No pain No gain

最後の一音を合図に、槙島が動き出す。初手は突き。響歌は半歩足を引くと、上半身を逸らしてそれを躱す。鼻先を刃が横切る。次手が飛んで来るより早く、猫のような動きで相手の左側を取ると、脚を振り上げ右手首へと蹴り込んだ。まずは対等な状況を作ることが最優先。相手が凶器を持っているならば、それを捨てさせるか間合いを取るかのどちらかだ。槙島は真横からの攻撃に一瞬目を見開き飛び退くと、楽しそうに笑う。刃物は未だ彼の手の中にあった。響歌は舌打ちをし、息を整える。リセットするように酸素を体と脳に送り込む。一方で槙島は、蹴られた手首を見つめ、声を弾ませ言った。

「少し油断していたよ。動きに一切無駄がない。いや違うな、心か。邪念が無いと言ってもいい。闘いの中で優先すべきことを正しく理解し、実行しようとしている。ある意味、狡噛よりも厄介かもしれない。彼は僕に殺意だけを向けているが、君は……そう、僕と同じだ。純粋にこの人生ゲームをプレイしている。どうすれば最も早く効率的に攻略できるか常に考えて手を打っている・・・少しばかり、退屈すぎるやり方だけれどね」
「意外にお喋りですね。ズレてますよ。退屈だから早急に終わらせるんです。好きでもない相手との会話に時間を費やすほど暇ではない、私も、そして貴方も。早くしないと狡噛が来てしまいますよ。貴方にはまだやりたい事があるのでしょう?つまらない会話など止めて、さっさと本気、出してください」

ザッと右足で地面を撫ぜながら、響歌は挑発した。身体の力を抜き、素人であれば隙だらけだと判断するような状態で。しかし、槙島は動かない。釣られて飛び込めば、喰われるからだ。向かい合い再び構えると、互いに笑った。ひりつく肌に、響歌は自覚する−−−自分はやはり異常なのだと。この瞬間が堪らない。胸を支配する高揚感は本物だ。ギリギリの攻防、死に触れるような感覚を味わいながらも、生きているという実感も確かにある。食事の前のように上唇を舐め、獲物を見据えた。澄んだ色を残したまま、その瞳はギラついている。

「・・・さて、どんな目が出るかな」

槙島が呟くのと、響歌がホルスターから拳銃を抜くのはほぼ同時だった。最後の一音を合図に、トリガーを引く。相手は容易く放たれた銃弾を屈んで躱し、勢いよく駆けて来る。身軽な動きで一気に距離を詰めると、地面と並行に構えていた響歌の右手へと下から打撃を見舞った。しかし、それも空振りに終わる。彼女は逃れるように腕を振り上げ、銃を宙へと高く放った。武器を容易く手放したことに、槙島は一瞬惑う。その隙を響歌は攻める、攻める、攻める。僅か2秒足らずの時間だ。まず武器を所持している敵の右手首を掴み、封じる。続いて綺麗な顔へと右足で蹴りを繰り出した。槙島にそれを左腕で受け止められると、即座に手と足を引っ込め、落ちてきた銃を右手で迎えた。

「やはり君は、こちら側だ」
「こちら?」

再び、会話。さぞ嬉しそうに槙島は言った。手元の銃を撫ぜながら、響歌は怪訝そうに尋ね返す。

「君は意思を捨てていない。故に君は、僕を裁くことができる。あの時、最初にあの場所に現れていたのが君だったら、僕はもう息を止めていたかもしれない」
「嫌ですよ、面倒くさい。貴方が死のうが生きようが私にはどうでもいい。前にも言ったと思いますが、私は貴方に興味がありません−−−やっぱりですか」

響歌は目を細め、溜息混じりに呟いた。興味がない、そう告げた時の槙島の表情はまるで、母親に見捨てられた子供の様。それを見て、響歌は自分がいかに恵まれているのかを実感していた。この男は異質と孤独だけが武器だった頃の自分によく似ている。寄る辺がなければ、響歌もまた狂気に呑まれてしまっていただろう。その瞳は明るい蜜色のはずなのに、夜の闇よりも暗く見えた。

「心配しなくても、彼が貴方を殺してくれますよ」

その言葉に、彼は柔らかく笑った。対峙して数秒。響歌が先に動き出そうとしたその時、槙島の視界−−位置で言えば彼女の背後−−に人影が映る。それを認め彼は笑みを深くした。対照的に、響歌は表情を消す。彼女もまた、背後にいるもう一人の気配に気付いていた。しかしここで振り向けるほど、目の前の敵は甘くはない。槙島ともう一人、両者を牽制するように漏れ出る殺気が、ヒリヒリとその場にいる人間の肌を刺激する。明確な数字で表せるものではないが、この時の警戒の度合いは槙島に8、背後の人物には2ほどしか振っていなかった。理由はひとつ、敵意を感じなかったからだ。殺意を消せるほどの相手だという可能性もあったが、曖昧な選択をできるような状況ではない。故に響歌は、己の勘を信じることにした。それに、後ろの人物は赤井にも見えているはずだ。必要だと判断すれば、撃つだろう。

「(信じていますよ、赤井さん)」

彼は自分との約束を違えるような男ではない。今も引き金に指をかけているであろう相棒に、心でそう言って銃を構える。しかし流石と言ったところか、槙島は冷静だった。銃口の向きから弾道を読み、引き金が引かれるタイミングで避ける。そして拳銃を左手で弾き落とすと、好機とばかりに、ガラ空きになっていた響歌の腹を右拳で殴りつけた。声を漏らしバランスを崩している間に、振りかざされた刃が迫る。なんとか目を開き、飛び退こうと足に力を込めた。その時、キュインという音と共に一発の銃弾が割って入ってくる。槙島は目を見開き、そして笑う−−−とんだ嘘吐きだと。狙撃。手の中にあった剃刀は弧を描いて宙を舞っていた。一体どこから撃っている。瞬時に視線を巡らせてみても、付近にそれらしい建物はない。

「実に厄介な狼だ」

賛辞を贈ったのも一瞬、次の手を打つ。地面に落ちた己の得物に目もくれず、足下にあった響歌の拳銃へと手を伸ばした。赤井は再び、その手元を狙い弾丸を見舞う。しかし、槙島が腕を振り上げトリガーを引く方が早かった。一方で数秒前、殴られた衝撃でふらつく響歌の腕を"誰か"が引く。強い力で後ろに引っ張られ体が傾くのを感じながらも、彼女の目はその"誰か"を明確に捉えていた。必死の形相で自分と槙島の間に割り込む姿が、やけにゆっくりと映る。無意識に名を呼ぼうとした瞬間、槙島の放った弾丸がその頭を撃ち抜いた。赤い鮮血が舞う。刹那、プツンと響歌の中で何かが切れる音がする。それが何を意味するのか、彼女は瞬時に理解した。その直後、赤井の狙撃によって槙島の手から弾かれた拳銃が地面に転がる。

「なに、してるの」
「悪いな・・・っ、こういう性分、なんだ」

出てきたのは疑問だった。尻餅をついた状態で響歌が呆然と呟く。何故ここにいるのか、どうして自分を庇ったのか。その全ての疑問を込めた一言であった。答えは明確だ。ここにいるのは、槙島が彼を呼び寄せたから。響歌を庇ったのは、愛しかったから。ただ、それだけだ。だが、そう説明する余力など男には残されていなかった。性分だと、失いかける意識の中で笑ってそう言うのが関の山。響歌は体を引き摺るようにその傍らまで来ると、そっと傷口に触れる。真っ暗な空だけだった男の視界に、こちらを覗き込む従妹の顔が映った。しかしその姿すらもう、満足に見えない。最後の力を振り絞り、手を伸ばす。それに応えるように響歌はそっと身を屈めた。彼女の額にかかった前髪を撫でて、男は見たことないくらい晴れやかな顔で笑った。

「愛してる」

力無く、それでいて明瞭な声で響輔はそう呟いた。それを合図に、その瞳から光が消える。僅かな沈黙に身を委ねた後、穏やかな顔をして眠る姿に、思わず笑みが零れた。響歌はそっと胸を撫でて、顔を上げる。槙島はまだそこにいた。動けば赤井に撃たれると分かっていたからだろう。そうでなければ、即座に響歌を始末したに違いない。

「行かないんですか?私に危害を加えない限り、あの人は撃ってきませんよ。それともまだ、私の魂の明度が測りきれませんか?」
「僕が憎くはないのかい?」

怒りなど露程もない声で、響歌は尋ねた。それを見て蜜色の目を細めると、槙島は敢えて疑問で返す。真っ直ぐにその問いを受け止め、暫しの思考ののち、再び彼女は答えた。

「・・・もし貴方がくれたのが喪失だけだったなら、そうなっていたかもしれません。ですが皮肉にも、貴方の行為は私が欲しかったものを与えてくれた」

言葉の意味が理解できず、槙島は怪訝そうに彼女を見つめる。無理もない。イヤホン越しに会話を聞いている赤井でさえ、真意を掴めないでいたのだから。

「私に普通をくれたことに、お礼を言います。それから、一つの意見として聞いてください。私は人間を3つにカテゴライズしています。まず、人らしさを捨ててしまった者達。人間と呼ぶことにすら抵抗を感じますが・・・この国の大多数です。次に、ただの人間。そして最後に、私にとって大切な人達。今も共に闘っている相棒や狡噛慎也、そしてこれから貴方を苦しめるであろう刑事課の人間がそれです。私の中で貴方はその2番目、ただの人間でした」
「慰めのつもりかな」

そんなものは不要だと、槙島は歪に笑った。しかし一切表情を変えない響歌に、その笑顔が消える。慰めかどうかは、正直なところ彼女自身分からなかった。ただの気まぐれかもしれない。何かが違えば、そこに立っていたのは自分だった。ふと、バタフライエフェクトという言葉が脳を過ぎる。幾つもの小さな羽ばたきが、響歌を怪物から遠ざけた。

「私なりのエールですよ。二度と会うことはないでしょうが、貴方のことは忘れません。さよなら、最後までこの人生ゲームをどうか愉しんで」

穏やかに微笑む響歌に、槙島は僅かに表情を変えた。しかしそれも一瞬、興味を失ったように目を伏せ、剃刀を拾い上げる。それを再び構えることはなかった。その瞬間に、自分は頭を撃ち抜かれると分かっている。あとは槙島本人も自覚していない少しの戸惑いが理由だろう。殺されかけたのに礼を言ってきた相手は初めてで、興を削がれたのかもしれない。最後にもう一度、響歌と視線を合わせると、無言で背を向けた。

「旧出雲大学。そこが最後の舞台だよ」

去り際に槙島が言う。返事をする前に彼は歩き出してしまった。どうして教えたのだろう。そう考えてみたけれど、分からなかった。だが何故か、嘘ではないという確信がある。素直に信じよう。槙島の姿が見えなくなって、フゥと大きく息を吐いてから相棒に声をかける。

「赤井さん、終わりました。合流しましょう」

聞こえるはずはないのに、低い声が了解と言っている気がした。ふっと笑い、寝転がる。いくら暗いとはいえ、早く退散しなければ通報されかねない。横を見れば、静かに眠る兄の姿。こうしてよく隣で、寝顔を盗み見たものだ。全て憶えている。また、大切な人が記憶になってしまった。

「響歌」

嗚呼、呼んでいる。拭いきれない記憶、記憶、記憶。その波に呑まれそうになる度に、自分を引き上げる声だ。低くて優しい音に瞼を開けば、こちらに手を差し出す赤井の姿。迷わず取った掌に滲んだ汗に、驚く。慌てて起き上がって顔を覗き込み、思わず笑った。

「貴方もそんな顔をするんですね、余裕が無い」
「自分でも戸惑っている。狙撃手であることを呪ったのは初めてだ。俺より先に死ぬことは許さん」
「ちゃんと生きていますよ、ほら」

揺れる瞳を愛おしそうに見つめ、響歌は赤井の指先を己の首へと導く。強く押し当てられたその場所は確かに脈を打っていた。その感覚を味わうように、赤井は目を閉じる。響歌も急かすことなく、それを眺めた。

「遺体を運ぶのを手伝ってくれますか」
「ああ。だがその前に聞かせろ、あの会話の真意を」
「・・・赤井さん。貴方には、さっき別れる前と比べて私は何か変わったように見えますか?」
「いや、何も」

赤井が短くそう答えると、響歌は満足げに目を細める。その姿はいつもと何ら変わらない。美しく強い、ただの女だ。そして次に落とされた呟きに、赤井は全てを理解する。

「そっちに行くのは一瞬でした。恐らくもう、戻らないでしょう。案外、実感があるものなんですね」

息を飲んだ。そっち−−−この社会で悪と判断された者達が住まう世界。いつも通りに笑う彼女は今、こちら側にいるというのか。しかし誰より自分自身を理解し、驚異的な勘を持つ彼女が言うのだから事実なのだろう。嬉しそうな顔をするから、よかったなと言いそうになる。あまりに場違いな言葉だ、止めておこう。

「彼が撃たれたときか・・・潜在犯に堕ちてそんな顔をする人間など、この国でお前くらいだ」
「はは、嬉しすぎて隠せそうにないです。この結末のお陰で二つ、良い事がありました。まず、やはり巫女は万能ではないと、再度証明することができました。大事な人を目の前で亡くしてなお、嘆くことすら許されないなんて、可笑しいです」

犯罪係数の悪化は、心の嘆き。それを悪とする世界を否定する響歌の横顔は、穏やかだった。赤井は腕を組みながら笑い、「もう一つは?」と次を促す。

「貴方達とお揃いになれたことです。これで私も同じ苦しみを共有できる」

赤井の両手を取り、響歌は微笑んだ。褒めるように、髪を撫でてやる。ふと見えた、頬に付いた赤い線。響輔の血だろう。赤井は表情を変えず、自然な動作で優しくなぞる。しかし乾きかけていたのか、それは形を変えることはなかった。死してなお存在を主張しているようで、気分が悪い。嫌悪感が顔に表れていたのか、響歌は不思議そうに見つめ返した。

「あ…もしかして、血が付いてます?どこですか?」
「ここだ」

気付いていなかったのだろう。赤井が自分の頬骨の辺りを指差して教えてやる。すると響歌はポケットから真っ白なハンカチを取り出し、その箇所を拭った。それだけで血は容易く消える。どうですかと赤井を仰ぎ見た。元通り綺麗になった右頬に、彼は満足そうに笑い、響輔の遺体を見下ろし言う。

「家の中に運ぶぞ」

外に放置しておけば、必然的に発見までの時間は短縮される。それに外は寒い。いくら死人と言えど、この寒空の下に置いて行くのは忍びない。彼はその命と引き換えに赤井の大切な存在ものを守ってくれた相手だ−−−ならば、最大限の敬意を払おう。そっと響輔を抱き上げ歩き出す背中を、響歌も追いかけた。その骸を入ってすぐの廊下に座らせ、赤井は問いかける。

「添える花はあるのか?」
「残念ながら・・・なので、これを」

そう言って、左手首にある監視官デバイスを示した。外そうとした指を止め、徐に自分の方に向ける。彼女が何をしようとしているのか瞬時に理解し、赤井は目を細めた。しかし制止することはせずに、黙って見守る。作業が終わり表示された画面を見て、響歌は柔らかく笑い、こちらに見せてくる。そこには、たった今行われたばかりの色相チェックの結果が示されていた。響歌はそっと、その色の名前を呟く。

灰緑色フェルトグラウ
「やけに嬉しそうだな」
「貴方に初めて会った日のことを思い出していたんです。あの時の貴方の瞳は、この色とよく似た色彩を放っていました。まるで私の中に貴方が居るみたいで、胸が鳴ります」

一番の宝物だとでも言うように、響歌は笑う。その横顔を見て、赤井は狡噛を案じた。何年先かは分からないが、再び巡り会った時、彼は散々こういう言動に振り回されることだろう。改めて痛感する−−−ひどく厄介で、狂おしいくらい愛しい女だ。

「それはもう告白じゃないのか」
「そう思っていただいて結構ですよ・・・それにしても皮肉ですよね」

喉を鳴らし茶化してみれば、便乗してくる。そして一拍入れて落とされた呟き。それだけでは何が皮肉なのか判断できず、赤井は無言で先を促した。肩を竦め、響歌は続ける。

「色相というのは、黒に近いほど心理状態が不健全だと言われています。ところが色彩心理学においての黒は、拒絶・強い意思といったイメージなんですよ。つまり、抗えば抗うほどに黒へと近づいて行く。もしも真に黒になれたなら、巫女を殺せますかね」
「さてな。グレーくらいにはなるかもしれん」
「やっぱり止めておきます。混ざり合うなんて想像しただけで虫唾が走る。それにそこまでしてやる程、私はこの国の人間に愛着はありませんし、優しくもないです」

顔を歪めそう言うと、今度こそデバイスを外し響輔の手に握らせた。自分の首輪を餞にするとは流石だ。こんな時でさえ、響歌は涙を流すことはない。哀しみと同時に得たものがあるからだろうか。彼の死と引き換えに、彼女は普通を得た。また一つ、強くなった。決して無駄死になどではない。僅かな静寂のあと、響歌はそっと身を屈め、兄と額を合わせて微笑む。今度こそ、本当のさよならだ。

「おやすみなさい、兄さん」

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