疑心暗鬼は十八番

眠そうな顔を隠すことなく、響歌は局長執務室に入る。中心に置かれたソファには部屋の主ともう一人、見慣れた生真面目な同期の姿があった。

「すみません、お待たせしてしまったみたいで」
「いや、構わんよ。座りたまえ」

促され、宜野座の隣に座った。早く帰りたい思いながら、響歌は禾生の手元に目を向ける。クルクルと黒い立方体が色を変えながら回っている。ルービックキューブだ。どんな遊びも見ているだけでは退屈、何事も見るより実践した方が面白いに決まっている。

「それで、ご用件は?」
「気が早いな。君は余程、私が嫌いらしい」
「私の中では、ここに呼ばれる時は陸な事がないというジンクスがありまして」

通常運転の響歌に宜野座は内心ヒヤヒヤしていた。この局長相手にこの態度、はたして彼女は正気なのか。笑みすら浮かべているその横顔を盗み見て、呆れを通り越して憧憬の念すら抱く。

「たった今、宜野座君と先日の一件について話していたところだ。常守監視官の報告書によれば、ドミネーターが正常に作動しなかった、と。彼女の操作ミスを疑ったが、驚いたよ。ついさっき、君も全く同じ内容の報告書を提出してきた」
「成程……局長は、シビュラに選ばれた監視官が揃いも揃って法螺を吹いているとお考えですか。奇遇ですね、私もそうであってほしいです。でないと、完璧なシステムに傷が付いてしまう」
「おい」

挑発するような同期の言い方に、宜野座が咄嗟に窘める。それにヒョイと肩を竦める彼女を、言われた本人は興味深げに見つめた。ああ嫌だ、と響歌は思う。この目が嫌いだ。熱のない、機械のような瞳。

「この安定した繁栄、最大多数の最大幸福が実現された現在の社会を、一体何が支えていると思う?」
「それは・・・厚生省のシビュラシステムです」

響歌は答えない。答えはあるが、それが模範解答ではないと分かっている。だからこそ言葉にするようなヘマはしない。これは好機。大事に育ててきた疑念を、さらに立派に成長させるための水なのだ。肥やせば肥やすほど良い。より栄養価の高い恵みの雨を浴びるような心地で響歌は沈黙を貫いた。

「人生設計、欲求の実現、今やいかなる選択においても人々は思い悩むより先にシビュラの判定を仰ぐ」
「だからこそシビュラは完璧でなければなりません」

奥にある自席に戻る禾生に続くように、宜野座も腰を上げその前に立った。一方で響歌は座ったまま、思わず笑いそうになるのをなんとか堪えていた。人生の半分以上をシビュラに疑念を抱いて生きてきた彼女には、笑止千万な話だ。この社会において、千の幸せは一の不幸の上に成り立っている。前者は後者の思いなど顧みない。全ての"一"の肩を持つつもりはないが、響歌の周りにはその"一"が何人かいる。隣の宜野座もその一人だ。脇目も振らず泳ぐ響歌には、彼らを海から引き上げる余裕などない。それでも、彼らの思いを、不合格の札と共に巫女に叩き付けるくらいはできるだろうか。そんな事を思う自分に響歌は口角をそっと上げた。今更、正義の味方気取りとは笑える。結局、陸へと上がるのは自分だけだ。そんなのは所詮、自己満足に過ぎない。

「(あー、考えるの面倒だなぁ。柄じゃないし。ま、いっか・・・私の20年間のオマケってことで)」

どうせ今後もなけなしの優しさを使う機会はないのだから、出し惜しみしても意味がない。ふっと笑って考えるのをやめた。そして、意識を再び現実へと戻す。

「君はどうだね、ルートヴィヒ監視官」

考え事をしながらも、会話はしっかり聞こえていた。完璧でなくてはならないと言った宜野座に、この局長はこう返した。システムとは完璧に機能することよりも、完璧だと信頼され続けることの方が重要だ、と。それを聞いて、響歌は思った。ここに一人、信頼していない人間がいる。そして次の言葉、完璧なシステムならば人の手で運用する必要などない。しかし、公安局には響歌達刑事課の人間が存在し、シビュラの目であるドミネーターの銃把を握っている。ここまでが、響歌が思考している間に交わされた会話だ。その意味を、今問われている。笑わない方が難しかった。微笑はそのままに、答えに窮している宜野座の隣に立つ。スゥと息を吸って返答した。

「愚問です。最終決定はシビュラではなく、人間が下すべきだからです。少なくとも私はずっと、そうしてきました。それまでシステムに委ねてしまったら、私達は人ではなく奴隷になる。家畜と言ってもいい。撃つべきではないと思った時、引き金を引いたことはただの一度もありません。そもそも私は、先程局長がおっしゃったような生き方をしていないですし、シビュラに欠陥があったとしても、やる事は変わりません」
「ほぅ。しかし君は、シビュラ判定のままに刑事となった・・・違うか?それは私が述べたように、思い悩まずシビュラに従ったということではないのかね」

本当に疲れる。響歌はそう思った。会話の穴を的確に突いてくる所も機械じみていて嫌いだ。そういう所は狡噛や赤井に似ているが、彼らに同じことをされたとしても響歌は不快にはならない。結局、相手を好きか嫌いかに尽きるということだろう。

「目的のため、それが最も早く楽でしたから。仮に適性がなかったとしても、別の手段を模索しましたよ。使える物は全て使う、そういう性分なので。シビュラが選択を与えるのではなく、私にとってはシビュラの方が選択肢の一つです。どんなに使いづらい武器も、使い時と使い方を見誤らなければ、効果は大きい。の選択は正しかった。今はそう実感しています」
「やはり、君との会話は興味深い。胸が躍るよ」
「光栄ですが、相思相愛ではないようです」

ニコニコと爽やかな顔で、爆弾を投下する。もうどうにでもなれ、と宜野座は思考を停止した。そんな響歌を見やり、目を細めると禾生は手元の端末を操作して言った。

「私は君達二人のことを高く評価している。本来ならば君らの階級では閲覧の許可されない機密情報だ。私達の信頼関係において見せてやる……他言無用だぞ」

この局長は自分を笑わせようと画策しているのだろうか。自分と禾生の間に、信頼関係なるものがあったのかと響歌は内心驚く。気乗りはしないが、折角だ。吸収できる情報は全て吸い尽くして帰ろうと、彼女も宜野座の側で機密情報とやらを記憶する準備をした。

映し出された内容に隣から息を飲む気配がする。それは、とある男の逮捕記録だった。標本事件の主犯、藤間幸三郎。身柄を確保したのは2係、犯罪係数の計測による逮捕ではなく、物証と自白による逮捕。その内容に宜野座が抗議の声を上げた。無理もない、未解決だと思われていた事件が解決済みだったのだ。前のめりになる彼の半歩後ろで、響歌はいよいよ腹を抱えて床に転がりたくなった。まさか真実の方からやって来てくれるとは予想外。両手を広げて迎えよう。

「彼の犯罪係数は、規定値に達していなかったんだ。我々はこうしたレアケースを免罪体質者、と呼んでいる。サイマティックスキャンの計測値と犯罪心理が一致しない特殊事例だ」

脳に刻むように響歌は復唱する。形の良い唇が免罪体質者、と紡ぐ。声音は嬉々として、その瞳は溢れそうなほどに見開かれる。さらに禾生は続けた。その特異体質は、200万人に1人の割合で発生するらしい。響輔もまた、そこに位置している。その確率は何を以って割り出された数値なのか。正しい数字なのか甚だ疑問だ。仮にその確率が正しいとすれば、今この国にその免罪体質者は単純計算で6名程しかいないことになる。しかし、藤間幸三郎、槙島聖護、そして羽賀響輔。つまり響歌達はすでに、3人の免罪体質者と相見えている。素晴らしき遭遇率だ。

「藤間幸三郎はどうなったのです?」

宜野座が問うた。脳内で嘲笑しながらも、響歌は全く表情は変えない。雑賀ですら、プロファイルできないだけのことはある。黙ったままの響歌に探るような視線を投げてから、禾生が答えた。

「行方不明、と公式には発表されているわけだが…私もそれ以上のコメントをここで述べるつもりはない。ともあれ重要なのは、彼の犯罪による被害者が二度と再び現れることはなかった、という事実のみだ」

完璧なシステムの欠陥は、人間の手で覆う。欠陥がある時点で完璧とは言えないが、禾生が言うにはシステムとは完璧な運用よりも完璧だと信頼されることの方がより重要らしい。欠陥は、国民の目に触れなければ欠陥ではない。詐欺もいいところだ。自分達はその傷を必死に隠す役目を担っている。

「彼はただ、消えたのだ」

人間が消える。神隠しじゃあるまいし、そんな芸当がドミネーター以外にできるものか。響歌は後ろで組んだ手を爪が食い込むほど強く握る。そうでもしないと、衝動を抑えきれそうになかった。今この時も心穏やかに通りを往来している魚達に知らせてやりたい。喉が潰れそうなほどの大声で『お前らがいるのは、汚い海の中なのだ』と。循環しない海は汚れだけが沈澱していき、いずれ魚をも殺す。

「禾生局長。報告書については、内容を差し替えた上で再度提出いたします。お話は以上でしょうか」
「・・・槙島聖護の身柄を確保しろ。ただし、殺すな。即時量刑、即時処刑はシビュラあっての制度だ。この男を捕らえ、本局にまで連行すればいい。槙島聖護は二度と社会を脅かすことなどなくなる。藤間幸三郎と同様にな。しかし、意外だよ。君は、報告書を修正する必要など無いと、そう言うと思っていたのだがね」
「私は存外、素直で従順な人間ですよ。自分の不利益にならない限り、マリオネットを演じましょう。それでは、これで失礼します」

響歌は別に、全世界にシュビラの醜態を公表したいわけではない。ただシビュラには人生を委ねる価値などないことを、自分自身に証明したいだけだ。報告書の内容など、どうでもいい。厚生省の記録に残らなくとも、この脳内に記憶されている。20年前のあの日のことも、今日ここで聞いたことも全て。彼女が死なない限り、たとえ巫女でも、その記憶は消せない。

「君の言う不利益になるとは…響輔かれに危害を加えた場合、ということかね」

出て行こうとする背中に禾生が尋ねる。人の感情を大雑把に喜怒哀楽とすれば、響歌のそれは喜と楽が8割を占めている。そして次に怒だろう。怒りが湧き上がる時というのは、とても限定的だ。数少ない大切な存在が傷付けられる時である。彼女は自分をどうしようもないエゴイストだと、かつて降谷に語った。それに間違いはない。しかし、精神の安寧が保たれる限りは決して手放しはしない。

「何も出来はしないでしょう。あの人を捕らえる理由も、裁く理由も、この国には無い」
「しかし君の報告書を読む限り、彼は槙島聖護と行動を共にしていたようだが」
「ええ、仰る通りです。ですが藤間の件を先例とすれば、物証と自供が揃って初めて逮捕に至ったと推察します。そのどちらもない状況で、一体何を以ってあの人を拘束するのでしょうか。もしや藤間以外で物証も自供もなく逮捕された例があるのですか、それとも私が知らないだけで、彼を捕らえられるほどの何かを局長は握っておられるのでしょうか。ならば是非、今ここで、ご教示願いたいですね」

恐ろしい女だ。宜野座は改めてそう思った。言葉が丁寧なだけで、要約すれば『出来るものなら、やってみろ』だ。完全に煽りにきている。この時の宜野座には会話の中に出てきた"彼"が誰を指すのか分からなかったが、会話の内容よりも場の雰囲気に神経をすり減らしていた。彼が止めるべきか否か逡巡していると、禾生が笑う。

「君は本当に弁が立つな。仕事など抜きにして、より様々な事柄について議論を交わしたいところだ」
「折角のお誘いですが、優先順位というものがありますので。残念ながら、局長との討論が優先される確率は限りなくゼロに近いかと思われます」

そう言って優雅に一礼すると、彼女は局長室を出て行った。未だ胃を痛める宜野座の耳が微かな笑い声を拾う、声の主は禾生だ。愉快そうな様子に、宜野座は戸惑うしかない。

「宜野座君。同僚の目から見て、彼女は監視官として優秀だと思うかね?」
「……彼女の素質は、自分の物差しではとても測り切れません。ですが、シビュラが選んだのですから、その素質は証明されているはずです」

宜野座は正直に返答した。響歌が監視官に向いているか。正直言って、そうは思わない。彼女は決して正義感の強い方ではないし、倫理観も普通と違う。何より、刑事という仕事をしながらも道中を楽しむような人間だ。自分にはやろうと思ってもできない生き方をしている。そもそも何故、刑事を志したのか見当も付かない。異次元にでもいるかのように、手を伸ばすことすら躊躇してしまう、宜野座にとって彼女はそういう存在だった。

「君と彼女で何が違うのか教えてやろう。彼女は、疑うことが得意なのだよ。この安寧の中で、何事にも理由付けをする。息をするように『何故』を唱え、答えがない場合、割り出さなければ気が済まない。信用するのは自身のみ。現代では珍しい懐疑心の塊のような人間であり、尚且つその生き方を享楽している。なかなか稀有な性質だよ。安心したまえ、あれは先天的なものだ。努力で身に付けられるものではない」

疑うことに関しては自分もそれなりに得意分野だと、宜野座は思う。彼女の場合は、その対象が壮大と言うことだろう。本来なら、疑ってばかりいれば宜野座のように心が擦り減るのが普通だ。最悪の場合、犯罪係数にも影響する。しかし禾生の見解によれば、彼女は疑うという行為を息をするのと同じように実行している。生命維持活動で犯罪係数が悪化することはない、ということだろう。狡噛が響歌を未知の存在と評したことに、宜野座は今更ながら納得した。

 - back - 

に痺れた!