永久的運命共同体

一方で響歌は、エレベーターの扉が閉まるのを合図に肩を揺らし笑っていた。『さあ、拾うがいい』とでも言うが如く、真実が次から次へと降ってくる現状に、とても無表情ではいられない。

「はは、ボーナスステージかな。肥えろ肥えろ!もっと大きくなぁれ!」

歌うように言いながら、エレベーターを降りた。軽快な足取りで特別対策室へ戻ると、席に座り新しい菓子の包みを開く。やけに上機嫌な様子に、部下達は怪訝そうな表情を浮かべた。

「あ、赤井さん。今晩、お邪魔してもいいですか?」
「……ああ、別に構わない」

笑顔で響歌が問うと、赤井が頷く。何事もなく業務に戻る二人に降谷は頭を抱えたくなった。お邪魔するとはつまり、部屋に行くということだろう。いい歳した男女が同じ部屋に集まってやる事など一つだと、普通なら考える。しかし生憎、彼らは普通ではない。降谷が突っ込むか否か迷っていると、その百面相に気が付いた赤井が声をかけた。

「どうした、顔色が悪いぞ」
「誰の所為ですか!!」
「赤井さん、何かしたんですか?」
「いや、特に心当たりはない」

真顔で返答する宿敵に、降谷は盛大に溜息をつく。認めたくはないが、出来の良い頭を持っているくせに、こういう所はとことん鈍い。相方である彼女も鋭いわりに、空気を読もうとしない節がある。

「響歌さん、いいですか。こいつは貴女の相棒である前に男なんです。そんな気軽に部屋を訪ねるなんてお勧めしません。僕が知らないだけで、貴女がこの男をそういった対象として見ているのなら言うことはないですが、もう少し警戒心を持つべきだと思います」

一息で降谷がつらつらと説教するのを、響歌は虚をつかれたような顔で受け止めた。全く響いていない様子に、降谷はどうしたものかと顔を顰める。一方で赤井は、黙々と目の前の仕事を捌きながら会話を聞いていた。降谷に対する呆れ半分、彼女の答えに対する興味半分といったところか。

「それは…考えたことがありませんでした。うーん、降谷さんは自分の一部を警戒したりするんですか?」
「は……」
「くっ、はははは!一本取られたな、降谷くん」

口を半開きにする降谷の肩を叩きながら赤井が笑う。砕けたような表情に、響歌は珍しいなと思いながら、今の発言に笑われる要素があっただろうかと小首を傾げる始末だ。彼女は至極当然のことを言ったつもりでいた。7年、いやもう8年前になる。あの日から赤井は響歌の一部だ。物理的に離れることはあっても、共に思考し、歩んで来た。赤井が牙を剥くことなど、彼女はただの一度も想像したことはないのだ。先を行っていた信頼関係は、いつの間にかそれを追い抜いて、今や赤井は最も身近でかけがえのない存在だ。彼の反応を見るに、そう思っているのは自分だけではないらしい。胸の高鳴りを感じ、響歌は小さく笑った。

「うるさいっ、気安く触るな!」

馴れ馴れしく肩に触れてくる左手を、降谷は勢いよく払う。シャーッと怒る様子は、さながら猫だ。最近では、赤井も上手く対応しているように見える。ほんの一瞬でも、こうして誰かと笑い合う瞬間が自分に訪れるなんて、考えもしなかった。一人で生きていけないほど弱くはない。強がりではなく、響歌は本心からそう思っている。ただ、大切な誰かが隣にいてくれることで、人生が少しだけ色づくだろうことも理解している。それでも、望んではいけない。一度色を付けてしまったら、たとえ死に別れてもそれは付き纏う。

「(それなら私は、ずっと真っ白なままでいい)」

−−−−−

その夜、響歌は言葉通りに赤井の自室を訪ねていた。机を挟んでソファに座り、出されたコーヒーを口に含むと深呼吸を一つ。

「随分と面白い話が聞けたようだな」
「分かります?もう局内中に響く位の笑い声を上げそうでしたよ。我慢し過ぎて頬の肉が痛いです。一からお話しますね。あ、ちなみに他言無用だそうです」

声を弾ませて、とんでもないことを言う。そこまで物騒な話なのかと半ば呆れながら、他言無用の意味を分かっているのかと考えて、ふと気付く。そして、喉を鳴らし笑った。己の一部に明かすのは何も問題ないということだろう。楽しそうで何よりだ。

それから約一時間、響歌は局長室での話をそっくりそのまま赤井に話した。全てを共有する、その言葉通りに。禾生、それから宜野座と交わした会話を淡々と復唱していく。会話の内容と、嘲笑すら浮かべて話す響歌の様子に、赤井は高揚感を覚えた。簡単に言えば、ワクワクしている、だろうか。膨れ上がった疑念がもうすぐ爆発する時がくる。待ち遠しくて堪らないと、そう思う自分が不思議だった。赤井自身はシビュラを疑ったことはない。潜在犯に認定されたことにも、さほど疑問は抱かなかった。清廉潔白とは縁遠い自信があったし、幸せを詰め込んだような人生を歩んで来てはいない。だからこそ最初は、巫女の仮面の下を覗こうとする彼女にほんの少し手を貸す、それだけだったはずだ。それが今や、赤井の心はその瞬間を共に喜ぼうとしている。

「変わるものだな」

小さく呟く赤井に、響歌は瞬きを繰り返す。変わったのか、それとも戻ったのか、自分でもよく分からない。子どもの頃は他と同様に無邪気な所もあったのかもしれないが、物心ついたときには既にどこか達観していた自覚がある。崖の上を走り抜ける様なスリルを味わう、自分にそういう気質があることに今更気付いた。何事も楽しむということを、彼女は大人になっても忘れていない。普通なら世渡りが上手くなり、自己を抑制する人間がほとんどの世界だからこそ、その姿は眩い光となって、周りの者達を魅了する。

「免罪体質者、か」
「何の捻りもない呼称ですよね」
「分かりやすくていいじゃないか。ドミネーターを握る資格を持つ俺達でさえ知らされていなかった事実。社会というのは闇深いな。響輔かれもそうなのか?」
「……分かりません。お話した通り、犯罪係数は計測できませんでしたから。でもあの人の言葉を信じるなら、そうなんでしょうね」

あの日、響輔と邂逅したことを、響歌は赤井にだけ既に話していた。その表情に影が落ちるのを見て、赤井は目を細める。そんな顔をさせるのは響輔だけだろう。未だ見えたことのないその男に少しばかり複雑な感情を抱く。心のどこかで、解放してやってくれと感じてしまう。姿を消して5年経つにも関わらず、彼女の中で彼の存在は色濃く残っている。「彼はお前の枷になっているのではないか」と、尋ねてしまいたくなる。狡噛や宜野座を遠ざけようとするのも、その二の舞になることを恐れているからだろう。いくら強いとは言え、限界がある。囚われるほどその美しい心に亀裂が入り、いつか崩れてしまうことが赤井は堪らなく恐ろしかった。巫女よりも響輔の方が、彼女には毒だ。

「どんな結末になっても、俺は俺の役目を果たす。もし響輔かれの存在が邪魔となるなら、俺は迷わず引き金を引くぞ。お前に恨まれることになってもな」
「たとえ貴方があの人を殺したとしても、私は恨んだりしませんよ。それはきっと、約束を守る為の選択でしょうから。なら私に、貴方を責める資格など無いです。でもその時は、一緒に花を添えてくださいね。それに・・・私には狡噛のような生き方はできません」

少しだけ声音が沈んでいるように聞こえるのは気のせいではない。自分では気付いていないのだろう。狡噛のことを語るときの彼女の声は、憧れと切なさをない混ぜにしたような音色をしている。しかしそれも、赤井だから分かるほどの些細な変化にすぎない。

「狡噛君の生き方を否定するつもりはない。俺も似たような道を歩んだ……いや、歩みかけた。だが、はっきり言おう。お前には似合わない。恐らく、狡噛君も同じことを言うぞ。お前が呑まれてしまえば、俺も、そして彼も、今度こそ完全に闇の中だ」

平坦な道筋ではなかったし、長く闇に身を置いてきたせいで呑まれかけていた。狡噛のように、深淵だけが赤井を支える全てだった。前に進んでいるつもりでいて、結局ずっと闇の中を徘徊している、そんな感覚。そこに現れたのは神でも天使でもない、怪物だった。見る者が見ればその姿は禍々しく、ひどく歪なのかもしれない。しかし8年前のあの日、赤井の瞳に映った彼女はむしろ逆。例えるとすれば、月だ。深い暗闇の中で、いつもそこに在り、何処にいても自分を照らす光。ロマンチストじゃあるまいし、とても口にできはしないなと赤井は苦笑する。

「私には……っ、命綱を握ることはできません!」

語気を強めそう言い、響歌は顔を歪めた。身体を震わせた勢いで、机の上のカップが音を立てて倒れる。珍しく感情を露わにする彼女とは正反対に、赤井は表情を変えなかった。宥めも責めもせず、カップを元に戻す。一部のはずなのに、自分だけが駄々をこねる子供みたいで、響歌は小さく謝罪した。俯いたままの彼女を見つめ、赤井は口を開く。

「救おうだなんて思わなくていい」

聴こえた声があまりに温かくて、響歌はきゅっと下唇を噛んだ。容易く手放せたら楽だったのだろうか。降谷に言った通り自分はそういう人間だと思っていたし、それが自分の強さだと信じていた。人間味を持ってしまったら、自分は弱くなる。普通の感情が堪らなく怖かった。なのに、こんなにも離し難い。異常という名の武器を取り上げられ、普通という名の宝石を与えられた気分だ。

「残酷なお願いですね。私が堕ちれば貴方も狡噛も奈落行きだって、さっき自分でそう言いましたよね。それを理解しながら顧みることを許されないなんて、拷問じゃないですか。他人の手なら振り払えますよ。でも、貴方達は他人じゃないっ・・・幻滅しましたか。ここにきて、利己より利他を優先しようとしているんですよ、私は。いっそのこと、笑ってください」

くしゃりと前髪を撫ぜながら、響歌は声を震わせる。唇から微かに漏れた息が、空気を揺らした。救おうとしなくていい、それは紛れもなく赤井の本心だ。そして、彼女が堕ちれば自分もまた闇の中だと思っているのも本心。狡噛の答えは、正直分からない。ただ彼は響歌が自分を顧みることを喜ばないだろうと、そう思った。直走れと、そう言うに違いない。

「自覚はないだろうが、他人に与えることができる者とそうでない者、お前は前者だ。だがそれは、お前の意思で与えられるものじゃないんだ」
「仰っている意味がよく分からないです」
「俺に言えることはただ一つ、信念に従え」

思考することが嫌いな響歌が、必死に答えを導こうとしている。持ち合わせている知識を総動員しても、彼女には赤井の言わんとしていることが理解できなかった。彼女の信念−−−己を捨てないこと、それを貫くことで彼らに何を与えることができると言うのか。響歌は、この時初めて赤井を遠くに感じた。

「小さいな」

机の向こうから、赤井の大きな手が伸びてくる。長い指が、膝の上で握られた響歌の手に触れた。小さい、そんなことは分かっている。大切なもの達はこの手では持ちきれず、指の隙間から零れてしまう。

「この手は、救いの手ではない。伸ばさなくていい。いいか、響歌。お前がお前であること、ただそれだけで十分なんだ。その事実が、俺を生かす。不安なら、後で狡噛君にも訊いてみろ」
「なんですか、それ……私に神になれと?」
「嫌そうだな」
「残念ですが、私は私以外にはなれません」
「聞いていなかったのか、それでいいと言っている」

神と言う単語を発することすら不愉快らしい。赤井は
思わず喉を鳴らし笑ってしまった。反論したつもりでいるのだろうが、ただの正解だ。重ねていた手を離して髪を撫でてやれば、見たことない間抜け面を晒す彼女に、赤井はまた肩を揺らした。

「楽しく踊れ。好きに奏でろ。面白ければ笑え。心も体も生き生きと、それが響歌・ルートヴィヒだ。神だろうが化け物だろうが、好きに呼ばせておけばいい」
「っ、赤井さんって本当…私を甘やかすのが上手いですよね。要するに、前見て走れってことですか」

嗚呼、この瞬間だ。赤井は肌が粟立つのを感じた。その瞳に宿る焔が、この心を焦がす。堪らない。月光は太陽の光。たとえ紛い物でも、太陽に見放された者達にとっては唯一無二の光だ。「置き去りにしてやりますよ」と笑う響歌を眩しそうに見つめ、赤井もまた口角を上げた。突き出された小さな拳に倣い、左拳を合わせる。

「ところで、誰が私を化け物って呼んでるんです?」
「……さぁな」

−−−−−

2113年1月2日、朱から皆に話があるということで、響歌は赤井と降谷を伴い分析室へと向かっていた。室内には狡噛を除いた一係の面々、そして唐之杜の姿がある。響歌達三人が揃ったと同時に朱が口を開いた。

「メモリー・スクープを行おうと思います」
「ああ、その手があったか!ヤバいな、全然思い付かなかったよ。確かに早くて確実だね」
「狡噛さんには黙ってて下さい」
「待て、常守。まさか君がやるのか?槙島の顔なら響歌も見ている。やるなら君より彼女だ」

メモリー・スクープは記憶内の視覚情報を読み取って投写するというものだ。強制的に記憶を追体験させられることになる。しかも今回の場合、友人が殺される場面だ。精神への負担は相当なものになるだろう。確かに宜野座の言う通り、響歌の方が適任だ。特に異論はないため、本人も朱の方に視線を向ける。

「いいえ、私がやります」
「朱ちゃん。いくら色相美人だからって、やめておいた方がいいって。俺らみたくなりたいの?」
「縢の言う通りです。他に手段があるのに、危険を冒すなんて反対です」

きっぱりと朱が言うと、縢と六合塚が異議を唱えた。しかし全く譲る気はないらしい。じっと宜野座を見つめ、頷くのを待っている。意思の強さに気押されかけるのをなんとか堪え、宜野座は響歌に視線を送った。

「何を言っても無駄だよ。たぶん、理屈じゃない」
「なっ、お前まで何を言うんだ!」
「なんとなく分かるから。誰かに頼れば済むとしても自分の手でやり遂げたいこと、なんでしょ?」
「はい」

ほらね、と肩をすくめ宜野座を見た。いつだって理解のしがたい存在だが、正気の沙汰とは思えない。危険だと分かりきっていて、しかも他の道があるのだ。顔を歪める宜野座から視線を逸らし、響歌は朱の瞳を見つめた。

「朱ちゃん、強くなったね」

柔らかく微笑む顔は初めて見る表情だ。何か含んだような笑顔ではなく、どこか誇らしげに目を細める。形容し難い思いが胸を突き上げてきて、朱は思わず俯いた。瞼の奥が熱い。きっと一生交わらないであろう道を歩く彼女に認められたことが堪らなく嬉しかった。

「涙は駄目だよ、心で泣く術を学ばないと。ただ体内の血中濃度が上がるだけで良い事ないからね」

クスッと笑い、机に置いてあったペットボトルを手渡す。皆が未だ心配そうに朱を見つめる中、口を開いたのはまたも響歌だった。

「お互い辿り着けるといいね、望む場所に」

それはきっと、朱とは全く違う場所なのだろう。響歌に見えているものは、朱には見えない。この空間でそれが可能なのはたぶん一人だけだ。彼女の理性であり右腕である彼だけが、同じ景色を見ることを許されている。たとえその景色が地獄でも、彼らは肩を並べて笑うのだろう。

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に痺れた!