本物なのは一握り

浅い眠りから響歌を呼び戻したのは、赤井の声。肩を揺すられ、ゆっくりと瞼を開けた。

「着いたぞ。すでに方が付いている。槙島は逮捕された。狡噛君も怪我を負ったが、無事だそうだ」
「そう・・・ですか」
「ただ、縢執行官の行方が分かっていない」

それを聞き、響歌は僅かに瞳を大きくする。脳を覚醒させ車から降りると、無表情で尋ねた。

「死体も出ていないってことですか」

赤井がそれに無言で頷く。スッと目を細め、彼女は珍しく感情を表に出した。一瞬だけ顔を歪めて、空を仰いで吐き捨てる。それは誰に向けたものか、槙島か、巫女か、はたまた世界か。

「腐ってますね」

潤いを保ったままの唇から白い息と共に空へ。虚しく宙へと消えた呟きを、赤井と降谷だけが聞いていた。それから瞬きをひとつして、響歌は歩き出す。赤井が視線を送ると、降谷は顎をしゃくる−−−早く行けと。彼女が向かった先は、消防庁から出動してきたスーパーアンビュランス。何台もあるうちの1台が、刑事課に割り当てられていた。その中ではノナタワーにて負傷した狡噛と朱が治療を受けている。静かに乗車してきたふたりに、朱は思わず立ち上がった。響歌はそんな彼女の頭から爪先へと瞬時に視線を巡らせ、太腿に巻かれた包帯に目を細める。

「座ってていいよ。心だって無傷じゃ無いでしょ」

やけに優しく微笑む先輩に、朱は言葉を詰まらせる。彼−−−響輔のことを尋ねるべきだろうか。それとも槙島のことを報告すべきだろうか。赤井はその横を通り過ぎ、狡噛の肩を労うように叩く。朱が迷っているうちに響歌も彼へと視線を移し、無傷とは言い難い身体を見ながら笑った。

「手も足もくっ付いてるじゃん、流石」
「要望にはそれ以上で応えたくなるんでね」
「……縢執行官のことは?」
「ああ、知ってるさ。お前はどう思う?」
「逃亡の可能性があるかって?笑わせないで、喧嘩なら買うけど?これでも人を見る目はあるつもりだよ。彼は、退屈な楽園よりも楽しい地獄を選べる人間だった。それくらい分かるよ・・・ふっ、ははは」

狡噛の問いに冷たく返すと、瞳を閉じて縢を思う素振りを見せた。しかし次の瞬間には、力無く笑う。それに戸惑う朱。残りのふたりは表情を変えず次の言葉を待った。最後に乾いた息を吐き出してから開かれた瞳は、ひどく冷たくて暗い。あの瞳だ。父親のことを語ったときと同じ目をしている。

「そういう人間が消えた…人が消える、御堂の事件と同じだね。何にも残らないくらい小さな粒となって消えた。彼の尊い命を、一体何と天秤にかけたって言うのかな……っ、

考えたくもない結末を響歌は容易く言葉にした。朱は知っている、どんなに残酷な真実からもこの人は目を逸らさない。誰に向けたかも分からない問いを零し壁を殴りつけようとした彼女の拳を、赤井が捕まえた。その手の温かさに、胸の中を暴れていた激情が少しだけ鎮まる。

「すみません、取り乱しました。頭冷やして来ます」

そっと赤井の腕に触れて笑いながら言うと、ひとり降車して行く。認めていた縢の失踪、響輔との決別。いくら彼女でも、容易く断ち切れるものではない。そして嫌な一致がもう一つ、今日は両親かれらの命日だ。そんなつまらぬ事に影響されるような人間ではないが、赤井の胸には一抹の不安が渦を巻き出す。しかし、それは杞憂に終わるという根拠のない確信があるのだ。妙な気分だ。ふと視線を感じ振り向けば、狡噛が何か言いたげにこちらを見ていた。言わんとしていることを理解し、赤井は笑う。

「随分と人間らしくなっただろう?」
「嬉しそうですね」
「ああ、胸が躍るよ。あいつはもっと強くなる。怪物という皮を脱ぎ捨てて現れたのは、より美しく強固な心。いいのか、狡噛君。宿敵こいびとにばかり感けていては横から掻っ攫ってしまうぞ。俺の本性は人ではなく狼だ。いつまでも行儀良くしているとは限らない」
「…忠告ですか。俺の見立てだと、貴方の想いそれは、俺のとは少し毛色が違うように思えますがね」
「さてな。見えているものだけが真実とは限らない…そうだろ?」

繰り広げられる会話に朱は目を白黒させた。不敵に笑う赤井に、狡噛は少し戸惑っているようだ。朱が驚いていたのは、響歌に対する狡噛の想いではない。それくらい、朱は察している。そこまで鈍くはない。吃驚の原因は、赤井の態度だ。本気なのか冗談なのか分からない。赤井秀一という男は、響歌にとってかけがえのない存在である。しかしそれが恋愛的なものかと問われると、容易くは頷けないし、真っ向から否定もできない。第三者から見れば、そんな雰囲気。そこに響歌が戻って来て、赤井を呼ぶ。その顔はいつも通りに見えたが、少し影が落ちているように感じた。狡噛は咄嗟に引き止める。声に焦りが滲んだのは、先程の赤井との会話が要因だろう。

「響歌・・・兄貴と話したのか?」
「ああ、そうか。ふたりは会ったんだっけ。うん、話したよ……殺してくれって頼まれた」

朱が息を飲む。狡噛も目を見開き、二の句が継げないでいた。そんなふたりの反応に、響歌は儚げに笑って見当違いなことを言う。

「安心して、殺してないよ」
「っ、そんな心配はしていません!!」
「冗談だよ。ふたりがこの世の終わりみたいな顔するから、ちょっと揶揄いたくなっただけ。流石に堪えたよ……犯罪係数急上昇を実感しちゃった。でも、私は本当に大丈夫。言ったでしょ、他にも楔があるって。この心は誰にも渡さない」

何故か嬉しそうに笑いながら、赤井を見つめた。そんな響歌を褒めるように、彼はその頭を撫でる。その様子を見て、朱は確信した−−−ああ、やはりそこには愛があるのだ。でもそれは、確かに狡噛の言う通り恋情ではない気がした。

翌日、響歌は憂鬱な顔で宜野座と共に局長執務室に出向いていた。なんでも大事な用件らしい。なんとなく予想がつく−−−恐らく今後の槙島の取り調べについて。自分の読みが正しければ、古いやり方で裁判を開いたところで無意味。死刑にはならないだろう。ひょっとしたらその前に、彼は煙のように消えてしまうかもしれない。無言のままエレベーターを降りた響歌を宜野座は不審そうに見つめた。その視線に気付かぬフリをして、彼女は入室する。

「まずは、よくやった。槙島も殺さず、事態も収束。こちらの希望通りの展開だ」
「……ベストを尽くしただけです」
「努力に結果がついてきた。いいことだ。実にいい」
「……それで本題は?」
「槙島に関する事件の取り調べは厚生大臣が直々に編成した特殊チームで行う。公安局は捜査権を失った」

その言葉に宜野座は思わず聞き返す。まるで意味が分からないといった様子だ。響歌は無言、無表情を貫いた。やはり、腐っている。監視官の自分達も国にとっては犬だ。仕留めた獲物の骨すら与えられることはないということか。

「極めて特殊なケースだ。取り調べには、医療スタッフも常時同席しなければならん。情報の機密性も問題になる」

そこから響歌は傾聴するのをやめた。隣で宜野座が声を上げる。しかしそれも虚しく突き付けられたのは、縢の逃亡だ。禾生はさらに宜野座を追い詰める、このまま捕まらなければ責任問題になると。響歌には目の前の人物が、何も言えなくなった宜野座を嘲笑しているように見えた。そこで彼女は動く。

「局長、一つ質問があるのですが」
「…聞こう」
「ありがとうございます。では……取り調べの内容や槙島のその後は我々に共有されるのでしょうか?」
「取り調べの内容は公表されない。藤間の時と同様だよ。だが、彼がどうなるのかは決まっている。いずれ研究用の検体として処分されることになる」
「流石、素晴らしき千里眼ですね。まだ取り調べは行われていないのに、彼がどう処分されるか、断言なさった。感服します」

態とらしく拍手をしながら、唇を歪め響歌は言った。以前もこんな場面を見たなと宜野座は思う。あの時は彼女の正気を疑ったが、今は頼もしくすらある。隣にいるとよく分かった−−−彼女もまた納得などしていないのだと。

「あの男が船原ゆき殺害の犯人だと報告してきたのは君と常守監視官ではなかったか?殺人犯を処分するのは、至極当然の裁きだと思うがね」
「はは、殺人犯……お忘れですか?今、貴方の目の前にいる人間も、この手で人を殺しているんです。私は処分する価値もないってことですか?それとも処分するのは惜しいと判断いただいているのでしょうか?はたまた、槙島にあって私にはない何かが、検体としてとても魅力的、とか?」

槙島が実際に殺人を犯した場面を目撃されたのは、船原ゆきの事件だけだ。罪状としては響歌と同じ。畳み掛けるように質問を投げかける。最後の問いに至っては、ほとんどシビュラの秘密を突いていた。口元には微笑を浮かべ、瞳を開き禾生を見る。しかし一切表情を変えない彼女に、響歌は容易く引き下がると子どものように目を細めて笑った。

「質問は以上です。我々はこれで失礼します。局長、見限られるのが犬だけとは限りません。自分を信頼していない主に従う犬はいない。疑いというのは悪意と同じ、今は小さな亀裂でも、早く修復しなければ崩れてしまいますよ……では」

ドアをくぐるその背中を、禾生は無言で見送った。相変わらず、興味深い人間だ。しかし、思いのほか簡単に引き下がった。シビュラの正体を暴く−−−禾生はそれが響歌の狙いだと思っている。何故そんな危険な人間を側に置いているのか、それにももちろん理由がある。禾生は薄く笑うと、ある人物に連絡を入れた。1秒と経たずに相手が応答する。

「はい、何か御用でしょうか?」
「あれの動向に気を配りたまえ。不穏な動きがあれば報告のうえ、丁重に阻止しろ。大事な被検体だ。間違っても殺したりするな」
「……了解」

−−−−−

「宜野座、大丈夫?」
「・・・何がだ?」
「強がらないで。私も一緒に行こうか?身近で見てきたんだから、苦しいに決まってるよ。狡噛にとっては死刑宣告だもの。そういう意味では、優しい貴方より私の方が適任かなと思うんだけど」
「いや、いい。お前が相手では、狡噛は本気で怒れないだろう。それに、用が済んだら早々に帰せとお前の部下に言われている」

やっぱり優しいなと思い聞いていると、予想外の言葉に目を丸くしてしまう。部下、恐らく赤井だろう。どうやら心配をかけているらしい。しかし監視官に命令とは、流石だ。自分の周りには、何故こんなにも優しい人間ばかりが集まっているのだろう。余裕などないだろうに、宜野座は笑顔を見せた。それに響歌も微笑み返し、その背中を見送る。ふぅと息を吐いて、彼女も歩き出した。

「というわけで、槙島の捜査から外れることになりました。一係は縢執行官の捜索に注力するそうです。私達は引き続き暴動の事後処理と、今まで通りの職務に戻ることになります」
「狡噛君は納得したのか?」
「しないでしょう。私が彼の立場なら、絶対にそうですからね」

部下達に肩を竦めそう言うと、自席に戻った。しかしそれすら1日と続かずに、再び嫌な報告が入ることとなる。槙島が逃亡したのだ。そして今度は再度その身柄確保を命じられる。しかも、狡噛を任務から外し、監視下に置けとのこと。刑事課の大部屋で唯一禾生から命を受けた宜野座が、振り絞るようにそう言った。とんだ茶番だなと、響歌は天井を仰ぐ。空気を裂くが如く、それでいて静かに狡噛が口を開いた。

「なあ…局長命令で俺を外せなんて、すごい話だと思わないか?どうしてわざわざそんなことを言い出したんだと思う?うちのボスは」
「禾生局長は、槙島の大ファンなんだよ。私達は今、彼を丁重にお連れする役目を仰せつかったってわけ。検体として処分される、らしいよ。表向きは」
「おい!!」

肩を竦めて、響歌は容易く言った。宜野座が慌てて声を上げる。彼女は、怖くはないのだろうか。そう考えてみて、宜野座はひとりで納得した。彼女はそもそも私情と立場を天秤にかけてすらいないのだ。いつどんな状況でも、どちらに傾くのか分かっりきっている。

「ごめんね、宜野座。私はさ、この国やあの局長より狡噛の方がずっと大切なの。それに、槙島を捕まえるために、彼は必要不可欠な武器だよ。肉体的にも、頭脳的にも。私は、正しい結末も知らされないのに、ホイホイ獲物を狩ってくる気にはならない。絶対に最後まで意思は捨てたくない。でも別に、宜野座を困らせたいわけでもない……私は外すよ。ここに居ると余計なこと言っちゃいそうだしね。何かあったら呼んで」

その瞳は隣にいる狡噛と同じ色を放っている。自らを落ち着かせるように一度目を閉じてから、彼女は出て行った。珍しく逡巡しているなと思いながら、狡噛は上司を追おうとしない赤井を仰ぎ見た。

「赤井さん。響歌は、槙島が俺にかけてきた電話の内容は聴きましたか?」
「ああ……あいつが"シビュラシステムの正体"に飛び付かないことが不思議で仕方ないか?」

槙島の逃亡後に狡噛にかけた電話。内容としては簡潔で、槙島はシビュラの正体を知り、それは命がけで守る価値などないというもの。響歌もその会話は聴いている。赤井は隣でその様子を見ていた。彼女は少し悔しげに笑って言った−−−狡いなぁ、と。

「大前提として、あいつの目的はシビュラの正体を暴くことではなく、あれには己の人生を預ける価値がないと証明することだ。だが今のあいつは既に、その正体を知らずともシビュラを見限るだけの材料を揃えている。新しい材料など不要なのだろう……君と彼の会話を聞いて狡いと、響歌はそう言っていた。あいつが20年かけた証明の解を、槙島が容易く知り得たのが悔しかったらしい。つまり、それだけ槙島聖護は要人ということだ」
「狡い…まるで遊びに負けた子どもですね。やはり、誰か……シビュラシステムさえ意のままに操っている何者かと、槙島は交渉したんだ。そいつは結局槙島に出し抜かれ、それで怒るどころか、ますます槙島に執着するようになった」

口を尖らせぼやく響歌の姿を浮かべて、狡噛は小さく笑った。そして、赤井の意見に付け足すように推理していく。そこに宜野座が顔を顰めて口を挟む。

「……シビュラはあらゆる機関から独立干渉されたシステムだ。そんな権限は総理大臣にすら与えられていない」
「それが事実なのかどうか、おそらく槙島は知っている。身柄の運搬に護送車ではなく航空機の移動病棟、しかも警備していたのはドローンのみ。何もかもが異常だ。そもそも現場から運び出された遺体は誰だ?救急救命士だってことになっているが、その名前は記録からは消去されている」
「誰だって納得しちゃいないよ、コウ。機密区分だ。監視官だって答えは知るまい。お前は問い質す相手を間違えてる」

苦い顔で征陸が言う。狡噛はそれに笑みを浮かべて立ち上がると、宜野座の指示通り分析室へ行くために大部屋を出て行った。宜野座に非難するような視線を送って狡噛を追いかけようとする朱に、柔らかく声をかける者がいた。

「常守監視官、宜野座君を責めるのはお門違いだ。君が完璧に彼の苦しみを理解しているのならば話は別だが、立場上それができるのは恐らく響歌だけだろう。だが、あいつはそうしなかった……本来なら俺にも口を出す資格は無いが、あいつは今ここにいない。気を悪くさせてしまったな、すまない」
「・・・いえ。こちらこそ、申し訳ありませんでした。赤井執行官、それから宜野座さんも。何が起きているのか未だに整理しきれていなくて……私、もう少し狡噛さんと話してきます!!」

赤井と宜野座に頭を下げて、朱は今度こそ部屋を出て行った。息子を庇ってくれた礼とばかりに赤井の肩を征陸が叩く。それに軽く会釈で答えると、無表情のままで響歌を探しに出た。

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に痺れた!