共に生きる者

千葉県市川市大洲。狡噛は脇道にバイクを停めて、管巻宣昭の家の塀を乗り越える。頭にはヘルメット、背中にはバックパック。着地後、両手で拳銃を構える。高級住宅街のシンプルな一軒家だ。屋根にソーラーシステム、家庭用ドローンに対応した高機能住宅。すぐに気づく−−−ドローンが一切、起動していない。

「防犯システムが死んでるな」

ひとり呟き、ヘルメットを脱いでリュックに。拳銃を構えたまま家に近付く。正面玄関に回ると、ドアは簡単に開いた。センサーが感知したのだろう。土足のまま上ろうとした足が地に戻る。無意識に漏れた呼吸音が鼓膜を揺らした。視界に飛び込んできた光景に、思考が一瞬止まる。そして次の瞬間には、唇から呼び慣れた名前が這い出てきた。

「っ、響歌・・・」

狡噛の眼前では、ひとりの男が壁に凭れ掛かるように眠っていた。否、死んでいた。傍に寄らなくても分かるくらいに皮膚は青白く生気が無い。しかしどこかその表情は穏やかで、口元には笑みが浮かんでいる気すらした。警戒心を忘れ、狡噛は跪く。そうして、その手に握られている物に気が付いた。監視官デバイス。引っ掴み履歴を確認し、驚愕する。表示された最新の色相チェックの記録からは、まだ然程時間は経っていない。対象者は−−−響歌・ルートヴィヒ。その色はとても監視官を続けられるものではない。影のある緑だ。それでも、彼女の放つ色彩だと思うと、ひどく美しく見えた。

「生憎だったな。巫女様あんたの手に負える女じゃない」

誇らしげに狡噛は笑う。これをここに置いて行くところがまた彼女らしい。監視官の立場に未練がないからこそだ。狡噛や刑事課の人間の目に触れるのは必至。『彼らならば、兄を喪い色相を濁らせた憐れな監視官ではなく、その死を嘆く普通の人間になれたのだと認識してくれる』と、そう結論付けての行為だろう。いい性格をしている。シビュラからの否定は多くの人間には絶望だ。だが響歌にとっては紛れもなく肯定−−−お前は人間だと、そう聞こえたに違いない。心底嫌いな相手からの肯定を、彼女はどんな顔で受け止めたのだろう。

「ククッ…なぁ、響歌は笑ってたか?」

喉を鳴らし、響輔に問う。しかし、死人に口無し。答えはない。髪を掻き上げて、想像してみる。彼女のことだ、きっと笑っていたに違いない。狡噛も、ここで憐れむような男ではない。今はただ、愛しい女の羽化に心からの祝福を添えよう。祝いの言葉に「ありがとう」と微笑む姿が目に浮かぶ。意識を現実へと戻し、再び骸に声をかける。

「満足そうな顔していやがる。よかったな、最期にあいつに会えて。それにしても早すぎる……」

雑賀と共に約1日かけても、こちらは後手に回っているのだ。それをあの女と心で毒突きながら狡噛は舌打ちをした。一体どんなスポンサーがいるのだろうか。そこまで考えるだけに留まる。時間が惜しい。まさか槙島本人から教えられただなんて、露程も想像していなかった。デバイスを戻し、腰を上げる。それから響輔に一瞥もくれず、狡噛は部屋の奥へと足を進めた。すぐにリビングで管巻の死体を発見した。ふぅと息を吐いて、観察する。喉笛は剃刀で切り裂かれ、さらに目がくり抜かれ、指は全て切断されていた。拘束と拷問の痕跡も見てとれる。

続いて室内の捜索へ。拳銃を片手に、寝室、書斎、バスルームと調べていく。槙島の姿はない。トラップも見当たらなさそうだ。とりあえずは安全だろう。冷蔵庫を開けてペットボトルの水を飲み、冷やしてあった栄養補給ゼリーや人工肉ソーセージを胃に流し込む。それから書斎でデスクの引き出しをひっくり返し、本棚を漁り、PCから情報を探す。一方その約10分前、管巻邸から程近い高層ビルの屋上。二つの影が佇んでいる。双眼鏡を覗きつつ、片方が呟いた。

「来たぞ。狡噛君だ」
「流石、お早いお着きで」
「あと一歩遅かったな。それにしても、彼が先生と呼ぶ男か。なるほど、一度会ってみたいものだ」
「その時はおひとりでお願いします。私は行きませんよ。貴方が一緒だと根掘り葉掘り訊かれそうですし」

肩を並べ眼下を見つめながら、響歌は心底嫌そうな顔をした。その様子に赤井は笑う。苦手にも度合いがあるのだな、と。降谷に対してはここまでの態度は取らなかった。余程苦手らしい。

「響歌・・・何故、俺を責めない?」

狡噛が出てくるのを待つ間、赤井が問う。風に攫われそうなくらいに小さな声は、心境の表れだろうか。しかし響歌はそれを器用に拾った。

「質問の意味が分かりません。どうして私が貴方を責めるんです?」
「俺が槙島を撃っていれば、響輔かれは死なずに済んだ。そうだろう?」

訳が分からないとこちらを見つめる響歌に、赤井はそう言った。あの時、槙島を狙撃していれば、響輔は彼に殺されることはなかったはずだ。叱責が欲しいのか、肯定してほしいのか、それともただ彼女の心が知りたいだけか。自分でも質問の理由は分からないが、罪悪感は確かにある。

「お忘れですか。私が貴方に守ってほしいと願ったのは兄の命ではありません。私と、そして貴方自身の命です。貴方はきちんと役目を全うしてくれました。感謝こそすれ、咎めることはありませんよ」
「だが、全てを共有すると、そう誓ったはずだ」

そう。響歌と赤井が交わした誓い−−−それは両者の命の保証ともう一つ、全てを共有することだ。彼女が大切に思う者ならば、守らなければならない。赤井はそう認識していた。彼の言葉に驚いたように瞳を見開くと、響歌は耐え切れないとばかりに吹き出した。

「ぷっ、ははは!」
「おい、どうした?」
「い、いや…大丈夫ですよ、正気です。はー、可笑しい。まさかここに来て、お互いの認識に齟齬があるだなんて思ってもみませんでした」

赤井は気でも違ったのかと心配する。そんな彼の肩を叩きながら、響歌は目に涙すら浮かべている。それから、何が認識違いなのか分からず怪訝そうな顔をする赤井とは対照的に、釈然とした表情で言った。

「今更ですが、確かに"全て"とお願いしたのは誤りだったかもしれません。私の大切なものまで守ろうとしなくていいんですよ。貴方の優秀さに寄り掛かり過ぎてしまっていたようです。反省しなくてはいけませんね。私はね、貴方には貴方のままでいてほしいんです。狂信は不要。どうか己だけは、決して手放さないでください・・・・えっと、ちゃんと伝わってます?」

真顔でこちらを見下ろされて不安になったのか、響歌は眉間に皺を寄せて、翡翠色の瞳を覗き込んだ。その様子に、今度は赤井の方が肩を揺らして笑う。共有したかったのは情報であり、感情であり、痛み。別の人間なのだから、同じ存在ものを愛するだなんて土台無理な話だ。真に全てを共有する−−−それはつまり"生きる"という行為を彼女に委ねてしまうということ。想いも信念も、思考することすら止めてしまうことである。それはもう、ただの人形。響歌が一等嫌いな人間の姿。

「ああ、よく解った。それにしても注文が多いな」

目的の為に情報を共有、嬉しい時は隣で笑い、嘆く時は髪を撫でてやる。だがそれらを熟しつつも、自我を捨ててはならない。器用な方だと自負しているが、かなりの難易度だ。だからこそ、やり甲斐がある。だからこんなにも、胸が躍る。

「では、改めて・・・貴方は、ご自分の選択を後悔しているんですか?」
「いや、微塵も。お前が生きている。俺にとってはその事実以外、些細なことだ」

煙草に火をつけ、赤井は笑う。彼女ならそう答えるだろうと分かっていた。そのうえで尋ねたのは、卑怯だったかもしれない。引き金を引かなかったことを肯定されて、赤井は安堵したのだ。心の平穏を守るための問いを投げかけてしまった。あの瞬間、コンマ数秒の選択を迫られていたとはいえ、選ぶ余裕は確かにあった。だが赤井は、槙島を殺さず見守った。結果、響輔は死んだのだ。

「なら、何も問題はないですね。それに、あの場で槙島を殺してしまっていたら、狡噛はただ捕らえられ、殺処分になっていたでしょうし。はは・・・ああ、ごめんなさい。私も大概だなと思いまして」

段々と語尾が小さくなっていき、響歌は最後に自嘲気味に笑う。赤井は黙って次の言葉を待った。狡噛のことが脳裏を掠めたのは自分も同じ。彼と槙島の因縁に介入するのは無粋な気がした。故に選択肢はひとつしか残されていなかった。槙島は撃たない。しかし響歌の命は守らねばならない。そこまで思考した後に響輔に請うてしまった願いこそ、赤井の罪悪感の正体だ−−−どうせなら守って死んでくれと、確かにそう思ったのだ。己の役目を押し付けた挙句、彼の死を望んだという事実。その行為の根幹に、響輔への負の感情があったことは否定できない。響歌に自分を殺せと言ったことに対する怒り。そして、傍に居もしないのに彼女の心を縛り続けることへの嫌悪。己がいかに目の前の女に囚われているのか、赤井は今になって実感していた。同時に戸惑い、上手く言葉にできないまま立ち尽くす。そんな相棒を探るように見つめ、彼女は続けた。

「羽賀響輔は私にとって大切で忘れられない人です。それなのに、死んだのが狡噛でなくあの人でよかったと思ってしまいました。もし目にしたのが兄ではなく彼の死に様だったなら、私の色相は純黒に染まっていたでしょう。だから、そんな顔しないでください。これでよかったとは思わないですが、これ以上の結果はきっとありません。貴方は最善の選択をしたんです」

響歌は全てを見透かしたようにそう言うと、赤井の肩に額を寄せた。御託を並べたところで、結果は変わらない。羽賀響輔は死んだ。そして、響歌・ルートヴィヒは生きている。それが全てだ。懺悔など不要だし、場違いだろう。胸にあった痞えを振り払い、赤井はそっと彼女の髪を撫でた。暫くその温もりを享受したあと、響歌は一転、鈴のような声で語り出す。

「そういえば、まだお話していませんでしたね。この前の降谷さんとのデート秘話です」
「念のため確認するが、その話、中身はあるのか?」
「嫌だな、当たり前じゃないですか。私があの人と純粋にデートを楽しむと思います?想像してみてください。それこそ地獄絵図でしょう」

顔を顰め、響歌が言う。確かに、彼女が降谷と肩を並べて笑い合う姿は想像しづらい。だが、初めに比べればお互い棘がなくなったように思う。終盤は彼も、響歌に振り回されるのを楽しんでいるように見えた。それは偏に彼女の人間性が理由だろう。どんな相手だろうと惹きつけてしまう。重力の如き魅力だ。

「あの人、やっぱりただの執行官じゃありませんでした。策士だとは思ってましたけど、相当ですね。彼の相棒もそうですが、私には到底理解し得ない生き方です。この国が如何に腐っているかを理解して尚も、何故あそこまで尽くせるのか甚だ疑問ですよ。心から尊敬します」

理解不能、甚だ疑問。とても賞賛しているとは思えない言葉を並べたあと、響歌は最後だけ"尊敬"という本来の意味通りの単語を吐いた。尊敬はしても、決して憧れはしない。彼女は、降谷のように"なれない"のではなく"なりたくない"のだ。

「理解しているからこそなんだろう。その腐った世界でも、そこで生きる人間達が大勢いる。誰かが末端を担わなければ、腐敗は加速し、崩壊してしまう」
「なるほど、防腐剤ということですね」
「・・・まあ、そうだな」

言い方は酷いが、あながち間違いではない。降谷は勿論のこと、刑事課の人間達がいなければ、国民と世界の境界は曖昧になり、共に朽ちていく。

壊れて腐ってしまわないといいですね、彼」
「ホー、お前が他人を案ずるのは珍しいな。変わった毛色の猫に愛着が湧いたか?」
「ご安心を、私は犬派です。他愛もない触れ合いですよ。路地裏にいた猫を少し撫でてみただけ。たとえ車に轢かれても、花を添えることはないでしょう」

赤井が揶揄うように見下ろせば、響歌は僅かに口角を上げてそう返す。心を寄せるのは今だけだ。明日の今頃にはきっと、降谷零は彼女にとって過去になっているだろう。それくらいが丁度いい。

「あ、見てください。狡噛が出てきました」

双眼鏡を片手に響歌が言う。釣られて管巻邸に目を向けると、確かに狡噛の姿が視認できた。次の目的地に向かうのだろう。行き先は恐らく、管巻がかつて教鞭を執っていた出雲大学。狡噛のことだ、槙島の目的地を的確に推理しているに違いない。そこは現在廃校となり、ウイルス配給センターとなっている。いよいよ終わりが見えてきた。

「どうやって向かう?潜在犯ふたりでは、この国を走り回れないぞ」
「心配には及びません。あの車とこのヘルメットがあります。私の愛車は特注で、シビュラシステムの交通網を潜り抜けられるんですよ。車外ではヘルメットを着けていれば問題ないですし。さあ、行きましょう」
「刑事の車とは思えんな」

自慢げに笑い、響歌はヘルメットを片手に颯爽と歩き出す。そんな相棒に肩を竦めながら喉を鳴らすと、赤井もその隣に並んだ。巫女の統べる組織に身を置きながら、その巫女を欺くことを厭わない。否、それすら刺激スパイスとしている。微笑を浮かべた横顔を見つめて、赤井は左手で口元を覆った。つい声を上げて笑い出しそうになる。響歌・ルートヴィヒという人間を知り尽くすには、この人生ではとても足りそうにない。漏れ出た息を拾ったのか、響歌が不思議そうに赤井を見上げた。

「楽しそうですね」
「ああ、心底な」

言葉短くそう答える。毎秒ごとに味の変わる煙草を吸っている気分だ。それも、吸っても吸っても短くならない一生物。嗜好品に例えられたと知ったら、怒るだろうか。思えば彼女は、本気で憤ることはあるが、拗ねたりすることは少ない。そういう顔も見てみたい。

「もっと笑ってください」

響歌が言う。赤井秀一に向かってそんなことを頼むのは、後にも先にも彼女だけだろう。笑ってほしいと、そう懇願する表情はひどく優しく儚げだった。笑顔を憶えていたいのだと、そう語るように。それを見て赤井は、すぐにでも吐き出したい衝動に駆られた。永遠に傍に居ると告げてしまいそうになる。だが、まだほんの少し先だ。伝えるのは、全て終わったその時。柄にもなく胸が踊る。どんな言葉で伝えるか、彼女がどんな表情を見せるのか、考えるだけで油断すれば口元が緩みそうになる。この国での最後の記憶を、巫女でも狡噛でもなく自分が飾れることが、赤井には堪らなく光栄だった。

「俺の笑顔が見たいならば、最後まで隣に居ることだ」

最後−−−その意味が響歌と赤井で異なっていることは言うまでもない。この関係は海から上がるまでの繋がりに過ぎない、それが響歌の認識で、赤井もそう思っているだろうことを疑ってすらいない。一方で、赤井のとっての"最後"は文字通りの意味だ。最期と書いた方が適切かもしれない。

「ええ、首輪を外すその瞬間まで貴方と共に」

いつも通りに左隣で笑う相棒に、響歌は胸が疼くのを感じた。優しげな翡翠色の瞳が自分を映している。憂いの欠片もない透き通った色彩を二度と見られなくなる。想像するだけで心が千切れそうなほど痛い。きっと、自分にとっての防腐剤はこの男だ。響歌・ルートヴィヒが怪物にならないための命綱。だとしたらその瞬間、自分は今度こそ怪物になってしまうのではないかと思いながら、響歌は微笑み返した。

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に痺れた!