溶け合えば灰色に

「いや、疲れた。やっぱりあの人、苦手」
「そいつは気の毒に。雑賀先生はお前を気に入ってるように見えるがな。俺は中々楽しかったぞ。少々癪だが礼を言う・・・ありがとな、響歌」
「どういたしまして」

帰りの車の中、響歌が顔を歪める。それに肩を揺らして返事をすると、狡噛は微笑んだ。嘘偽りのない表情と言葉だった。珍しく嬉しそうに響歌も喉を鳴らす。狡噛はその横顔を目に焼き付けた、二度と忘れないように。便利なものではないと言っていたが、今は少しだけ彼女の持つ記憶力が羨ましくなる。そんなことを思いながら往路と同様にそっと目を閉じた。ただし今度は、意識を保ったまま。それだけでも十分な休息になる。街明かりが目立ち始めた頃、狡噛が呟いた。

「結構いい時間になっちまったな」
「うん、最高に眠い」
「寝るなら帰ってからにしろ…っ、おい!今の所、まだ直進だろ!」
「大丈夫、起きてるよ。家に帰るの」
「いや、俺を忘れるな。ちゃんと宿舎に帰してくれ」

しかし響歌は微笑を浮かべたまま車を走らせ続ける。何を考えているのか、狡噛にはさっぱりだ。夕食でも振る舞うつもりだろうか。諦めてシートに身体を沈めて15分ほど、車が停まった。大きな欠伸をしてから響歌は狡噛を見て、とんでもない提案をしてくる。

「狡噛、今日は私と一緒に寝てくれる?」
「はぁ!?本気で言ってる……みたいだな。何を考えているか知らないが、大人しくしてると思ったら大間違いだ。この際だから言っておく。俺はお前をそれなりに好意的に思っている。正直、抱きたいかと訊かれれば答えはイエスだ。それでもいいってんなら、好きにしろ。俺も楽しませてもらう」
「驚いた・・・狡噛、私とセックスしたいの?」
「……ちょっと待て。まさか文字通りの意味か?」

本日二度目の自己嫌悪だ。おまけに意図せず告白させられてしまった。辛うじて出来た悪足掻きは"それなりに"なんて言葉を挟むことだけ。らしくなく穴があったら入りたいと思った。そんな心情を他所に、冷たい左手が狡噛の頬に触れる。

「私は自分以上に誰かを愛することはないよ。だから一生、処女でいるって決めてるの。たとえ狡噛でも、それを捧げるわけにはいかない。ただ隣で眠るのが難しいなら宿舎まで送るよ」
「はっ、お前らしいな。知ってるさ、痛いほど。楽になると分っていても、お前は他人に縋ったりしない」
「それは違う。だって私は今、貴方に縋っている。大切な人の隣で眠ると安心するから」

伸ばしていた手を膝へと戻して、響歌は視線を落とした。誰かを思い出すような横顔に、狡噛は気がつく。こういう時、自分の観察眼を呪いたくなる。重い唇を開いて尋ねた。

「つまり、誰かと一緒に寝たことがあるのか?」
「……分かって訊いてるでしょ。その人が言ってた。ほとんど動かないから抱き枕には丁度いいって」
「はぁ、本当つくづく尊敬するぜ。あの人はどこまでも、お前だけなんだな……手は出さない、約束する。その代わり、ちゃんと寝かし付けてくれ」
「了解、お手柔らかに」

目を合わせずにそう頼んだ狡噛を、ひどく優しい顔で響歌は見つめた。車を降りてみると、マンションではなく一軒家だ。それも平家。それほど広くはなさそうだが、車庫まで付いている。部屋の中はシンと静まり返り、AIセクレタリーもなければ、内装ホロも使われていない。人間性というのは至る所に反映されるものだなと狡噛は苦笑した。

「お風呂入ってきて、着替えはこれ」
「ああ」
「男用のシャンプーとかは無いから我慢してね」

風呂場を指差して、自分はキッチンへと向かう。女が暮らしているとは思えないほど物が少ない。熱いシャワーを浴びながら、狡噛は目を閉じる。いつもより少し念入りに身体を洗い、浴槽に浸かった。

「何をやってるんだ、俺は」

呟きは虚しく消えた。断ち切ろうと思っていた感情を育てるような真似をしている。振り回されるとは正にこの事だ。今の自分を見たら、佐々山は指を差して笑うだろう−−−呑まれちまったかと。深く息を吐いて立ち上がる。渡された服は狡噛には少し小さかった。それに安心してしまう。赤井の物であれば、小さいはずがないから。誰の物かは訊かない。これ以上乱されるのは御免だ。

「……やっぱり小さいね。それ、兄さんの服なんだ。狡噛みたいなゴリラだとっ、いた!」
「誰がゴリラだ。お前には言われたくない。いいからさっさと入って来い」

小突かれた頭を押さえながら、風呂場へと消えた。ふと本が並べられた棚の上を見ると、写真立てがある。見たところ、この空間で部屋の主人を象徴する唯一のもの。そこには学生服を着た響歌と、従兄である響輔が映っている。無邪気な表情で笑う姿に、狡噛の目元が緩んだ。羨ましいとは思わない。それは何度も見てきた笑顔だ。これまでも、今日も、自分の記憶の中にいる彼女はいつも笑っている。

「お待たせ〜、眠いからもう寝よう」
「子どもかお前は、まだ20時だぞ」
「言ってなかったっけ?ロングスリーパーなんだよ、私。10時間寝ないと、次の日とてつもなく眠い」
「道理で。赤井さんが苦労するわけだ」

呆れたように返せば、響歌はベッドに寝転がり欠伸をした。そして布団を捲ると、ここに寝ろと隣を叩いて見せる。色気の欠片もない様に、狡噛の肩の力が抜けた。呆れながら側に寄ると、腕を思い切り引かれる。バランスを崩し見事に倒れ込んだ。次に目を開けると、ふっと笑う響歌の顔が映る。そして、身を固くする狡噛の腕の中に潜り込んでくる。その様はまるでふたりの心の触れ合いを体現しているようだった。頑なで暗い心に容易く侵入し、好き勝手に染めていく。腕の間から顔を出し、響歌は喉を鳴らす。

「狡噛、体温高いね」
「お前……俺がさっき言ったこと理解してるのか?」
「してるよ。でも手は出さないって言った。貴方は約束を違えるような人間じゃない」
「そこまで信用されてもな」
「おやすみ」

答えられずにいる間に寝息が聞こえてくる。正気を疑いながら見下ろせば、彼女は本当にあどけない顔で眠っていた。ほんの少し腕に力を込めてみる。想像より遥かに柔い感触に慌てて力を緩めた。不思議なことに性的に体が反応することはなく、眠気が襲ってくる。意識を手放す前に、狡噛は右手で響歌の髪を撫でてそっと引き寄せた。少し身を起こし、額にかかった髪をどける。閉ざされたその瞼へと唇を落とし呟いた。

「人の気も知らないで…離せなくなるだろうが」

この場所がどうしようもなく心地が良い。そして痛感させられる、堪らなく好きだと。これは紛れもなく恋情だ。捨てる覚悟と反比例して大きくなっていく。どうしてくれると内心文句を言いながら、この瞬間だけで一生息ができる気すらした。

−−−−−

嗚呼、またか。暗い路地裏に佇み狡噛はそう思った。これは夢だ。このところ毎晩のように見る。現実かと錯覚するくらいリアルな悪夢。いや、違う。これは過去だ。何故なら、引き返せないこの暗闇を進んだ先、そこで待っているのはいつも決まった光景。あの日、あの場所で確かにあった現実−−−ぽっかりと空いた双眸でこちらを見る佐々山光留の姿だ。だが、進まねばこの夢から醒めることは叶わない。たとえ目覚めて朝食が喉を通らなくとも、ここに留まるより余程マシだ。重い足を引き摺りながら狡噛は進む。早る気持ちと、二度とあの光景を見たくないという思いが混ざり合う。

曲がり角に辿り着く。この先だ。ゆっくりと顔を上げて、狡噛は我が目を疑った。そこに想像していた景色はなく、別の人間の姿がある。こちらに背を向けていても、彼にはそれが誰だかすぐに分かった。狡噛の思考を嘲笑うように、生温い風が纏わりついてくる。揺れる髪に細い肩、真っ直ぐに伸びた背中、全て知っている。咄嗟にその名を呼んだ−−−響歌、と。何故、彼女がここにいるのだろう。まさか自分を迎えに来たのか、などと都合のいい事まで浮かんでくる。それくらい、この場所に彼女がいる事実が、狡噛には救いだった。呼びかけに反応し、響歌が振り返る。いつもと変わらぬ微笑を湛えこちらに歩いて来るのを見て、狡噛は安心したように息を吐いた。

刹那、額に触れる冷たく硬い感覚。何が起きているのか理解できなかった。彼の視界には笑みを浮かべたまま拳銃を構える響歌の姿。狡噛の口から乾いた笑いが漏れた。ドミネーターではなく、拳銃。彼女は今、巫女の意思ではなく己の意思で狡噛を殺さんとしている。これは現実か、それとも未来か。こんなにも恐怖を感じたことはない。その瞳に自分が映らなくなることを想像するだけで身体が震えた。無意識に後退すれば、彼女もまた一歩ずつ近づいて来る。

「っ……響歌」

絞り出すように名前を呼んだ。返事はない。視線すら交わらなかった。何故、よりによって彼女なんだ。他の人間なら、殺される前に反撃できる。いや、だからか。誰の仕業だか知らないが、全く以って悪趣味だ。大きく脈打っていた心臓が、段々と静かになっていくのを感じる。それと逆行するように心の悲鳴は音量を増した。くくっと喉を鳴らし、地面に向けていた視線を彼女へと移す。

「目の前で死ぬなと言ったのはお前だろうが・・・いいぜ、撃てよ。お望み通り死んでやる。その代わり、しかとその目に焼き付けろ。他の記憶なんか入り込む余地がないくらい、深く脳みそに刻み込め」

その言葉に響歌は笑い、トリガーを引いた。一発の銃声を聞きながら、狡噛は奈落へと落ちて行く。深く暗い海底のように、怖いくらい静かだ。何も見えない。何も聞こえない。霞む意識で思う。あの距離で撃ったのだ。彼女は自分の返り血を浴びただろう。その温度も臭いも、こびり付いて一生忘れられない記憶になればいいと、狂気じみた願望が浮かんだ。その身が沈んでいくのを感じながら、自嘲する。やはり自分は潜在犯、こんなにも容易く愛が狂気に変わるのだと。世界と決別するように瞼を閉じようとしたその時、無音の空間に声が響いた。遥か遠くから、目を開けろと叱責するように。

「−−−・・・がみ!狡噛!!」

鼓膜を揺らすのは紛れもなく彼女の声だ。それを理解し勢いよく瞼を開けた。視界に飛び込んできたのは、見慣れない天井とひどく取り乱した響歌の顔だ。"ひどく"というのは、あくまで狡噛にとっての意味である。第三者から見れば"ちょっと焦っている"程度だろう。しかし少なくとも、こんな風に彼女の瞳が惑うように揺れるのは初めて見た。夢か、と深く息を吐く。それなのに目を閉じれば浮かんでくるリアルな記憶。くそったれと毒突いて、ゆっくりと身を起こした。ふと時間を見れば、まだ午前2時だ。まあ5時間は寝ているから十分ではある。視線を隣に向けると、ベッドに座ったまま響歌がこちらを見つめている。そういえば、昨夜は家に連れ込まれたのだと思い出す。

「ひどい汗だよ。嫌な夢でも見た?」

白い手が狡噛の額に触れようとする。それが夢での光景と重なった。思わず顔を歪める。掻き消すようにその手を掴み引き寄せれば、小さな体は容易く腕の中に飛び込んできた。狡噛は縋るように響歌を抱き締めると、細い左肩に顔を埋める。鼻を掠めた甘く柔らかな匂いに、意識を持っていかれそうになった。まるで酩酊しているみたいな心地がする。きつく瞼を閉じて、身を委ねたくなる。突然の行為に抱きしめ返すでも抵抗するでもなく、響歌はただ狡噛の名を呼んだ。戸惑いも慰めもない、淀みのない声音で。それだけで、心が凪いでいく。これこそが現実だと思える。

「響歌…もしお前が俺を殺すとしたら、それはどんな時だ?」

少し顔を上げて、狡噛が問う。もしもあれが、いつか現れる未来なら、そんなものはこの手で殺してやる。この身に流れる汚い血で彼女の手を汚すくらいなら、誰もいない場所で喉を掻き切って死んだ方がマシだ。自分を包む腕の力が僅かに強くなったのを感じ、響歌はやっと手を伸ばした。広い背中を下から上へ伝うように背骨を撫ぜて、力を込める。そして、狡噛の耳元に唇を寄せて尋ね返した。

「質問で返されるのは嫌いだと思うけど、それって身体の話?それとも…心?」
「身体が死ねば、心も死ぬだろう」
「そんなことないよ。みっちゃんの心が貴方の中にあるように、心臓が止まっても心が生きていることだってある。逆もまた然り。まあその場合は、ただの抜け殻だけど。私が一番嫌いな人間の姿。結論から言えば、どちらの場合でも私が貴方を殺すことはないよ。貴方には生きていてほしいからその心臓を止めることはないし、貴方の心を殺す権利は私にはないもの」

迷いのない答えに、狡噛は僅かに腕の力を緩めた。鋭い彼女のことだ。心情は伝わっているだろう。あの光景が現実になることはない。そのことに堪らなく安堵した。しかし、やはり彼女。淡々と続ける。

「でも、宝石とくべつ石ころごみに変わる可能性はある」
「…見限られるというわけか。そいつは堪えるな」

自分を映すその瞳に宿る感情が"大切"から"無関心"に変わる。想像するだけで、耐えられない。身体を離して小さく息を漏らした。視線を落とした狡噛を気遣う素振りはなく、響歌は再び口を開く。全く以って容赦がない。

「貴方の心が息を止めてしまったら、私は二度と貴方を想うことはなくなる。そんな結末は御免だけど、心配は全くしてないよ」

慰めも優しさもほとんど見せることのない女だ。恐らくこれも本心だろう。その期待に応えることができるだろうか。復讐を成し遂げたその先で、彼女の前に堂々と立つことができるだろうか。そう問いかけてみて、思わず笑みが零れる。こんなに決断に迷ったのは初めてだ。手離すなど不可能。背を向けたつもりで、結局最初に戻ってきてしまう。脳みそが、どうにかしてこの愛を生かすための言い訳を並べようとする。

「腹を括れってことだな」

そう言って笑い、再び手を伸ばした。髪を払い左頬に触れる。もし赤井のように彼女を想えたら、もっと別の道があったのかもしれない。こんな風に胸を焦がされることなく、潔く憎悪だけを手に取れた。それでもこれでいいのだと、何故か今はそう思える。掴んで初めて理解した−−−正解だと。こうやって触れることで、その白が灰色になってしまうとしても構わないと思うくらい焦がれている。いっそ混ざり合えたら、自分だけのものにできるだろうか。獣の本性が顔を出す。それを軽く去なすように、響歌は狡噛の手を取りまじまじと眺めた。

「なんだ?」
「意外、赤井さんよりゴツゴツしてる」
「お前…態とか?そうじゃないなら質が悪すぎるぞ」
「あの人、すごく綺麗な手してるんだよ。なんて、興味無いか。じゃ、もう一眠りしようよ」

今すぐ押し倒したくなるのを狡噛はぐっと堪えた。そんな彼の心情などお構いなしに再び寝転がると、顔を覗き込んでくる。魘されていた男に躊躇なくそんな提案をしてくる輩はそうそういない。顔を歪めれば、響歌は目を細め狡噛の手を取った。

「怖いなら手を握って眠ろうよ。夢の中くらいなら命綱になれるからさ」

ひどく慈愛に満ちた瞳に、言葉を失う。己よりずっと小さく細い手だ。それでも狡噛にとっては、何より丈夫で信頼のおける命綱。すでに微睡み始めている彼女の髪を左手で撫でて、横になる。

「頼んだぞ。俺の安眠はお前にかかっている」
「……ん、了解」

こくこくと頷きながら、響歌は狡噛の右手をしっかりと握った。本当に分かっているのかと怪しげに見返して、戸惑う。彼女はちゃんと目を開けて、こちらを見つめていた。思わずピクリと指先を動かせば、見透かしたように今度は両手で触れてくる。そしてゆっくりと瞳を閉じる彼女に釣られるように、狡噛も倣う。その夜、あの悪夢が再び現れることはなかった。偶然かもしれないが、目覚めたときも変わらず握られていた掌に、どうしようもなく安堵した。朝食を囲みながら響歌は珍しく眉を下げて言う。

「ごめんね。本当はよく眠れるようにと思って誘ったんだけど、逆効果だったみたい・・・ねえ、どんな夢だったのか訊いてもいい?」
「そうだな……俺にとって最悪の光景、だな。気が向いたらいつか話してやる。それと、謝罪は不要だ。お前のお陰で決心が固まった。もう二度と同じ夢を見ることはないだろう−−−ありがとな」
「いや、自己完結されても困る」
「そこは素直にどういたしまして、だろ」
「素直さなんて、とっくの昔に捨てちゃったよ」

肩を竦めて黙々と箸を進める響歌に、狡噛は目元を緩めた。たった一夜でこうも変わるものか。加速する想いが、今は心地よくすらある。赤井や雑賀に会わせる顔がない。それでも、もう決めたことだ。

「(一度決めたら、曲げるわけにはいかない。全身全霊で守りぬいて、いつか響歌こいつの前に突き出してやる。どんな面をするのか、今から楽しみだ)」

ふと脳裏によぎるのは、もう一人の自分。近付き過ぎるなと警告してきた片割れが、何か言っている。槙島への恨み言ならいつでも聞こう。しかしそれがつまらぬ戯言なら、狡噛は決して耳を傾けることはない。

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に痺れた!