いつか芽吹くまで

狡噛は、ヘルメットを装着して宿舎の廊下を進む。巡回している警備ドローンには、狡噛慎也=重要監視対象として登録されているだろう。しかしこのヘルメットのお陰で素通りだ。そのまま自室へと入れば、そこには先客がいた。

「ああ、ヘルメットね。その手があったか」
「・・・ここで何やってんだ、とっつぁん?」

呆れたように言う狡噛に、征陸は最低限にまとめた槙島の資料と餞別を手渡した。それは、メモ用紙と古びた鍵束。警視庁時代に用意していたセーフハウスの鍵だ。狡噛がどう礼を言ったらいいか分からずに口ごもると、征陸は眉を下げて言った。

「・・・俺もな、付き合いたいのは山々だが」
「馬鹿言うな。あんたの息子の立場を考えろ。身内が不始末をしでかせばあいつのキャリアはぶち壊しだ」
「・・・すまん」
「謝るようなことじゃない」

そう会話を交わし、狡噛はメモ用紙と鍵束をポケットに突っ込んだ。そんな彼に征陸は問う、朱には黙ったまま行くのかと。せめて気持ちの整理を付けさせてやれと言えば、狡噛は曖昧に頷いた。それ以上何も言ってこない征陸を見返すと、意味ありげに笑われる。

「なんだ、訊いてほしいのか?惚れた女より復讐を取るのかって?」
「もう言ってるじゃないか」
「ははっ!まだまだだな、コウ」
「何の話だ・・・っ、

悔しげに言うと、征陸は笑った。その瞬間、背後で扉が開く気配がして、狡噛は咄嗟に顔を上げる。

「謀ったな、とっつぁん」

視線の先にはやけに不機嫌そうな表情でこちらを見下ろす響歌の姿があった。ニヤついている征陸を苦い顔で見返せば、本人は肩を竦め素知らぬ顔。

「俺は何もしちゃいないさ。ただ、お前がお嬢の勘の良さを見くびってただけだ」

彼女は目を逸らさずに階段を降りてくると、机に置いてあった酒を呷った。そして赤井の予想通り、苦い顔をしている狡噛の右頬に鉄拳が飛ぶ。想定外の攻撃にくぐもった声が漏れた。ソファに背中をぶつけて初めて、殴られたのだと理解する。

「何なんだ、一体」
「貴方は宜野座を親友殺しに仕立て上げるところだった!それにっ、命を投げ出そうとした!本当はこんなんじゃ足りないけど、赤井さんに一発にしておけって言われてるから・・・やっぱり左の頬も殴らせて」
「それくらいにしておけ、また医務室送りになっちまう。それに見てみろ。コウはまだ死んでねえさ」

また拳を振り上げる響歌に、狡噛は身構えた。見かねた征陸が立ち上がって宥めると、渋々引き下がる。こんなに感情を露わにする姿は初めて見た。それだけこの男が大切だということだ。殴られた本人は決まり悪そうに視線を逸らす。痴話喧嘩を見せられている気分だ。邪魔者はさっさと退散しよう。

「じゃ、俺はお暇するかね。コウ、達者でな。お前が下手を打たない限り、二度と会うことはないだろう」

徐に立ち上がり、征陸は笑う。狡噛がそれに頷くと、彼は響歌の頭を軽く撫でて部屋を出て行った。残されたふたりの間に沈黙が落ちる。未だ痛む頬に苦笑いを浮かべると、狡噛はやっと顔を上げて彼女を見た。

「悪かった……頼むから許してくれ」
「私のエゴだって分かってるよ。でもっ、お願いだから、沈んでいかないで・・・二度と自分を投げ出さないって約束して。目の前で死なれるより、私の知らない所で貴方が抜け殻になる方が耐えられない。信じさせて……いつだって、どこかでちゃんと生きてるって。じゃないと私・・・っ、壊れそう」

狡噛は我が目を疑った。あの響歌が泣いている。涙は流れていなくとも、その心の悲鳴が痛いほど伝わってくる。思わず立ち上がって腕を引き、衝動のままに掻き抱いた。見たくなかった。泣き顔なんて真っ平だ。どうか笑ってくれと、そう思うのに言葉が出てこない。喉の奥で渋滞するだけだ。

「もう二度としないと約束する。だから…っ、頼むから、泣くな・・・気が狂いそうになる」

懇願しながら、柔らかな髪に顔を埋めた。腕の中にある華奢な身体の震えが止まる。そっと解放すると、響歌はいつもの様に笑い、狡噛に尋ねた。

「ねぇ、狡噛・・・貴方は今、ちゃんと苦しんでる?魚に成り下がったりしてないよね?」
「ああ、必死に這い上がってる最中だ」

大きく頷けば、彼女は嬉しそうに目を細めた。見慣れた笑顔に、狡噛の心が凪いでいく。この社会にとっての正義を手放そうとしている。そんな自分を笑って見送るのだから、監視官としてそれを止める気は毛頭ないのだろう。当然だ。彼女はいつだって、執行官ではなくひとりの人間として狡噛を見ていた。今その瞳に宿っている僅かな愁いの理由は、引き止められない不甲斐なさを嘆くのではなく、ただ別れを惜しんでくれているからだと痛いほど理解できた。狡噛は思う−−−自分は何か残せただろうか、澱んで泥に塗れた場所で美しく咲く彼女に。

「生きたまま死んだら駄目だよ」

それは即ち、人間をやめるなということ。100年前なら簡単なことだったはずだ。それが今や、こんなにも難しい。いや、時代の所為にするのは間違いだ。目の前の彼女は小さな身体でそれを実行している。その目を見れば分かる。響歌は、狡噛なら出来ると確信している。心地の良い沈黙に終わりを告げるように息を吐く。長居は無用。このままここにいたら、余計な言葉が這い出てきそうだ。顔を上げれば、響歌はさっきの泣き顔など嘘みたいに笑い、また明日とでも言うようにヒラヒラと手を振った。最後までいつも通りの彼女に、少しばかり嗜虐心が疼く。腕を広げて、どこか挑発的に狡噛は提案した。

「折角だ、もっと情熱的なハグでもするか?」

キョトンと子供みたいな顔をする響歌を見て、狡噛は満足げに笑う。冗談だと腕を下げようとすると、少し考えるような素振りをしてから今度は響歌が言った。

「じゃあ、キスしてみてもいい?」

沈黙。何かの間違いかと思い、一度その意味を反芻してみたが結果は同じ。一体全体、彼女は何を思ってそんな提案をしたのか。先にジョークを飛ばしたのは狡噛だが、響歌の方はそういう雰囲気ではない。割り切っている関係なら別だが、キスとはいうのは通常、特別な相手と交わすものだと認識している。まさか自分が彼女の中でその特別にカテゴライズされるのだろうか。そうだとすれば喜ばしいことではあるが、些か信じ難い。狡噛は優秀な脳を余すことなく使って答えを導こうとするが、上手くいきそうになかった。

「悪いが、理由を聞かせてくれ。まさか、そういう遊びか?」
「流石、鋭いね」

悪戯っ子のように笑いながら頷く。狡噛は盛大に溜息を吐くと、乱暴に頭を掻いた。ほんの数秒だが、悩んだのが阿呆らしい。この同期に常識を求めた自分が馬鹿だったと後悔する。同時に、彼女は何事も本気で享楽し尽くす人間だと思い出す。つまり、さっきの提案も真面目に遊びたがっているのだろう。

「でも、付き合わせるのは狡噛が最初。誰かと別れるときに離れ難くなるの、初めてなんだ。そういう相手とキスしたら、どんな気持ちになるのかなって」

そう言いながら、響歌は己の唇をそっと撫ぜた。その下から覗く薄い桃色に、狡噛は思わず唾を飲み込む。尋ねられた瞬間から、答えは決まっている。今すぐ飛び付きたくなるのを、辛うじて残っている理性でなんとか堪えていた。

「今までお前と付き合ってきた男達に心底同情する」
「必要ないよ。みんな勝手に好きになって、勝手に去って行っただけだから」

何でもない事のように言うが、それは彼女がいかに孤独であったのかを如実に語っている。特殊な体質か、それとも異常な過去ゆえか、不要なものに固執することを避けて生きてきたのだろう。愛情もまた然り。それでも彼女には存在しているだけで他人を惹きつける魅力がある。自分から求めずとも寄って来る人間は大勢いたに違いない。確かに、頼んでもいないのに愛を語り、勝手に幻滅するような相手に同情は不要なのかもしれない。一方狡噛じぶんは、その彼女に離れ難いとまで言わせたのだから、誇ってもいいのだろうか。ふと考える。もしここに立つのが赤井だったら、彼女は同じ提案をしただろうか。響歌が誇らしげに見つめる、唯一人の男の姿を思い浮かべて固く目を閉じた。

槙島を裁けない、そんな正義なら要らない。この社会が奴を生かすことを選ぶのなら、自分自身で裁きを下す−−−そう決めたはずの心が揺れる。叶うなら、一時でも離れずにその姿を見つめていたかった。だが、その役目は自分よりも相応わしい人間がいる。狡噛は痛いほど理解していた。もしも響歌が目の前で敵の攻撃に倒れたら、自分はきっと敵の制圧より彼女の身の安全を優先するだろう。しかし赤井はまず敵を殺すために動くに違いない。彼女が起き上がることを最後まで信じている。それが、自分と彼の違いだ。女として愛してしまった時点で、自分は相棒にはなれるはずがなかった。自嘲して顔を上げれば、響歌は変わらず大きな瞳に狡噛を映している。それだけで、いい。彼女の瞳に映る己の姿が、恥じるものでないように生きていく。その先でまた逢えることを、祈らずにはいられない。

「最初で最後の命令か・・・了解だ、飼い主様」

真っ直ぐにこちらを見つめる彼女の細い腕を掴み、引き寄せる。程よく筋肉の付いた、それでいて女らしさを欠如することなく兼ね備えた身体を抱き締めた。注文外の行動に戸惑うように響歌が腕の中で身じろぐ。力を込めたら壊れそうだ。こんなにも小さく脆いのかと喉を鳴らして、今後の行く末とは正反対の柔らかな温もりを狡噛は味わった。身体を離し、親指でその頬に触れてから淡い桃色の唇を撫ぜる。かさついた指先に響歌が小さく身を震わせた途端、まるで「待て」から解放された犬のように、狡噛は目の前の唇に噛み付いた。隙間を覆い、呼吸を塞ぐ。

「…こ、がみ」

悩ましげな声で自分の名を呼びながら必死に応えようとする様は、面白いくらいにただの女だ。狡噛が夢中になって貪っている間も、響歌は控えめに彼のシャツを握るだけで縋ろうとはしなかった。そっと盗み見れば、彼女もまた薄く瞳を開きこちらを見つめている。狡噛はすぐにでも舌を絡めたくなるのを堪えて一旦唇を解放すると、響歌の手を取った。

「腕を回せ、やりづらい」

少し屈んで導くように腕を引く。いつも凛としている瞳を潤ませて、響歌は素直に従った。太い首にそっと腕が回され、より身体が密着する。服越しに感じる弾力に、下腹部が疼いた。待ちきれないとでも言うように、狡噛はその背中をひと撫でし再び牙を剥く。まるで獣だなと思いながら、奥で震えている舌を絡め取った。指通りのいい髪を掻いて、さらに深く。さっきまで飲んでいた酒と、染み付いた煙草の味が広がり、頭が変になりそうだ。鼓膜を揺らす艶かしい音、甘い匂い、柔らかな感触。響歌の全てが狡噛の理性を奪っていく。触れ合った唇の隙間から、混ざり合った唾液が伝う。息を吸うための一瞬、狡噛は悔しげに吐き捨てた。

「ああ、クソッ、おかしくなりそうだ」

このまま犯してしまいたい。親指で口の端を拭ってやると、響歌は小さく身を震わせる。ロマンチストではないのに、時間が止まればいいと思った。見つめていたい。触れていたい。欲望が濁流のように押し寄せてくる。その波に身を任せることができたら、どんなにいいか。奥歯を噛み締める狡噛の唇を、響歌の吐息が誘うように撫ぜる。煽っているのか、それとも無意識か、どちらにしても質が悪い。

「っ、響歌・・・俺は、

お前が好きだ−−−喉先まで出かかった言葉を飲み込み、再び口を塞ぐ。伝えるべきでないと頭で考えながら、心では真逆の望みが燃えている。この口付けで、自分の愛を嫌になるほど思い知ればいい。烙印の如くその脳内に焼き付けてやりたい。胸の中で暴れるこの感情は、狂気か愛か。狡噛自身、分からなかった。

「俺が怖いか?」
「全然……すごく人間らしくて、眩しいくらいだよ。ねぇ、もう一回だけ」
「っ、ああ」

そう言って、響歌は愛おしそうに目を細めた。狡噛はごくりと喉を鳴らす。一瞬、本当に同一人物なのかと疑う。いつもは異常なほど強かで逞しいくせに、いま腕の中にいる彼女は柔くて甘い菓子のようだ。額を合わせながら口内を舐め尽くして、最後に強めに下唇を食むと、響歌は微かな吐息を漏らした。

「狡噛」

潤んだ瞳で名前を呼ばれ、カッと身体が熱くなる。湧き上がってくる衝動を必死に抑え込んだ。一瞬でも気を緩めれば途端に溢れ出すだろう。本能のままにその柔肌に爪を立て、蹂躙するように貪るなど獣の所業。

狡噛は思考する。二度と会えなくなるなら、欲望のままに味わい尽くし一生消えることのない記憶きずを刻もうか−−−否、焦がれた対象を自らの手で汚すなんて、畜生のすることだ。彼女が呼吸を止めるとき、その記憶にいる自分は人の姿であってほしい。それに、いつか必ずこの愛を伝えに行くと決めている。

それとも、今すぐその手を取って攫ってしまおうか−−−否、それは彼女の心を殺す行為だ。力で縛り付け傍に置いたとしても、彼女は自分と同じ闇を覗こうとはしないだろう。その瞳には常に同じ光が宿っているのだから。結論はやはりひとつ、今はただ手を離すしかない。考えるまでもない、自明の理だ。僅か数秒の思考を終えた狡噛はきつく目を閉じる。そのとき、腕の中で響歌が肩を揺らして笑った。

「なんだ?」
「いや、想像よりずっと良かったなぁって」
「奇遇だな、俺もだよ。もっと早く手を出しておくべきだったと後悔してる」

そう言って笑う狡噛の声は柔らかく、優しかった。それを聴いて響歌も微笑むと、そっと目を伏せ思う。これでいい。胸にあるこの想いは、愛と呼ぶにはあまりに歪で不確かだ。名付けずに土へと還そう。願いは一つ、どうか狡噛あなたが人であらんことを。

「最後に残ったのが後悔でいいの?」

最後という言葉に狡噛は僅かに瞼を動かした。そう、響歌は知らない、彼が自分とは全く逆の覚悟を決めていることを。歩き続けたその先で、捨てたはずの愛が芽吹くだなんて、想像すらしていないだろう。それを理解して、狡噛は笑った。次に会った時に彼女がどんな顔をするのか、考えただけで胸が鳴る。往生際が悪い、執着心の塊、誰にどう言われようが捨てないと決めたのだ。狡噛が何も答えずにいると、響歌はそっと身を引いた。早く行けとばかりに笑う彼女に、再び右手を伸ばし、柔らかな髪を撫でる。温もりを享受するように目を細める様は、まるで幼子だ。

「そうでもないさ」

いつか伝えに行くと明言はしなかった。狡噛もまた、彼女の抱いている想いが自分と同じものだとは知らない。あの抱擁も口付けも、あくまで親愛による行為だと信じている。第三者は悲しい別れだと、そう表するかもしれない。だが、ふたりにとっては違う。これは紛れもなく眩い別れだ。やけに穏やかに笑う狡噛に、響歌は小首を傾げた。その様子に目を細めて、彼は言う。

「響歌、ひとつ頼みがあるんだが」
「……いいよ。戯れに付き合わせちゃったしね」

珍しいこともあるものだ。真意を探るように狡噛を見てから、響歌は笑って頷いた。別れ際だ。とても叶えられない願いではないだろう。数秒の沈黙ののち、狡噛はちっぽけで壮大な望みを口にした。

「名前を呼んでくれ」

思ってもみないお願いに、響歌はひどく間抜けな顔をした。思わず「なにそれ」と言いそうになり留まる。馬鹿にできなかった。それは、とても特別なことなのだ。まず過ったのは、相棒の声。極限下でも安らかな時間でも「響歌」と、赤井にそう呼ばれるだけで心が静かになることをよく知っている。そして、初めて気付く。狡噛の呼び声が心に与える変化は、赤井のそれとは真逆。ぶっきらぼうに呼ばれる度に、微かに胸が鳴るのだ。心に小さな波が起こる。響歌はそっと目を閉じた。

「(そう、あなたはそんなにも生きたいんだね)」

背を向けたはずの愛が、人間のように生を求め、吠えている。潔く息を止めてくれればいいのにと思いながら、持ち主に似たのかもしれないと苦笑した。瞼を開けると、狡噛は急かすでもなく、ひどく優しい眼差しでただこちらを見下ろしている。響歌はその横髪に触れて、はっきりとその名を紡いだ。

「−−−慎也」

狡噛は思わず声を漏らして笑う。聞き飽きたはずの自分の名前を、こんなにも尊く感じる時が来るなんて想像もしなかった。その声で奏でられるだけで、ただの三文字がとても素晴らしい音になる。会えない時間の分くらいは、もう貰った。次に会う時まで、これで生きていける。喉を鳴らしてから響歌の耳元に唇を寄せて、狡噛は告げた。

「じゃあな」

そっと髪を撫でた手が離れていく。その声を鼓膜に刻みながら、去って行く大きな背中を脳に焼き付けた。この体質が嫌いだった。感謝したことはただの一度もない。父の最期、写真越しに見た佐々山の死体、響輔の懇願、全て五感に刻まれ、いつでも鮮明に脳内そこにある。それでも今は、憎らしかった能力を少し誇らしく思う。色褪せることのないように、すぐに取り出せるように、狡噛かれとの記憶は特等席に置いておこう。

「さようなら」

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に痺れた!