命綱は預けないで

「悪いな、待たせた。ここじゃ人に聞かれるかもしれない。俺の部屋に移動するぞ」

頷いて、その背中を追う。誰かの後ろに立つのは久しぶりだ。監視官という立場上、先行することの方が多い。4年前より広くなった肩幅や厚みの増した身体にふっと目を伏せた。自分が近くにいたら結果が変わっていたのでは、などと傲慢なことを考えてはいない。否、考えてはいけない。己の価値は弁えているつもりだ。たかが・・・監視官に何ができる。

「(心を寄せてはいけない、常に俯瞰的であれ)」

声に出さずに言い聞かせた。自分が普通でないと悟った日から、何度も胸に刻んだルール。狡噛に限らず、その線を超える人間を作ってはいけない。そこまで考えて、響歌は小さく笑う。すでにラインを飛び越えた従兄や赤井の姿を思い浮かべたからだ。これ以上囚われる存在を増やすべきじゃない。一度だけ瞼を閉じ、すぐに前を見据える。屈強な背中に向かって、「ごめんね」と意味のない謝罪をした。無言のまま部屋に着くと、促されてソファに並んで座る。狡噛が煙草に火を点けるのを、ぼんやり見つめた。話がしたいと言ったのは響歌だが、狡噛が先に口を開く。

「新人はどんな奴だ、お前は会ったんだろう?」
「新人って言っても、歳は私達より上だよ。優秀って聞いてるけど私は苦手」
「相変わらずはっきり言うな・・・まあ、お前なら何とかなるだろ」

まだ残っている煙草を灰皿に押し付け、姿勢を正す。どうやら、本題に入る空気を作ってくれるらしい。頭がいい人だから上手く丸め込まれてしまうかもと心配していたが、杞憂に終わったようだ。

「で、話したいことってのは?」
「3年前の事件、調べたよ。狡噛はさ・・・自分のことを猟犬だと思ってる?」
「ああ、今の俺は執行官。獲物を狩る猟犬で、その手綱を握るのがお前やギノの役目だ」
「監視官も狩る側だよ。まだ狡噛が監視官だった頃、宜野座に執行官と馴れ合うなって言われたことがある。『馴れ合うのと信頼するのは違う。別に友達ごっこをしてるわけじゃない』って言ったらすごい顔された。今もその考えは変わっていない。私はやっぱり、今の狡噛を理解したいと思うよ」

響歌がそう言うと、狡噛はぴくりと指を震わせた。潜在犯は社会に不要と判断された人間だ。彼らはシビュラが下した決断を甘んじて受け入れるしかない。潜在犯は善か悪かと問われれば、誰もが悪だと答えるだろう。そんな世界で、潜在犯である自分を理解したいと言う人間が身近にいることは、はたして幸福なのか。

「揺るがぬ意思は、お前の強さで美点だ。だが実を言えば、俺は猟犬でいることに不満はない。猟犬としてでも目的を達成することができるからな。だが今お前に理解したいと言われて、俺の心は少なからず軽くなった。そんな俺に、潜在犯を理解したいというお前を止める資格はない。だがギノの考え方も立場上、間違いでないことも事実だろうさ。実際、めでたく執行官に降格したのは俺の方だったわけだしな」

響歌も、別に宜野座の考え方を否定しているわけではない。普通より身近に潜在犯がいたし、監視官をしていれば潜在犯の嫌な部分を目にする機会が多いこともよく知っている。偏った考えになるのは仕方ないと思う。でも響歌は宜野座ではないのだから、同じ様には考えられない。それに、潜在犯を一括りにするのが正しいことだとはどうしても思えなかった。潜在犯だとしても大切な人は大切だし、潜在犯でなくても嫌いな相手を好きにはなれない。

「あの日、狡噛が見た光景を共有できればいいのに」
「・・・そんなことを考えるのはやめろ」
「さっき止めないって言ったのに」
「もう少し慎重になれ。安易に踏み込むような領域じゃない。覗き過ぎればお前も呑み込まれる」

狡噛が、4年前にはなかった眉間の皺を深くする。理解するための手段を選んでほしいのだ。自分をきっかけに彼女まで墜ちていく姿は見たくなかった。清く美しいままでいてほしいと思うのは、友人ゆえか、ただのエゴかは分からない。

「お前を見ていると、闇を覗き続けるのを躊躇しそうになる。だから辛うじて堕ちる所まで堕ちずにいられているのかもしれない」
「なんか勘違いしてない?私は狡噛を理解したいとは言ったけど、自分の地位も信念も手放すつもりはないよ。私には私の目的がある。そのためには監視官でいる方が都合がいいし、一緒に堕ちることはできない」

まるで死に急ごうとするのを止めるような物言いに対し、響歌は毅然とした態度で否定の言葉をぶつける。ネガティブな空気を一掃した同期を、狡噛は呆れ半分、尊敬半分の心境で見返した。

「あのな、健常者が執行官の心意を理解しようとすれば、犯罪係数が悪化するものなんだ。軽々しく実行に移そうとするなよ。いくらお前が鋼みたいなメンタルしてるからって例外じゃない」
「可憐な乙女に何言ってんの。潜在犯になりたくはないけど、可能性のひとつとしては常に頭にあるよ。そのときにどう行動するのかも決めてある。こんな世界じゃ、肺で息してるだけ御の字でしょ」

この部屋の一体どこに可憐な乙女がいるのか。少なくとも狡噛の認識では、ドミネーターをぶっぱなし、蹴りを連続で繰り出す女をそうは呼ばない。響歌は出会った当時から、しばしば『肺で息をする』という表現を使う。今までどんな意味なのか訊いたことはない。人間である以上は肺で呼吸をするのだから、比喩だということは分かる。

「前から思っていたが、その"肺で息をする"ってのはどういう意味だ?」
「・・・シビュラはさ、海なんだよ」
「は?」

変わっているとは思っていたが、会話をしていて返事に詰まったのは初めてかもしれない。響歌・ルートヴィヒという人間はこの社会において少数派で異質だ。そして、それを自覚してもいる。それこそが彼女の強さの主柱。しかし老人ならともかくとして、20代の自分達にとっては生まれ落ちた瞬間から、巫女シビュラは絶対である。疑う余地のない存在の正体など狡噛は考えたこともない。

「人は魚。広いシビュラうみを泳ぐだけの存在。私は、その中で人間でありたい。溺れて足掻いても、酸素を求めていたい。いつかこの肺の中を新鮮な空気で満たせるように。潜在犯でも、苦しいうちは人間である証拠だよ。狡噛にもそうであってほしいと思ってる。貴方は私にとって大切な存在だから」

初めて垣間見る考えに、狡噛は思考を追い付かせようとした。屈服するなと言うことだろうか。潜在犯である自分に人であれと言った彼女は、どんな気持ちでドミネーターを撃つのだろう。自分が覚えている限り、引き金に指を置くのを戸惑う姿は見たことがない。常に冷静で、飄々としている。刑事は人を守る為にある。それは間違いない。しかし彼女は、刑事でありながらその信念よりも重きを置いている−−−いや、信じているものがある。ときどき感じる引力めいたものの根源は、それなのかもしれない。

「確かに俺は・・・あの事件以来、変わったのかもしれない。追い求めるものも、あの頃とは違う。猟犬でいることに慣れすぎた。だが、お前の言う"人間"を捨てるつもりはない。俺はまだ、もがいている」
「そう・・・よかった。でも、呑み込まれそうになっても私を拠り所にはしないで。私は、貴方の命綱になってはあげられない。それを握ってしまったら、私の色相は真っ黒になっちゃう。私が持てるのは手綱だけ」

監査官としては、彼女よりかつての自分の方が高い志を持っていたと狡噛は思う。しかし不要と判断されたのは彼だ。シビュラ的に決して優等生とは言えない志を持っているからこそ、魅せられるのか。フッと自嘲して顔を上げれば、凛とした美しい女の顔が見えた。

「狡噛の目的は、を狩ることなんだね。海外派遣されていなければ、私達も捜査に加わるはずの案件だった。何の為の特別対策室だって話よね・・・今も追っているんでしょ?」
「ああ、だが相手は藤間幸三郎じゃない」
「コンダクター、か・・・どこまで掴んでる?」

追っているのが書類上に犯人と記された人物ではないことに、動揺すらしない。それどころか進捗まで尋ねる始末。コンダクター、つまりは指揮者と適切な呼び名で相手を称してみせた。この同期は己の立場を理解しているのだろうかと、狡噛の中に一抹の不安がよぎる。当時を知る同僚達は、のめり込むように事件を追う狡噛をどこか敬遠していた。それは至極当然の反応だと思うし一緒に獲物を追い詰める仲間が欲しいわけでもない。それなのに狡噛は、響歌の態度に自然と口元が緩むのを感じた。クイと顎をしゃくって、入念に調べ上げたデータを保管している部屋へと案内する。

「狡噛って・・・マゾヒストね」

ファイルや資料が山積みになった部屋を見回しながら響歌が一言。即座に顔を顰めて反論した。

「喧嘩売ってるのか?」
「いや、褒め言葉だったんだけど・・・自分に対してだけって意味。あの事件に関しては立場以上の責任感があるうえ、諦められるほど能無しじゃないから、心身共にいじめ抜いちゃうんだろうね。私はそんな風になれないし、なりたくもない」
「お前、やっぱり喧嘩売ってるだろ?」

息を吐く狡噛に対し、声を上げて笑いながら響歌はペラペラと細い指でファイルを捲る。真っ直ぐ伸びたその背中を見つめながら、狡噛は煙草に火を灯した。彼女の言う通りにいじめ抜いた、己の肉体とは正反対の細い身体だ。鋭い視線が紙上の文字を追う。シビュラの下で自己を保持し続けられる人間は稀だ。シビュラ普及前なら、そういう人間は少なからず存在したのだろう。しかし現代では自身のことすらもシステムに委ね、心を捨てた人間達がのさばっている。だからこそ彼女の姿は眩しいのかもしれない。

「おい、響歌・・・まさか全部に目を通すつもりか?」
「すぐに終わるよ」

こういう時の響歌の集中力は目を見張るものがある。この仕事に就いて一緒に仕事をしたのは3年足らずだが、昔からそうだった。話しかけるのも憚られるほどの雰囲気。しかし、この部屋にある資料の量は膨大。ものの数分で頭に入れられるわけがない。

「今日はもう戻ったらどうだ?後でいくらでも・・・おい、聞いてるのか?」

狡噛の提案に答えずに、パタンと見ていたファイルを閉じると、響歌は振り返る。無表情で呟いた。温度のない冷たい声は、はたして誰に向けたものなのか。

「シビュラも万能じゃない。全知全能の神なら未解決事件なんてないはずだもの・・・なんてね、今日はありがとう。また話、聞かせてね」

小さく手を振りながら去っていく後ろ姿を、狡噛は見送るしかできなかった。一瞬の張り詰めた雰囲気に、唇は震えただけ。彼女にも、葛藤はあったのかもしれない−−−シビュラの下で、シビュラの望むままに銃把を握ることに。

−−−−−

狡噛の部屋を出て、響歌は速足で廊下を進む。ふと前方に視線をやって、自分の顔が歪むのを感じた。
緊急事態発生である−−−こちらに向かって歩いてくるのは今日から部下になった降谷零その人だ。

「(最悪…気付かないフリはできないし、仕方ない)」
「あれ、ルートヴィヒ監視官。お疲れ様です」

今日一番の作り笑いを浮かべて、挨拶しようとした。
しかし驚いたことに、自分に負けないくらいの愛想笑いで、降谷の方から話しかけてきた。一刻も早く立ち去りたい気持ちが表に出ないよう努める。

「降谷さん、どうも。あの、名前で呼んでもらって結構ですよ。ルートヴィヒって呼びにくいので。明日からよろしくお願いしますね、期待しています」
「名前で・・・分かりました、そうさせて頂きます。貴方は優秀な監視官だと伺いました。色々学びたいと思っているので、僕の方こそよろしくお願いします」

ヒクヒクと響歌の頬が小さく動く。正直、これまで接したことのないタイプの人間だ。周りにいなかったわけではない、恐らく避けていた。何故なら苦手だから。しかし彼は部下なのだから、回避のしようがない。早いところ対処法を確立しなければと心に誓う。グレーのスーツ越しでも分かる、程よく付いた筋肉に甘いマスク。街を歩いていれば、さぞ目立つだろうなと目を細めた。まあ彼は執行官だから、一人で外に出ることはできないが。

「いえいえ、買い被りすぎですよ。私は凡人です。では、また明日ということで・・・失礼します」

早々に会話を終えて背を向けた。背中に突き刺さる視線に、響歌は小さく笑った。苦手な人間と話すのはかなり疲れる。明日から毎日これだと思うと頭が痛い話だ。普通なら特別対策室は主に特殊な事案を捜査するが、降谷にとっては初任務ということで、暫くは1係に同行することとなっている。つまり彼らに出動要請が出た場合、響歌達も同じく駆り出されるというわけだ。それを考えて苦い顔をしながら歩く響歌を見送りながら、降谷は独り呟いた。

「随分と嫌われているらしい。しかしそれを隠そうとしないとは・・・あの男が目にかけているだけことはあるようだ。俺の邪魔だけはしないでくれよ、監視官」

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に痺れた!