仮死状態の宝石

槙島は随分長い時間をかけて準備をしている。やはりと言うべきか、その間も影を見せることはなかった。しかし、一係の面々は決して気を抜くことはせず爪を研ぎ続けている。一方で気を張ることなく今まで通り過ごしていた響歌は、赤井に引き摺られる形でトレーニングルームへと向かっていた。

「赤井さん…いい加減、手を放してください。逃げたりしませんから」

腕を掴まれ廊下を歩くのは流石に視線が痛い。ぼやく彼女を釘を刺すように見てから、赤井はそっと手を放してやる。やっと解放された右腕にふぅと息を吐いてから、徐に話し出した。

「ここ最近、考えていた事があるんです。上は何故、槙島の確保を命じたのか」
「……ドミネーターで裁けないからだろう」

声を潜めることをしないのは態とだ。通常のトーン、普通の表情で話していれば、周りはその内容をそれほど気にしたりはしない。響歌の問いに赤井は怪訝そうに答えた。確保を命じた理由など明確だ。執行できないからに決まっている。まさか刑事課の人間に、その場で対象を殴り殺せなどと言うわけにはいかない。赤井にとって不可解なのは、その程度のことが彼女に分からないはずがないということだ。

「ドミネーターはシビュラの目。以前マサさんが言っていました。私も同意見です。その上で、問います。主人の思い通りにならない目があると思いますか?」

その言葉の意味を反芻するために、赤井は立ち止まった。まさかな、と笑い飛ばす根拠がない。むしろ彼女の理論の方が筋が通る。

「正しい行程で裁けないなら、主人の手で裁けるようにしてしまえばいい。ちょちょいとエリミネーターで執行しろと命じるだけでいいんです」
「考えたくはないな。それでは俺達にトリガーを引く権利を与えている理由がない」
「免罪体質は特殊事例です。自動化で対応できる場面の方が圧倒的に多い。最終決定は人が下す、その事実は必ず人々を安心させます。全てを無機質なシステムに委ねるのではなく、血の通った人間が介入しているという事実。まあ実態は、イエスマンなんですけど」

確かにドミネーターはシビュラと直結している。対象の状態に関わらず、強制的に執行することは可能に思える。執行官の自分からすれば、正直言って想像したくない。仮に犯罪係数が300以下でも、肉片にされる可能性があるということだ。相変わらず、目の付け所が違う。数ある可能性を掬い取り、ゼロでない可能性は決して排除しない。その時点で演算量が普通の人間の比ではない。そして、シビュラを信じていないからこその視点。人々は、シビュラに盲信していても、心の隅では全てを委ねることを恐れている。本人達ですら自覚していない潜在的な恐怖心を拭うことも、刑事課の仕事というわけだ。

「仮にそれが可能とすれば、一つ疑問が出てくる」
「「−−−何故、実行しないのか」」

声を合わせて唱えた。響歌は愉快そうに笑う。そう、あの局長は槙島を確保し連行しろと命じた。そして、藤間同様にその存在は消えるだろうと言い切った。消えることが死ぬことと同義だとすると、誰がそれを実行するのか。連行したその先は、自分達に知らされることはない。

「そうは言うが、犯罪係数に基づかない執行など、実行する人間の精神の方が心配だろう。引き金のないドミネーターに、銃把を握る者の意思が介入する余地などない。そんな役をやりたがる奴がいるとは思えん」
「そうですかね?進んでやる人間は結構いると思いますよ。濁らないだけで、私のように物騒なことを考えている輩は多いでしょう。シビュラに裁けない凶悪犯を殺す場面を見られるなんて、滅多にない機会じゃないですか。それにドミネーターだとは限りませんよ。今やドローンでも人は殺せます。手を汚さずとも、簡単に。正義の名の下であれば、殺人ではない。嘆かわしいことに、そう考えちゃう人もいるんですよ」

いつの間にそんな顔をするようになったのだろう。嘲笑するのではなく、どこか切なげな横顔に赤井はそっと瞼を閉じた。魚達かれらを可哀想だと、そう思うようになったのか。人間らしくなったことを喜んだら、彼女は怒るだろうか。いや、今はただ見守ろう。祝杯を上げるのは、怪物を捨て真に人になった時でいい。

「でも、もっと簡単に考えられるんです。確保は最終手段ではなく、そうする理由があった。本当に・・・身柄の確保が目的だったんじゃないでしょうか。"消える=死"という認識がそもそも間違いだとしたら、一体全体どこに消えるんでしょうね……免罪体質者には殺さず連行する価値がある。巫女の目を掻い潜った犯罪者として、標本にでもするんでしょうか」
「珍しいな。関係のない事に自ら首を突っ込むのか。好奇心…ではないな。そんなことをせずとも、お前の目的は達成できる。証明材料はすでに揃っているのだから。思考することを嫌うお前が、のめり込む理由を当ててやる・・・狡噛君、だな」

赤井が揶揄うように響歌を見る。非難しているわけではない。ただ少し悪戯心が刺激されただけだ。薄い笑みを浮かべたまま、彼女は何も答えず歩き続ける。

「気付いているはずだ。正義の名の下に殺人を犯そうとしている。お前がさっきそう評した対象に、彼もまた含まれている、違うか?」
「赤井さんって、優しいのに意地悪ですよね。でもそういう所、私はとても好きですよ」

少し歩を緩め、揺れる髪を見つめる。再び横へ並び、鈴のような声に耳を傾けた。毎度のことながら、鼓膜から侵される気分だ。本心しか見せないというのも些か考えものだなと赤井は苦笑する。

「狡噛を支えているのは、正義ではありません。復讐心…言い換えれば憎悪です。それは嘘偽りのない、本物の心。だから彼の生き様は、あんなに眩しい。別に正義を否定しているわけではないです。私は、自分の為なのに他人の為だと言う奴が大っ嫌いなんですよ」
「彼の復讐心は、佐々山執行官のためだろう?」
「ええ、きっかけはそうですね。でも、そこには確かに狡噛の思いが在る。あの憎悪の根源は紛れもなく彼ですよ。手放してしまう人ばかりの世界で、産み落としたものを大事に育て、巣立たせようとしている」

瞼を閉じ、目の前にはない狡噛の姿を浮かべる。そうして見えるのは、優しく微笑む表情ではなく、必死に這い上がろうとする姿だ。それこそが、響歌の中に住まう狡噛慎也そのもの。

「安心してください、忘れていませんよ−−−楽しく踊れ。好きに奏でろ。面白ければ笑え。実行した上での寄り道です。これ以上は踏み込んだりしません。行く末を案じるくらいは、大目に見てください」
「咎めてなどいない。ただ、少し妬けるだけだ」
「は…それはまた、貴方にしては面白い冗談ですね」

冗談のつもりは一切ないが、そんなことは彼女も分かっている。ただの利害関係だったはずが、随分と熱を持ったものだ。思いも寄らない言葉に、響歌は嬉しそうに目を細め笑う。いつか赤井かれにも、瞼の奥でしか会えなくなるのだろうか。互いを結ぶ手錠を外す時が近付いている。きっと、身体の一部を引き剥がされるような痛みが待っているのだろう。それでいい。それがいい。背中を預けられる相手がいたことを、決して忘れないために。

「あ、ほら。噂をすれば何とやらですよ」

目的地に着き、開口一番そう言った。トレーニングルームには、さっきまで話題に上がっていた彼の姿がある。鍛錬は嫌いだが、この二人とやるなら悪くない。未だこちらに気付いていない狡噛の方へと駆けて行く響歌の背を、赤井はゆっくり追いかけた。

「狡噛慎也、覚悟!!」
「っ、……なっ!?」

背後からの急襲に、狡噛は咄嗟に身構える。それは反射によるものだったが、相手が彼女だと分かり、無意識に構えが甘くなった。そこを隙ありとばかりに、容赦ない拳と蹴りの連打が狡噛を襲う。やりづらい。そう思うのは、何度も組み込まれるフェイントや手数の多さもあるが、決定的な理由がもう一つ。狡噛じぶんは彼女を本気で殴れない。誰かと闘う時は、相手を制圧する覚悟で対峙しなければならない。少なくとも、職務中や槙島に対しての狡噛はそうだ。ところが相手が彼女になると、あくまで訓練の延長だと理解していても、攻撃の手を緩めてしまう。自分はこんなに甘い人間だったのだと痛感させられる。と同時に、まだ大切なものを慈しめることに安堵した。内心で苦笑しながら、狡噛は響歌の拳を受け止める。そして、悟った。もしも敵として切り結ぶことになれば、自分は必ず負ける。一方で彼女は、きっと一欠片の躊躇いすら見せることはないだろう。

「なに、考えてるっ、の!!」
「ぐっ……さぁ、な!」

顔面に来ると思った拳が、気付けば腹を襲う。彼女の戦闘スタイルはとにかく速い。一撃のダメージはそれほど重くないが、塵も積もれば何とやら。そのスピードに翻弄されているのが分かる。負けは見えていた。ダンッと音を立てて狡噛は背中から倒れ込む。次に目を開けると、喉元に爪を突き付けられていた。響歌が狡噛の体に跨り、こちらを見下ろして笑う。

「(自室のベッドの上なら文句なしなんだがな・・・)」
「勝負あり、だね。なんか狡噛、弱くなった?」

頭を過った邪な思い。そして、こうしてやり合って改めて思い知らされた、己の中にある彼女の存在の大きさ。こちらの葛藤などお構いなしに無邪気に尋ねてくる始末だ。素直に頷くのが癪で、狡噛は思わず顔を顰めた。純粋に勝負に敗れたことが悔しいと思っていると判断したのか、響歌は揶揄うように口角を上げた。彼女が思うほど単純ではない胸中を察した赤井が助け舟を出す。

「響歌、そんなに苛めてやるな。それより、コーヒーを買って来てくれ。2本ずつ手合わせして上がるとしよう。狡噛君、次は俺の相手をしてくれるか」
「監視官をこき使うなんて、やりますね」
「都合の良い時だけ上司面か?」

揚げ足を取られ、響歌が渋々部屋を出て行く。宣言通り手合わせするのかと思いきや、全く動こうとしない赤井に、狡噛は怪訝そうな視線を送る。それに気付き振り向くと、含みのある笑みを浮かべ赤井は尋ねた。

「あいつは君の枷か?」
「いえ、原動力です」

問われた内容に驚くことなく、狡噛は言った。迷いのない答えに赤井は満足そうに笑う。たとえ狡噛に何が起きようと、響歌が今進んでいる道を引き返すことはない。道を変えることもない。しかし、同じ道は行けずとも、互いの存在は大きく、闇の中で前へ踏み出す力となるだろう。この世界のどこかで、あいつかれが生きている−−−その事実こそが、原動力。

「ならば迷わず進むといい、たとえそれが深淵へと続く階段でもな。君の存在もまた、あいつの原動力だ」
「どうでしょうね・・・響歌は強いですから、他人を拠り所にすることはありません。俺がいなくても立っていられます。赤井さんは、あいつがそういう人間だと、よくご存知でしょう。俺の存在は、貴方と違って替えが利きます」

狡噛は慧眼だが、こと彼女に関しては例外らしい。随分と拗らせている。過小評価、もっと言えば卑下している。その証拠に、赤井を引き合いに出した。響歌の中で赤井は、狡噛と比べる対象にはならないことに気付いていないのだろう。そもそも、立ち位置が違うのだ。しかし、それを教えてやるほど赤井は優しくなかった。気付かなければいい。そう思う理由は保身か、あるいは嫉妬か。恐らく、50:50だろう。相棒という唯一の場所を脅かされたくない。そして、自分には一生向けられることのないだろう、信頼とは違う熱の籠った眼差しが、少し羨ましくなることがあるのも事実だ。しかし、その場所を響歌に望むことはない。赤井にとって、今以上に心地の良い居場所などないのだから。腕の中で微笑む姿より、生を味わい尽くす姿を見ていたい。向かい合い手を握るより、互いに武器を持ち背中を預けていたい。

────あくまで人間として、愛せるか?

そう問われれば、赤井は迷いなく頷ける。しかし、狡噛は恐らく違う。響歌に向ける眼差しは赤井のそれとは似て非なるものだ。そして彼女もまた、赤井に対するのとは別の情を狡噛に向けている。羨望、情景、互いの瞳に宿った感情の中に混ざる恋情に、どちらも気付いていない。歩みを止めないために、無意識に蓋をしているのかと思うことすらある。その想いが枷となる前に、早々に摘んでしまうべきだろうか。それが主の望みならば、躊躇なく従おう。もし彼女が捨てられないと言うならば、自分の手で箱に仕舞った恋情ほうせきを虚空へ葬ってもいい。それとも、むしろ逆か。手放せば、真にその心を殺すことになるかもしれない。赤井は思考する。鬼が出るか蛇が出るか。ここで一か八かの賭けに出るのは危険だ。遊ぶには、時と場合を選ばねばならない。

「狡噛君、こんな世の中だからこそ、欲望には忠実でいた方がいい。潜在犯だということは、無欲でいる理由にはならない。どんな感情も殺す前に一度は吟味すべきだ。君はちゃんと、それを実行したか?」
「…中途半端に抱えていられる段階は過ぎました。俺は器用な方じゃありません。生かすか殺すか、どちらかです。この想いを花開かせてしまえば、俺は深淵を覗き続けられなくなる。あいつを枷にしてしまう。それだけは、死んでも御免です。持って行くのは、憧れだけでいい。これだけで、俺は息をしていられます」

たとえそこが海の底でも、その存在は酸素のように。狡噛が自分の喉を掴む。指先に込められた力とは裏腹な穏やかすぎる表情に、赤井は息を吐いて謝罪した。

「すまない、愚問だったようだ…ただの猟犬が口を挟み過ぎた。許してほしい」
「いえ、慎重過ぎるくらいが丁度いい」
「赤井さーん!コーヒー売り切れだったので、ココアでいいですか・・・あれ、もう終わったんですか?」
「じゃないと調和が取れない、違いますか」

間延びした声に、思わず肩の力が抜ける。呑気なものだ。意味深な会話に、響歌は怪訝そうな顔を見せる。赤井も狡噛も気を削がれ、互いに顔を見合わせ息を漏らした。ふたりが差し出されたホットココアを受け取ると、今度は響歌が声を上げて笑う。愉快そうに目を細めて、言った。

「赤井さんも狡噛も、ココア似合わないですね」
「自分はどうなんだ」
「んー、似合わないですね。温かくて甘い……私とは正反対じゃないですか、そう思いません?」
「安心しろ、俺達は断然コーヒー派だ。なぁ、そうだろ、狡噛君」
「・・・随分苦そうですね。飲んでも呑まれないよう、用心した方がよさそうだ」

喉を鳴らして狡噛が言う。散々な言い草に響歌は少し不満げだ。自分で言うのはいい、しかし誰かに言われるのは些か複雑である。

「響歌、それを飲み終えたら今度は俺とだ」
「スパーリング・ロボ相手にやりません?あれの見た目を局長にしたら、もう少しやる気が出そうです」
「とても公安局で働く奴の言葉とは思えないな。どうせ、赤井さんとやりたくないだけだろ」
「だって狡噛と違って、手加減してくれないから」

何となしに吐き出された台詞に、狡噛は微かに瞳を大きくする。気付かれていた。すぐに返答することができず、拳を軽く握る。彼女が怪物だということを失念していた。観察力は人並み以上、洞察力は化け物級、加えて常に冴え渡る第六感。隠し通せるわけがない。

「責めてはいないよ。本当言うと、ちょっと嬉しい。最後まで、その心に居させてね。片隅でいいからさ」

狡噛はじっとその横顔を見つめた。憂いの欠片もない表情に、胸が疼くのを感じる。響歌は視線を絡めることなく立ち上がると、部屋の中心で待つ赤井の方へ駆けて行く。まるで生きた呪いだと、狡噛は思った。本音を言えば、憧れいちぶだけでなく、全てを抱えていたかった。手放そうとしている恋情かけらの方が大きくなりつつある。顕在化する前に、棺桶に入れて燃やしてしまえ。

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