鍵をかけ胸の奥へ

「おにーさん、ご一緒してもいいですか?」
「・・・気色の悪い呼び方するな。なんだ、ひとりか」
「うん。赤井さん、今日は非番なんだ。狡噛こそ、ここで食べてるなんて珍しいね」
「今日はギノの機嫌が悪い」
「成程、それはご愁傷様」

狡噛は顔を顰める。他人事だと思って軽い返事をしやがってと、目の前の女へと視線を向けた。本人は素知らぬ顔でいただきますと手を合わせる。奇抜な割にこういう所はきちんとしている。口内に残ったハンバーガーを流し込むようにコーヒーを飲んで、思い出したように狡噛は言った。

「そういえば、雑賀先生が会いたがってたぞ」
「ふーん、そうなんだ」
「そうなんだって…それだけか?」
「ん、特にコメントはなし」

響歌はそう言って肩を竦めると、二口目のカレーうどんを口へと運んだ。ほとんど汁を飛ばさずに食べる様子に、器用なものだなと狡噛は感心する。まだ監視官だった頃、うどんの食べ方が汚いと宜野座と青柳に注意されたのをふと思い出した。

「顔くらい見せに行ってもいいんじゃないのか?」
「あの人、観察ばっかりしてくるから苦手……あ、そうだ。そんなに言うなら、狡噛が一緒に行ってよ。仲良しなんでしょ?」

雑賀が興味津々なのは彼女が異質な所為だろう。プロファイリングを齧っている自分から見ても、難攻不落の要塞だ。ひとりでは絶対に行かないという目で、こちらを見てくる。こう言う時は、考えている事が手に取るように分かるから不思議だ。狡噛は深く息を吐いてから頷いた。

「・・・了解だ。次の休みはいつだ?」
「え、嫌だな。冗談だったんだけど」
「お前、嘘は言わないんじゃなかったか?」
「嘘じゃない、冗談。んー、まあいっか。二度と会えなくなる前に一度くらい……直近だと、4日後かな」
「奇遇だな、俺もその日は非番だ。しかしこの頃、お前に休みを潰されてばかりいる気がするな」
「今回のは逆でしょ。私は別に行きたくないし」

笑みを浮かべる狡噛に、響歌はげんなりした顔でカレーを啜る。せっかくの休みが無くなってしまった。雑賀の自宅は秩父だ。1日潰れるのは必至だろう。しかしグジグジと悩むタイプでもないため、食事を終える頃にはいつもの表情に戻っていた。そして4日後。黒いスポーツタイプ車で現れた響歌は、狡噛を助手席に乗せるとアクセルを踏んだ。

「ねえ。朱ちゃんも例に漏れずジョージ先生の洗礼受けたんでしょ?どうだった?」
「ああ。あいつ、泳げないらしい」
「ははっ、そうなんだ。今度プールに誘ってみようかな。面白そう」
「あんまり苛めてやるな」

意地の悪い計画を立て始める彼女を諌めながら、狡噛はウインドウに映るその横顔を見つめた。沈黙が息苦しくなるような間柄ではないから、余計に退屈だ。なんとなしに観察を始める。響歌はコス・デバイスを使わない。現実を愛する彼女らしい。今日の服装は白いシャツにスキニーのパンツ。シンプルだが、身体のラインがよく分かる。徐にシートを傾け、腰の括れを眺めた。

「(尻と脚が見えないのが惜しいな)」

さらにシートを倒す。こんな所で盛るわけにもいかずに、そっと瞼を閉じた。誰かの傍で寝るなんて、何年振りだろうか。自室のソファはこの助手席より些か広いはずだが、ここの方が何倍も心地良い。今ならすぐに眠れそうだ。ピクリとも動かなくなった狡噛に、響歌は視線を向ける。猟犬の片鱗すらない寝顔を見て思わず微笑んだ。ここまで無防備な姿は珍しい。結局、目的地に着くまで彼は目を覚ますことはなかった。車を停め、眠りこける同乗者の肩を揺する。起こす側になるのは初めてだと内心苦笑した。

「狡噛、起きて」

ゆっくりとその瞼が開く。覚醒しきれていないまま、狡噛は微睡んだ瞳で自分を見下ろす誰かの姿を捉えた。ぼんやりとしたその輪郭を確かめるように右手を伸ばし、かさついた指先で響歌の頬に触れる。己の名前を呼んでいるのが彼女だと解ると、ふっと笑みを零した。そのままその後頭部へと手を回す。そこで狡噛は我に返った。はっと開眼し、飛び起きる。空転する脳をなんとか働かせようと努めた。

「(おいおい……俺は今、何をしようとしていた?)」

ついさっきまで響歌の髪に触れていた手で、自分の顔を覆った。いくら寝惚けていたとはいえ、引き寄せて口付けようとするなど、もう誤魔化せない。自己嫌悪に陥りながら、クソッと心で吐き捨てた。はぁと息を吐いて、手を首の後ろへと回す。項垂れるように視線を落としたまま数秒。何も言ってこない彼女に、平静を装って声をかけようとした時だ。

「狡噛、もしかして夜にちゃんと眠れてないの?」
「は……」

思わず間抜けな声が出た。何がどうなって、その結論に達したのか。二の句を継げないでいると、響歌はズイと顔を近付けてくる。咄嗟に身を引くが、お構いなしに距離がゼロになった。狡噛が反射で閉じた瞼を再び上げると、彼女は額を合わせ唸っている。残念なことに、触れているのは額だけだ。

「熱はないみたいだけど、体調が悪いなら無理しない方がいいよ」

この野郎と叫びそうになる。邪な展開を想像してしまった自分を恥じた。同時に、何ともない顔で掻き乱してくる彼女に複雑な感情が湧いてくる。

「生憎、絶好調だ。さっさと行くぞ」

いまいち納得のいっていない顔のまま、響歌も車を降りた。チャイムを鳴らし、狡噛が名乗るとすぐに扉が開く。雑賀が物腰柔らかく迎えると、笑顔で会釈をする狡噛とは裏腹に、響歌はどうもと言葉少なく返事をした。部屋に通された後、出されたコーヒーをふたりが口に含むと、雑賀が早速話し始める。

「5年振りか…驚いたな、誰の影響だ?」
「そら来た、だから嫌だったんだよ」
「先生、もっと詳しくお願いします」
「ちょっと、狡噛…どっちの味方なの?」

眼鏡をイジリながら声を弾ませる雑賀に、響歌は顔を顰めて返した。それに対し、狡噛は面白そうに詳細を尋ねる。そんな彼の肩を小突く様子を見て、雑賀は目を細めた。随分と表情豊かになったものだ。初めて会った時は、楽しくもないのに笑っているような子供だった。少なくともこんな風に怒ったりはしなかった。

「犯人は君か、狡噛」

身を乗り出して尋ねてみる。問われた本人は、それにひどく驚いた顔をしてまさかと笑った。嘘だと雑賀は直感する。あれは謙遜している時の顔、そうであればいいと思っている。雑賀が含み笑いを浮かべると、狡噛は居心地が悪そうに黙り込んだ。よく考えれば、どちらも一対一でなら話したことがあるが、こうしてふたり並んでいるところを見るのは初めてだ。中々興味深い。雑賀は次いで響歌に視線を移す。

「やっぱり怖い人だね、ジョージ先生…正解だよ」
「なんだ白状するのか、つまらん」
「正確には、彼も犯人の一人ってところかな」

両手の指を組みながら、響歌はふっと笑う。初めて見る人間らしい笑顔に、雑賀は息を止めた−−−嗚呼、やっと殻を破ったのか。一方で狡噛は、自分が彼女を変えた犯人の一人だということに驚きつつ、滅多に表情を変えない雑賀にそんな顔をさせた同期を眩しそうに見つめた。

「厄介な人達ばっかりでさ、気付いたらこんな感じだよ・・・ねえ先生、一つ質問。私は前より弱くなったように見える?」
「…冗談だろう。むしろ逆に見えるがね」
「そっか、安心した。これが弱さじゃないなら、このまま持って行ける。ある人に言われたんだ、前見て走れって。自分ではずっとそうしているつもりだったんだけど、気付かないうちに余所見していたみたい」
「ふむ…その誰かさんが主犯か」

確信したように、腕を組んで雑賀が笑う。それを聞いて、瞬時に主犯の正体を理解した狡噛は、そっと視線を落とした。その様子を見て、意地の悪い教授は興味深げに笑みを深くする。

「秘密。さて、お喋りはここまで。それよりお腹空いちゃった。ハンバーグが食べたい」
「へいへい、そう言うと思って用意しておいた。あとは焼くだけだ。手伝ってくれ」
「やった!アシスタントならお任せを」

親子のように会話をしながら、並んでキッチンへと歩いて行く。話の切り方がとんでもなく雑である。狡噛も手伝おうと腰を上げたが、座っていていいと言われてしまった。仕方なく再びソファに戻り、考え事を始める。ここ数週間で響歌は少し変わった。恐らく過去を明かしたあの日からだ。上手く言葉にできないが、危うさが無くなったように感じる。風に揺れていた炎は、どんな強風が吹こうが消えることはない。今の彼女なら何でも出来る、そんな気すらする。赤井の助言通り、前だけを見据えているのだろう。ならその瞳にはきっと、自分はもう映らない。ナイフで抉られるような胸の痛みに、狡噛は苦笑した。いつまでこんな茶番を続けるつもりなのだろう。彼女だけを選ぶ覚悟などないのに、傍にいてほしいだなんてあまりに愚かしい願いだ。

「お節介かもしれないが…全て中途半端、なんてオチは勘弁してくれよ」

いつの間にか向かいに腰掛けた雑賀が言う。咄嗟に響歌の姿を探すと、まだキッチンにいた。小さく息を吐いて、視線を戻す。彼の前で隠し事はできない。狡噛は、意地の悪い言い方をするなと思った。全てだなんて言っておいて、実際は二つだ−−−復讐か、愛か。憎悪というものを初めて抱いた日には、まさか自分がそれと何かを天秤に掛けることになるなんて思いもしなかった。

「どちらを取るかは決まっています。自分には常に厳しくあるつもりですが、そのもう一つが恐ろしく魅力的で、困ったことに離したくないんですよ。いっそのこと、獣のように食っちまいたいと思うくらいに…狂っていますかね」
「いや、実に人間らしい」
「それならいいんですが・・・傍にいないと息ができない、なんてことになる前に離れます。自由に飛び回る姿に惹かれたくせに、この手でその羽を捥ぐなんて愚行でしょう。幸いあいつは強かな女ですし、優秀な相棒もいる。心配はしていません」

自分がいなくても大丈夫だと、そう言葉にしながら狡噛は猛省する。彼女の強さを理由にしようとした。まるで潔く身を引くみたいだ。違う。御託を並べているだけで、こんなにも欲しくて堪らない。それでも痛いほど理解している−−−彼女は決して愛を選ぶことはない。その愛の宛先が自分だという自信もない。

「後悔しないかと訊かれたら正直微妙なところです。ですが、もしそっちを取っても、俺は結局この憎悪を捨てられない。それにあいつに言われたんですよ、俺の生き方が好きだって。なら貫くしかないでしょう。あの瞳の前では、常に胸を張っていたいんです」
「そうかい。狡噛・・・もし二度と会えないとしたら、君は彼女に何を望む?」
「そうですね……刑事でも獣でもない、ひとりの人間として、狡噛慎也を憶えていてほしいってのは欲張りでしょうか」

その答えに雑賀は満足そうに笑った。捨てずに持っていろなどと、無責任なことは言えない。それを決めるのは狡噛自身だ。しかし雑賀は確信していた−−−その愛は決して枷などではなく、むしろ背中を押すものだ。ならば、いつか必ず抱いてよかったと思える時が来る。ただその瞬間、狡噛の隣に彼女はいない。仮死状態から目覚めても、受け取ってくれる相手はもう傍にはいないのだ。行き場を失った愛を捨てるのか、再び眠りへと誘うのか。それとも彼女を探し出し、今度こそ花開かせるのか。それは誰にも分からない。

「神のみぞ知る、か」

雑賀の小さな呟きに、狡噛は怪訝そうに見つめ返す。聞き取れなかったのだろう。そんな男達の鼻腔に、ジューシーな匂いが侵入してくる。どうやら焼き上がったらしい。席を立つ雑賀に、狡噛も続く。鼻歌交じりに盛り付けると、響歌がふたりに皿を差し出した。

「おい、お前のが一番デカいじゃないか」
「気のせいだよ」

そう返事をし、すたこらと席に着いた。未だ突っ立ったままのふたりに、早くしろと視線を寄越す。黙って椅子を引く雑賀に、狡噛も渋々倣った。監視官と執行官、そして元大学教授。いつかの実家での夕食を思い出して、響歌はそっと笑った。雑賀が話題を振り、残りのふたりが面白おかしく答える。食後には響歌が持参したクッキーが振る舞われた。

「相変わらず美味いな・・・スパイスクッキーか」
「当たり。先生、甘過ぎるのは嫌いそうだから」
「立場が逆ですね、雑賀先生。俺もこれは好みだ」
「それは何より。でも紅茶の方が合いそう。持ってくればよかった。先生の家ってコーヒーしかないの?」
「生憎、紅茶はないな」

あからさまに不満げに響歌が息を吐いた。他愛無い会話を交わしながら、数時間。緩やかで温かな時が過ぎていく。くすくすと笑う響歌の隣で喉を鳴らす狡噛に、雑賀は柄にもなく胸が軋む思いがした。胸の底へと追いやったその愛が、いつか息を吹き返すことを祈らずにはいられない。3杯目のコーヒーを飲み終える頃には日が沈みかけていた。玄関先で雑賀がふたりを見送る。

「じゃあ先生、さよなら」
「ああ、またいつでも来るといい」
「生きてここに戻ることがあればね。その頃には先生の方が天に召されてるかもよ」

響歌は意味深な言葉を残し背を向けた。驚くことに雑賀はそれを聞いて笑う。何か言いたげに自分を見る狡噛に肩を竦め、気長に待つさと返答した。今更どんな言葉が飛び出そうと驚きはしない。それに彼女はずっと、この世界を見限るために生きてきた。時が来たということだろう。今はただ、いつか再びコーヒーを飲み交わせることを願うばかりだ。

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に痺れた!