苦しいうちが花

厚生省公安局刑事課−−−シビュラシステムの導入により犯罪が激減した社会において、起こる犯罪を未然に防止、制圧する警察組織。

「そうは言っても、たまたまA判定が出ただけで、ご立派な志は持ち合わせてないんだけどね」

つまらなそうに呟く彼女の名は響歌・ルートヴィヒ。7年前に新設された、公安局刑事課特別対策室所属の監視官である。特別対策室とはシビュラシステム下においてなお発生した、特殊な案件を捜査するための部署。少数精鋭もいいところで、現在籍を置いているのは響歌を含め2人きりだ。しかもそのひとりを4年も海外に派遣するなんて、組織として機能させるつもりがないらしい。大層な名前だけれど、多様な事案を捜査する能力のない監視官の劣等生を放り込む、都合のいい部署なのではないかと疑っている。まあ、目的のために行動できればいいので不満はない。くぁと欠伸をする上司を見て、面白そうに隣の男が口を開く。

「どうした?久々の日本だ、楽しみじゃないのか?」

男の名は赤井秀一。響歌の部下である執行官で、もうひとりの構成員だ。年齢は彼女よりも上だが、立場的には赤井が部下である。

「同期に会うのは楽しみです。ここまで来てから言うのもあれですが、新人が来るんですよ。私は手綱一本握るので精一杯だから、他にお願いしますって言ったのに・・・何故かうちを希望してるみたい。で、今日はその顔合わせってわけです」
「ホー、もう一匹猟犬が増えるということか」
「なんでもかなり優秀な人材らしくて。それなのに、潜在犯認定。赤井さんも、その彼も、私よりよっぽど使えるだろうに。まあ、執行官の適性があっただけラッキー・・・なんて、私に言う資格はないですね」

PSYCHO-PASSとは、人間の精神状態を数値化したものである。また、犯罪係数とは犯罪者となる危険性を表す数値で、一定の犯罪係数を超えた者は潜在犯と呼ばれ逮捕・隔離される。そう、たとえ犯罪を起こしていなくとも。赤井を伴い局長室に向かう途中、見知った顔を見つけて響歌は声をかける。

「あれ、宜野座じゃん。久しぶり〜」

眼鏡をかけた、真面目そうな男は宜野座伸元。響歌と時を同じくして公安局に入局した、刑事課一係所属の監視官である。宜野座は振り向いて、大きく目を見開いた。

「なっ…、なんでここにいる?」
「いやぁ、局長にお呼ばれしちゃってさ。暫く、日本での捜査みたい。明日にでも狡噛と3人でご飯食べようよ。じゃあ、急ぐからまたね」
「おい待て、狡噛はもう・・・っ、

無意識に出た言葉は尻すぼみに消え、眉間に皺を寄せた。今ここで、その事実を伝えるべきか迷ってしまったのだ。視線を戻したときには、大声で叫ばなければ聞こえないくらい彼女は離れてしまっていた。後できちんと話さなければと、宜野座は唇を噛んだ。

「狡噛君のことは、あいつは既に知っているぞ」

急に聞こえた声に肩を揺らして隣を見ると、赤井が立っている。驚きながらも返事をしようとする宜野座から視線を外し、彼も上司の後を追い去って行く。

「そうか、もう知っているのか。いや、当然だな。あれから3年も経っている・・・クソッ」

独り吐き捨ててオフィスへと戻る間も、彼は思い返していた。思考を支配するのは、初めて会った時から異質な同期のこと。シビュラの下に生まれて、自分と同じように険しい人生を歩んできたはずなのに、出来上がった人間性は全く違う。響歌にとっては、執行官も監視官も同じ人間。自分には持ち得ない考え。己の考え方の根本には、切り離せない父親そんざいがあるのは分かっている。それでも情念が湧いてくる理由は、彼女が宜野座の立場であれば、きっと容易く受け入れ理解することができたという確信めいたものがあるからだ。

宜野座と別れ、エレベーターの前に立った。赤井に待つように伝えると、それに乗り込む。目的の階で降りて、真っ直ぐに局長執務室へ。生体認証のドアを抜け自席で微笑む人物に歩み寄った。

「久しぶりだね、ルートヴィヒ監視官。アメリカでの任務、ご苦労だった」
「お久しぶりです、禾生局長。労いの御言葉、感謝します・・・そちらが新しい執行官の方ですか?」

禾生の横に立つ青年を見ながら尋ねる。歳は20代前半だろうか、少し垂れ目で整った顔立ちをしている。すらりと伸びた体躯、褐色の肌に青い瞳。ルートヴィヒなんて姓を持つ自分よりも遥かに日本人離れしているように見える。

「ああ、紹介しよう。彼が明日付で特別対策室に配属になる降谷執行官だ」
「降谷零です。よろしくお願いします、ルートヴィヒ監視官」

新人監視官なら兎も角、局長自ら執行官との顔合わせに立ち会うなど異例だ。公安局のトップなのだから、潜在犯に懐疑的なはずなのに、勘弁してほしい。組織というのは大きくなるほど厄介になる。ある程度の多様性は必要だろうけれど、それなら他の部署の人材補強をすればいい。いくら本人の希望とは言え、今まで赤井とふたりで事足りていたのに甚だ疑問である。優秀な人材なら、尚更こんな小さな組織に置くべきではない。そういう意味では赤井も同じだが、彼を引き抜かれるのは困る。

「(動きづらくなる・・・面倒だな)」

男−−−降谷は響歌の前に立つと、握手を求めてきた。心に渦巻く不平不満を飲み込む。ニコニコと自分に向けられる笑顔を見て漠然と感じたのは、不安だった。こういう仕事の適性があるからか、響歌の勘はよく当たる。そのほとんどが悪い予感で、外れた試しがない。給料は変わらないのに、苦労は増える。やってられないなと心で舌打ちしてから差し出された手を握った。男のくせに滑らかで傷一つない綺麗な手だ。虫も殺せなそうな見た目をして、この指でドミネーターの引き金を引くのだと思うとげんなりしてくる。

軽い挨拶を終え、改めて降谷を観察する。別に盗み見ているわけではないので、凝視である。聞けば、29歳だと言う。20代前半とか思ったことは内緒にしておこう。揺れる金糸の髪を見て、撫でてみたいなと邪な願望を抱く。

「彼には、明日から君達と合流してもらう。ひとつアドバイスだ。飼い犬の手綱はしっかり握っておくことをお勧めする」
「手を噛まれることのないよう、肝に銘じます」

背中に視線を感じながら局長室を出ると、脱力感に襲われる。あの局長と話すだけで疲れるのに、おまけに根拠のない先行き不安に胃が痛くなってくる。顔を歪める上司を見て、赤井が小さく笑みを浮かべながら近づいて来た。

「お疲れだな、響歌。そんなに気性の荒い奴だったのか?猟犬というより野犬か」
「見目麗しいし、人が良さそうな感じではあるけど、たぶん苦手。それに犬って言うより猫かも。図鑑で見たことがありますが、山猫とか豹に近いです。あと、何故か仕事辞めたいって思うくらいには大物」
「猫か・・・なら、手綱を握る必要はないかもしれん。昔は猫を放し飼いにする家も多かったと聞く。首輪くらいは必要になるかもしれないがな」
「ははっ、そうですね。まあでも、楽しまなきゃ損。この仕事を辞める気はないし、ね」

そう、根拠のない嫌な予感。今はこの予感が当たらなければいいと祈るしかない。しかし、自分のいない所で猫認定されているとは彼も思っていないだろう。そんな軽口を叩きながら廊下を歩く。本当は今日行く予定ではなかった一係へ向かうことにした。明日には新人が入ってくるのだから、忙しくなるのは間違いない。ならば、余裕があるうちに顔を出す方がいいだろう。近くまで来ると、中から初老の男性が出てくる。刑事課一係の執行官、征陸智己だ。

「マサさん!」

響歌が声を掛けると、こちらを見るなり顔を綻ばせる。征陸は、彼女が入局したときから執行官をしている古株だ。刑事のいろはを教えてもらったうえ、人として尊敬できる。わしわしと頭を撫でられながら、実の息子よりも自分の方が懐いているのではないかと響歌は思った。

「よお、久しぶりじゃないか。赤井も元気そうだな」
「お久しぶりです。暫く日本にいることになるので、挨拶に来ました」

少し後ろで赤井も軽く会釈をする。すぐに宜野座が出てくると注意されて、不満げに唇を尖らせる。赤井はその様子を一歩後ろで眺めていた。彼も一係の面々とは初対面ではないが、元々お喋りな方ではないし、主人が楽しそうならそれで良い。しばらく会話すると、響歌が誰かを捜す素ぶりを見せる。

「ねえ、狡噛は非番?」
「あいつは非番だよ、部屋にいるんじゃないか?」
「そっか。それじゃあ、顔出してくる!志恩にもよろしく伝えておいて。赤井さん、行こう」

そう言い残すと、赤井と共に足早に去って行く。響歌は別にせっかちな訳ではない。ただずっと、4年前から1度も会っていない彼のことが気がかりだったからだ。自分はまだ監視官だった頃の彼しか知らない。他人に優しく自分に厳しい、洞察力と判断力を兼ね備えた人物だった。それ故に深淵に呑み込まれてしまったのかは、分からない。自分は深淵を覗くような人間ではない。きっと同じ場所には立てない・・・と言うより立ちたくない。なのに理解したいと思うなんて、駄々をこねる子供みたいだ。考えれば考えるだけ苛々するのは、自分にか、社会にか。

「響歌」

名前を呼ばれ、はっと我に返る。考え事をしていたせいで速足になってしまったらしい。だが、彼の足の長さなら難なく付いて来られるだろう。だとすれば、できなかったのではなく、しなかったということだ。赤井は響歌の前まで来ると、視線を合わせる。

「(うげっ、なんか怒ってる。え、なんで?もしかして、ずっと話しかけられてた?それくらいで怒るほど短気だっけ?そういえば、いつにも増して隈が凄い。なるほど、寝不足か)」

そう、頭はいいが、考えるのは嫌いなのだ。勿論、その答えは不正解である。赤井と響歌は、喜怒哀楽が読み取れるくらいには付き合いが長い。この雰囲気は自分を諭すときのものだ。父親が子供にするみたいに、静かな水面に石を落とすように。彼が彼女に声を荒らげたことはない。それでもこの数年間、赤井の言葉が何度も道を示してくれたことは彼女自身が一番理解している。だから一度深呼吸をし、その言葉を享受する準備をした。

「落ち着け、彼は逃げたりしない。執行する前じゃあるまいし、そんな顔で廊下を歩くな。ここに来るまでにすれ違った奴らは全て、道を開けていたぞ。モーゼの再来の如くな」
「…は?」

てっきり怒られると思って身構えていたのに、真顔でそんな事を言うものだから、酷い馬鹿面で間抜けな声を出してしまった。

「(この人、養父さん並にギャグのセンスない・・・)」

脳裏に養父の姿が浮かぶが、慌てて残像を掻き消して
再び赤井の言葉に耳を傾ける。

「お前は彼を殴りに行くのか?会って話を聞く、それだけだ。違うか?」
「いえ、そ、その通りです」
「目的を見失うな。やり方一つで結果は変わる。そんな脆い関係でもないだろうが言っておく。いいか、失ってからでは遅い。これは俺の経験論だが、そんな事はお前なら既に分かっているだろう?」
「……ごめんなさい」

素直に謝罪すると、赤井は満足気に目元を緩める。本当によく出来た部下だと思う。それこそ自分には勿体ない。他の人間の下に就いた方が、その能力を遺憾なく発揮できると思う。もし彼がそう望んだときは、迷わずその首輪を外そう。今はまだ、その時ではない。

狡噛の部屋に着いてチャイムを鳴らしたが、返事がない。どうやら留守らしい。執行官の行動範囲は限られている。その中で狡噛が行きそうな場所といえば、

「トレーニングルームだな」
「ですよねー、非番なのに理解できない」
「そうか?俺は共感できるが」

以前も赤井はよく狡噛のトレーニングに付き合っていた。類は友を呼ぶということだろう。トレーニングルームを覗くと、やはり彼はそこにいた。一区切りついた所のようだったため、名前を呼びながら近付くと目を見開いて声を上げる。

「響歌!?それに赤井さんも・・・帰って来たのか」

どうやら、宜野座から自分達が来ていることは聞いていないらしい。吸っていた煙草を消し、こちらに歩いて来る。その姿を見て、爪が食い込むほど拳を握った。雰囲気、瞳、全てが違う。変わってしまった。胸を支配するのは怒りか悲しみか。心に波風を立ててはならない。忘れられなくなる。

「なるほど。つまり明日からお前も俺の飼い主様ってことか。ギノよりは好きにさせてくれそうだ」
「あくまで私達はサポート役だよ。狡噛は私の手に負えないし、そこまで手が回らない」
「それに、明日からもう1人増えるらしい。俺もまだ会っていないが、中々の大物だそうだ。狡噛君より厄介かもしれないぞ」
「新人が来るんですか?へえ、お手並み拝見だな」

先程まで色々と悩んでいたが、普通に会話できてしまうあたり、やはり自分は良い意味で鈍いのだろう。だが赤井に言われた通り、目的を忘れてはいけない。3年前に起きた事件については調べた。でもそれは、書類の上に記されたこと。

「あのさ、少し話がしたいんだけど」
「・・・ああ、分かった。少し待っててくれ、シャワーを浴びて来る」

頷くと、狡噛がトレーニングルームを出て行く。20分もすれば戻るだろう。近くの椅子に腰を下ろすと、赤井が口を開く。

「俺も自室に戻る」
「分かりました、ゆっくり休んで」
「了解、お前もな」

軽く手を振りながら、去って行く後ろ姿。赤井の存在は響歌の中でとても大きい。執行官だからではなく、人としてだ。それは狡噛も同じ。監視官でなくとも大切な友人。どこまでも自分本位で不平等。シビュラとは正反対の考え。宙を見つめながら、響歌は以前宜野座に言われたことを思い出す。

────必要以上に執行官と馴れ合うな。奴らは犬だ

狡噛は執行官になって変わってしまったのか。宜野座と狡噛はもう友人ではないのか。執行官は猟犬にしかなれないのか。人間でありながら、猟犬でいることは不可能なのか。ぐるぐると答えの出ない問が、繰り返し巡る。顔を歪めて、瞼を上げた。

「思考するのは嫌い。でも・・・何も考えずに、真実に辿り着くことができるわけない。だよね、兄さん」


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に痺れた!