生かす者、殺す者

「しーおん!」
「あら、珍しいわね。慎也くんならご覧の通り、ぐっすり寝てるわよ」
「みたいね。でも今回は、志恩に会いに来たんだ」

分析室にやって来た響歌は、モニターに映る狡噛を見て安心したように笑う。しかしすぐに唐之杜に視線を戻してそう言った。どこかいつもと違う瞳を見て、鋭い分析官は感じ取る−−−やっと飛び立つのね、と。こうして別れを言いに来てくれたのだから、喜ばなくてはいけないのだろう。

「私に?ええ、嬉しい…なーんて、言うと思った?」
「あはは、やっぱりバレた?だって辛気臭いのって苦手なんだよ。死に別れるわけじゃないのにさ」

少し責めるように言ってみても、どこ吹く風だ。ヒョイと肩を竦め、響歌は笑う。悲しみに満ちたサヨナラは、こちらとしても御免だ。それでも心が軋む。確かに死に別れるわけではないけれど、再び会える確率は限りなく低い。もう二度とこの笑顔を見ることが叶わないなんて、信じたくなかった。

「ね、響歌。寂しいって、そう思ってくれてる?」
「勿論。初めてここに来たときはね、こんなに愛着が湧くなんて思ってもみなかった。改めて実感してる、私って本当に果報者なんだなって。こうなることが嫌だったはずなのに、今はこの痛みが堪らなく心地いいんだ。現金だよね、本当に」

唐之杜の問いに頷くと、響歌は躊躇なくデスクに腰掛ける。子供のように足を揺らしながらそう言って笑った。寂しさなら、誰か他の人間で紛らわすことができる。その役目はきっと赤井が担うだろう、有り余るほどの親愛を以って。でも愛は、他人では埋められやしない。せっかく生まれたのに、もう育つことはない。心の片隅に追いやられて、埃を被っていくだけだ。

「(この子は、気付いてない。ううん、気付いちゃいけないと思ってる。そんなとこで寝てていいの、慎也くん。貴方じゃないと駄目なのに・・・貴方が触れない限り、ずっと空っぽのままなのよ)」

そっとモニターを見つめてみても、そこに映る男が目覚める気配はない。簡単に幸せを掴むことができるようになった社会。でもそれは、与えられた幸せだ。空から勝手に降ってくる。しかし、己が望む幸せは、手を伸ばさなければ掴めない。最大幸福から弾かれた者なら尚更だ。響歌は本能的に、目の前にある愛を選択肢から排除している。そうさせているのは、過去と世界。本当は別れ道なのに、彼女には一本道に見えているのだろう。いや、そう思おうとしている。自己暗示をかけて、見ないフリをして。

「愚問だと思うけど、訊いてもいい?」
「いいよ」
「慎也くんに、付いて行かないの?」
「本当に愚問だね。そんなの、私じゃないじゃん」
「……そうよね」

響歌は腹を抱えて笑った。愛に生きる、それは女として素晴らしい生き方だと唐之杜は思う。でも響歌は、女である以前に人間なのだ。20年間、胸に抱いて生きてきた信念を、曲げることはできない。それは今までの自分を否定する行為。彼女は、愛の為に自分自身を裏切ることはしない。どうしようもなく虚しくなって唐之杜がそっと目を伏せた瞬間、響歌がぽつりと呟いた。

「たぶん、初恋だったんだと思う」
「っ・・・それ、私に言っちゃっていいの?うっかり告げ口しちゃうかも」
「それは嫌だな。自分で直接伝えに来いって言われそう……私、志恩のこと尊敬してるんだ。愛ってさ、すごく温かくて、持て余しちゃいそうなくらい重たい。厄介すぎるんだよ。シビュラと喧嘩するより愛に生きる方が、私にはずっと難しい」

唐之杜は動揺していた。気付いたうえで、素通りしようとしているのだ。敢えて水を与えず、枯らすつもりで。こんなに綺麗に咲いているのに、そんな結末しかないなんて、世界はあまりに非情だ。

「え、もしかして泣いてるの?」
「そうよっ!だって仕方ないじゃない・・・悔しくて堪らないんだもの」
「優しいね、志恩は」

ふっと笑いデスクから下りると、響歌は子供をあやすように唐之杜を抱きしめた。背中を撫でてから体を離し、彼女の頬を両手で包むと再び微笑む。

「六合塚さんには内緒だよ」

響歌はそう言いながら、涙が溢れそうになってる目尻へと唇を寄せる。微かな音を残してその雫を吸い取ると、そっと手を放した。バイバイと小さく呟いて、彼女は部屋を出て行く。唐之杜の瞳に映るその背中は、ひどく滲んでいた。

−−−−−

分析室を出て、響歌は赤井に連絡する。その足は刑事課フロアには戻らず、執行官の宿舎へと向かっていた。数歩進んだところで、耳に馴染んだ声がデバイスから聞こえてくる。

「どうした?」
「少し抜けられますか?二三ご報告したいことがあって。部屋で待ってます」
「了解」

用件も聞かずにいつも望みを叶えてくれる。こうやって甘えられるのも、あと数える程しかないだろう。部屋のドアの脇で佇み、初めて彼と会った日のことを思い返す。写真を見た瞬間に理解した−−−必要だと。前世は一人の人間だったのではと錯覚するくらい、すぐにその右隣に馴染んだ。大きな手で髪を撫でられると安心する。全てを委ねられる相手で、彼になら心を曝け出せる。そういう存在はこの一生で二度と現れないに違いない。それでも、別れは迎えに来ている。ちゃんと笑ってサヨナラを言えるだろうか。

「外で待っていたのか」
「そういう気分だったんです」

心に渦巻く気持ちを隠し、笑う。恐らく無駄な足掻きだろう。この男は鋭い。自身の心情は悟らせないくせに、こちらの心には素手で触れてくる。繕うのが上手い響歌の心も、赤井の前では丸腰なのだ。目を細めて部屋の中へと入る背中を追いかける。

「赤井さん、私はシビュラが嫌いです」
「……ああ」
「あれは人の心を枯らす化け物です。犯罪係数は犯罪を起こす危険性なんかじゃない、心が負った傷の数ですよ。少なくとも、私の大切な人達はそうでした。傷付いた人など顧みず、絶対の巫女を気取って今この時も人々を見下ろしている。虫唾が走ります。完璧でもない、尊い命を容易く奪う、私はっ、シビュラが大嫌いです。あれにはやはり、この人生を委ねる価値なんてありません。証明は、もう終わり・・・どう仮定を立てて始めてみても最後には同じ結論が出てしまう」

赤井は口を挟まなかった。ここに来て顔を見た瞬間から、話の内容は分かっていた。自分が傍にいない間に何かあったのだろう。こんなにも取り乱しているのは珍しい。ソファに座ってその様子を静かに見つめながら、冷静に分析している自分自身に、赤井は思わず笑ってしまう。さらさらと巫女を貶し、もう終わりだと呟いた響歌の声は震えていた。

「分からないんです。本当に、結論を出せたのか。これでいいのか。どうしても、この嫌悪感が邪魔をしているんじゃないかって思ってしまって・・・私は先入観に囚われて、客観性を無くしたまま終わりにしようとしているのかもしれない」
「何故、客観性が必要だと思う?」
「え……だって、
「いつも言っていたはずだ、これはお前の為の証明だと。ならば必要なのは主観性だけじゃないのか?」

響歌は絶句した。そんな考えなど頭を過ぎりもしなかった。証明というのは通常、誰が見ても納得できなければならないはずだ。言葉が紡げないでいる彼女を面白そうに見つめ、赤井は続ける。

「誰かに証明したいわけではない、そうだろう?お前が納得できたなら、そこが終わりだ」
「なんでそんなに楽しそうなんですか」

喉を鳴らす部下に、不満げにそう漏らした。この男が言うと、本当にそうだと思いそうになる。話していたら、自分はきっと納得してしまう。それは間違いなのかもしれないが、彼をここに呼んだ時点で、こうなることを期待していたのだろう。

「20年もかかったことが不満か?」
「そうですね。つまり私は、自分を納得させるまでにそれだけの時間を費やしたということです。とんだ頑固者じゃないですか」
「だが意味のある時間だった。結果が全てではない。過程もまた重要だ。少なくとも、この8年はお前を変えた。その自覚はあるか?」

父を殺した日から12年間は、この証明だけが響歌の全てだった。その時から楽しんではいたが、所詮は独り遊びに過ぎず、それに満足していた。あらゆる知識を吸収し尽くし、身に付けられる戦闘技術は全て叩き込んだ。そして8年前、シビュラから直々にその中枢へと導かれる。好機だと、千載一遇のチャンスだと思った。

「ええ。まあ、その変化を受け入れられたのは最近ですけどね。ご存知の通り、私はそれを毒と捉え、手放そうとしました。お恥ずかしい限りです。今はちゃんと理解していますよ。この甘くて苦い毒は骨となり、私の心を支えている。刑事になったのは目的の為でしたが、その選択は私に沢山の宝石を与えてくれた」

宝石などキラキラ光る石に過ぎないと思っていた。持っていても荷物になるだけで、自分には不要だと捨てようとしたのだ。ところが手放そうとした途端、心が悲鳴を上げた。そうして初めて理解した、枷ではなく糧なのだと。響歌が微笑んで愛おしそうに胸を撫ぜる。それを眺めながら赤井も笑い、分かりやすく言語化してやる。

「お前は愛を知り、真に人になった」

そう言った瞬間、響歌の表情に影が差す。後半は正解だ。自覚してもいる。だが、前半は間違いだ。赤井の言った"知る"が熟知という意味なら、自分はまだ、愛の一面しか知らない。他と同様に愛もまた多面的、恐らく知り尽くすのは不可能なほど多くの性質がある。黙ったままの響歌に、赤井は喉を鳴らした。

「言っておくが、持ち主や相手が違えば愛情の種類も性格も変わってくる」
「それは知ってます」
「ホー・・・参考までに訊くが、経験論か?」
「いや、絶対に分かってて訊いてますよね・・・仰る通り、経験論です。貴方に対する愛と……っ、

赤井は声を上げて笑いそうになる。本当に人間らしくなった。あの響歌が言葉にすることを迷っている。本当に彼女の隣は飽きない。比較対象に挙げようとしたのは、紛れもなく狡噛かれへの愛だろう。まさかバレていないと思っているのか。だとしたら、さらに面白い。

「……どうして皆、こんな化け物を飼い慣らしているんですかね。いつか内から食い破られそうです」
「飼い慣らす必要などない。振り回されるのが至福なんだ。愉しむのは好きだろう?その不可解はいつか解明される時が必ず来る」

理解できないとばかりに響歌は顔を顰めた。先人も、道行く人々も、容易く実行してきた。それでも彼女にとって愛するという行為はひどく難解なのだ。そんな厄介なものを抱き続けるなど、正気の沙汰じゃないと思っているのだろう。

「そんな顔をするな。愛は弱さではない。お前を護り育てるもの、もう分かっているはずだ」
「そう、ですね…でもやっぱり、私には難しいです」
「そうか、ならば二つだけ覚えておけ。まず、片割れがいる愛を捨てるときは注意しろ。それはお前だけでは消せない代物だ」
「えっと、愛というのは相手ありき……ではないですね。私は自己愛者でした。でも、片方が捨ててしまったら、その愛はもう終わりですよね?」

怪訝そうに響歌が尋ねる。赤井は答えない。その問いへの答えは、いつか別の人間から与えられるだろう−−−"否"という形で。彼女が手放そうとしている愛の片割れである狡噛かれは、執念深い男だ。ここ最近の様子から、生かす決心をしたのだということも知っている。自分の役目はここまでだ。赤井に答える気がないのを察したのか、響歌は小さく息を吐いた。

「それで、もう一つは?」
「お前に救われた人間がいたことを忘れるな」
「・・・そんな人はいません」
「ここにいる。お前が俺を暗く深い沼の底から引き上げ、この心に息を吹き込んだ」

響歌が息を飲む。初めて見るくらい優しい顔で、赤井はそう言った。そして、佇んだままの彼女に左手を差し出す。戸惑うまま右手を重ねると、強い力で引き寄せられた。赤井は飛び込んできた身体を容易く受け止め、抱き締める。子どもにするように膝の上に座らせて、髪を撫でた。この8年間、常に自分を肯定し、守ってくれた手だ。離れた場所にいても、その温もりを思い出すだけで闘えた。「刻み込め」と心で唱えながら、赤井秀一の全てを五感で記憶する。この先いつでも取り出せるように、深く。容易く振り解けるほどに緩い抱擁だった。それが心地いい。愛を恐れる彼女が無防備になれる唯一の場所。

「優しいですね、最後まで。あともう少しだけ、私の我儘に付き合ってくれますか?」
「愚問だな」

そっと目を閉じて、響歌は擦り寄った。肺を満たすように大きく息を吸う。一心同体、自分達にはその言葉がぴったりだ。それを二つに切り分けるのだから、痛みが伴うのは当然のこと。泣き叫びたくなる衝動と、やっと解放してやれる安心感が綯い交ぜになって、胸の中を駆け回る。

「少し膝を貸してください、30分でいいので」
「ああ」

響歌が自ら懇願するのは初めてのことだ。隣で眠るときも、彼女は縋ろうとはしなかった。赤井が腕を伸ばし初めて身を委ねるような女だ。そんな彼女が膝枕を強請る様は、まるで警戒心の強い猫が見せる甘えのようで、可笑しかった。戸惑うことなく頷くと、安心したように響歌は声を漏らす。切なげな瞳を見れば、彼女が何を考えているのか赤井にはすぐに分かった。これが最後だと、そう覚悟しているのだろう。依存しているのは自分だけだと思っている。よく働く勘を持っているのに、相変わらず愛に対してだけ仕事をしない。膝に感じる重みを慈しむように頭を撫でながら、赤井は口角を上げて尋ねた。

「狡噛君には伝えないつもりか?」
「……前言撤回です。ほんと、意地悪ですね。もう決めたことです。こんな形が悪くて未完成な想い、渡せるわけないじゃないですか」
「そうか」

響歌はふっと笑い目を閉じた。赤井は一言だけ返し、柔らかな髪に指を通す。形が悪いのも、未完成なのも当たり前だ。その愛は各々が持ち寄って初めて完成するのだから。微かな寝息を聞きながら、赤井は狡噛に向けてエールを贈る。

「(君が奪いに来るまで、守ってみせよう)」

−−−−−

医務室のベッドの上で狡噛は目を覚ます。側の椅子では、朱が寝息を立てていた。そこに唐之杜が入室してきて彼女を起こそうとするのを、片手を挙げてやんわりと止めた。

「朱ちゃんに感謝しなさいよ。足の先っぽに当ててくれたから。さもなきゃ最低でもあと1日はベッドに釘付けだったわよ」
「もうドミネーターの扱いも慣れたもんか」

感慨深げに狡噛は言う。そして、ラボの奥で未だ解析中だろうヘルメットに目を向けて質問を投げかける。一方で唐之杜は熱心にマニキュアを塗りながら、返事をした。

「あのヘルメット、まだ使えるのか?」
「一応ね。でも、シビュラシステムの完全復旧とともに対策プログラムが実装される予定。そうなったら、あとはもうフツーのヘルメット」
「完全復旧まで?」
「あと6日」

会話の中から狡噛の意図を読み取り、唐之杜は笑う。これから彼が何をするのか全て察していた。ヘルメット片手に出口へと向かおうとする背中に、悪戯半分、本音半分で尋ねてみた。

「ね、慎也くん。あたしと貴方がセックスしてたら、結果は変わってたかな?」
「どうだかな、お互い趣味じゃなかったと思うぜ。あと、なるべく六合塚を泣かせるな。素直な娘だ」
「それ、貴方にだけは言われたくない。ああでも、響歌は泣いたりしないわね。一途に想ってるのに置いてっちゃうんだから、ほんとズルい男。だぁいすきなくせして。誰かに盗られちゃっても知らないから」
「甘いな。知ってるだろ、執着心は人一倍強いんだ。それに逆だよ。置いて行かれるのは俺の方だ」

狡噛の声音に切なさが滲む。そんな声で言うなら、攫ってしまえばいいのにと、そう思った。それでもそれ以上は何も言わず、ネイルケアを再開する。少なくとも狡噛は、枯らすつもりはないのだと知って、安堵した。彼も響歌も、唐之杜にとっては大切な存在だ。たとえ離れていても、どうか笑っていますようにと祈らずにはいられない。そして願わくば、その愛が花開きますように。


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に痺れた!