「煙草、一本くれません?」
忙しい奴だと思いながら、胸ポケットにあった箱から一本差し出した。火をつけてやろうと取り出したライターまでも、綺麗な指先が奪っていく。口に咥えた煙草に火を灯した後、響輔からのメッセージが記された紙の端へとライターを近づけた。微かな音を立てて小さな紙はあっという間に燃え尽きる。
「不味いですね。やっぱり嗜好品に煙草はないです」
「貴重な一本を返せ」
紙切れが塵となり消える様を見つめながら、響歌は苦い顔で言った。そんな上司の頭に手を置いて赤井が返答するのを、周りはホッとしながら見守った。それも束の間、先の赤井と同じ問いを、今度は狡噛が投げかける。
「それで、一体何があったんだ?お前を気絶させたのもマキシマか?」
「そう、不意をつかれた。なかなか美青年だったよ。ごめん、最初の一発で殺しておくべきだった」
「ドミネーターが正常に作動していなかったんだ、仕方ないだろう」
少し顔を歪めて、敵を仕留め損ねたことを謝罪した。吐き捨てた響歌をフォローするように宜野座が言う。確かにあの時、最初から頭を狙っていれば殺せた。人ひとりを殺しているのだから、真っ先にそうすべきだった。もしくは両脚を撃ち足止めするのが定石。ただ、彼がマキシマだという確証がなかったし、餌として彼は魅力的だった。長年抱いてきた疑問への答えを目の前でチラつかされ、結果お粗末にも逃げられたわけだ。
「いや、ドミネーターじゃなくて…
「その銃、本物か?いやそれより今の言葉はどういう意味だ、端から奴を始末するつもりだったのか?シビュラの判断ではなく、お前の手で」
「まさか。マキシマだって確証はなかったし、私は彼を殺したいとは思っていない。それとも、狡噛が人殺しになる前に私が始末しておけばよかった?」
「おいおい、滅多なことを言わんでくれ」
いつもなら軽く去なすであろう宜野座の言葉に、響歌は噛み付いた。いつもの彼女に戻ったかと思ったが、未だに気が立ったままらしい。嫌な空気を感じて間に入った征陸を一瞥し、響歌は続けた。
「私達が駆け付けたとき、友人が危害を加えられていたにもかかわらず、朱ちゃんはドミネーターを構えていなかった。それどころか戦意を消失していた。だから分かったの、あの場では役立たずだってね。念のため、自分のドミネーターで試したら案の定。まあ、マキシマであろうとなかろうと、殺人犯を取り逃したのは完全に私の落ち度。いやぁ、こりゃ刑事失格だね」
一つずつ淡々と説明していく。刑事として最善の選択をするなら、巫女の意思に反しても引き金を引くべきだった。そっと目を伏せた響歌に、皆なんと声をかけるべきか逡巡する。殺人を犯した人間が執行対象にならない、そんな事象を経験したことなどない。もし直面したのが自分だったら撃てただろうかと、そう思うと何も紡げなかった。そんな中、狡噛の鋭い声が彼女の鼓膜を揺らす。
「俺は、何がそうさせたのか訊いているんだ。それで誤魔化したつもりなら、俺を馬鹿にしてるとしか思えないな。自分を捨てない、それが信条のお前に自我を失わせるほどの何かが起きた。少なくともマキシマにそんな芸当はできない。お前は奴に興味も執着もないからな。じゃあ一体誰だ、お前は、誰を見ている?」
上手く逃げようと思ったが、どうやら無理そうだ。薄い笑みを浮かべる響歌を視界に映し狡噛は悟った、自分はずっとそれを尋ねたかったのだと。いくら歩み寄り、頭でその信念を理解しようとも、埋まらない距離がある。黒く大きな瞳が見つめる先に立つ誰かこそ、彼女を揺らがせる存在。恐らく、向ける感情は違えどその誰かは狡噛にとってのマキシマと同じ。
「へえ、意外。そんなに私に興味があるの?」
「大有りだ。この場にいる全員がそうだろうぜ。是非ともお聞かせ願いたいね、響歌・ルートヴィヒの全てを。マキシマは必ず仕留めるさ、佐々山の無念を晴らすためにもな。だがお前に対する興味に、他の奴らは一切関係ない。俺個人のものだ。未知の存在に興味を抱くのは人間の性ってもんだろう」
「全てかぁ・・・うーん、分かった。いいよ。そろそろ頃合いだし。ただし、狡噛が自力で起き上がれるようになったらね。長い話になるし、私も少し休みたい」
頃合いが、何についてなのか全く分からない。理解しているのは隣で静観していた赤井だけだ。いとも簡単に了承した響歌に違和感を感じながらも、狡噛は息を吐いて再びストレッチャーに寝転がる。彼女は理解の及ばない言動が多いから、冗談に捉えられることが少なくない。しかしその個性に魅せられている狡噛は知っている、彼女は嘘をつかない。常に本気で物を言う。その彼女が話すと言ったのだ。ならば今は、言われた通り傷を治すことが最優先。猫が逆立った毛を平らにするような様に、響歌は喉を鳴らして笑った。
「やる事が山積みですね。今更ですけど、雪降ってるじゃないですか。道理で寒い、おまけに眠い。さっさと撤収しましょう」
「クリスマスイブだからな」
「それは全く理由にならないと思いますけど」
欠伸をしながらぼやく響歌に赤井が返答し、降谷が突っ込む。こいつら正気かと宜野座は顔を歪めた。しかし、ここにもう用が無いのは確かだ。それぞれが歩き出す中、朱は立ち尽くし空を見上げる。今日、再確認した−−−響歌は異常だ。その性質はマキシマと紙一重。目的のためならば、彼女はきっと彼と同様に殺人すら厭わない。欲望に忠実で、シビュラシステムの確立された社会でなお本能のままに生きている。そういう
「うわぁ、良い気分はしないですね。クリスマスはキリストの降誕を祝う日。正式には誕生日ではないですけど、嫌な一致って感じ。今日、
「貴女には、縋る神なんていないでしょう」
「降谷さん・・・この頃、私に対して遠慮がなくなってきていませんか?お忘れかもしれないですけど、一応は上司なのでせめて猫被りは続けてください」
同じ人間と思うな。宜野座は執行官達のことをそう言った。それなら響歌はどうだろう。少なくともシビュラは彼女を危険視していない。こんなにも逸脱した性質なのに、シビュラには見えていない。絶対の巫女でも測れないのなら、一体何を信じればいいのか。
−−−私達は人間。
そう、生物学上は人間なのだ。彼女自身が口にした。自分は人だと、そう自認している。そしてその中で異質だということもまた事実であり、本人も自覚している。きっと彼女には、周りの人間達の方が異常に映っているに違いない。
−−−この目で見てきたものを信じようよ。
巫女にできないなら、信じられるのはこの目だけ。朱は拳を握る。見逃すものか。必ず、見届ける。今ここで目を逸らすのは、響歌を理解することを諦めるということ。それを許してしまったら、槙島聖護のことも諦めてしまいそうだ。彼らは似ている。何が違うのかと問われればただ一つ、響歌には
「本当に全てを話すつもりか?」
あれから数日が経った。最後の現場検証を終え、廊下を歩く。いつも通り眠そうな彼女に、赤井が問いかける。降谷は口を挟まずに、適度に距離を取った。
「ええ、もちろん。狡噛と約束しちゃいましたしね。それに頃合いだと思っているのは本当です。もうすぐ欲しかった物が手に入る。隠す必要もなくなります」
ふっと頬を緩めた横顔は晴々している。それを見て赤井も笑い「そうか」と呟いた。真っ暗な海中に差し込んだ一筋の光を求め、もがき足掻いてきた。もうすぐ肺で息が吸える。やっと終わるという解放感、と同時に妙な喪失感もあることに響歌は苦笑した。もう少しだけその暗闇に浸っていたいと思うのは、大切な人達を残していくからだろう。結局、重石を取ることなくここまで来てしまったわけだ。でもそれが心地よくもあった。陸に上がった後、軽くなった身体を寂しく思うかもしれない。
「貴女は、自分の全てを曝け出すことが怖くはないんですか?本性を知れば、彼らは離れて行くかもしれないのに。少なくとも、宜野座監視官や狡噛執行官は貴女にとって大切な存在のはず。背を向けられてなお、貴女は笑っていられますか?」
綺麗な顔を歪め、背後から降谷が問う。赤井と共に立ち止まり、響歌は振り向いた。大切な人達にすら明かせない事があったとしても、その方がお互い幸せなことだってある。臭い物には蓋を、醜さや異常さは敬遠される社会だ。背を向けられたときの恐怖を想像しても、一欠片の迷いもなく己を曝け出せるのだろうか。
「本当の自分を殺してまで傍にいたいと思う相手は、私にはいません。そんなのは心が息を止めているのと同じ、ただ苦しいだけです。それに・・・植え付けるのが恐怖でもいいと思うんです。たとえ私に対して抱くのが負の感情だとしても、その
彼女らしい、降谷はそう思った。尋ねれば、いつもまさかと思う答えが返ってくる。どんな風に思考し、行動するのか想像もつかない。まさに予測不能、初めて観るスリラー映画のような人間だ。ずっとこの特等席で観ていたい。だが、恐らくもうすぐ終わる。エピローグは始まっているのだ。
「いいえ、それでこそ貴女です。響歌さん・・・もし貴女が巫女を見限るときは、僕に少し時間をいただけますか。伝えておきたいことがあります」
「ホー、愛の告白か」
「今すぐ執行してやりましょうか?」
「−−−分かりました、その時は必ず」
赤井の茶々を打ち返し、再び視線を戻す。凛とした青い瞳を見返して、響歌は微笑んだ。会った時とは比べ物にならないくらい、いい目をしている。振り向いて歩き出す彼女の後を、清々しい顔で二人は続いた。
その翌日、自席で小休憩を取っていると、PCに通知が入る。それを見て、響歌は「うげぇ」と声を上げながら顔を顰めた。視線を寄越す部下達に答えるより先に立ち上がる。残っていたチョコレートを口に放り込み、扉へと歩き始めた。廊下へ出る直前になって、振り返り一言。
「局長からお呼び出しがあったので、少し外します」
呼び出し一つで、部下にあんな声を出させる上司も中々だ。自分も一服しようと赤井が席を立つと、「おい」と刺々しい声に引き止められた。言わずもがな降谷である。
「役目を終えたら、お前はどうするつもりだ」
青い瞳が赤井を射抜く。どうやら一服は無理そうだ。悟られないように内心で溜息をつくと、椅子に座り直した。代わりに響歌が置いていったチョコレートを口に含んでから、返答する。
「君に教える義務はない」
薄ら笑いを浮かべ、赤井は言った。その答えに降谷は不機嫌を露わにする。下手に出られても気に入らないが、煽られるのは更に苛つく。人を殺せそうなほど鋭い視線で自分を見る降谷に、赤井は小さく笑う。
「心配はいらんさ、身の振り方は決めてある」
「勘違いするな、お前の心配なんてしていない。一人で何が出来る。
「相変わらず君は辛辣だな。言っただろう、心配ないと。言葉のままさ。君のそれは、杞憂に終わるぞ」
一切表情を曇らせない赤井に、降谷は戸惑う。何故、そこまで晴れやかな顔ができる。尋ねるより先に、赤井が今度こそ席を立った。話は終わりとばかりに手を軽く振りながら、部屋を出て行く。ひとり残された室内で、降谷は息を吐いて髪をかき上げた。
「どいつもこいつも気狂いばかりだ」