皮を剥げば皆同じ

防御ウイルス生産工場の入り口にて。そこにある監視カメラや警備ドローンは全て停止していた。管巻の死体の状況から、ここのセキュリティを突破するには生体認証が使われているのであろうことは予想できる。槙島はプレイヤー気質だが、訳もなく死体を甚振る趣向の持ち主ではない。あの惨状には理由があるということだ。だとすれば、施設の電源を落としたのは朱達ということになる。何故なら、管巻の眼球や指は、彼を殺した槙島しか所持していない。狡噛はここに入ることはできなかったはずだ。勿論、強引に突入することも可能だっただろうが、それは槙島を警戒させる要因になる。それにそんな様子はなく、非常用のハンドルが操作された痕跡だけがある。つまり、順序はこうだ。槙島は正規のルートで侵入、続いて公安局が電力を止め、それを合図に狡噛も内部へ。そこまで推理し、入り口に佇みながら響歌は赤井に問うた。

「セキュリティは停止しているみたいですね。槙島はどう出ると思います?」
「壊れた玩具は捨てる、そして次の遊びへ。子どもはそういう生き物だ」

自分と槙島は童心を持ち続けている者同士だと、彼女は言っていた。気持ちは分かるのではないかと揶揄うような声音に、響歌は不機嫌そうな顔をしながら反論する。

「なんか今の言い方、すごく悪意を感じます。私はちゃんと、気に入った玩具は壊れても大切に保管しますよ。ともあれ、同意見です。鬼ごっこは止めて、隠れんぼですかね。次の遊びを楽しむ為に、余計な障害は排除する、と」

障害−−−刑事課の人間達。諦めるなどという選択肢は槙島の中には存在しない。工場内で何が起こっているのかを想像して、響歌はほんの少し顔を歪めた。無言で歩き始めた彼女の背中を追いながら赤井はふと思う、よく分析しているなと。自分にプロファイリングは向いていないといつか言っていた。槙島の動きを予測できるのは恐らく、彼女と似ている部分が多いからだろう。本気で生きるあそぶ、どちらもそういう質だ。

「彼の目的が障害の排除だとすれば、恐らく私達を襲うことはないでしょう。ですがもし…もしも誰かの死に直面したら、その時は寄り添ってもいいですか?」
「随分と優しくなったものだな」
「はは、そうですね。いつの間にこんなに人間臭くなっていたんでしょう。宜野座は、手も口も出さないと言ったこと、怒りますかね?」
「初めての嘘というわけだな。安心しろ、説教なら一緒に聞いてやる。俺も同罪だ。お前が嘘を覚えることが楽しみでならない」
「楽しみ?何故ですか?」
「嘘を覚えれば、お前はまた強くなるからな。嘘吐きがどれだけ厄介か、よく知っているだろう」

金糸の猫を思い出し、響歌は目を細めた。本当と嘘の境を見失うのは御免だし、自分は彼のように器用ではない。己の全てを何かに捧げることはできない。それでも彼と同じ、嘘という武器を操れるだろうか。

「そんな顔をするな。穴は俺が埋める」
「それは心強い。不思議ですね、貴方となら何だってできる気がします。歪な人間わたしでも、誰かと交わればこんなに尊い絆が生まれるなんて知りませんでした・・・ありがとうございます、赤井さん。私にその事実を教えてくれたことに、心から感謝します」

響歌は右手で自分の胸を撫ぜた後、赤井の手を取って微笑んだ。絆は愛と同じだ。触れられないのに温かくて恐ろしい。畏怖の対象だからこそ、強靭な刃となるのだ。怒りも悲しみも、恐怖すらも飼い慣らしてみせよう。そっと赤井の指を撫でてから放すと、戦士の瞳で響歌は言った。

「傍観者だとしても、フィールドに入るなら油断は禁物です。背中は、任せました」
「了解」

赤井の返事と同時に走り出した。響歌は笑う。リセットできないゲームをプレイしている気分だ。死ねば、終わり。高揚感と緊張感が胸を支配していく。足音には性格が表れるとはよく言ったものだ。静かに、それでいて足取りは軽く、まるでステップを踏むように。並走しながら赤井も口角を上げる。そして、左手首にあった偽物のデバイスを外し、放った。それが地面に落ちると同時に大きな爆発音。ガラガラと建物が崩壊するような揺れも伴っている。しかし響歌は足を止めない。まるで予期していたかのように一目散に駆けていく。長い廊下の角を曲がり、やっと立ち止まる。視線の先にはひとつの背中があった、朱だ。次の角から飛び出す様に出てくると、ひとりで廊下を走って行く。細く華奢な体躯、それでも初めて会った時のような柔さは感じられない。響歌はゆっくりとその角まで歩き、朱が来た方向をそっと覗き込み、構えを解いた。

「うわぁ、痛そう」
「っ、・・・ルートヴィヒ監視官」

弾かれるように振り向いたのは六合塚だ。酷い怪我を負っている。丁度サバイバルキッドで治療を始めるところらしい。重症だが、致命傷ではなさそうだ。

「死にはしなさそうですね。良かった、失うには惜しい人材ですから」
「貴方に褒められても嬉しくないです」
「ははっ、敵意満々って感じですね。好きですよ、そういうの。それだけ話せるなら大丈夫でしょう。それじゃあ、私は行きますね。あ、その前にひとつだけ」
「なんですか?」

ぎろりと効果音が付きそうな視線で六合塚は響歌を仰ぎ見た。随分と嫌われている。そう思いながら赤井は見守った。敵意を向けられてなお、当の本人は愉快そうに喉を鳴らす。

「志恩のこと、ちゃんと守ってくださいね」

一転、ひどく優しい瞳で響歌は笑った。最後に泣かせてしまった唐之杜めがみを思い出しながら、今度こそ背を向ける。一方で六合塚は思いも寄らない言葉に目を見開いた。こんな風に他者を思いやるような人間だったのか。そう思ったすぐ後で、納得する。ただその対象が極端に少ないだけなのだろう。六合塚じぶんは今もこれからもその対象になることはない。ふっと笑い治療を再開しつつ、小さく呟いた。

「少しも惜しくなんてないわよ」

六合塚と別れ、再び工場内を直走る。そして聞こえたのは、何かが崩れるような音だ。先程よりも小さな爆音も伴っていた。赤井と視線を合わせ、音の方へ。続いて三度目、何かが壊れるような鈍い音。視線の先で動いた白い影に、響歌は悟る−−−ただの音ではない、誰かの命が散った音だ。こちらに気付いた槙島が得意げに笑う。不思議と怒りは湧いてこなかった。その場から離れる彼を追うのは見慣れた後ろ姿、狡噛だ。元執行官ハウンドらしい、獲物だけに狙いを定めている。その背中を見送って、響歌は顔を顰めて弱音を吐いた。

「嫌だなぁ、泣きたくない行きたくない

そっと俯く彼女の髪を、赤井が優しく撫でる。瞳を閉じてみても、無駄だった。がら空きの鼓膜を、宜野座の慟哭が揺らす。心が軋む音がした。ぎゅっと胸の辺りを掴み、己に命じる−−−笑え。笑って死ねと頼んでおいて、泣きながら見送るなど許されない。すぐそこで悲しみが待っている。不要だと蓋をした悲しみという感情。その封印が今、解かれようとしている。天井を見上げ深く息をすると、煙が鼻腔を刺激する。死の臭いだ。ゆっくりと、歩き出す。その先にあった光景に、心が悲鳴を上げた。

−−−−−

光を失った瞳を、ただ見つめていた。動かない身体とは裏腹に、脳は必死に何かを導こうとする。やめてくれ、何も考えたくなどない。目の前の現実を受け入れたくない。どこから間違っていたのだろう、どうすればよかったのだろう。分からない、何も。

「誰か、教えてくれ」

呟きが虚しく響いた。残像のように父の姿が浮かんでは消える。ぐちゃぐちゃだ。行き場のない感情が胸の中を渦巻いて、心を真っ直ぐ保てない。狡噛と槙島の闘いの音が聞こえる。行かなくてはならないのに、足に力が入らない。このままここに居たい。錯綜する思考に呑まれかける宜野座の視界に、二つの爪先が映り込む。虚な瞳で見上げた先には、彼女が立っていた。容易く水槽から出ていった、美しい光。いつも通りの真っ黒な目で宜野座を見てから、何も言わずに膝を突き、骸となった征陸に笑いかける。

「遅くなりました。選べたんですね、刑事ではなく父親を。私は貴方を誇りに思います」

聞いたことのないくらい優しい声だった。まるで、よく出来たと褒めるように、響歌はそっと征陸の額に手を置いた。その頬に涙は一筋も流れてはいない。それでも、彼女もまた、自分と同じくらい嘆いていると痛いほど伝わってきた。

「宜野座、目を逸らさないで。マサさんの心を受け取らなきゃいけない。私達には、その責任がある」
「ッ・・・ああ」

震える声でなんとか返事をした。強く握り締められた宜野座の右手に、響歌は左手を重ねる。そして額に触れたままだった右手で、虚空を映していた征陸の瞼を閉じた。

「お疲れ様でした」

安らかな顔をしている。「お嬢」とまた呼んでくれる気がした。鼓膜に焼きついた声を思い起こし、笑う。そしてそっと身を屈めて、耳打ちした。死の間際、最後まで残るのは聴覚だと、いつか本で読んだ。響歌にとって、大切な人の死をこんなに近くで見届けるのは二度目だ。適応力は人並み以上にあるが、こんなものには一生慣れたくない。だからだろうか。どうかこの言葉が届いていますように−−−だなんて、らしくない望みが浮かんでくる。

「約束、守ってくれてありがとうごさいます」

そう言って、一度だけ瞬きをしてから立ち上がった。耳を澄ませてみても、何も音がしない。終わったのだろうか。少し遠くで静観していた赤井に視線を送り、歩き出す。そこで、宜野座は一度もこちらを振り返ることのなかった彼女の名を呼ぶ。響歌が立ち止まると、征陸に視線を落としたまま言った。

「お前がいてくれて良かった。ありがとう」
「宜野座が私に御礼を言うなんて、明日は雪かな」
「ふっ…そうかもしれないな」

振り向かずとも、笑っているのが分かる。大切なものを失った。こんなにも悲しいのに、何故か心はいつもより軽い気がした。遠ざかっていく足音に、宜野座はやっと顔を上げる。その時にはもう、彼女の背中は見えなくなっていた。とうとう、視界からも消えてしまった。二度と、届かない所まで。

「槙島が憎いか?」

走らず歩きながら、赤井が問う。それに響歌は微塵も動揺することなく、綺麗に笑って首を横に振った。

「いいえ、可笑しいですかね。従兄のことも、マサさんのことも、もちろん辛いです。それでも私は彼を憎いとは思わない。ただ、悲しい人だなと」
「悲しい・・・憐れということか?」
「そんな高尚な視点じゃありません。紙一重ですよ、私と槙島は。彼は、ああいう手段でしか魂の輝きを見ることができなかっただけ。貴方や狡噛、従兄や皆がいなければ、私も同じように最悪のやり方で目的を成そうとしたかもしれません。貴方達が、私を人に留めてくれたんです」
「皆、知らぬ間に大役を任せられていたわけだな」

喉を鳴らし赤井が笑う。彼女の楔であれたことは、彼にとって紛れもなく誇りであった。そっと見下ろし僅かに驚く。その横顔は華が咲くように。赤井は眩しそうに目を細め思う−−−嗚呼やっとか、と。そこにはもう狂気は一欠片すらなく、ただ美しい女がいるだけだ。響歌・ルートヴィヒは怪物の皮を脱ぎ捨て、人へと羽化した。どんな色より綺麗な羽で、どんな空を飛ぶのだろう。その旅路に寄り添えることが堪らなく幸せだ。全ての禍いから守っていこう。この大きな黒い翼は、その為にある。

−−−−−

一方で狡噛は、槙島を追い工場のドローン格納庫に入っていた。無人機はもちろん、旧式の有人型の農耕機もある。それらが整列している中を、リボルバーを構え進む。人影が物陰を走り抜け、咄嗟に発砲するが手応えはない。

「ついに紛い物の正義を捨てて、本物の殺意を手に取ったか。やはり君は僕が期待した通りの男だった」
「そうかい?だが俺は、貴様に何の期待もしちゃいない」

嬉しそうに言う槙島に対し、狡噛は吐き捨てる。開かれた空間、声は反響している。これでは位置を探るのは難しい。惑わされないように、狡噛は意識を研ぎ澄ませた。

「狡噛慎也…ここまで来てつれない事を言ってくれるなよ」
「いい気になるな。貴様は、特別な人間なんかじゃない。ただ世の中から無視されてきただけのゴミクズだ。たった一人で輪を外れて、爪弾きにされてきたのが恨めしいんだろ。貴様は孤独に耐えられなかっただけだ。仲間はずれは嫌だって泣き喚いてるガキと変わらない」
「面白いことを言うな。孤独だと?それは僕に限った話か?この社会に孤独でない人間など誰がいる?」

そうだ。槙島は怪物だったから孤独になったわけではない。異質だったから孤独になったのだ。だが、異質であろうと孤独に打ち勝つ人間も確かにいる。踠き足掻いて、強く美しく生きる女を狡噛は知っている。異質な人間全てが、槙島と同じ道を辿るわけではない。彼女は歪な道を歩きながら、その過程で何物にも変えられぬ絆と、何者にも侵されぬ心を手に入れた。

「他者との繋がりが自我の基盤だった時代など、とうの昔に終わっている。誰もがシステムに見守られ、システムの規範に沿って生きる世界には、人の輪なんて必要ない。みんな小さな独房の中で自分だけの安らぎに飼い慣らされているだけだ」

槙島は農耕ドローンの影で、悠然と語り続ける。その横顔に狙いを定め、狡噛は引き金を引いた。ところが、飛び散ったのは鮮血ではなくガラス。そうして狡噛は気づく−−−自分が撃ったのはバックミラーに映った鏡像だと。次の瞬間、潜んでいた槙島が襲いかかってくる。先の連射で三発、そして格納庫に入った時に一発、今撃ったので五発目だ。弾丸を装填するが、槙島の掌底打で拳銃は弾き飛ばされてしまう。すぐさま非常用のナイフを抜く。同時に槙島も、剃刀を抜いて刃を広げた。

「君だってそうだろう、狡噛慎也。誰も君の正義を認めなかった。君の怒りを理解しなかった。だから君は信頼にも、友情にも背を向けて、たった一つ自分に残された居場所さえかなぐり捨てて、ここまできた。そんな君が僕の孤独を笑うのか?」

狡噛が構えたナイフを振るう。槙島はそれを容易く避けて反撃。それを紙一重で躱す。やはり、強い。この男の生活はきっと、ダラダラとした時間が極端に少なく、学び、鍛えることで一日のほとんどが過ぎるに違いない。戦闘での実力は、狡噛と互角かそれ以上だろう。しかし、不思議なことに恐怖心はない。公安局内のトレーニングルームで響歌と手合わせした時の方が、何倍も恐ろしかった。それは殺されることに対する恐怖ではなく、この手で傷付けてしまうかもしれないと思ったからだ。だが、今は違う。心置き無く、刃を振るえる。

「だがね、僕はむしろ評価する。孤独を恐れない者を、孤独を武器としてきた君を」
「貴様の評価なんて不要だ。生憎、こんな男を肯定する物好きがいてな。そいつにどうしても伝えたい事がある。貴様に付き合うのはこれで終いなんだよ」
「……成程。優秀なのは左腕だけじゃなく、主人はそれ以上に厄介ということか」

殺意を纏っていた狡噛の瞳に、一瞬だけ光が宿る。最後に触れてからまだ数日だ。なのに、この数日間で何度も思い出した。その声を、横顔を、言葉を。彼女のように永遠に記憶を格納していられる脳は持ち合わせていない。その姿が霞む前に、捕まえなければならない。こんな苦しいだけの旅は終わらせて、彼女のもとへ。そんな思考とは裏腹に、身体は戦いに集中させる。ナイフで突きつつ、足払いを繰り出す。接近する狡噛の攻撃を、槙島は絶妙なフットワークで間合いを外していく。かと思えば、一瞬で懐へと入り込んで剃刀を閃かす。躱しきれずに、胸と二の腕を浅く斬られた。傷口から血が滴り落ちる。

「どうした、躊躇していると死んでしまうよ。そうなれば、二度と彼女に会えなくなる。君もまた他と同じように、ただの記憶になるんだ」

槙島は敢えて会話に響歌の存在をチラつかせた。たとえこの場に居なくとも、彼女は狡噛の心を揺さぶるには絶好だ。心が乱れれば、その刃も揺らぐ。もちろん狡噛も易々と挑発に乗ることはないが、着実に苛つきが募っていく。殺したいのに、ナイフが届かない。佐々山がされたように、この男を斬り刻んでやりたいのに。

────余裕を失ったら負けだよ。戦闘中は焦燥に呑まれたら、死ぬ。

その言葉を思い出した時には、すでに手遅れだった。早る気持ちが刃を鈍らせ、攻撃が雑になる。大振りになった狡噛の右手を、槙島が左手で掴む。ナイフを握っているのは右手の動きを封じられた。一方で槙島が剃刀を握っている右手は自由だ。このままでは攻め込まれる。狡噛が攻撃を防ぐために体を密着させれば、今度は足を引っ掛けられ膝を突かされてしまう。続いて槙島は、狡噛の右腕を左脇で抱え押さえつけ、右手を掲げた。これで止めだと言いたげな表情だ。

────信じさせて。いつだって、どこかでちゃんと生きてるって。

死ぬ訳にはいかない。槙島に対する殺意と生への執着が、身体を動かした。咄嗟に、ナイフを片手で構え直す。槙島は手首に流れる血管を狙ってきた。狡噛はその動きを読み、指の動きだけでナイフを反転させ、防ぐ。剃刀の刃は弾かれる。

「な・・・!」

槙島から驚きの声が漏れる。勝ちを確信していたのだろう。その腕の力が緩んだのを合図に、狡噛は右腕を引き抜く。ナイフを持ち直して、敵の左上腕を深く切り裂いた。途端に血が噴き出し、槙島は堪らず飛び退いて剃刀を捨てる。ポケットから取り出したハンカチで傷口を覆う。勝機だ。ここで完全に殺す。狡噛が追い討ちをかけようとしたその時、ふたりの間にスタングレネードが転がってきた。

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に痺れた!