忘却など不可能

「流石に疲れたか?」
「そりゃあもう。どちらも言葉にして語るには疲れる記憶ですから……ありがとうごさいます」

ベンチに腰掛けて、天井を仰ぎながら響歌は息を吐いた。お礼を言い、赤井が差し出したコーヒーを受け取る。それを一気に飲み干せば、休息に入ろうとしていた脳が再び覚醒した。顔を上げて、翡翠色の瞳と視線を交わらす。

「私、ちゃんと出来ていましたか?」
「…ああ」
「そうですか・・・すみません、変なこと訊いて。まだどこか落ち着かなくて。拒絶されなかったことに、ホッとしているんです。自分でも笑っちゃいますよ。孤独であることに誇りすら持っていたつもりだった。でも違った。私はこんなにも寂しがり屋で、弱い人間。今思えば、貴方を傍に置いたのは目的の為じゃなかったのかもしれません。立場を利用し首輪をつけ、家族ごっこがしたかっただけっ、

流れる水の如く唇が動く。慢心も謙遜もしない彼女が珍しい。そんな主人に、猟犬はやはり冷静だった。大きな手が響歌の髪を乱暴に撫でる。思わず言葉が途切れた。やられた本人は少し不機嫌そうにボサボサになった頭を撫でつける。赤井は左隣に腰掛けると、長い脚を組んで笑った。

「お前は存外、不器用だな」
「存外って…私のこと器用な人間だと思っていたんですか?器用だったら、こんな生き方してませんよ」
「きっかけなど、どうでもいいさ。あの時の俺達の間には、信頼も温もりもなかった。だが、今は違う。俺はお前を誰より信頼しているし、隣にいると心地が良い。紛い物を本物にしたのは他でもないお前だぞ」

全く優秀な手綱だ。心からの言葉だと声音で分かる。顔を見なくても、笑っているのを感じる。こういう時だけ饒舌なのも厄介だ。ふっと笑みが零れた。いくら孤独ぶろうと、その温もりを知ってしまったら最後。だからこんなにも、心が震える。すぐ傍まで来ている別れさよならが堪らなく恐ろしい。

「赤井さんって、絶対モテますよね」
「どんな美女が現れようと、お前の隣にいる限り他の女性の相手は無理だろう」
「ははっ……ねえ、赤井さん。全て終わったその時には、ちゃんと望みを言ってくださいね。貴方は私の特別。だから、出来ることなら叶えたいんです」

並んで座って、お互い視線を合わせることはしなかった。響歌の言葉に、暫しの沈黙が落ちる。そのすらも心地良い。赤井が答える前に、彼女は少し上にある右肩に頭を預けた。頬擦りするように顔を動かし、笑う。

「望みなら、すでに決まっている。お前にしか叶えられない願いだ。その時が来たら、必ず伝えよう」
「−−−はい」

自分が着けた首輪だ、自分が外そう。その鍵は自分しか持っていないのだから。軋む心に気付かぬフリをして、そっと目を閉じた。背後にある窓から差し込む夕陽が、ふたりを照らす。冬特有の柔らかな陽の温もりに響歌は微睡む。小さな寝息を右耳で拾いながら、赤井は左手で持っていたコーヒーの缶をゆっくりと回した。もう少し、このままで。拝む対象など居ないのにそう願った。ふと近づいて来る気配に顔を上げる。

「よお・・・そうしてると、まるで親子だな」
「私と響歌は5つしか変わりませんよ」
「お前は達観し過ぎているし、お嬢は子供っぽいところがあるだろう?にしても、全然起きないな」

苦笑いを浮かべながら征陸は同じくコーヒーを買うと赤井の傍のベンチに腰掛ける。そして、スゥスゥと寝息を立てて胸を上下させる様子に、感心したように覗き込でそう言った。

「殺気でも出さなければ、夜までこのままです」
「・・・よっぽどお前を信頼してるんだなぁ」
「いや、私以外にも身を預ける相手はいますよ。そう多くはありませんがね。貴方もその一人でしょう。異質であるがゆえに、繋がることを過度に恐れている。そうしなければ己を保てなかったのかもしれません」

常に鋭いその目元が緩む。それを間近で見ていた征陸は思わず喉を鳴らした。笑われた理由が分からず片眉を上げる赤井に、彼は「すまん」と右手で口を覆いながら左手を振ってみせる。

「お嬢のことになると偉く饒舌だと思ってな」
「・・・そう、ですか。無意識でした。元々お喋りが好きな方ではありませんが、ご存じの通りこいつは、話題に事欠かない人間ですから」
「確かにな。さっき聞かされた話、お前は知っていたんだろう?正直、言葉が出なかったね。シビュラシステム施行前でも中々いないだろうさ。それくらい重いもんを背負わされてると思うが、荷物どころか燃料にしてる。この細っこい身体の一体どこに、そんな力があるってんだか」

征陸は不思議そうに、それでいて眩しそうに響歌を見つめた。狡噛や赤井と並んでいるとよく分かる、小さく華奢な身体。しかし何故か、庇護欲は湧いてこない。心配は常にしているが、その身が闇に呑まれる光景が脳裏をよぎることはなかった。暗闇に容易く飛び込んでも、笑いながら帰って来る姿が浮かぶ。その瞳には揺らがぬ光を宿して。

「響歌の武器は心です。シビュラでも計測不可能なほど、美しく強い。生来骨格は頑丈なのでしょうが、小さな傷を負う度にさらに強靭な骨となる。もし数値ではなく真に心が可視化できるならば、こいつのそれは、それこそ誰もが道を開けるような姿をしているでしょう。修羅か羅刹か、あるいは神か。どちらにしても、容易く折れることはない」
「そうしちまったのは、この世界。いや、被害者みたいに言うのは間違いだな。むしろ果報者なのかもしれねぇな。少なくとも、お嬢本人はそう思っている。確かに、知らなければ幸せでいられるのかもしれん。だが、僅かでも疑いを持っちまったらあとは堕ちるだけだ、俺の様にな」

赤井はどこか誇らしげに語りながら、目を細めた。それに返事をする征陸の顔は、反対に少し歪んでいる。例えば、あと20年早く出会っていたら、どうなっていただろう。抗うことを諦めずにいられただろうか。否、今さら何を言おうと時が戻ることなどない。妥協してきた分、余力は残っているはずだ。征陸は己に言い聞かせる−−−使い所を誤るな。交わした約束を違えることの無いように。

「お嬢は自分の父親と俺は全く違うと言っていたが、俺はそうは思わなかった。やり方は最悪でも、己の手で終わらせようとしたんだろうな…。たとえ仮初の幸せでも、当人にとってはそれが本物で何よりかけがえの無いもんなのさ。それが壊れていく様を見せられちゃ、冷静でいられるはずがない」
「ですが、貴方はまだ終わっていない」
「はっ、こいつぁ驚いたね。主人が寝てる時は、猟犬が代弁するってわけか。今のお前の目、お嬢にそっくりだ。こりゃあサボるのはとても無理ってことだな。なぁ、赤井よ……俺が頼むのも変な話だが、最後まで傍にいてやってくれ」
「勿論、そのつもりです」

床へと視線を落とし、征陸は懇願した。自分にできるのは心配だけだ。これは所詮、偽善なのかもしれない。闇を切り開くその背中に、少しでも自分の思いを乗せてほしいだけ。自嘲する征陸の脳裏に、彼女の声が反響し消えていく。優しいですね−−−優しいだけでは誰も救えはしない。私を私に繋ぎ止めるための生命線−−−それでも、思うことだけは止めない。

「さてと、そろそろ行くかね」
「ええ」

征陸が膝を叩いて徐に立ち上がる。そして頷く赤井に手を差し出した。意図が掴めていない彼に、顎でその手にある缶を示す。礼を言いながら持ち上げられたそれを受け取り、響歌の隣に置いてあった分もまとめてゴミ箱へと放った。その間に、赤井は彼女の肩を揺する。まだ寝足りないのか、少し不機嫌そうに目を開けた。

「あれ、マサさん。いらしてたんですか、起こしてくれればよかったのに」
「あんなに気持ちよさそうな顔されちゃ、あまりに忍びなくて起こせねぇさ」
「私が寝てるのを良い事に、ふたりで悪口とか話してないですよね?」
「いや、むしろ褒め称えていた」
「なんですか、それ」

真顔で事実を述べる赤井に、響歌は声を上げて笑う。そして両手を伸ばし、大きく深呼吸をする。時間を見れば、15分ほど経過していた。仮眠には些か短過ぎるが、少し疲れが取れた。やはり彼の隣は心地が良い。

「先に戻ってください。外の空気を吸って来ます」
「サボりか」
「人聞きが悪いですね。ちゃんとやる事はやってます。要領が良い分、休んでるだけですよ」

ヒラヒラと手を振りながら、軽い足取りで去って行く。相変わらず謙遜の欠片もない。まあ確かに、要領が良いのは事実。征陸と並んで見送りながら、赤井は笑った。

−−−−−

「ギノ」

耳に届いたのは、宜野座が今二番目に聞きたくない声だった。ついさっきまで、同じ部屋で同じ話を聞かされていた。渋々振り向けば想像通り、狡噛慎也の姿がある。右手を軽く挙げて、こちらに近づいて来る。不機嫌を隠さず見返す宜野座に、苦笑しながら狡噛は尋ねた。

「休憩か?」
「外の空気を吸いに行く」

吐き捨てるようにそう言うと、歩き出してしまう。いつも以上に苛々している理由を想像するのは容易かった。狡噛も苛つきとは違うが、未だに心が騒ついているのを感じる。それだけ彼女の話は重く、衝撃的で、眩しかった。

「どうして付いて来る?」
「目的が同じだからだ」

随分と嫌われたものだなと思いながら、狡噛は宜野座の横を歩く。局内にあるテラスには、夕方だからか人は疎らだ。先に足を止めたのは狡噛だった。怪訝そうに振り向く宜野座に、顎をしゃくって教えてやる。それに倣い視線を向ければ、テラスには見慣れた後ろ姿があった。宜野座が今最も会いたくない相手、響歌・ルートヴィヒ。踵を返そうとすると、肩を掴まれ引き摺られる。

「おい、離せ」

彼女にバレたくないのか、言葉の割に声は小さい。いくら抵抗したところで、隣の男にとってはささやかなものだろう。力で敵うわけがない。宜野座は早々に諦め、目前に迫っていた華奢な背中に視線を移す。こんなにも細く小さな体なのに、抱える過去はあまりに壮絶。風に髪が揺れて露わになった首筋に、何故か目を逸らしたくなった。その背中に狡噛が声をかける。

「響歌」
「・・・あれ、珍しいね」
「誰かさんのお陰で脳に負荷をかけすぎた」
「知りたいって言ったのは狡噛じゃん」

喉を鳴らし笑う。夕陽を背にした姿は、ただ美しく儚げで、さっき聞いた話など嘘のように思えた。響歌は何も言わない宜野座を不思議そうに見てから、側にあったベンチに飛び乗ると両手を広げる。柵の向こうに広がる夕陽に染まった街を見下ろし、目一杯息を吸ってから語り出した。

「降谷さんにさ、訊かれたんだよね。全てを話したとき、背を向けられるのが怖くないのかって」

その言葉を聞いて、小さな痛みが宜野座の胸を刺す。一時でも遠ざけようとしたことを悔いたのだ。しかし、やはり彼女は異常だった。声音に切なさが宿ったのは一瞬だけ、次の瞬間にはいつも通りの跳ねる様な音に戻る。

「それで、お前は何と答えた」

狡噛が問う。聞いたことがないくらい柔らかい声に、宜野座は戸惑う。この男はこんな顔をする奴だったのか。その視線を向けられている彼女はきっと、気付いていない。

「最後まで心に居座った者勝ちだって答えた。でも負け惜しみだったんだよね、それ。私はきっと、愛という形では誰の胸にも刻まれない。それがほんの少し悔しくてさ……思わず言い返しちゃった」
「あながち間違いではないだろう。良くも悪くも、お前は強烈だからな。俺には、忘れようと思っても忘れられやしない」
「奇遇だな、ギノ。俺も同意見だ」

嘆息する宜野座に、狡噛が笑いながら同意する。それを背中で聞いていた響歌は、大きく目を見開いた。長い間、使い道のなかった涙が溢れそうになるのに気付かないフリをして空を見上げる。大切だと思う程にどんどん重くなっていく。今はその重みが心地いい。傍にいてとは願わない。もし我儘が許されるのなら、どうか忘れないでいてほしいと、そう思った。

「いつ振りだっけ、3人で夕陽を見るの」
「・・・お前達と夕陽を見たことなどない」
「宜野座、空気読んで。それじゃ彼女できないよ」
「なっ、余計なお世話だ!」

ムキになる宜野座に、響歌は肩を揺らした。トンと微かな音を立ててベンチから下りると、柵から身を乗り出した。震えそうになる声を悟られないように、少し語勢を強める。

「私、この社会が大嫌い。でも、ここから見る景色は結構好きだなって初めて思った。たぶん、大切なのはどんな景色かじゃなくて、誰と見るかなんだろうね」

らしくない台詞を吐く響歌に、狡噛はそっと目を伏せる。たとえ最後に立つのが地獄でもいいと、そう聞こえた。その時、彼女の傍にいるのはきっと自分ではない。隣にいる宜野座でもない。その景色を共に見ることを許されるのは、赤井かれだけだ。

「出逢えたのが貴方達でよかった」

振り向いて笑う姿は怪物などではなく、紛れもない人間だった。それを見て宜野座は悟る、もう二度とこうして並んで夕陽を見ることはないのだと。彼女もまた自分を置いて行くのだ。屁理屈を言えば、置いて行かれるのは宜野座だけではない。狡噛も、その一人だ。

「絶対に忘れない」

噛み締める様に彼女が再び呟いた。鼓膜を揺らす柔らかな音に、狡噛は拳を握る。掌に爪が食い込む感覚で辛うじて理性を保っていた。油断すれば、唇から這い出てきそうだ−−−俺にもその景色を見せてくれと。いっそ、手を伸ばすことすら叶わぬくらい遠ければよかった。そうすれば、迷わず別の道を行けただろう。

「(踏み出す足が重いのは、こいつの所為だ)」

自分がこうして躊躇している間にも、彼女は進んでいる。いつかその背中すら見えなくなる時が来るのだ。光のない本物の暗闇を想像して、狡噛は目を伏せた。

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に痺れた!