攻略不能な怪獣

「お疲れ様でーす。宜野座、例の一件のことで訊きたいことがあるんだけど……チーズケーキ!!」

ダンッと机に両手を叩き付け、響歌が叫んだ。衝撃で宜野座の机に置かれていた皿が音を立てる。隣にいた朱は肩を揺らし、執行官達も視線を向けた。今日は全員揃っている。

「いいな〜、一口頂戴!」
「なっ、駄目だ」
「このケチケチメガネ」
「眼鏡は関係ないだろ」

フォークに伸びてくる手を宜野座が避ける。とてもいい大人同士とは思えない攻防を繰り広げた挙句、譲らない宜野座に響歌は口を尖らせ幼稚な言葉を吐いた。彼の手には白い皿、その上にはレアチーズケーキが鎮座している。

「あの〜、もし良ければ食べます?まだあるんで」

背後から聞こえた声に振り向けば、縢が控えめな笑みを浮かべ机を指さしている。恐らく元はホール型だったのだろう、そこには1/4ほど残されたチーズケーキがあった。目を輝かせて近づいて来る響歌に、流石の縢も引き気味になる。

「手作りですか?」
「まあ…なんで、監視官様の口に合う保証はないっスけど。それでもいいなら、どうぞ」

保険を掛けつつ、一切れ皿に乗せ響歌に渡す。早速フォークを入れ、チーズケーキを口に運ぶ。自分の作ったものが小さく綺麗な唇に吸い込まれるのを見て、縢は妙な気持ちになった。「不味い」とは言われないだろうが、狡噛に厄介だと評されるような女だ。何を言われるか気にならない訳がなかった。

「ん〜……美味しい!!」

目を見開き小躍りする響歌に、縢は胸をホッと撫で下ろした。彼女の様子に場の空気が和む。やはり周りを巻き込む人だなと、朱は思った。

「これはうちの降谷さんと良い勝負かもしれません」
「降谷って……あの金髪の人っスよね?」
「ええ、そうです。それにしても人は見かけによりませんね。貴方も彼も、料理男子にはとても見えない」
「まあ潜在犯なんで、やれる事が限られてますし」
「あらゆる事をなんとなくやるより、一つの事を貫ける方が何倍も素敵ですよ」

皮肉のつもりで言ったのだが、それを躱すどころか打ち返される。同情の色など皆無な瞳に、縢は口をつぐんだ。コミュニケーション能力には長けている方だと自負しているが、それを駆使しても打ち解けられそうにないほど目の前の女性は手強い。

「お返しに今度何か作ってきますね」
「料理…するんですか?」
「こう見えて結構上手いんですよ。花嫁修業として養父に叩き込まれましたから」
「二度と日の目を見ることはないスキルだな」

花嫁と言う単語に狡噛が鼻で笑う。その頭に光の速さで拳が飛んだ。自称乙女には些か刺さる一言だったらしい。叩かれた箇所をさする彼に、征陸が余計なことを言うからだと窘める。

「そうだぜ、コウちゃん。こんな美人なんだから、貰い手はいくらでもいるに決まってんじゃん」
「お、分かってるね。まあ、いざとなったら赤井さんに貰ってもらうから大丈夫」
「まるで了承を得ているみたいな言い草だな」
「てか、潜在犯と一緒になりたいなんて言う人、そうそういないっスよ」

コミュニケーション能力に長けているのは縢だけではない。久しぶりに自分を"美人"と評してくれた彼の肩を、響歌は軽く叩いた。呆れたように狡噛が返すと、そもそも正気じゃないと縢がまた皮肉を言う。

「潜在犯であることは、判断材料にはなりません。一緒にいて心地がいい、それだけで十分です……ところで、もう一切れ貰ってもいいですか?」

あまりに自然に言うものだから、周りは咄嗟に納得してしまいそうになる。その中の一人であった宜野座が立ち上がり、無言で部屋を出て行く。機嫌の悪さを全身から放つ彼の背中を、響歌は二切れ目のチーズケーキを食しながら見送った。

「今の…本気で言ってるんですよね?」
「ええ、私は決して嘘は言いません。随分と怒っていますね。何を思っているか当てて差し上げましょう。能天気な健常者に何が分かる、クソ野郎…ってところですかね。私の言葉は戯言に聞こえましたか?」
「っ…いや、苛ついてるのは俺自身に対してです。こちとら5歳の時から潜在犯やってるんで、そう思うはず…と言うか、思うべきなんスよ。なのに、あんたと話してるとドス黒い感情が段々萎んでいく気がする」

普段の縢なら吐くだろう台詞を、響歌は笑いながら述べてみせた。しかし、戯言に聞こえたかと問う瞬間、スッと表情が消える。黒く静かな瞳に、縢は心が萎縮するのを感じた。それでもなんとか言葉を紡ぐ。同情や偽善を挟まずに、潜在犯を蔑視しない人間。潜在犯だから悪なのではない。彼女は悪の定義を自分で決め、それに基づき物事を判断している。咄嗟に止めてくれと叫びたくなった。こういう人間が傍にいると、世界を憎むことが途端に難しくなる。

「それは宜しくないですね」
「宜しくない?普通、逆だと思うんですけど」

朱に対してそうだったように、数は限られているにしても選択肢を与えられている側の人間を見ると、負の感情が浮かんでくる。自分は執行官という社会活動を許されているだけマシだが、それすら許されない潜在犯は大勢いるのだ。隔離施設にいた時に比べれば、いくらか丸くなったとは言え、根っこには未だに幸せそうな奴らに対する嫉妬や憎しみが居座っている。それらをいとも簡単に削がれてしまった、その事実を認めるだけでも癪なのだ。だのに今度はそれを宜しくないとまで言われ、思わず語気が強くなる。周りの視線が集まるのを感じてなお、縢は響歌と視線を逸らそうとはしなかった。キリキリと張り詰める空気に、あろうことか彼女は笑う。綺麗になった皿を机に置くと、歌うように語り出した。

「悔しさ、憎悪、嫉妬…どれも捨ててはいけないものですよ。抗うことを止めてしまったら終わり、沈んでいくだけです。貴方は、身体的自由を奪われて、心までシビュラにくれてやるつもりですか?」

スッと響歌が縢の胸を指差した。落とされた問いが、部屋に反響し消える。朱は縢がいよいよ怒鳴り散らすのではないかと気が気ではなかった。一方で他の執行官達は、その問いを自分に投げられたものとして捉えていた。抗え、と焚き付けられる気分になる。朱の心配を他所に、縢は笑った。

「ほんと…なんなんスか、あんた」
「自己紹介がまだでした、響歌・ルートヴィヒです」
「いや、それは知ってますって」

優しさを装って傷口に触れてくる奴、ゴミに向けるような視線を向けてくる奴。そういう人間を何度も見てきた。だがここで過ごして、信じてもいい人間も極小数いることを知った。彼女はその中でもさらにマイノリティだ。

「チーズケーキ、ご馳走様でした。すごく美味しかったです。貴方の作ったものが、誰かの血となり肉となる。とても素晴らしいことです。人を生かす、それはシビュラの専売特許じゃないんですよ・・・さて、今日はこれで失礼しますね。宜野座に用があったんですけど、どうやら臍を曲げられてしまったみたいですし。ああ、そうだ。先ほど言った通り、林檎があるので来週にでも作ってきますね、アップルパイ。それとも、私が作ったものなど食べられませんか?」
「いや、食べます。お手並み拝見させてください。せめて、飲み込めるような出来でお願いしますよ」

挑発する縢に、響歌は心底楽しそうに笑った。そして軽い足取りで出て行く。静寂の戻った室内で、縢は大きな溜息を吐き出した。

「言っただろ、あいつはお前の手には負えない」
「聞いたよ。確かに聞いたけどさ、あそこまでとは思わねぇじゃん、普通。綺麗な顔して、中身は化け物かよ。機嫌悪いギノさんの方がよっぽど可愛げあるぜ」
「気に入らないなら、俺にしたみたいに喧嘩を売ればいいだろ。まあ、油断はしない方がいい。あいつ、絶好調の時は俺より強いぞ」
「……マジで?」

何故か誇らしげに狡噛が笑う。口元が引き攣るのを感じながら、縢は彼女が去った方を見つめた。先駆者の如く、真っ新な道に足跡を付けていく。楽で平坦な道を行けるのに、それを敢えて逸れて獣道を行く変わり者。嗚呼、どうしてここには、こんなにも愉しい奴ばかりが集まるのだろう。

「中途半端にちょっかい出さない方がいいわよ」
「あれ…クニっち、話したことあんの?」
「意図せずね。好きになれそうとか言われた後、殺されかけた」
「なにそれ、どういう状況!?」

縢が腹を抱えて笑う。そもそも、監視官が執行官に対して好きになれそうだなんて普通は言わない。と言うより、監視官でなくとも言葉にはしないだろう。あの女性を一言で説明するのは、たとえシビュラでも無理そうだ。

「彼女、ギノさんとも仲いいよね。そこんとこ不思議なんだけど。だって正反対じゃん。どう考えても、ギノさんが苦手なタイプでしょ」
「苦手とは少し違うな。超常現象ってところじゃないか。響歌は他人の考えに流されない。その"他人"にはシビュラも含まれている。だから、潜在犯を真っ向から否定もしない。まあ、クソみたいな潜在犯なら、ギノと並んで貶すだろうな。特異なのは、クソみたいな健常者にも同じ反応をするところだ。尊敬できる相手には称賛を、そうじゃない奴には軽蔑を。素直なんだよ、あいつは」

そう、まるで子どもだ。敬遠されることなど気にせずに、己の気持ちに従う。たとえ周りが神と崇める対象にですら、戸惑うことなく銃を向けるのだろう。むしろ、とても人間らしいと言えるのかもしれない。

「アメリカに行く少し前か…廃棄区画での仕事を片付けた後、あそこの奴らがとっつぁんに酷い言葉を浴びせてきたことがあってな」
「ああ、あの時ね。あれには流石に俺も肝が冷えた」
「なになに、もしかしてぶん殴っちゃったとか?」

廃棄区画には表に出てこないだけで、多くの潜在犯がいるとされている。彼らにとって監視官の下で同じ潜在犯を狩る執行官は、裏切り者の犬なのだ。狡噛の話に征陸は笑って頷く。ベテラン刑事の肝を冷やすほどの出来事を想像し、縢はワクワクしながら尋ねた。

「手は出してないが、似たようなもんだ」
「まあよくある暴言だったし、言われた側からすりゃあ、大したことなかったんだが……お嬢のあれを見た後に、正直にそうは言えなかったなぁ」
「んで、結局何したのさ?」
「目、だよ」

自分の右目を指差しながら征陸が笑う。訳が分からず縢は戸惑いを見せる。拳ではなく目で制圧したとでも言うのか。確かに彼女の瞳には、心を揺さぶられるような効力がある。まあ瞳だけに限ったことではないのだが、真っ直ぐにこちらを覗き返してくる様は、まるでそう−−−深淵の如く。

「それまで唾を吐き散らしていた奴らが急に静かになるもんだから、俺らも足を止めたんだ。そしたらお嬢が今にもそいつを殺しそうな目で見ててなぁ。気の毒に、虎の尾を踏んじまったわけだ」
「目からエリミネーターって感じだったな。赤井さんが止めてなかったら、間違いなく鉄拳制裁だった」

愉快そうに語り合うふたりに、周りは何とも言えない顔をする。全く笑えない。いくら廃棄区画の住人と言えど、監視官が一般人に手を出すなどあってはならない。赤井が手綱を引かなければ、彼女は監視官の任を解かれていただろう。それでもきっと、笑って去って行ったに違いない。彼女は何処にいようが、己の目的を見失うことはないのだから。

「分かってはいたけど、ぶっとんでるよな。でもさ、流石にいつも向こう見ずなわけじゃないっしょ?」
「基本は欲望に忠実な奴だ。それを律するのが赤井さんの役目。しかし考え無しってわけでもない。たまに全く考えもつかなかったことを言うし、視点が独特なんだ。頭は良いが考えるのが嫌いで、理論と直感の両方を持っている。おまけにその直感は妖怪並みに鋭いときた。あれで見た目も化け物なら納得だが・・・、
「確かに!でも絶世の美女ってわけでもないよね。まあ、美人だけどさ」

何も言わずに微笑まれたら、縢は落ちる自信がある。しかし皮肉にも彼女が言っていた通り、人は見かけによらない。奇抜な生き方も相まって、その姿はより美しく見えるのかもしれない。

それからきっかり1週間後、響歌は宣言通りやって来た。スキップしながら扉をくぐると、一直線に縢の側まで近付いて、ウェイトレスの如く手に持っていたものをその机に置いた。ご丁寧にクロッシュを被せられた大きな皿に、周りも興味本位で覗き込む。得意顔で響歌がそれを開ければ、皿の上には光沢を放つアップルパイが鎮座していた。

「お待ちどうさまです、どうぞ召し上がれ」
「凄い…あの、私も頂いていいですか?」
「どうぞどうぞ。ああでも、最初は彼に」

目を輝かせる朱にそう言ってから、縢と視線を合わせる。指名された本人は、挑発的な瞳を前に嫌な汗が背中を伝うのを感じていた。伊達に料理をしてきていない。見た目は合格点。匂いも、ナイフを入れた時の音も、全てに食指が動かされる。三角に切られたパイにフォークを伸ばし、一口サイズをその上に乗せた。

「んじゃ、いただきます」

見られながら食べるのは些か緊張する。ゆっくりと口内へと放り込んだアップルパイを咀嚼して、縢は舌打ちしたくなった。悔しいくらいに美味い。作り手と同じ様に奇想天外な味だったら、指を差して思う存分笑ってやれたのに。彼の表情に対して響歌が浮かべたのは、勝ち誇った笑みではなかった。安心したような柔らかな微笑みで尋ねる。

「美味しいですか?」
「っ…ああ、認めたかねえけどっ!美味いですよ、クソみたいにね!」
「そうですか、それは何より。料理には作り手の心が反映される、養父の口癖です。だから私は、心が荒んだ時には料理をします。そうすると、必ずと言っていいほど出来が悪い。それで少し波打っていた胸の中が静かになるんです。美味しいものを食べたいという願望もまた、心を豊かに保つための材料。貴方に美味しいと言ってもらえて、とても嬉しいです」

心に直接語りかけるような声に、縢はさらに顔を歪めた。知っている。苛々していても、料理をすると不思議と心が鎮まる。美味いと言ってもらえると嬉しい。気付かないフリをしていた喜びを、目の前に突き付けられた気分だ。

「貴方の作ったチーズケーキも、クソみたいに美味しかったですよ」
「そりゃどうも」
「あと一つ、お願いしてもいいですか?」
「……潜在犯にでも叶えられる願いなら」

子どもだな、と自分でも思う。何故かこの人の前では屈服したくない。その感覚には、覚えがあった。中々倒せないラスボス。これはレベリングからやり直しだろう。思わず喉を鳴らせば、響歌も口角を上げた。

「私にも渾名を付けてください」
「は?」

ポカンという効果音が頭を揺らす。これには周りにいた面々もずっこけそうになった。渾名、つまりはコウちゃんやクニっちのように、目の前の女を呼べと言うのか。期待の眼差しでこちらを見つめる彼女に、縢は脳汁を絞り出して考える。そして、呟いた。

「じゃあ…ニッチ」

狡噛は笑う。随分オブラートに包んだものだ。気に入ったのか響歌は満足そうに笑い、踵を返す。その背中を見送る縢もまた、笑っていた。その後、残されたアップルパイは取り分けられ、残さず平げられた。甘すぎないが、もう一口食べたくなる。彼女が言った通り、そこには確かに作り手の心が反映されているように思えた。

ニッチ−−−縢によって付けられたその名は、二度と呼ばれることはなかった。響歌が再び一対一で会話を交わす前に、縢秀星は行方を眩ましてしまう。しかしその記憶は決して彼女の脳から消えることはない。あのチーズケーキがエネルギーとなったように、彼の存在は響歌の心を支える強靭な骨となり、その命が消えるまで息をし続ける。

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に痺れた!