────マサさん。
柔らかく、それでいて明瞭な声。女らしく微笑んだかと思えば、次の瞬間には鋭いナイフのような瞳を見せる。刑事でありながら正義を嫌い、利他より利己を優先することを厭わない。初めはその生き方に危うさを覚え、老婆心で忠告をしたこともあった。息子と同い年だったから、彼女を救うことで家族を傷つけたことへの免罪符としたかったのかもしれない。
────ほんと、優しいですね。何故、私のような人間がこっちにいて、貴方がそちらなのか不思議で堪りません。私は自分を過信などしていませんよ。だから命綱も着けていますし、景色を楽しむことで心の余裕を保っている。だから心配しないでください。その優しさを必要としている人間は別にいます。
目を細めそう言った顔を、よく憶えている。彼女は、決して慢心などしない。同時に卑下することもない。常に自分を正しい位置におき、物事を考えている。そういう人間だからか、彼女が吐く言葉は重く、いつも胸に刺さる。いくら拒絶されようが息子を見守れと、背中を押された心地がした。幸か不幸か、物理的には傍にいる。今度こそ必ず、父親を全うしてみせよう。いつかあの世で会った時、彼女に誇れるように。
「……ん?」
部屋の扉が開く気配に、思考を止め顔を上げた。驚きで思わず取り落とした筆が、音を立てて床に転がる。階段を下りて来る影が一つ。少しの足音も立てず、微笑を浮かべながら手を振るのは件の彼女、響歌・ルートヴィヒ。監視官権限で、執行官の部屋に入ることは可能だ。しかし、不測の事態でもないのにそれを実行する人間はほとんどいない。一部の例外を除いては。全く悪びれる様子がないから、いっそ清々しいくらいだ。
「おお、珍しいな。どうした」
「帰国の記念にお酒でも飲もうと思いまして…久しぶりに一緒にどうです?」
「おいおい、戻って早々元気だなぁ。お嬢が酌してくれるんなら、断るわけにいかん。こんな老いぼれに声かけてくれるだけでも有難い限りだよ」
落ちた筆を拾い上げ、画材を仕舞う。突っ立ったままの響歌にソファに座るように促すと、奥の棚からグラスを2つ出した。いつも通り静かに夜が明けていくかと思っていたが、どうやら騒がしくなりそうだ。
「絵を描いていたんですか?」
「まぁな、あんまり見んでくれよ」
「どうしてですか?すごく上手なのに……色って、社会に似ていますよね。一色に見えても、何色も重なって今の色になる。この社会もまた、様々な色の人が集まって、真っ黒になっているわけですね。どんな色が混ざろうが、白に戻ることはない。隠すべきでないものまで呑み込んでいく。やってられないですね」
じっとキャンバスに描かれた花を見つめながら、響歌は語る。耳障りのいい声で社会を罵る彼女に、征陸は苦笑した。やってられないと最後に鼻で笑いソファに腰を下ろすと、ウイスキーの入った瓶を手に取る。
「注ぎますよ」
礼を言いながらグラスを前に出せば、手慣れた様子で酒が注がれる。続いて自分のグラスに瓶を近づける響歌の手を、征陸がやんわりと止めた。彼が右手を差し出すと、彼女は嬉しそうに笑い、瓶を手渡す。小さな手に握られたグラスに、波々と酒を注いだ。満たされたグラスを掲げ、一言。
「シビュラに乾杯・・・冗談です。何に乾杯します?」
「そうさなぁ…お前さんの帰国祝いだ。4年振りの再会にってところだろうな」
「では、私に乾杯してくれますか」
「ああ、いいとも−−−お嬢に」
そう言うのを合図に「乾杯」と声が重なる。カチンと小さな音を立てながら、グラスを合わせた。軽く一口含む自分に比べ、最初から一気に飲み干した響歌に、征陸は喉を鳴らして目を細める。
「私にとっては短い4年間でしたけど、色々なことを変えるには十分な時間ですよね」
「コウのことかい?」
「さすが鋭いですね。実はさっきまで、彼と話をしていたんですよ…いやぁ、安心しました。荒地になっていなくて本当に良かったです。本人に言ったら微妙な顔されそうですけど、監視官やってた頃より随分と人間らしくなりましたよね。あ、これ内緒ですよ」
シーッと白い歯を見せて、人差し指を立てる。確かにそう言われても、狡噛は素直に喜びはしないだろう。しかし、間違いなく心が軽くなるに違いない。必死に這い上がること、それを称賛してくれる人間は、今はもうほとんどいない。ましてや、全てを与えられる社会だ。必死になる必要すらない。汗水垂らす奴の方が白い目で見られる時代。そんな中、ひとり拍手を贈る彼女は相当な変わり者と言えるだろう。
「今のあいつを見て、佐々山はなんて言うかね」
「うーん…いい顔するようになったじゃねえか、とかですかね。みっちゃんは素直だから、きっと褒めてあげると思います。瞳を閉じて、大事な人の姿が浮かぶなら、狡噛は大丈夫ですよ」
彼女の言う狡噛の大事な人とは、間違いなく佐々山のことだろう。見つめるのが闇だとしても、その存在が命綱となる。獣のようなあの瞳に住まうのは、本当に佐々山だけなのだろうか。執行官に降格してから、狡噛が時折ふっと目元を柔らかくするのを何度か見た。あれはきっと憎悪から一瞬離れ、誰かを想っていたのだろう。その対象は恐らく、目の前にいる彼女だと、征陸は確信していた。
「お前さんにもそういう相手がいるのか」
「いますよ。ですけど私は…たとえその人達が殺されたとしても、狡噛のように誰かを憎む生き方はできません。少なくとも、己の目的を果たすまでは」
それまで浮かべていた微笑が一瞬で消え去り、表情と声に温度がなくなる。ぞくりと肌が粟立つ。これだ、と征陸は内心苦笑した。毎度のことながら、引き込まれる。まず結論を述べ、退屈にならない速度と抑揚の付け方、それから締めにトーンを落とす。
「よしてくれ、お嬢がこっちに堕ちてくるところなんざ、想像もしたくねぇよ」
「・・・マサさん。今から問題発言をしますけど、怒らないでくださいね」
苦笑いで征陸が言うと、響歌は微笑んでそう返した。彼女の口から飛び出すのは、ほとんどが問題発言だと言いたくなるのをなんとか堪える。しかし、保険を掛けるなんて珍しい。無言で先を促せば、彼女はまた笑って口を開いた。
「私の中で"堕ちる"とは、潜在犯になることではありません。人間でなくなることです。もちろん、今の立場でいる方が色々と楽ですけど・・・心の隅で、そっち側への憧れも確かにあるんですよ。全ての潜在犯が健常者を羨むのと同じように、ね。どんなに心を寄せようが、本当の苦しみは理解できない。暗闇の中をたった一瞬照らすことはできても、真に救うことはきっと一生できはしない。それならいっそ、一緒に闇に呑まれてしまえば…そう思うことが時々あるんです。でも結局、いつも最後は自分を選ぶんですけど。ご存知の通り私は自分本位な人間なので」
自嘲するように笑うと、落としていた視線を上げる。征陸はどんな顔をすればいいのか分からなくなった。釘を刺されていたが、怒りは少しも浮かんでこない。むしろどこか嬉しく感じてしまった自分に戸惑っていた。止めろと、そう言うべきなのだろう。年長者として、潜在犯として、彼女を思うならばそれが正しい行動のはずだ。それなのに、喉に張り付いたように言葉が出てこなかった。そうして気付く己の愚行。不自由な場所から、自由に飛ぶ彼女を見ることに高揚感を覚えていた。あってはならない事だ。
「あれ、もしかして怒ってます?」
「ああ…自分にな。気付かないうちに感化されちまった。憶えてるか、昔お前さんが俺に言ったこと。命綱を着けているから心配するなって。ありゃ赤井のことだろう?しかしあいつは、どこかお嬢と一緒に楽しむ節がある。石橋を叩く奴がいないんだ。いつか揃って落ちちまうんじゃないかと思ったもんさ。だから俺は一歩離れて見守って、もしもの時はせめてどちらかは救えるようにと言い聞かせていたんだが…いかんな。いつの間にか俺まで演者になっていたなんて、間抜けもいいとこだよ」
ひどく苦しそうな征陸に、響歌は少し反省した。この男の優しさは、自分に向けられるべきではない。その所為で本当に護りたいものを失ってしまったら、自分には償う術がない。そうなったとしても、きっと征陸は響歌を責めはしないだろう。それが分かるから尚更その結末だけは避けたかった。理由はやっぱり自分の為。「お嬢の所為じゃあねえさ」と笑う顔を見たくない。これだから優しすぎる相手は苦手だ。自分にとって大切であれば尚の事。
「
「変わらねぇな。どうあっても、心配すらさせてくれないのか。俺の思いは、お嬢にとって不要か?」
「まさか。適切な言葉を探すなら、持て余してしまうんです。心が騒ついて、どうしようもない。この思いを何と呼ぶのか私は知りません・・・貴方が、初めてだったんですよ」
少し意地の悪い顔で尋ねる征陸に、響歌は答える。常に淡々と淀みなく話す彼女の声が、小さく震えて聞こえた。表情に特段変化はない。いつも通り口角を上げ、真っ直ぐに征陸を見つめている。怪訝そうな顔をする彼に、響歌は視線を落とすと言いづらそうに語り出した。
「初めてだったんです、私の生き方に心配
その瞳が揺れるのを初めて見た。縋るような色を放ちながら、征陸を映している。心配など、するに決まっている。上司と言えど、彼女は息子と同い年。強かに見えても、身体は男の何倍も細い。強靭なメンタルと異質な生き様で忘れそうになるが、揺らがぬ笑顔の下はただの女なのだ。
「まさかそこまで不器用だったとはなぁ」
「えー、なんでそういう意地悪言うんですか」
不満げに口を尖らせる様は、まるで子ども。だから、真正面からシビュラを疑うことができるのかもしれない。子どもという生き物は、良くも悪くも素直だ。好きなものは好き、嫌いなものは嫌い。偽りのない美しい心の傍にいたら、真っ黒になった己の心も綺麗にしてくれるのではないか。そんな往生際の悪い馬鹿げた願望を抱きそうになる。
「なに、少し揶揄いたくなっただけだ。いつもイジられてる伸元の敵討ちさ」
「はは、それは怖い。じゃあこれから宜野座をイジる時は、マサさんのいない所でやります」
「そうしてくれ。お嬢との会話はあいつにとってもいい刺激になる。潜在犯が何を言っても説得力がないだろうが、同じ立場のお嬢の言葉は良い薬だからな。頼むから、俺やコウの二の舞にはならんでくれ」
本当なら、誰にも頼りたくなどなかったのだろう。父親が息子を護る。響歌はその行為を当たり前とは思わないが、少なくとも征陸はそれを父親の役目と認識している。優しくて温かい人。巫女は、彼から父親という居場所すら奪っていく。
「ただ受け取るだけでは忍びないので、有効活用させていただきますね」
「どういう意味だい?」
「貴方の優しさもまた、命綱ということです。私を私に繋ぎ止める大事な生命線」
「そりゃ光栄だ。まあなんだ…心配はしちゃいるが、お前さんが強いのはよく知ってる。あんまり達観してるから、最初は痛みも感じなくなっちまってるのかと思ったもんさ。初めて現場に出た日のことは、今でも忘れねえよ。度肝を抜かれた」
懐かしそうに目を細め、征陸は語る。響歌もまた、初めてドミネーターで潜在犯を撃ったあの日をことを思い返した。特別対策室は新設されたばかり、且つ初陣ということで、当時三係所属の監視官であった和久善哉と征陸が同行したのだ。その何日か前に初任務を経験した狡噛の顔色から、中々スリリングな仕事なのだということは響歌も察していた。
「そんなに言われるほどでした?至って真面目に遂行したつもりだったんですけど」
「初めて人間が肉片になるところを見りゃ、普通は目を背けたり、狼狽えたりするもんだ。ゲロ吐く奴だって珍しかねぇ。ところがお嬢ときたら、和久に質問する始末。社会科見学かと勘違いしそうになったね」
あの時の執行対象は同情できないほどの人間だった。シビュラでなくとも、誰もが世の中にいらない奴だと声を揃えて言っただろう。そういう意味では、響歌は幸運だったのかもしれない。もしも職務を遂行できないような、同情の余地のある相手であったら、後味は最悪だったに違いない。しかしその場合、彼女がドミネーターの意思通りに引き金を引いたかどうかは甚だ疑問である。
────とんでもない殺傷能力ですね。これじゃ見た目では潜在犯だったのかすら分からない。肉片になった彼より、この銃の方がよっぽど化け物ですよ。
頬を血で汚しながら、彼女は言った。手に握った銃を見下ろし、笑う。それを見て征陸は、隣にいた和久へと視線を送った。彼は物珍しそうに響歌を見つめ、満足げに微笑んだ。そんな先輩に向かって、彼女は手を挙げこう尋ねる。
────和久さん。今日みたいな相手であれば、私は迷わず引き金が引けそうです。ですが、もし撃ちたくないと思う相手だった場合、どうすべきでしょうか?
耳が痛い質問である。その問いを聞いて征陸は直感した、こいつは只者ではない。生まれたその瞬間からシビュラの下で生きてきたはずなのに、ドミネーターをあくまで道具だと思っている。選択するのは銃把を握る自分だということを、当然のこととしている。顔を顰める征陸の横で、和久は笑った。
────我々の仕事は、この国の秩序と安寧の維持です。それが叶うなら、手段は問いません。誰も死なずに済むならば、それに越したことはないんです。
親が子どもにするように、少しのヒントを混ぜながら語る。それを真っ直ぐな瞳で響歌は受け止めた。和久の言葉を咀嚼するように黙り込んだのは、ほんの数秒間。監視官になるくらいだ。賢いに違いない。しかし時には、愚かさの方が必要なこともある。ここはそんな場所なのだ。彼女は顔を上げ、頷いた。口元に弧を描き、鈴のような声が空気を揺らす。
────よく分かりました。その時は、この拳で敵を制圧します。そうすれば、殺したくない相手をミンチにせずに済みますから。
ふわりと笑った顔にはまだ、幼さが残っていた。合格だとばかりに頷く和久に、響歌は律儀に礼を言う。そんなふたりを征陸は一歩離れて見ていた。
「あの日の和久さんの言葉は、今も胸にあります。お陰で、ここまで後悔せずに来ることができました」
グラスの縁をなぞりながら響歌は微笑む。今は亡き先輩を思い浮かべ、少し目を細めた。残っていた三杯目の酒を飲み干し、顔を上げる。空気がひりつくのを肌で感じ、征陸は思わず身構えた。
「最後に質問です。マサさんは、私の事を大切だと思ってくれていますか?」
「ああ」
「それじゃあ一つ、約束してほしいんです」
迷うことなく首肯すれば、響歌は珍しく少しばかり顔を歪めた。優しさを貰ったうえ、約束まで強請る自分を嫌悪したのだ。堕ちずに走り切ってみせる。だからどうか、この願いだけは。そう祈りながら、彼女は今度こそ微笑んだ。
「最後は必ず、笑って死んでください。そうなるように生きると、約束…してくれますか?」
右手の小指を出し、響歌はそう問うた。潜在犯に笑って死ねとは、無茶を言うものだ。しかし、彼女の瞳には疑いなど露程もない。それを見て、征陸は虚をつかれたような顔をしたあと、声を上げて笑った。
「ははっ、完敗だ!敵わねぇよ、お嬢には。命令じゃなく約束ときたか・・・誓おう。ほれ、拳万だ」
目元の皺をさらに深くしながら、自分の何倍も細い指に己の小指を絡ませる。光に満ちたその瞳の前では、嘘を付けるはずもない。征陸は思う−−−いつかまた笑って共に酒が飲めるなら、何でもいい。