終末に向かって

2月9日未明、公安局を出ようとしている狡噛の視線の先、誰かを待つように壁にもたれて煙草を吹かしている男がいる。その足下には警備ドローンが一機、横たわっていた。男は狡噛に気付くと煙草を灰皿に押し込み、肩を竦める。

「満足に吸わせてくれないようだから、少し手が滑ってしまってな。今ならそいつを外しても大丈夫だ」

スッと長い指でヘルメットを指差して、男−−−赤井は笑った。それを見て思う、彼女の言った通りだと。爪の先は丁寧に整えられ、骨格はしっかりしているが綺麗な手をしていた。狡噛が指示に従いヘルメットを脱ぐと、赤井は口元を緩めドローンを蹴り上げる。

「管財課に怒られますよ」
「心配はないさ。その頃には俺も響歌も、ここにはいないからな」

得意げに笑う彼を、狡噛はじっと見つめる。何を言えばいいか、迷っていた。目の前の男は、これからも彼女の傍にいる。その命尽きるまでずっと。彼女にとって赤井は、すでに特別な存在だ。次に会った時には、何人も踏み込めないほどの関係になっているかもしれない。狡噛は苦笑する。この男と接する時、自分はどうしたって対抗心を捨てられない。まるで子どもだ。欲しいのはその場所ではないのに、彼女の瞳に映るのが自分だけであればいいだなんて、狂っている。

「餞別だ。たまには違う味もいいだろう」
「……ありがとうございます」

手渡されたのは一箱の煙草だ。普段自分が吸っているのとは違う銘柄。目元を緩めそれを受け取る狡噛の肩に手を置いて、赤井も笑う。

「安心しろ。君が攫いに来るまで、あいつの心と命は俺が全てを懸けて守り抜く。まあその時が来ても、この場所を譲るつもりはないがな。それに君が欲しいのは別の席だろう?心配するな、そこは君の特等席だ」
「赤井さん・・・」
「だからと言う訳ではないが…君も誓ってくれ、俺ではなく響歌に−−−絶対に死ぬな。どんなに汚れた道だろうと生きていさえすれば、あいつの瞳から君が消えることはない」

思わず息が詰まった。あくまで騎士ナイトを貫くつもりなのだ。いや、この男にとってはそれこそが至上なのだろう。それに彼女はお姫様という柄ではない。赤井も行儀良く仕えるというよりは、共に暴れる質だ。このふたりの関係を表す上手い言葉が見つからない。片割れ、半身、相棒、戦友。いずれにしても確かなのは、互いに唯一無二の存在だということ。その場所もまた未来永劫、赤井秀一だけの特等席。代わりが現れることはない。

「約束します。しぶとさなら自信がありますから、ご心配なく……あいつを、響歌を、頼みます」
「ああ」

とてもこれから復讐に出向くとは思えないほど晴れやかな顔で、狡噛は笑った。それをどこか頼もしげに見返して、赤井も大きく頷く。もし今ここに響歌がいたら、その背中に何と声をかけるだろう。ふとそう想像して、赤井は呟いた。

「いつか、また」

その音に、確かに彼女の声が重なる。当の本人は今頃部屋で眠りこけているだろう。惚れた男が逃亡するというのに、呑気なものだ。ふっと笑って、赤井も主人の元へと帰って行く。

−−−−−

朝日が顔を出す頃、響歌はひとり特別対策室へと足を踏み入れた。もう二度とここに来ることはない。静かにデスクに近付いて、瞳を見開く。綺麗にしたはずの机の上に、何か置いてある−−−手紙だ。差出人を瞬時に理解し、目を伏せる。もし自分がここに立ち寄らなかったら、一生届くことはなかっただろう。どうせなら直接渡してくれればよかったのにと思い、それはそれで照れ臭いなと苦笑した。椅子に座り封を切る。そっと便箋を開くと、そこには丁寧で迷いのない文字が並んでいた。

響歌へ
 まさかお前に手紙を書くことになるとは思わなかった。頼むから途中で破って捨てたりするなよ。筆を取ったはいいが、正直考えがまとまっていない。全て書き終えたとき、らしくない文章が出来上がっているかもしれない。許してくれ。
 お前のことだから全て察していると思うが、俺はこれから槙島を追う。まずは雑賀先生の所に行こうと思っている。ギノや常守に言うなよ。逃亡が発覚すれば、あいつらは俺を捕らえようとするだろう。常守と交わした刑事でいるという約束も、どうやら守れそうにない。それでも俺はこの憎悪を取る。誰かに理解してほしいと思ったことはないが、お前にだけは笑って見送ってほしい。頼む。
 復讐を終えたとき何を思うのか、俺にもまだ分からない。まあ、達成感が待っている気はしない。ただ、ひとつだけ誓う。命を投げ出すような真似は絶対にしない。お前に幻滅されるのは御免だからな。こんな日が来ることは、予想できていた。今だから言うが、お前に銃口を向けられる夢を見たことがある。たぶんそれが、俺にとって最も恐ろしい結末だったんだろう。

そこで一枚目が終わる。記されている夢は、あの時のことだろう。一度だけ隣で眠った日、彼は魘されていた。あれは自分の所為だったのかと、今になって申し訳なくなる。だが確か、謝罪は不要だとも言っていたから、謝るのは止そう。ふっと笑い、便箋を捲る。

 だが今は、そんな結末は来ないと確信している。俺が俺である限りお前は俺を見限らない。この心が息をしている限り、お前の中に俺の居場所がある。いつかそう言ったな。それなら、何も心配しなくていい。笑って見届けてくれ。俺は決して自分を捨てない。人であり続け、お前に誇れるように生きていく。そう怒るな。今お前がどんな顔をしているか、容易に想像できる。いくら拒もうが、お前は周りに影響を与えずには生きられない。頭は良いんだ、理解できるはずだ。それでもまだ解らないと言うなら、赤井さんに訊いてくれ。お前がどういう人間なのか、力説してくれるだろう。

行間を見つめる響歌の胸を、感じたことのない波が襲う。そこに記されていることは、不本意ながら事実なのだろう。自分はきっと息をしているだけで、良くも悪くも周りを惑わす。これまで、誰にどう思われようが構わなかった。だがきっと、狡噛を含めた大切な人達に否定されてしまったとしたら、自分を保てなかったに違いない。いま胸を包むこの感情は恐らく喜びなのだろう。自分の存在が、狡噛かれの生きる力になる。その事実が堪らなく嬉しい。

 お前が俺に何を齎したのか、言葉で表現するのは正直言って難しい。ただ一つ確かなことがあるとすれば、その全てが俺の心の血となり肉となっていることだろう。たとえ傍にいなくても、お前の存在は俺の原動力だ。拠り所にするなと言われたが、無理だった。悪いな。どんなに否定されようが、この事実が覆ることはない。だが安心しろ、命綱を握ってくれとは言わないさ。ただ、生きていてくれ。それだけで俺は前に進める。完璧な世界で、光を見出せなかった俺の足下を照らしてくれたことに、心から礼を言う。ありがとな。

それはこちらの台詞だと、頬を緩めた。この空の下、彼が息をしている。その事実は響歌にとって希望であり、この美しくも醜い世界で彼は紛れもなく光であった。文章から、諭すような雰囲気が伝わってくる。自分はそこまで聞き分けがないように見えていたのだろうか。まるで小さな子どもになった気分だ。そんなことを思いながら、響歌は最後の一枚へと視線を移す。

 長々と語っちまったが、あと少しだから寝るなよ。むしろここからが本題と言ってもいい。いいか、これは宣戦布告だ。今度会ったら伝えたいことがある。お前は二度と会わないつもりだろうが、生憎と諦めは悪いんでな。よく知ってるだろ。たとえ何年先だろうと、この想いは変わらない。逆に月日が経つほど肥大化していくだろう。お前に伝えるときには、尋常じゃない大きさになっているに違いない。覚悟しておけ。それから、もし何処かで俺を見つけても、声をかけたりするなよ。追うのは俺だということを肝に銘じておいてくれ。いつか必ず、伝えに行く。その時は観念して捕まっちまえ。

身体が震えた。それは決して嬉しさからではなく、恐れからだ。危ない橋など何度も−−−否、常に渡っているのに、こんなにも恐怖を感じたことはない。情けないと思いながら痛感する。自分は、愛を諦めたのではなく、恐れていたのだと。まさか狡噛が、その片割れを携えて自分を探しに来るだなんて、想像もしていない。逃げ果せることができるだろうか。相棒もいない、たった独りで。止めてと叫んだところで、狡噛は声の届く場所にはいない。もしかすると、手紙を直接渡さなかったのは、気恥ずかしさが理由ではなく響歌の抵抗を拒絶するためだったのかもしれない。胸の中を、幾つもの感情が渦巻く。恐怖、戸惑い、苛つき、そして期待。最後のそれは、圧倒的に比重が大きい。負けを認めるように独り笑うと、末筆へ。

 最後にもう一度、感謝を伝えたい。響歌、お前に出逢えてよかった。それだけは胸を張って言える。もし巡り合わせたのがシビュラなら、かなり癪だが礼を言わざるを得ない。また会う日まで、お前らしく生きろ。じゃあな。
狡噛 慎也

再び会える確証もないのに、なんて軽い挨拶なのだろう。それとも態とだろうか。彼らしいと思いながら笑い、三枚の便箋を封筒に戻して時計を見る。

「(あと1時間、いけるか)」

引き出しを開ける。そこには真っ新な便箋がある。入局したての頃に使用したきり。こんなに綺麗なのが不思議なくらいだ。空気が入らないようにしっかり保管していたのがよかったらしい。手紙なんて書いたことがないと言った響歌に、それなら文通するかと征陸が提案したのだ。とても楽しかったやり取りも、アメリカに派遣されたのを最後に途絶えてしまった。瞳を閉じて思い出す。この体質に頼りきって、写真と同じように手紙を捨てようとしたのを赤井に止められた。記憶にあるのと、目で見えるのは違うのだと、そう教わった。あの頃はその意味がよく分からなかったが、今は違う。写真も手紙も、物ならば触れられる。それでも、これからの自分には愛しい思い出すら、荷物になってしまうのが悲しい。

「分かってますよ。手に持てない分は、記憶の中に」

そう呟いて、便箋を机に広げた。ペンを持ち、返事を書き始める。頭でまとめている時間はない。思うままに手を動かした。スラスラと真っ白な紙上が文字で埋まっていく。筆は止まることなく流れて、30分足らずで書き終えてしまった。なんだか心が籠っていないみたいに思えるが、そこには紛れもなく自分の本心が綴られている。狡噛ならば、間違いなくそれを汲み取ってくれるだろう。貰った手紙よりも長文になってしまった。四枚の便箋を丁寧に折り、無地の封筒に入れる。封をして、立ち上がった。そろそろ時間だ。振り返ることなく、二通の手紙を携えて響歌は静かに部屋を出る。廊下を進み、テラスに探し人の姿を見つけ、近付いた。少し震えている背中に逡巡したのは数秒、すぐに声をかける。

「朱ちゃん」

弾かれたように振り向いたその目元には涙が滲んでいた。生憎と慰めるほど優しくない。それに、その涙は必ず彼女を強くする。無表情のまま、響歌は書きたての手紙を差し出した。意図が掴めず戸惑う朱に、笑って答える。

「狡噛に渡しておいて。追いかけるんでしょう?」
「・・・ご自分で渡すべきです」
「それは無理。たぶん言葉を交わすことはないし。聞き入れてもらえないなら、破棄するしかないね」
「なっ、駄目です!」

響歌が指に力を込める。今にも破り捨てられそうになっていた手紙を、朱は思わず引ったくった。彼女なら本当にやりかねない。

「よろしくね……じゃあ私は行くから」

引き止めようとした手が空を切る。かける言葉が見つからなかった。何を言っても、自分の声は彼女に届くことはない。もし今、礼を述べたらどんな顔をするだろう。ありがとうと、一言で片付けるには有り余るくらいのものを貰った。同じように考えることはきっと一生できはしない。だからこそ、その姿は眩しく、その生き様に惹かれた。響歌・ルートヴィヒという物語の中では、自分は名前すらないだろう。それでも、確かに触れた。たとえただの後輩でも、その人生に僅かでも登場できたことを誇りに思う。振り向くことなく歩いて行く背中に、朱は頭を下げた。

−−−−−

その30分後、響歌は赤井と共に地下駐車場にいた。巫女との決別の時である。

「それでは降谷さん、お元気で」
「ええ、響歌さんも」

偽りのない顔で微笑む降谷に、響歌も目を細めた。やっぱり笑った方がずっといい。そう思ったが、口にはしなかった。居なくなる人間の言葉など、彼にとって価値はないだろう。

「車を回して来ます」

響歌はそう言って奥へと消える。自分の車で移動するのだろう。彼女の姿が見えなくなった途端、降谷は佇んだままの猟犬を無言で睨みつけた。殺意剥き出しの視線に、赤井は笑顔で茶化す。

「俺には一言も無しか、つれないな」
「お前がどこで野垂れ死のうが俺の知ったことじゃない……役目を果たせ。ひとりでのこのこ戻って来るなら、今度こそこの手で殺してやる」
「血気盛んだな全く。言われずとも全うするさ。俺はこう見えて一途な男だからな」
「やめろ、虫唾が走る。執念深いの間違いだろう」 

嫌悪感丸出しで降谷が吐き捨てる。散々な態度に赤井は苦笑しながら、ポケットから取り出した物を差し出した。指の隙間から見える色や質感で、それが何なのか降谷は瞬時に理解する。顔を歪めて手を出すと、赤井はそっとその上に乗せた−−−執行官デバイス。

「呆れたな、無理矢理外したのか。普通なら外そうとすれば犯罪係数が上昇するが、
「変わらんさ。俺にとってはただの作業だ。何の罪悪感もない」

それを自分に渡すところがまた気に入らない。これでは逃亡を見逃したも同然だ。まあそれくらいは欺ける自信があるが、得意げに笑う顔を見ると、また腹の底から苛つきが湧いてくる。きっと一生、この嫌悪感は拭えない。大袈裟に息を吐き、降谷は胸元を漁る。指先に触れた物を取り出して、赤井に放った。

「くれてやる。ほぼ同等のデバイスだ。どうせあのヘルメットを着けて行動するつもりだったんだろう?」
「こいつは驚いたな。まさか君から餞別が貰えるとは」

一切視線を合わせず吐き捨てられながら、赤井は右手でそれをキャッチした。口では茶化しても、声や視線には感謝が滲んでいる。降谷もそれを見抜いてはいたが、素直に受け取ってやるつもりはなかった。執行官デバイスは、首輪であると同時に僅かに許された自由の証でもある。それ無くしては、潜在犯は潜在犯でしかない。

「貴様の為じゃない」

その一言に赤井は笑った。そうこうしていると、響歌の車がゆっくりと近づいて来る。それを視認し、彼は最後に青い双眸を見つめて言った。

「運命共同体だ、最期まで共にある。楽しい旅になるだろう……君も、命の懸け時を見誤るな」
「ふん、言われるまでもない。さっさと行け」

つくづく気に入らない男だと降谷は思った。赤井は狡噛と同じく、逃亡扱いになるだろう。それでもその横顔は、高揚と期待で染まっている。相棒を急かすように響歌が運転席から覗き込む。それに答えるように左手を挙げると、赤井は助手席へと乗り込んだ。ふたりが車内で笑いながら会話を交わす様子を見て、降谷はふと思い出す。赤井に執行官適性が出た時のことだ。資料の中からこちらを見つめる、空虚を湛えたような瞳をよく憶えている。降谷はそれだけで面会の必要はないと判断した。抜け殻となった人間に務まる仕事ではないと十分理解していたからこその判断であった。しかしその僅か半月後、局内でその男の姿を見た。澱んだ沼のような色を放っていた瞳に、本来の澄んだ翠を取り戻した状態で。その傍らにいたのが彼女だ。そして、数人いた候補の中から、その男を選んだのは彼女自身だということも後から聞いた。

「護り抜け、その命尽きるまで」

走り去る車を見送りながら、降谷は笑う。もしもシビュラが彼らに与えたものがあるとすれば、その出逢いだったのかもしれない。

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に痺れた!