愛しいだけ哀しい

ノナタワーに辿り着いた狡噛達が目にしたのは、想像通りの光景だった。エントランスには警備ドローンが何台も転がっている。朱はすぐさま宜野座に連絡を取り、状況を説明、槙島を生きたまま逮捕しろと命じられた。その時の宜野座の態度に、狡噛は何かを感じ取る。殺すなと言われたことには驚かないが、どうも様子がおかしかった。しかし考えている暇はない。敵は二手に分かれて行動している。槙島は他に3人を引き連れて最上階へ、地下にも4人が向かっているとのこと。唐之杜のナビのもと、狡噛と朱は上へ、縢は下へ向かうことになった。ロックをかけられたエレベーターを諦めて、清掃班用のバックヤードに駆け込む。そこには分析官の言葉通りドローン運搬用のエレベーターがあった。しかしふたりは足を止める。そこにはすでに、人がいた。

「やあ、どうも。響歌は・・・一緒じゃないのか」
「貴方は響歌さんのっ、
「羽賀響輔」

言葉を失う朱の横で、狡噛が男の名前を呼ぶ。それに僅かに瞼を動かすと、男−−−響輔はふっと笑って見せた。その様があまりに彼女に似ていて、狡噛は思わず顔を歪める。

「へぇ、驚いたな。あいつが他人に僕の話をするなんて・・・安心したよ、心を開ける仲間ができて」
「何故ここにいる?あんたも槙島の協力者か?」
「いや、退屈だから付いて来てみたが、もう帰るよ。そこ、通してくれるかい?」
「生憎、あんたを見かけたら知らせろとあいつに言われている。それとも全て片付くまで、ここで寝ててもらってもいい…どうする?」
「それは勘弁してくれ。僕は武闘派じゃないんでね、殴り合いなら響歌の方が何倍も強い。心配しなくても、こっちから連絡するよ。僕もあいつと話したいことがある…信じられないかい?なんならこの場で連絡しようか?」

スマートフォンを振って尋ねる響輔に、ふたりは目を見開いた。それを見て、彼は楽しそうに喉を鳴らす。やはり、よく似ている。目の前にいると、惑わされそうになる。従妹同様に彼もまた、人を惹きつける妙な引力があるのだ。

「いや、信じるさ。目を見れば分かる。あんたは嘘を吐かない、そうだな?」
「それは光栄。エレベーターはそこだ、トラップはない。安心して乗るといい」

そう言って響輔は背を向ける。狡噛達が最上階の一つ下の89階に到達した頃、響輔は宣言通り彼女の番号を呼び出していた。知らない端末からの連絡に、不審そうな声で響歌が対応する。

「どうだ、ヘルメット狩りは順調か?」
「っ、兄さん」

思わず声が上ずる。それに反応した部下ふたりが顔を見合わせた。響歌はすぐに冷静さを取り戻すと、そっと唇に人差し指をやって、音を立てないように合図を送る。

「お前の友達に会った。目付きの鋭い黒髪の彼だよ。ちょうど槙島君とやり合ってる頃だろう。行かなくていいのかい?」
「彼らが抜けて空いた穴を埋めるのが私の仕事」
「だが、だいぶ街が静かになってきた。そろそろ終わりだろう……少し会えないか、話がしたい」
「・・・時間と場所は?」

僅かな沈黙の後、響歌が問う。今なら槙島はこちらに接触してこないだろう。それでも構わない。まずは1つ目、響輔の心が死んでいないことを確かめる。それだけでいい。

「位置情報を送った。1時間後、そこで会おう」

通信を切り、顔を上げて耳を澄ましてみる。周囲は静寂に包まれていた。どうやら本当に事態は収束に向かっているらしい。小さく息を吐いて、響歌は部下達と視線を合わせる。その瞳に、赤井は笑う。響輔と再会してから2ヶ月足らずだが、あの時とは明らかに変わった。その炎は容易く消えはしないだろう。しかし油断は禁物だ。すぐさま表情を引き締め、指示を待つ。

「赤井さんは私に同行を。降谷さんは少し離れた場所で監視をお願いします。私と赤井さんの両方が戦闘不能、あるいは周囲で不穏な動きがない限りは待機で」
「了解です」
「俺を帯同させていいのか?」
「ひとりで来いとは言われていません。それに今日は持ってきていませんよね、ライフル。なら、傍にいてください。貴方は私の盾であり矛なんですから。それじゃ、暴動を片付けつつ向かいましょう」

朱達のグループが割り当てられた箇所を通りながら、目的地へと向かう。3つの暴動を鎮圧し、5分前に到着した。指定された場所は公園。死角に車を止めて、車外へ出る。降谷だけがドミネーターを手にしていた。他に敵がいた場合に備えて携帯している。あのヘルメットを被られては意味がないが、念の為だ。

赤井は調子を確かめるように左手を開閉させながら、目元に力を込めた。どう転んでも、今日が一つの区切りになるに違いない。響歌が望む通り、彼の生への執着が強ければクリア。彼女は彼を逮捕せずに見送るだろう。何の迷いもなく、生きろと笑いながら。できればそれで終わってほしい。そうすれば、傷として残らずに済む。最悪なのは響歌が言っていたもう一つの可能性、彼が自分を諦めてしまっていた場合だ。その瞬間、彼女の心にどんな変化が起きるのか予想がつかない。幻滅、当惑、絶望、いずれにしても気を抜いてはならない。左手をさらに強く握る。何が起きようと、役目を果たす。必ず、守り抜く。それだけを胸に刻んで、赤井は前を行く小さな背中を追った。

響歌は一度振り向くと、降谷にここで待つように合図を送る。そして建物の影から出て、その場所へ真っ直ぐ歩いて行く。暴動の影響だろう、マンションが建ち並んでいるわりに辺りは静まり返っている。そんな中、ひっそりとした公園の中心で響輔は待っていた。

「よお、お疲れ。忙しいのに悪いな。槙島君に邪魔されたくなくてね。それから・・・初めまして。妹が随分お世話になっているみたいで、兄として礼を言わせてもらいたい」
「礼など不要だ。俺がここにいるのは俺自身の為であり、別にあんたの為ではない」
「ははっ、さすがお前の手綱を握っているだけはあるな。飼い主以外には尻尾を振らないらしい」
「この人は愛玩動物なんかじゃない。最高に賢くて優秀な私の相棒だよ」

まるで摘んだ花を得意げに見せる子どものように、響歌は笑う。その表情に、響輔の瞳が一瞬切なげに揺れた。軽い口調で話すわりに、空気はひりついている。他愛無い会話を交わす中でも、声音、瞳孔、指先の変化に至るまでを互いに観察していた。先に口を開いたのは響輔だ。穏やかな表情のまま歌うように尋ねた。

「進捗はどうだ、巫女の真価は見極められそうか?」
「うん。長かったこの道も、もうじき終わる。ただ、この社会からさよならする前にひとりだけ、行く末を見届けたい人がいるけどね」

そう言いながら、響歌はそっと目を伏せる。脳裏に浮かぶのは、ひとりの男。今この時も憎悪を携え闘っているだろう。まさかこの証明以外の何かに、自分が興味を持つなんて思わなかった。もし彼が目の前で倒れ伏していようとも、響歌は決して手を伸ばしはしない。どんな結末だろうと、ただ見届けるだけだ。何も言わない相棒に、それくらいは許してほしいと心で請うてみる。言葉にしてはいないのに、隣でふっと笑う気配がした。

「そうか・・・やっぱりお前は勇敢だな。なあ、響歌。ひとつ頼みを聞いてくれないか?」

眩い光を宿したその瞳から視線を逸らすように、響輔は空を見上げた。彼女の証明に、自分は端から不要だった。この5年、虚ろな心で生き続けてきたのは彼女の為などではなく、ただ死ぬのが怖かっただけなのかもしれない。どんな悪行に手を染めようと誰も自分を裁けない。否、ひとりだけ−−−自分自身で裁くことならできた。それに気付かぬフリをして彷徨い続けた。この手で終わらせればよかったのだ。彼女の糧となりたいだなんて、ただの言い訳。その証拠に自分は今、最悪な願いを口にしようとしている。言葉にしたら、彼女は泣くだろうか。それとも怒るだろうか。巫女の目に止まらない存在として生まれた自分。それでも彼女の瞳だけは常に自分を映してくれた。彼女の隣にいる時だけは、ただの羽賀響輔でいられたのだ。しかしその瞳はもう、響輔だけを映すことはない。

「僕を、殺してくれ」

確かに聞こえた言葉に、響歌の胸を絶望が襲った。最低最悪の展開。次の瞬間、脳内に無意味な問いが浮かんでは消える。いつから彼は人ではなくなってしまったのか。どうしたら呼び戻せるだろうか。それは響歌が経験する、初めての動揺だった。今、自分にドミネーターを向ければエリミネーターが発動するだろう。そう思うくらい、響歌の心は乱れていた。

それを鎮めたのは、やはり片割れであった。しかし、赤井も決して冷静を保っていたわけではない。響歌を現実へと留めたのは、彼が全身から放つ殺気だ。半歩後ろに感じていた気配が、いつの間にか響歌の横にあった。そして次の瞬間、彼女の視界から響輔の姿が消え、赤井の背中だけが映る。顔を見なくても容易に理解できた−−−本気で憤怒している。お陰で波打っていた心に静寂が戻り、思考もクリアになっていく。この間、約5秒。響歌を振り返ることなく、赤井は足を前に踏み出した。その瞳は目の前の男を敵と定め、排除しようとしている。

響輔にドミネーターは正常に反応しない。そもそもあの銃を持っていない。しかし、その事実すら今の赤井には些細なことであった。この手で、殺せばいい。彼が唇の端から漏らす息が音となって響歌の鼓膜を揺らす。その様はまるで、今にも獲物を貪らんとする獣のようだった。それを見て、響歌が手を伸ばす。そのとき彼女が動いたのは、ほとんど無意識によるものであった。血管が浮き出るほど力の籠った赤井の左手を、両手で掴む。肌に触れた柔い感触に、一瞬だけ赤井は殺気を収め、前を見据えたまま言う。

「放せ、響歌。この男は俺が殺す。役目を全うさせろ。見たくないなら、目を閉じればいい」
「いいえ、絶対に放しません。貴方に不毛な殺しはさせない。ただ死を待つ相手のためにその手を汚す必要なんてありません」

その言葉に赤井は身体の力を抜き、己の手を縋るように握っている彼女へと視線を移した。翠色の瞳に自分の姿が映る。視線が交わったことに、どうしようもなく安堵した。離れていかないでと叫びそうになる。赤井がいなければ、自分は壊れてしまっていただろう。礼を言う余裕がなくて、響歌は握っていた赤井の左手を持ち上げ額に押し付けた。目を閉じて深呼吸をひとつ。今は、目の前の現実を受け止め、乗り越えるのことが最優先。身体が震えている。そうして初めて理解した。嗚呼そうか、自分は怖いのだと。大切な人が自ら死を望んだという事実が、こんなにも深く心を抉るだなんて知らなかった。

「安心しろ、俺が隣にいる。お前はただ伝えたい言葉を伝えればいい」

俯く響歌の髪をそっと撫でながら、赤井が言う。隣にいる、ただそれだけで響歌の心は息を吹き返す。手の震えが止まった。再び赤井と視線を合わせると、彼女は笑って頷く。そしてゆっくりと手を放し、響輔と向き合った。

「兄さん。私にはその願いを叶えてあげることはできない。たとえ貴方が諦めてしまったとしても、私はやっぱり貴方に生きていてほしい。お願いだから、死を誰かに委ねないで」
「はっ・・・はは、強く、なったな…本当に。比べて僕は、どこまでも情けない兄貴だよ。幻滅したか?」
「いや、ただ悲しいだけ。でも会えてよかった。もう顧みることはない。前に、進める」

響歌が笑う。未練などないと、その瞳が語っている。いつからこんなにも差が開いていたのだろう。あの頃は自分が彼女の手を引いていた。今はもう、どんなに手を伸ばしても届かない。殺してくれと頼んだのは本心だ。でもそうなっていたら、最後に見ることになったのは彼女の笑顔ではなかったに違いない。

「さよなら、だな。この手で終わらせる覚悟ができるまで、あと少し生きてみるよ。もしかしたらその間に生きる理由を見つけられるかもしれないしな・・・最後にひとつ、忠告をさせてくれ」

真っ直ぐにこちらを見つめる彼に、響歌は無言で先を促した。今さら兄貴面かと罵らないところが彼女らしい。随分、優しくなった。

「復讐心は、人を生かす。僕がそうだったように。だが、同時に心を殺すものだ。それが終わった時、残るのは虚しさだけ。彼が大事なら、止めた方がいい」
「…要らぬ心配だね。狡噛は、絶対に心を枯らすことはないよ」
「お前、まさか・・・いや、なんでもない。余計な世話だったみたいだ。それじゃ、行くよ。響歌−−−僕を見つけてくれて、ありがとな」

目を細めて笑うその顔を見て、古い記憶が脳を駆け巡る。幼い頃、よくふたりで隠れんぼをした。あのとき鬼となった響歌に見つかる度、響輔は悔しがるより嬉しそうに笑っていた。あの行為は、彼にとって存在証明だったのかもしれない。小さくなる背中を見つめ、響歌は呟いた。

「さようなら。私の方こそ、ありがとう」

こんな時でも、涙が出てくることはない。響歌は自分を薄情だと言ったが、赤井は違うと思っている。彼女はただ、人より合理的なのだろう。泣くという行為自体に意味はなく、医学的には体に悪影響でしかない。だから、心で泣くのだ。それでも赤井にはちゃんと聞こえていた、彼女の心の悲鳴が。

「お前は、人間だ。俺や狡噛かれと同じ。それとも俺の保証だけでは不安か?」
「いいえ、十分です。人でいることをやめるなと私に言ったくせに、自分が抜け殻になっちゃうなんて……とんだお笑い草ですよ。でも瀕死状態なら、まだ生き返る余地があります。まあもう、あの人の行く末を見届けることは私にはできませんが。なにせ、この世界とのお別れがすぐそこまで来ていますから」

赤井と目を合わせ微笑むと、響歌は振り返る。少し遠くに見える降谷に向かって、敬礼して見せた。まだやるべき事が残っている。ノナタワーへと車を走らせる中、響歌が声を漏らし笑う。運転席に座った降谷が、ミラー越しに視線を送った。助手席にいる赤井は瞳を閉じたままだ。

「どうかしました?」
「いえ、考えていたんです。私はどうして、あの人にここまで執着していたのか」
「身内だからではないと?」
「ないです。逆に降谷さんは、そんな理由で私が他人に執着すると思っているんですか?」
「それもそうですね」
「そこは否定するところだと思うんですけど」

すんなり納得した降谷に、響歌は苦笑する。そもそも彼女はその手で身内を殺しているのだ。身内=大切だという前提が誤りだ。では何が理由なのだろう。降谷の脳内でひとつの可能性が浮かぶ。彼女は響輔を異性として愛していた−−−いや、それはない。恋情に囚われるような女ではない。降谷の答えを待たずに響歌は続ける。

「ご存知だと思いますが、私は中々変わっています。こういう人間なので、敬遠されたり白い目で見られるのは日常茶飯事、離れて行く人も珍しくありませんでした。加えて両親の不在もあり、客観的に見れば孤独な幼少期だったと思います。でも不思議と、寂しいと感じたことはないんですよ。その理由が従兄あにでした。あの人は、私を受け入れ慈しんでくれた初めての人間だったんです。たとえそれが私の為ではなく自分の為だったとしても、私の心は確かに彼に救われました」

ふわりと笑う響歌に、降谷もまた口元を緩めた。窓の外へと視線を移し、目を細める。偽物で覆われたこの街の景色も、もうすぐ見納めになる。少しも惜しくはないと瞳を閉じれば、意識はすぐに沈んでいった。

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に痺れた!