気高く麗しき怪物

※残酷な表現があります。

響歌はフゥと息を吐いて水を一口飲み干した。正直、狡噛やベテランの征陸を除いた面々はここで既にお腹一杯である。しかし恐らく、半分も終わっていない。

「まとめます。従兄あにに会い、彼が生を諦めていないことを確かめる、これが1つ目の目的です。そして次に2つ目、比重はこちらの方が重い。私の信念の根幹を担っていると言ってもいい」

それを聞いて、朱は狼狽えた。入局したばかりの頃に聞いた話と乖離している。あのとき彼女は言った、主柱となっているのは従兄の存在だと。戸惑う朱に気が付いて、響歌が笑う。悪戯が成功し喜ぶ子どもみたいに、少しも罪悪感はなさそうだ。その笑顔を見て朱は己の無能さを恥じた。よく考えれば、すぐに気が付いたはずだ。それができなかったのは、秘密の共有に胸が躍り、目が眩んだからだ。響輔が消えたのは5年前で、そのとき彼女はすでに監視官だった。刑事らしからぬ彼女が刑事を志すことになったきっかけ−−−少なくとも監視官になる以前に、それがなければ辻褄が合わなくなる。適性があるからといって、エリートを目指すような人間ではないのだから。

「見てもらった方が早いね。志恩、もう一つのファイルを映してもらえるかな?」
「はいはい、りょーかい」

モニターに映し出されたのは、経歴だ。持ち主はもちろん彼女。全員が黙読し始めた。そして数十秒後、今度は全員の視線が一点で止まる。中には読み間違いかと思い、また頭に戻る者もいた。女性陣は唇を震わせ、宜野座や征陸、縢も言葉を紡げずに息を飲んだ。狡噛は今までの彼女の不可解な発言を思い返し、成程なと納得する。どこか世界を見下したような精神はこうして出来上がったというわけか。

「まあ、大体の人はここで読むのを中断すると思います−−−2093年2月5日、父・羽賀秋人を殺害」
「っ、嘘、ですよね・・・響歌さん!」
「残念ながら、事実だよ。ドミネーターではなく、私がこの手で殺した最初の人間、それが父。皮肉にもシビュラは、殺人犯を刑事にしたんだよ。あの時は腹が捩れるほど笑ったなぁ」

声を震わせた朱とは対照的に、響歌は毅然と肯定する。馬鹿にしたように笑う横顔が、今まで以上に遠く感じた。と同時に、各々の心にはある共通の疑念が生まれる。殺人犯が刑事をしているということはつまり、彼女は殺人を犯してなお犯罪係数が正常値ということだ。それは、槙島や響輔と同じではないのか。誰もがそう思いながらも尋ねられずにいた。

「私は槙島や従兄あにとは違いますよ。あの時は、一度規定値を超えて、そして戻った。まあ、近い体質なのかもしれないですね。実際、私はこの手で父を殺したことに後悔や罪悪感は欠片もありませんから。言い換えれば、父の死は私にとって精神を掻き乱すほどの出来事ではなかったということです」
「父親を殺した経緯は?」

周りの心中を察し、響歌が答えを放った。その出来事はあたかも日常の一コマだったとでも言うように笑う姿は、狂っていると思うのに、最後まで見ていたくなる。常軌を逸した魅力と狂気が暴れ回り、いつかその身を滅ぼしてしまいそうだ。そんな中で、またも口を開いたのは狡噛だった。この状況で質問ができることに、周りは只々感心する。

「理由は明確、自分を守るため」
「成程、己の信念に従ったわけか……詳細を」
「父は、刑事でした。境遇だけで言えば、マサさんと同じですね。だけどあの人は、社会的地位は同じでも人間的にはマサさんと全然違いました。正義がなんだと宣っておいて結局最悪の選択をした、救いようのない、ただの臆病者ですよ」

目を見開き、吐き捨てる。20年経とうとも消えないほどの激情が、7歳の少女に父親を殺させた。響歌が額にかかった髪を掻き上げて、乾いた笑いを零す。そして静かにゆっくりと語り出した。

「潜在犯制度が施行されてすぐのことです。警察制度が廃止されたことは、父にとっては死に等しく、その心が死んでいくのが目に見えて分かるほどで・・・マサさんがそうだったように、父の同僚も一人また一人と潜在犯認定を受けていった」

淡々と話すその声が温度を失っていく。誰にでも優しい人間ではないが、今の彼女は全身で父親を軽蔑していた。己の二重螺旋構造の遺伝子に、僅かでもその性質が受け継がれていることを嫌悪している。

「あの時の父はいつ自分が社会から弾かれるか、ただそれだけを恐れ怯えていました。昔読んだ本に記述がありましたが、男性は女性よりもストレスに弱いそうです。現代の若者は性別に関係なく、耐性がありませんけど。父はその典型でした。弱くて不安定で、あらゆる事から影響を受けやすい。私と母がその神経を逆撫でしないように暮らしていたある日、父の不安は別の形で現実になりました−−−父ではなく母の犯罪係数が悪化したんです」

それを聞いて征陸は、顔を歪め奥歯を噛み締めた。もしも同じ立場になったとして、自分は彼女に誇れる選択をできただろうか。今だって息子と向き合えないでいる。心情を悟られないようにと、下を向いた。すると、視界に細い脚が映り込み、自分の拳に白く綺麗な指先が触れる。

「どうしてマサさんがそんな顔をするんですか」
「っ、ああ、すまん。他人事とは思えなくてな・・・」
「フィクションだと思ってください。私が今も激情を露わにしているのは忘れないためです。己の目的、信念、これから何をすべきか。父個人は、私の中で既に過去なんですよ。当人ですら囚われてはいないんですから、マサさんが心を痛める必要はありません」

響歌は、人を慰めるのが苦手だ。そもそも他人の感情を顧みることをしない。これは慰めでは決してない、全て本心だ。その瞳に同情の色は皆無、ただ純粋に見つめ返していた。だからか、それ以上は何も言わず征陸から容易く視線を逸らすと、元の位置に立つ。パチンと手を叩き、再開した。

「さて、話を戻しますね。母は例に漏れず施設でセラピーを受け、半年後には退所できるほどに犯罪係数も好転しました。ですが逆に、その半年で父の心は完全に死んでしまった。部屋に閉じこもっていたから露見しなかっただけで、あの時の父も酷い色をしていたと思いますよ。正義だとか、使命だとか、弱い自分を隠すために強い言葉を振り翳すような人です。弱さは隠すものではない、利用するものなのに。それで、何をしたと思いますか−−−父は笑みすら浮かべて、帰って来た母の首に手をかけたんです」

右手で自分の首を掴みながら、響歌は言った。ごくんと部屋に響いた音は誰のものか。フィクションなどではない、今聞かされている話は現実に起きた事。残酷な半生だと思うのに、最後まで聞きたいと全員が思っていた。誰かが先を促す前に、彼女は続ける。

「出迎えた私の目の前で、それは行われました。父の親指が食い込み、母の呼吸を奪っていく。美しかった母が目を見開き、父を睨みつける様はそれこそまるで映画でも観ているようでしたよ・・・ククッ、とても、滑稽でした。『お父さんは大丈夫』と呪文のように言い聞かせて信じていた父の腕に、母は爪を立てたんです。酸素を求め口を開閉させて、抗う獣のように。どれだけ愛していようとも、どこまでも生に縋る。私はそれを見て、人間の美しさを知りました。そしてこれこそが、現代の人々が失った姿なのだということも」

両手を広げながら抑揚をつけて語る姿は、オペラでも演じているかのようだ。滑稽だったと言う寸前、彼女が首に添えたままだった右手で己の顔を覆った。指の隙間から覗く口元は弧を描き、瞳は今もういないはずの父親を映しているかのように暗く染まっている。朱はその時、自分の体が震えていることに気が付いた。目の前にいる女性が怖いのではない。彼女を怪物へと羽化させたのは、シビュラだという事実に震えた。この国の人々の主柱とも言える存在が、響歌・ルートヴィヒを生んだのだ。彼女はどんな気持ちで今を生きているのだろう。自分を堕とした相手の腹の中にいるようなものなのだ。

−−−苦しくて楽しい。

彼女は、そう言っていた。まさにその通りだと思う。監視官になるまで朱が見てきたのは、シビュラの一面だけだ。一方、響歌が見てきたのも一面であって、その性質は真逆である。巫女が人類に与えるのは恩寵、その最大幸福から漏れた者には絶望を。きっと彼女や狡噛は後者で、前者であれば一生感じることはないだろう痛みを携え生きている。

「やがて母は動かなくなりました。投げ出された四肢を車に轢かれた蛙のようだと思いながら顔を上げ、父と目が合った瞬間に悟りました−−−次は私の番なのだと。襲いかかってくる腕から逃れ、キッチンに駆け込んで、ナイフを取りました。刑事であった父と、ただの子供の私では、力の差は歴然だったはずです。ですが、私が向けた切先は的確に父の胸を捕らえた。避けられなかったのか、それとも敢えて避けなかったのかは今となっては分かりません。どちらにしても、私のあの人に対する評価は変わらない」

誰も、何も、紡げなかった。残酷、ただその言葉が似合う過去だ。潜在犯である執行官達ですら、自分の境遇が可愛く思えるほどに、暗く、苦しい。そんな道を辿って尚、歩き続けている。信じられないことに、彼女は自分を被害者だと思っていない。むしろこれで良かったと笑うのだ。

「傷口は肺にまで達していたそうです。ナイフの柄から伝わってくる感覚、肉を抉る音、頬に飛んだ血の温度と臭い、父の呻き声−−−全てが不快で、ナイフから手を放し、ベランダに走りました。そしたら、雪が降っていたんです。無意識に手を伸ばして掴んだ雪で掌に付いた血が滲んでいくのを見て、どうしようもなく満たされた気持ちがしました。思いっきり息を吸い込むと、冷たい空気が肺に刺さる感覚に堪らなくなったんです。嗚呼、私は自由だと、そう思いました」

ふっと声を漏らし微笑む顔は美しく、朝陽のように穏やかだった。この国にいる以上、文字通りの自由は得られない。人生を選ぶ権利は人類にはないからだ。それでも彼女が自由に見えるのは、心に枷を付けていないからだろう。シビュラという檻の中、首輪で繋がれているのが自分達なら、彼女はひとり放し飼いの犬。

「人間は生に貪欲であるべきで、心豊かに生き続けるためには強さがいる。目の前の敵を排除できるだけの文字通りの力、そして、どんな時も揺らがぬ意思−−−ここは何者にも囚われてはいけない。これが、あの日から今まで私を支えている真理です」

そう語る顔はもう、負に染まってはいなかった。誇らしげに笑い、両手を広げる。空を羽ばたく鳥のように見えた。何故か潤む視界に、朱は慌てて目を閉じ頭を振る。再び目を開けて、驚いた−−−狡噛が微笑んでいる。誰が見ても、心からの笑顔だと分かるくらいに優しい瞳で彼女を見ていた。そして瞬きを一度してから、響歌、と名前を呼んだ。

「エピローグがまだだ」

先程の微笑みが嘘のように、狡噛が言う。響歌はそれに目を丸くした後、小さく笑い頷いた。カーテンコールの如く前を向くと、再び口を開く。

「その時、ある疑問が浮かびました。シビュラには人を殺す権利があるのだろうか、犯罪係数の悪化はそれほど絶望的なことなのか、と。母を殺したのは父で、父を殺したのは私です。ですが、その心を殺したのは紛れもなくシビュラ。どうして会ったこともない奴に心を枯らされねばならないのか、私にはいくら考えても分からなかった。なら、答えを見つけなくてはならない。巫女の真価を問う、それが2つ目の目的です」
「答えは、出そうか?」
「うん、20年をかけた証明の9割は終わってる。あとは、結論を書くだけだよ。やっと、海から上がれる」

細い指で宙にQ.E.D.と書いて見せる。それを合図に狡噛はソファの背もたれに身を沈ませた。天井を見上げて喉を鳴らす。腹を括ってきたが、聞いてしまえばなんて事ない。ただ、彼女らしい応えだった。

「ついでにもう一つ訊きたいんだが」
「いいよ」
「あの気狂いみたいな記憶力は生まれつきか?」
「ああ、生まれつきかって訊かれたらそうだね。私の脳みそはそういう構造らしい。超記憶症候群ハイパーサイメシア、知ってる?あんまり広めないでね、極秘任務とか面倒な仕事押し付けられるの御免だし」

トントンと自身の頭を指で突つきながら、響歌が言う。さらりと告げられた答えに、反応は様々だった。中には急に出てきた横文字に戸惑う者もいる。全員の心中を代弁するように朱が尋ねた。

「それって……全ての出来事を詳細に記憶できるっていうやつですよね、よく小説とかに出てくる」
「そんな便利なものじゃないよ。私の場合、興味のないことは憶えていられないし、逆に印象的な出来事は忘れたくても忘れられない。それこそ、鮮明に刻まれる。さっき話した父との記憶がいい例だね」

忘れられない、その特性は果たして良い方に働いたのだろうか。忘れたかった記憶は、忘れられない記憶となり、彼女を支えた。そこで朱は気づく。彼女は恐れていたのだ。大事な存在−狡噛−との記憶が、父との記憶のように脳に刻み込まれることを。そうなれば、離れたとしても一生忘れられない。例えばそれが、彼との死別だったら、大切であるからこそ深い傷となってしまう。だからこそ響歌は、第三者となることを望んだ。でも、できなかったのだろう。あの日彼がいなくなったときに見せた表情は、そんな中途半端な自分への苛つきが宿っていた。

「だからさ、私の目の前で死んだりしないでよね」

トン、と狡噛の肩に触れ響歌が言う。思いがけない言葉に、言われた本人は瞳を見開いた。顔を上げた時にはその姿は視界に無く、気配はすでに背後にあった。表情は見えなくても、彼女がどんな顔をしているか分かるような気がした。

「なら、お前が死んでから死ぬとするか」
「ははっ、じゃあずっと先だね」

振り向きざまにそう言って、柔らかく笑う。出て行く彼女の後を部下ふたりが続いた。大きく伸びをする上司の頭を、赤井が撫でる。扉をくぐる小さな背中は誰よりも凛々しく美しかった。それはまるで、舞台を去る役者のように眩しく朱の目に映る。もう終わりなのかと、胸に影が落ちる気すらした。

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に痺れた!