凝縮された安らぎ

その日、響歌は刑事課一係のフロアに足を運んでいた。報告書の内容について何点か宜野座に確認し終えた後、思い出したように振り返る。

「ね、宜野座。明日さ、非番だったりする?」
「そんな暇はない」
「そっかぁ〜……朱ちゃんは?」
「すみません、私も非番じゃないです」

申し訳なさそうな朱に「いいのいいの」と言いながらも、響歌は深い溜息を零した。そしてぐるりと部屋の中を見回す。執行官達の間に緊張が走った。どうやら彼女は非番の人間を探している様子だ。その理由までは分からないが、嫌な予感には違いなかった。尋ねられる前に六合塚が先手を打つ。

「明日非番なのは、私と狡噛です。私はすでに予定があるので、他を当たってください」
「狡噛慎也君。予定があるとは言わせないぞ。どうせ一日中サンドバッグと仲良しごっこでしょ」
「……分かった、聞いてやる。それで、何の用だ?」
「やった!明日の午後3時、外出申請ちゃんと出しておいてね。じゃ、また!」

まるで台風。彼女が去った室内はシンと静まり、全員が哀れそうに狡噛を見た。用件すら聞かされず、開けてみてのお楽しみ状態である。当の本人は諦めているのか、それとも案外乗り気なのか無言で業務を再開する。その脳内では、あの響歌が他人を頼らざるを得ないほどの用件とは何なのか、推理が始まっていた。しかし結局、答えが出る前にその時がやって来てしまう。約束の時間、訪ねて来た彼女を狡噛は仏頂面で迎えた。いつも通り着崩したスーツ姿の彼を、ベージュ色のコートを纏いながら見返す。

「今日はよろしくね」
「らしくないな、笑顔が嘘くさい」
「ひどい!でも、その調子で茶化してくれると助かるよ。笑ってないと、墓石蹴飛ばしそうだから」

墓石−−−その単語で狡噛は直感する。今日の目的は墓参り。相手は恐らく、彼女がその手で殺めた父と、その父が殺めた母。宿舎を出て迷いなく歩き始める響歌の背中を、狡噛は半歩後ろから見つめた。そして悟る、今日の自分は風除けだと。彼女だけに吹く風を払うのが役目。小さく息を吐き、狡噛は響歌の隣に並んだ。

「毎年行っているのか?」
「いや、初めて。二度と行けなくなる前に、可愛い娘の顔を見せておこうと思ってね。20年経ってるとは言えこの手で殺した相手だからさ…そこに立った時、自分が何を感じて、どう行動するのか分からない」
「成程、今日の俺は赤井さんの代わりというわけか」
「はずれ。あの人を連れて行くって選択肢は無いね」

僅かに目を見開き足を止めた狡噛に、響歌も立ち止まる。振り向いて楽しそうに笑うと、空を見上げながら小さな声で呟いた。

「弱い姿、見せたくないんだよね。なんて言うかさ、幻滅されたくないみたいな。そんなことで離れて行くような人じゃないって分かってるんだけど、可笑しいよね。自分でも馬鹿じゃないのって思うよ」

どこか切なげな声が、風に乗って消えていく。それを聞いて狡噛は、胸の奥から黒い靄のようなものが湧いてくるのを感じていた。やはり、赤井秀一という男は彼女にとって唯一なのだと、思い知らさせた気分だ。一方で狡噛じぶんは、宜野座や朱、他の執行官達の代わりに過ぎない。もしも宜野座が非番であったなら、ここに立っていたのは彼だった。眉間に皺を寄せる狡噛を差し置いて、響歌は再び歩き出す。

「それでさ、じゃあ誰に付いて来てもらおうかなって考えて……ひとり、頭に浮かんだ人がいるんだよね」
「悪かったな、希望に添えなくて」
「いやいや、希望通りだよ」
「は?」

重い足を引き摺って皮肉を吐いてみる。すると予想外どころか、意味不明な言葉が返ってきて、狡噛は再び歩みを止めた。希望通りとはつまり、自分がそのひとりなのだろうか。理解の追いついていない彼を振り返って、響歌は目を細め笑った。

「今日隣にいるのが狡噛でよかった。ありがとね」
「っ…なんで俺なんだ。慰めるのは得意じゃないし、気の利いたことも言ってやれないぞ」
「慰めなんていらないよ。正しくは貴方でなきゃいけない訳じゃない。私が・・、貴方がよかった」

嗚呼、厄介だ。両親の墓参りが、彼女にとって大きな意味を持つことは容易に理解できる。彼らは、彼女がその生き方を選ぶきっかけとなった存在だ。そんな相手の墓参りの同行者として指名されて、胸が高鳴らないわけがない。まして彼女は、嘘を吐かない。全く以って厄介だ。

「狡噛はさ…私が情けなく躓いたら、きっと笑ってくれるでしょ?私が人間だったこと、憶えていてほしいの。なんでだろうね、その相手は貴方がいい。だから今日は、ただ隣にいて」

風に靡く髪を鬱陶しそうに抑えると、今度こそ振り返ることなく進んで行ってしまう。緩みそうになる口元を誤魔化すように、狡噛も後に続いた。30分程歩いて到着した集合墓地。いくつもの墓の間を通り抜けたその先で、彼らは眠っていた。響歌はコートを脱いで脇に抱えると、座り込んだ。ゆっくりと瞳を閉じて手を合わせる。その横顔を、狡噛は斜め後ろから見守った。数秒後、小さく笑う気配がしたかと思えば、その瞼が開かれる。

「変なの」
「何がだ?」
「心が凪いでる。この手で殺すほど嫌悪していた相手なのに、不思議だよね」

穏やかに笑いながら、響歌が自分の胸を撫ぜる。その顔を見て、狡噛は目を細めた。彼女はとうの昔に過去と決別していたのだ。その記憶は目的の為の材料に過ぎず、それが叶えば糧としての役目すら失うことになる。文字通り、ただの記憶になるのだ。暗い過去すら糧として、その先を見据えている。

「続けていたところで陸な家族になっていなかっただろうけどさ、父と母あの人達にとってはきっと尊いものだったんだと思う。私の生き方これも、ある意味で復讐なのかもしれないね。家族を壊したシビュラへの。もし成就したら、最高の親孝行だと思わない?」
「お前は別にシビュラを貶めたいわけじゃないだろ」
「そうだね。私は、この世界を見限る理由が欲しいだけ。復讐なんて言ったけど、この証明は私以外には無価値も同然。私による私の為だけの証明だよ」

そう言って立ち上がると、こちらに声をかけることなく出口へと歩き出す。狡噛は物言わぬ墓を一瞥し、その後を追った。確かにそれは、彼女のための証明だ。しかし、その結果は周りの人間達に少なからず影響を与えるに違いない。残された者達は、完璧でないと知っているからこそ慎重になれる。疑うことができる。そして常に想像するだろう。彼女ならどう考えただろうか、と。本人は唯一人を共として歩いているつもりなのだろうが、その後ろには多くの思いが列をなしている。狡噛を始めとする執行官達、宜野座に朱、そして時代が違えば弾かれることはなかった者達。決して二人旅などではない、もはや百鬼夜行だ。笑いながらその先頭を行く姿を想像し、狡噛は思わず口角を上げた。

「お腹減らない?」
「そうだな」
「付き合ってくれたお礼に奢るよ、ラーメン。少し歩くけどいい?」
「ああ」

来た道とは逆方向へと肩を並べて歩く。一定のリズムで響く足音に耳を傾けながら、狡噛は響歌の横顔をそっと盗み見た。その瞳はいくら闇を覗こうとも、決して闇に染まることはない。恐らく視線に気付いているだろうが、揺れる髪の隙間から覗く瞳はただ前だけを見据え、こちらに向けられることはなかった。なのに何故だろう。この3年、前が見えなくなった瞬間に聴こえてきたのは、ふとした時に自分を呼ぶ彼女の声だった。大声で叫ぶでもなく、ただ囁くような小さく柔らかな声−−−狡噛、と。それだけでほんの一時、闇から解放され、思考をリセットすることが可能になる。拠り所にするなと、そう言われた時にはもう、彼女をそこに位置付けてしまっていた。しかし狡噛に、謝罪をする気は毛頭ない。釘を刺すのが遅かった彼女の責任だと割り切っていた。どうせ離れて行くのなら、それくらい許してくれてもいいだろう。

「・・・今、笑った?」
「いや、気のせいだろ」
「どうだか。ま、人の心なんて誰にも分からないよ。人間同士でも無理なのに、巫女シビュラに分かるわけない」

その言葉に嘲笑の色は無く、朝の挨拶でもするようないつも通りのトーンだった。相変わらず楽しい奴だ。ただの事実だとでも言うように、世界の主柱を否定する。狡噛はそこに一瞬、かつての部下である佐々山の面影を見た。愚直で、勘が鋭く、本能の赴くまま。思えば、女好きだったはずの彼が響歌にちょっかいを出しているところは見たことがなかった。いつだったかその訳を尋ねたら、彼は笑ってこう返した。

────なんでって、分かんねえのか?ありゃ女じゃねえ。カテゴライズするなら人間、だからだよ。

当時の狡噛には、その意味がよく分からなかった。あの時はまだ、彼女の本質に気付けていなかったから。だが、今は違う。確かにお前の言う通りだと、狡噛は今は亡き部下に返事をした。そして意識を現実へと戻し、思わず声を上げる。

「おい、響歌。どこに行くつもりだ」
「え、どこってこの先。安心して、お腹壊したりしないから」
「そんな物騒な店なのか。まさかとは思うがお前…常連じゃないだろうな?」
「そうだけど」

しれっと肯定する響歌に、狡噛は右手で顔を覆い盛大に溜息をついた。至極当然の反応だろう。この先はスラム街、犯罪者の巣窟だ。そんな場所に健常者が、それも女ひとりで通っているなど正気を疑う。まあそう簡単にやられる玉ではないが、流石に言葉が出なかった。

「娯楽施設じゃないんだ。もう来るのはよせ」
「それは無理。好きなんだ、ここのラーメン。ねえ、狡噛。世界はどんな形をしていると思う?」
「一体何の話だ・・・っ、おい!」

説教をする狡噛の横をすり抜け、響歌は再び歩き出してしまう。おまけに意図の掴めない問いを投げかけてくる。慌てて後を追いながら、なんとか頭を働かせようとした。小綺麗なスーツ姿の女と、同じくスーツ姿の長身の男。場違いな格好のふたりに、住人達は怪訝そうな顔を向けた。

「平面、立体、どっちだと思う?」
「話が抽象的すぎる。まず世界の定義を教えろ」
「ああ、それもそうだね。ごめん。狡噛が一番連想しやすい世界でいいよ。例えばこの国、例えば潜在犯、例えば……人生。今の例えで分かったと思うけど、形は目に見える形じゃない。地球は丸いとか、DNAは二重螺旋構造だとかじゃなく、想像的な意味」

連想しやすい、それは自分に身近だということ。そう言う意味では、彼女が挙げた例はどれも連想しやすい世界だった。恐らく態と列挙したのだろう。そしてそのどれに対しても、狡噛の答えは共通していた。

「立体、だろう」

疑問符をつけずに言うと、響歌はさらに笑みを深くした。どうやら希望通りの回答だったらしい。平面は文字通り平らだ。一方で立体には複数の面がある。

「そう、一面だけじゃない。あちこちに存在する世界は全て、多面性を持っている。何かを深く理解するには、より多くの面を観察するのが定石。つまりさ、私がここに通うのは、この国の一面を知るためでもあるわけ。私の探究心を摘む権利は、狡噛には無いよ」

そういえば、そんな話をしていたのだと思い出す。いつもながら例えが独特で、油断すると本題を忘れてしまいそうになる。それにしても、人の心配を笑顔で突き返してくるあたり、流石としか言いようがない。自分は大丈夫などと過信しているわけではなく、身の危険すら対価なのだ。それと引き換えにこの国の裏を見る、美味いラーメンを食べる。普通の人間なら、どこが等価なのかと疑問に思うだろう。しかし彼女にとってそれらは、その身と等しく価値があるものなのだ。

「でも折角の忠告だから、これからは必ず赤井さんと来ることにするよ。あの人も常連だから。さ、着いたよ。私的には味噌がお勧めだけど、どうする?」

振り向きざまに響歌が笑う。その表情を見て、狡噛は責める気を削がれてしまった。彼女には平和で華やかな楽園より、命を削られるような、天と地獄の狭間みたいな場所がよく似合う。幸せでいてほしいと願う反面、そういう生き方を捨てないでほしいと思っている自分がいる。そしてそれは、結局は同じことだと狡噛も心の隅では理解している。響歌にとっての幸せは楽園にはない。いつか彼女が言っていた台詞を、狡噛は己に吐いた−−−自分の思う理想を相手に押し付けてはいけない。

「お、久しぶりだな!なんだ、今日はいつもの隈の兄ちゃんじゃないのか」
「こんばんは。愛想はないけど、私より常識人だよ」
「一言余計だ」

扉をくぐれば、中にはそれなりに客がいた。女というだけで珍しいのか、何人かが顔を上げて様子を窺っている。当の本人は全く気にする素振りはない。まあ彼女の場合、常に視線を集めているから、というのもあるのだろう。

「注文は?」
「私は味噌、味玉付きで。狡噛はどうする?」
「俺も同じで」
「あいよ」

慣れた様子で注文する響歌に、狡噛は考えることを止めた。一々疑問を抱いていては、こちらの身が持たない。出された水を一気に飲み干し息を吐く彼女に、少し気が抜けた。

「カップ麺とは比べ物にならないよ。絶対また来たくなる。そしたら、今度は宜野座を誘ってみなよ」
「馬鹿言うな。そんな事をしてみろ、怒髪天を突くどころじゃ済まないぞ」

青筋を立てて怒り狂う宜野座を想像して、狡噛は顔を顰めた。ただでさえ風当たりが強いのだ。自ら種を蒔くのは避けたい。心情を如実に表したような顔をする彼に、響歌は肩を揺らして笑った。釣られて狡噛も目元を緩ませる。刹那、その頭の隅で誰かがブレーキをかけた。正体は分かっている、自分自身だ。復讐に取り憑かれたもう一人の狡噛が警鐘を鳴らしたのだ、「絆されるな」と。隣にいれば、いつかこの復讐心までも呑み込まれてしまうという確信がある。それだけは駄目だ。そんな結末は、自分も彼女も望まない。だから、今だけだ。これはほんの一時だけの安らぎ。時が経てば、復讐に生きた時間の中に霞んで消えてしまうくらいが丁度いい。油断して侵入を許せば、記憶に焼き付いて離れなくなる。

「(こいつは、俺の手に余る。復讐心おまえが喰われちまう前に手放すさ。だから今日くらい大目に見てくれ)」

憎悪を体現したような姿でこちらを見つめる自分に、心で語りかける。返事をしない片割れに薄っすら笑みを浮かべると、目の前に出されたラーメンへと箸を伸ばした。

「これは・・・美味いな」

呆然と呟く彼に、響歌は今日一番の笑顔を向けた。また狡噛の胸が疼く。今日だけだと、あと何回唱えねばならないのだろう。あと何日、彼女の隣にいられるだろう。無垢な子どものように心を貪ってくるのに何故か、心が満たされる心地がする。いっそ胸を焦がすこの感情を呑み込んでくれたら、ひたすらに闇を覗けることができるのに。

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に痺れた!