嘘吐き猫の告白

「降谷さん。今日の午後、私とデートしませんか?」
「………はい?」

たっぷり間を取ってから、降谷はなんとか言葉を紡いだ。聞き間違いかと思い、側に立つ上司を仰ぎ見る。しかしその表情は至って普通で、早く答えろとばかりにこちらを見つめている。もはや死語だが、突っ込まずにはいられない−−−新手のパワハラだろうか。

「えっと…今は槙島聖護の身柄確保を命じられているはずでは?そんな暇はないと思いますが…」
「ええ、なので捜索がてらデートしましょう」

こんな時に命令そっちのけでデート。そもそも自分と彼女でデートとは。降谷は赤井に、人生で最初で最後になるだろう助けを求めた。

「こちらは心配無用だ。俺は一係に同行し、何かあれば連絡する。安心して行ってくるといい」

決してそんな答えが欲しかったわけではない。真顔で見当違いなことを言う宿敵に、降谷はこれでもかという程に顔を歪めた。再び視線を戻すと、彼女は綺麗に微笑んだ。

「差し支えがなければ、ご用件を伺っても?」
「それは貴方しか知らないです。以前、言いましたよね。私が巫女を見限る前に、伝えたいことがあると」

さらに口角を上げて響歌は言った。降谷は目を見開いたが、一瞬でそれも元に戻る。そして今度は得意の笑みを浮かべ、立ち上がった。

「成程。そういう事であれば、お付き合い致します。午後1時でよろしいですか?」
「分かりました。楽しみにしています」

約束の時間、昼休憩後。響歌は真っ黒な車で現れた。助手席に乗り込むと同時に、嗅ぎ慣れない匂いが鼻腔をくすぐる。降谷がスンと鼻を鳴らすと、響歌は答えを返すように後部座席を指差した。それに倣い振り向けば、そこには花束がある。香りがするということは、ホロではないようだ。また何故、と降谷は首を傾げた。

「降谷さんのお話を聞く前に行きたいところがあるんですが、構いませんか?」
「ええ、どちらに?」
「貴方の親友に会わせてください」

その言葉に降谷の表情が崩れる。息を飲み、青色の瞳を見開いた。数秒後、下唇を軽く噛んでから、答えを待つ響歌にゆっくりと返事をする。

「墓は、ありません。我々は素性を公にしておらず、存在を知っているのは局内でもごく一部の人間だけです。そのため、殉職してもその詳細が公表されることはありません。ただ…っ、あいつが好きだった場所になら、お連れすることはできます」
「そうですか…では、そこに」

降谷は俯きながらそう言った。初めて見る表情に響歌は目を細めると、いつも通りのトーンで頷いた。車を2時間走らせて到着したのは、埼玉県の山奥。何も考えずスーツで来たのは間違いだったと思いながら、響歌は前を行く降谷の背中を追う。しかし幸運なことに獣道というわけではなく、辛うじて道と呼べる形には整えられていた。降谷は無言のまま歩を進める。その右手に握られている花が折れるのではないかと、ぼんやり思った。いつもの愛想笑いや嘘くさい台詞を振り撒く余裕すらないのだろう。それくらい諸伏かれは特別だったのだ。15分ほど歩いただろうか、少し開けた丘の上で降谷は足を止める。響歌に道を譲るように身を引くと、やっと口を開いた。

「一度キャンプで訪れて以来、あいつはここを気に入って、何度か足を運びました。この時間なので仕方ないですが、夜になると星が見えるんです」

眼下には緑が広がり、空は青く澄み渡っている。響歌はそれを見て、あるものを連想した。ふっと笑い大きく息を吸うと、思ったままを口にする。

「街の中より、何倍も空気が美味しい。綺麗な所ですね。死後の世界は信じていませんが、彼の心はこれからも息をし続ける。貴方が忘れない限りずっと・・・花をこちらに」

差し出された花束を受け取り、響歌は一番見晴らしのいい場所に置いた。しかし手を合わせることはせず立ち上がる。戻りましょうと一言告げ、道を引き返して行く。降谷は最後にその場所を振り返り、一度だけ瞬きをしてから続いた。あまりに穏やかな心中に、思わず口角を上げる。目の前の細い体を見つめてみても、殺意など露程も湧いてこない。例えば今、目の前にいるのが赤井あの男であっても、自分は殺そうとは思わないだろう。

こうなることが怖かった。憎悪を失えば、息すらできなくなると思っていたから。胸にあったその黒い感情は、決して消えて無くなったわけではない。適切な言葉を探すとしたら、溶け込んでしまったのだ。希釈され、降谷零の一部となった。いくら拒絶しようとも、その事実は変わらない。かと言って、あの男と和解する気も毛頭ない。元来、相性が悪いのだろう。それでも心は静かだ。

「降谷さんのお話って長いんですか?」
「局に戻るまでには終わりますよ。端的にお話しますのでご容赦を……帰りは僕が運転しますから」

あからさまに嫌そうに尋ねる響歌に、苦笑しながら運転席へと乗り込んだ。彼女が助手席に座るまでの間、降谷は脳内で話すべき内容を整理する。ふと隣から聞こえた微かな声に視線を移せば、響歌が足下を見つめ首を傾げていた。

「これ、降谷さんのですか?」
「ええ、ささやかながらプレゼントです。と言ってもただのハムサンドですが・・・作りたての方が美味しいので、今度は是非」
「ハムサンド!!やったぁ、今晩はこれとコーヒーに決まりです。ありがとうございます」

きっとそんな機会は二度と訪れない。降谷がそう理解していることも、彼女は恐らく分かっているだろう。それでも否定せず頬を紅潮させる様子に、降谷の胸が軋む。最後に渡した方がよかっただろうか。これからする話は、決して後味のいいものではない。実行している側である自分でさえ、良い気分ではないのだから。車を発進させ、口を開く。

「では早速ですが、お話します。要点は2つ。僕に与えられている本当の役割について。そして……貴方がシビュラにとってどういう存在なのか、です」
「1つ目はなんとなく分かりますけど、2つ目は意味がさっぱり分かりませんね。まあ、いいです。とりあえず、1つ目から聞かせてください」

肩を竦め、響歌は先を促した。降谷の本来の役目、それが何かまでは分からないが、彼が普通の執行官でないことは予想ができていた。そもそも配属初日から異常であったし、その経歴も理由である。しかし、そこに巫女と自分がどう関わってくるのか甚だ疑問だ。惑う様子すら見せない彼女に、降谷はそっと胸を撫で下ろした。全て話し終えた後も、こうであることを祈りながら続ける。

「僕が命じられているのは貴女の監視です。行動から色相の変化に至るまで詳細に記録し、報告する。それこそ逐一です。船原ゆきの一件で同行しなかった時はかなりお叱りを受けました」
「それはそれは・・・こんな凡庸な女一人に大層なことで。それ、何かメリットがあるんですか?それとも、私に余計なことをさせないための監視なんですかね」
「どちらでもありません。言わば、テストみたいなものです」

その単語に響歌は眉を顰める。一体全体、何を測るためのテストなのか。しかも受験者本人に知らされないとは、抜き打ちですらない。いよいよ物騒な話になってきた。

「とある集団のメンバーに加わる資格があるのかを試す、僕に言えるのはここまでです」

曖昧すぎる言い方に、思わず笑ってしまった。しかし響歌は、降谷の言葉の意味をほぼ正確に捉えていた。集団、そしてその一員というニュアンスには覚えがある。それに気付いたのは、先日巫女と交わした会話も勿論だが、狡噛曰く妖怪並みである彼女の直感が起因していると言わざるを得ないだろう。

「槙島聖護や羽賀響輔はその資格を有している、違いますか?」
「・・・驚きました。本当に聡明な方ですね」
「そういう勘は働くんですよ。それに先日、巫女から似たような会話を持ち掛けられました−−−取引をしないかと。てっきり目的は従兄あにだと思っていたんですが、私もターゲットだったのは予想外です」

嘲笑うように吐き出された言葉に、降谷は僅かに瞼を動かした。聞かされていない。上司シビュラはつくづく秘密主義だ。言う通りに動いている自分にすら、全て共有されるわけではない。

「どんな取引だったんですか?」
「自分の正体を明かしてやると。その見返りについては教えてくれませんでした。恐らく従兄あにを取り込むのが目的だと思います。まあ丁重にお断りしました。全くそそられませんでしたし、あの人の命の対価としては不十分です。取引として成立し得ない」

それを聞いて降谷は思う、彼女がこういう人間でよかったと。シビュラより大切な人の命を選ぶ。それを迷わず瞬時に実行した。先入観を挟まずに、正しく物事を判断できる。それが可能な人間であることは分かっていたが、いつどんな時もそうあれるのは紛れもなく彼女の強さであり美点だろう。シビュラがより多くの免罪体質者イレギュラーを取り込むことに対して、どちらかと言えば降谷は是の姿勢である。しかし、望まない者を懐柔するようなやり方は好きではない。それに多様化が必ずしも良い方に働くとは限らないのだ。

「にしても失望しました。私は彼らとは違います。人より共感性が乏しいだけで、どんな状況でも犯罪係数が正常なわけではない。免罪体質者でなくても構わないってことですか?絶対の巫女が聞いて呆れます」

彼女はどこまで知っているのか。取引に応じなかったということは、巫女の正体までは知らされていないのだろう。この社会における自分達シビュラの有用性を信じていない相手に、無条件で正体を晒すほど巫女かれらは愚かではない。しかしどうやら、与えられた情報だけで彼女は真実に近付きつつあるらしい。

「貴女は身近に免罪体質者がいて、独特な視点をお持ちだ。特例、と言うよりは試験的なものですね。だからこそ我々は、慎重に5年間も監視を続けてきた」

今度は響歌が驚く番だった。監視されていたのは降谷が配属された時からだと思っていたが、間違いだったらしい。5年、それはつまり響輔が殺人を犯した時からということだろう。無意識に乾いた笑いが漏れる。

「はは…もしかして、移民の受け入れに向けた視察というのは建前だったんですか」

響歌は軽蔑するように降谷を見ながら、冷たい声で尋ねた。責められるのは覚悟の上だ。自分は彼女をモルモットのように扱ってきた。心が痛むはずがない。罪悪感など抱く資格すらないのだ。そう理解しているのに、彼女と目を合わせ続けることができなかった。道具であっても意思は捨てないできたつもりだ。だのに彼女の瞳を覗くだけで途端に自信が無くなる。

「好きなだけ罵っていただいて結構です。貴女にはその資格がある」
「しませんよ、そんな事。それで私の4年間が返ってくるわけではないですし。ただ、日本にいれば変えられたことがあったかもしれない・・・なんて、らしくない後悔が少しあるだけです」

この男を責めることには、何の生産性もない。降谷には降谷の信念がある。それを曲げることなど出来はしない。ましてや否定する資格など響歌には無いのだ。自分より何倍も苦しげな降谷に、笑って返事をする。

「つまり、こういう事ですか。貴方達は従兄が免罪体質者であると、5年前の時点で知っていた。そして私をモルモットとして、餌として使うことにしたと。アメリカへの派遣は、より劣悪な環境に置いて私の価値を測るためってところですかね・・・残念ながら、私にとってあそこは、この国より遥かに楽しい所でした」

次いで最終確認とでも言うように、この5年間をたった数十秒で要約してみせた。

「そのようですね。貴女にとって、日本ここより劣悪な場所などないでしょうから・・・全てご認識の通り。お察しかと思いますが、特別対策室は貴女のために用意された檻です」
「…それでは辻褄が合いません。あの部署が新設されたのは8年前、先程の話と齟齬が生じます」

嗚呼、やはり駄目か。そう思いながら、降谷は笑う。何故か彼女に嘘は吐きたくない。今こそ己の意思を貫くべき時。この美しく勇敢な女性に、最大限の敬意を払うのだ。

「監視が始まったのは5年前で間違いありません。ただ、シビュラが貴女に目を付けたのは20年前です」
「はぁ〜、特別待遇ってやつですか。嬉しくて涙が出そうです。まさかとは思いますけど、監視官の適性も御膳立てだとか言わないですよね?」
「いえ、それは違います。狡噛執行官や宜野座監視官同様に、紛れもなくシビュラ判定に因るものです」

降谷の言葉に、響歌は珍しく安心したように息を吐いた。その気持ちはよく分かる。安堵の理由はシビュラに選ばれたことが嬉しいのではない。大事な人達と出会えた道が偽物−−− 大嫌いな奴シビュラの遊びで用意されたものだなんて耐えられない。

「他に、訊きたいことはありますか?まあ、シビュラの正体についてだけはお答えできませんけど。それこそ僕の首が飛びかねない。と言っても、貴女には大方予想がついていそうですが」
「内緒です。知るだけで殺される真実なんて、陸なもんじゃないですよ。それに、見定め終えた対象に興味はありません。でも折角なので、御言葉に甘えてひとつ訊かせてください。解せないんですよ…何故私に明かすことにしたんですか?全て秘匿事項ですよね?」

響歌の言う通り、降谷が語ったことは全て、本来であれば彼女に共有されることはなかった情報ばかりだ。勿論、上から指示があったわけでもない。こうして彼女に明かしたのは、降谷の意思に因るものである。響歌には今回知り得た情報を誰かにリークするつもりは毛頭ないが、状況が変われば心境も変化する可能性はある。そうなれば、降谷もただでは済まないだろう。己の首を絞めるかもしれない行為を実行した理由が分からない。この男は信念より偽善を選ぶほど愚かではない。そう結論付けたうえでの問いだ。もし「ただの罪滅ぼしだ」などと宣うなら、思い切り嘲笑してやろうと息巻きながら響歌は尋ねた。しかし、返答は予想外のものであった。微笑んで降谷は言う。

「簡単なことですよ。僕が貴女を人として気に入っているからです」
「・・・エイプリルフールはまだ先では?」
「心外だな、本心ですよ」

この世の終わりのような顔でこちらを見る響歌に、降谷は苦笑しつつ答えた。あくまで監視対象と割り切れる相手なら楽だった。彼女がどうしようもない人間ならよかった。だが生憎、託された檻にいたのは怪しくも美しい人間。彼女が広い空へと飛び立つのを見たくなってしまった。その時点で、自分は失格だったのだろう。

「僕は生来嘘吐きですが、せめてそういう相手には誠実でありたいと思いまして…ご迷惑でしたか?」
「ぷっ、はははは!はぁ〜、降谷さんって案外楽しい人ですね。いつもの猫被りより、そっちの方が私は好きですよ」

耐えられないとばかりに腹を抱えながら、降谷の肩を叩く。響歌が息を整え終えた頃、ちょうど宿舎が見えてくる。半日も一緒にいなかったが、とても濃い時間だった。もうじき、その翼を広げ彼女が飛び立つ時がやって来る。それまでは自分も道具を演じなければならない。降谷はそっと目を伏せて、最後にひとつ心に残っていた願望を口にした。

「響歌さん・・・勿論あの男も、連れて行ってくださるんですよね?」
「……それは、私が選べることではありません。あの人は優しいですから、私が望めばきっと叶えてくれるでしょう。でももしそんな愚行を犯してしまったら、私は一生自分を許せなくなる。そんなのは御免です。私はあの人を縛り付けたいわけではない。ただ、変わらないでいてほしいだけです」

囁くような声が宙に舞い消える。じれったいな、と降谷は思う。あの男が自分らしくいられる場所など、ひとつしかないだろうに。恐らく彼女は、愛というものを根本的に信じていない。親愛だろうと恋愛だろうと生きる上での副産物としか捉えていないのだ。降谷は別に、赤井に幸せでいてほしいなどとは微塵も思っていない。しかし先に述べた通り、響歌のことはそれなりに気に入っている。赤井の望み通りになるのは少々癪だが、彼女の行く末が少しでも明るいものになる、且つあの男が自分の目の前から消えてくれる。メリットの方が大きい。しかし降谷は、それ以上は何も言葉にしなかった。身の振り方は決めてあると、赤井はそう言っていた。

「(選択を誤るなよ)」

とてもエールとは呼べない言葉を贈り、車を停めた。運転席に移動するために響歌も車内へと出る。そして見送ろうとしている降谷の真正面に立った。手を伸ばし、首を傾げる彼の頬を捕まえ顔を近付ける。

「ちょっ、何を…」
「やっぱり、綺麗ですね」
「はい?」
「今日、あそこで空を見上げて思いました。貴方の瞳に似てるなって。こんな不自由な社会でも、空は自由です……降谷さん、心はくれてやったら駄目ですよ」

そっと頬から手を放すと、目を丸くしている部下の胸を軽く叩いた。この天然タラシめ、と降谷は叫びたくなる。顔を引き攣らせる彼に容易く背を向け、響歌は運転席へと乗り込んだ。そして言い忘れたように、窓から笑ってこう言った。

「私、貴方のことは苦手でしたけど、それなりに好きでしたよ」
「……それは光栄ですね」

思ってもみない言葉に、降谷は思わず微笑む。その顔には嘘も偽りもなく、ただ晴れやかだった。今度こそ車が走り出す。口元に笑みを浮かべたまま、降谷も巣へと戻って行く。2月8日の夕方ことであった。

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に痺れた!