱える。その腹の上にドミネーターを寝かせた。これで一先ず左手は使える。最後に奥に続いている道を睨みつけ、立ち上がった。殺気は消さず、来た道を引き返す。デバイスを操作し、宜野座へと連絡を繋いだ。

「対象を無事に保護した、今からそちらへ戻る」
「ッ、そうか……了解した」

安心したような声音に、赤井はふっと笑う。ただ前だけを見据える響歌には一度分からせた方がいいかもしれない、彼女の身を案じてくれる人間が大勢いるのだということを。外へと出ると、雪が散らついていた。最初に気が付いた征陸が速足で近づいて来る。

「赤井、無事だったか!お嬢は……っ、

その声に他の面々も弾かれたように視線を移した。ストレッチャーの上で身を起こそうとする狡噛を朱が慌てて支える。征陸は響歌の所在を尋ねようとして止めた。彼女は赤井に抱えられたまま、その瞳は固く閉ざされている。保護したという報告を忘れ、それぞれの脳に最悪の結末が過ったが、赤井が無表情で呟く。

「気を失っているだけです」

皆が胸を撫で下ろす中、ストレッチャーに横たえると同時にゆっくりとその瞼が開く。赤井が名を呼ぶと、大きな瞳で見返した。次の瞬間、全員が息を飲む。赤井の喉元に鋭利な凶器が突き付けられている−−−響歌の爪だ。頸動脈を掻き切られる寸前、赤井がその手を掴む。ほとんどの者は何が起きているのか分からなかった。狡噛ですら、我が目を疑ったほどだ。冷静だったのは部下ふたり。敵意を向けられている赤井と、宜野座の横に立っている降谷だ。

明らかに様子がおかしい。空虚な瞳、常に豊かだった表情は消え、完全に我を失っている。何より、右腕である赤井に襲いかかった。依然として周りが状況を把握しきれない中、響歌が先に動く。初手を封じられ、即座に反撃に出た。掴まれているのとは逆の手が飛んでくる。しかし、大人しく殺される赤井ではない。彼がすぐさま距離を取ると同時に、響歌がストレッチャーから飛び降り蹴りかかってくる。赤井は軽々それを躱し、続いて飛んできた拳を左手で受け止めた。勢いを利用し引き寄せ、細い体を地面へと叩きつける。逃れようとする響歌の両手首を右手で拘束すると、左手で顎を固定し強引に視線を合わせた。躊躇なく監視官に危害を加えた赤井に、宜野座が声を上げようとするが、冷ややかな声がそれを制止する。

「手を出さないでいただけますか」

宜野座が驚いたように降谷を見返すが、その視線は赤井と響歌に注がれたまま。自身も介入するつもりはないらしい。くぐもった声を漏らす響歌に赤井が投げかける。

「響歌、俺の目を見ろ。思い出せ、お前が牙を剥くべき相手は他にいるはずだ。約束を忘れたか、俺にお前を殺させるな。目を醒ませ」

低く重く、静かな声が響く。叱責ではない、導くように呼ぶように言い聞かせる。赤井が一言紡ぐ毎に、響歌の目に光が戻っていく。虚ろだった瞳が本来の色彩を放つ。数秒の沈黙のあと、響歌は一度瞬きをしてから笑った。それを合図に赤井が拘束を解く。

「すみません、完全に飛んでました。赤井さん、ありがとうございます。今日だけで3回も手綱を引かせちゃいましたね」
「それが俺の役目だからな・・・何があった?」

一拍置いて赤井が尋ねる。その問いに響歌は答えず、傍らにある古びたケースを撫でた。蓋を開けば、中には一挺のヴァイオリン。その上に添えられていた二つ折りの紙を開き、並んだ文字に肩を揺らして笑う。

Fang mich früh. 早く僕を捕まえてくれ・・・く、はは、はははは!はぁ、笑っちゃいますね。5年経っても私の指先は掠めただけ。その証拠に、あの人は同じ言葉を残した。まあでも、悪くない気分です。あと一歩踏み込めば、あの人の手を掴める。巫女の仮面を剥ぎ取れる。クソみたいな物語がやっと終わる。エピローグの開始です」

一頻り笑い終わると、響歌はヴァイオリンを片手に立ち上がる。立ち尽くす面々の中心へと躍り出て構える彼女に誰一人として口を挟めぬまま、強く美しい音色が響き渡った。

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に痺れた!