絶対悪などない

グレネードが爆発した直後、狡噛は隠れていた物陰から飛び出し槙島の姿を探す。しかし見当たらない。最後の最後で取り逃した。

「くそッ!」
「そこまでです。狡噛さん」

朱だ。ドミネーターを構え近づいて来る。狡噛は素直に観念し、ナイフを捨て手を頭の後ろで組んだ。

「槙島もすぐ近くにいるぞ、とうとう逃げ出した」
「分かってます。あの男も捕まえます」

銃口を向けたまま、狡噛が落としたリボルバー拳銃を拾い上げる。そんな彼女に問う、あとは一人で追うのかと。そこまで無謀じゃない。朱はそう答えると、ドミネーターを下ろし、そのまま狡噛へと渡した。行動の意味が理解できず目を白黒させる彼に、説明する。

「セイフティは解除されたまま、パラライザーで固定されています。今の貴方にも使えるはずです。手伝ってください。いいですね。槙島はパラライザーで麻痺させるだけ。それ以上のことをしようとしたら、私は貴方の脚を撃ちます」
「驚いたね。タフになるとは思っちゃいたが、もう少し可愛げがあってもよかったと思うぜ」
「そうさせたのは誰だと思ってるんですか」

リボルバーを構えながら朱は断言する。それに対し狡噛は、ドミネーターのモードを確認し、苦笑した。耳の痛い返しだ。すぐに追跡を再開しようとすると、朱が無言で何かを手渡してくる。狡噛はそれを反射的に受け取り、怪訝そうな顔で見下ろした。

「響歌さんからです」
「あいつ・・・直接渡せってんだ」
「そう言ったら、破り捨てられそうになりました」
「やれやれ、届けてくれただけでも感謝するぜ、監視官」

やや小さめな封筒を、丁寧にスーツのポケットへと仕舞った。自分だって直接渡さなかったのだから、人のことは言えない。ただ、ほんの僅かでも話したかっただけだ。脳が今にもあの凛とした横顔を思い起こそうとする。一旦それを奥へと追いやり、現実に意識を戻す。朱と共に点々と続く血痕を追跡していくと、ターミナルエリアに辿り着いた。出来上がった防御ウイルスを、各地の農場へと配送するための区画。外の農地と隣接され解放された空間には、光が差し込んでいた。無人冷凍車の間を狡噛、朱の順に進んでいく。周囲を警戒しつつ、狡噛は小声で問いかける。

「あんたが、どうあっても俺に槙島を殺させないのは…」
「違法だからです。犯罪を見過ごせないからです」
「悪人を裁けず、人を守れない法律を、なんでそうまでして守り通そうとするんだ?」
「法が人を守るんじゃない、人が法を守るんです」

狡噛は思わず足を止め、朱をまじまじと見つめる。そして彼女はこう続けた。法とは、正しい生き方を探し求めてきた想いの積み重ねである。それは誰もが心の中に抱えてる、脆くてかけがえのない想いであり、怒りや憎しみに比べれば脆く簡単に壊れてしまう。だから、よりよい世界を作ろうとした過去の全ての人々の祈りを無意味にしないために、守り通さなければならない。そこまで言うと、朱は一瞬沈黙した。響歌はきっと笑うだろう。もしかしたら涙すら浮かべるかもしれない。狡噛はそれを見透かしたように、言葉にする。

「よりよい世界を作ろうとして出来上がったのがこれじゃ先人達も浮かばれない、とか言いそうだな」
「いつかあの人がこの国に戻って来たときに笑われないためにも、諦めたら絶対に駄目なんです」

それは恐らく現実的じゃない。引きずってでも来ない限り、響歌はこの国には戻って来ないだろう。一度見限った相手を顧みるような人間ではないし、それが心底嫌いな巫女様なら尚更だ。そこまで考えてから、狡噛はふと思う。もし、もしもシビュラが消えたら、どうだろう。響歌は戻って来るだろうか。そう自分に問いかけた後、狡噛は鼻を鳴らした。否、あり得ない。なんて言うか想像もできる。ぬるま湯で腑抜けきった人間ばかりの世界は退屈−−−これだ。元々、平和が似合う女じゃない。刹那の油断で命を落とす。そういう世界でこそ、彼女の心は息ができる。

「私は必ずこの想いを守り抜いてみせます」
「誰もがあんたのように思う時代が来れば、そのときはシビュラシステムなんて消えちまうだろう。潜在犯も執行官もいなくなるだろう。だが、

その言葉を切り裂くように、一台の冷凍車が急発進した。運転席には、手動に切り替えたステアリングを握った槙島の姿。狡噛はドミネーターを向けるが、モードは固定されたままだ。パラライザーでは太刀打ちできない。間一髪、避ける。車はそのまま加速し、工場と農地を隔てるフェンスを突き破って走り去る。起き上がって、気が付いた。朱がいない。すぐさま追いかけ、その姿を車両の側面に見つける。

「朱ッ!」

咄嗟に名前を呼び、走り出した。冷凍車は麦畑の農道を疾駆する。朱はその側面に左手だけでぶら下がり、右手のリボルバーに力を込めた。タイヤを狙い、引き金を絞る。弾が命中し、タイヤが破裂した。コントロールを失った車は麦畑の中へと突っ込む。朱も地面に叩きつけられ、意識を手放した。

────お互い辿り着けるといいね、望む場所に。

出来なかった。そもそも自分が望んだのは、どんな場所だったのだろう。淡い期待を抱いて始めたこの仕事。いざ飛び込んだ先は、決して予想通りではなかった。連日のように起こる事件、その中で友人も失った。せめて今は、最悪の結末だけは阻止しなければならない。朱が重い瞼を開けて立ち上がろうとすると、脇腹に衝撃が走る。

「今思えば、常守監視官…君を最初に殺しておくべきだったな。僕の最大のミスだ。情報収集の結果、君を『公安局刑事課の弱点』と考えた。狡噛や彼女…羽賀響歌のように、危険分子ではなかったはずだ。少なくとも、船原ゆきが殺されるまでは・・・」

槙島が言った。痛みを堪えながら、朱は地面に転がったリボルバーに手を伸ばす。槙島が冷淡な瞳でその後頭部を踏みつけようと足を上げた時、怒りを滲ませた声がその名を呼ぶ。誰の声か、なんて決まっている。顔を上げれば、狡噛が駆けてくるのが見えた。槙島は朱を鼻で笑い、麦畑の中へと逃げ去る。朱が必死に拾おうとしていたリボルバーを、狡噛が掴んだ。右手にはドミネーター、左手にはリボルバー。

────産み落としたなら、最後まで大事に育てなよ。

いつだったか響歌がそう言って笑った。まるで子育てでもするような口調。同情するでも敬遠するでもなく、ひどく眩しげな瞳。この殺意は確かにあの日あの瞬間、自分の中で産声を上げた。こんな暗くて苦しくて、産み落とした狡噛自身でさえ愛せない感情を、どうして彼女はあんなにも容易く認められたのだろう。この時が来た。待っているのはきっと、達成感ではない。喪失感だとしたら笑ってしまう。3年も一緒にいたのだ。愛着が湧いたとしても不思議ではない。

「巣立ちの時だな」
「駄目…駄目です……狡噛さん!まだ、シビュラシステムとは取引の余地があるんです!槙島さえ生け捕りにすれば…」

狡噛は呟き、ドミネーターを投げ捨てる。その選択に朱は奥歯を噛むと、悔しそうに涙を流した。

「どうやら俺達は、分かれ道の度に違う選択をする運命のようだな。悪いコンビじゃなかったと思うんだが…間違った地図を持った旅人みたいに、どんどん遠くに離れていく」

同じ道を歩きたかった。分かっている。自分には歩けない道を行く人ほど、美しく見えるのだ。狡噛然り、彼女然り。朱は首を振った。このままでは、狡噛は誰かに殺されるまで逃げ続けることになってしまう。

「自分の命が惜しいかと聞かれればそのへんは微妙なんだが・・・シビュラシステムに殺されるのはあんまり面白くないよな。それに、一番負けたくない相手に生きろと言われたんでな。だから、最後まで抵抗してみるよ。それになにより、追っかけなきゃならない女がいる。迷っている暇はない・・・これで本当にさよならだな。常守朱」

最悪の選択をするくせに、その声も視線も優しかった。リボルバーを手に、狡噛は走り出す。朱は彼の名を呼んだ。悲痛な叫びは、虚しく消えていく。その刹那、朱の側に人影が二つ現れる。今まで微塵も感じなかった気配に思わず顔を上げて、目を見開いた。軽快な足取りで先を行くのは見慣れたシルエット−−−響歌だ。その傍らには、彼女に寄り添いながら煙草を吹かし笑う赤井の姿。朱に一瞥もくれることなく、歩いて行く。一瞬だけ見えた横顔に、朱は理解する。止めるつもりなど露程もない。ただ、見届けにいくのだと。

麦畑を抜けると、小高い丘の上に出た。槙島はそこから眼下の景色を眺めている。夜明けに照らし出された広大な麦畑。風でうねる様は、とても幻想的だった。狡噛と向かい合い、槙島は子どものように笑う。

「ひどい出血だ。これだけの血があれば、本が一冊書けたかもしれない。ニーチェの言葉を思い出すよ」
「『私は血で書かれた本のみを信じる』・・・だっけか」
「その通り。いい言葉だと思わないか?全ては物語だよ。シビュラシステムという巨大な国家的詐欺を裁くための物語だ。それを書き上げるためには、多くの人間の血が必要だった」
「お前は革命家のつもりなのか?」
「政治にはあまり興味がないな」

まるで友人同士のように、ふたりは会話を交わす。出会い方が違っていたら、どんな関係になっていたのだろう。今になって、そんな想像が脳を掠めるとは傑作だ。何を思っても、過去は変わらない。狡噛はリボルバーの銃口を槙島の頭に向け、ゆっくりと撃鉄を起こす。

「なぁ、どうなんだ狡噛慎也?君はこのあと、僕の代わりを見つけられるのか?そのうちに君も死ぬ。生まれ変わったら、もう一度やろう」
「・・・いいや、もう二度と御免だね」
「残念だな。ちょっと待ってくれ。もしかして君は僕のことを憎んでいるのか?これだけたっぷり楽しんだのに?」

育て上げた思いの全てを、人差し指に乗せる。風に背中を押されるように、狡噛はトリガーを引いた。倒れ込む槙島をどこか空虚な眼差しで見届けて、リボルバーを下ろす。息の根を止めたはずなのに、深淵はまだこちらを覗き返している。こうして死体になっても、槙島聖護は狡噛の中から消えない。

────ちゃんと苦しんでる?魚に成り下がったりしてないよね?

彼女の声が聞こえる。投げられた問いに、思わず頷いた。何度その声に救われただろう。潜在犯に堕ちた日も、這い上がる途中も、そして今も。狡噛は思い出したように、深く息を吸った。からっぽの肺が新鮮な空気で満たされる。ふと、鼻先を僅かに掠めたのは煙草のにおい。弾かれるように風上へと視線を向けるが、そこには誰もいない。気配も感じない。今追えば、捕まえられるだろうか。そうは思っても、足は動かない。疲れた。長い旅を終えたのだから、少しの間休ませてほしい。

「今のうちに行ける所まで逃げておけ」

煙草のにおいを嗅いで、真っ先に彼女を連想する自分が憎い。響歌は煙草を吸わない。あれは彼女ではなく、赤井の匂いだ。まるで一心同体だと、得意げにそう言われている気がした。染み付いて消えない、深く強固な絆。響歌と、赤井だけの、不可侵領域。

「マーキングでもしておくんだったな」

狡噛はひとり力無く呟いて笑った。唇の隙間から、鋭い犬歯が覗く。この牙で、あの柔い首に噛み付いておけばよかった。そうすれば、その傷が疼く度に、彼女は自分を思い出す。瘡蓋になり消えて無くなるまで、その身体に在れる。そうでもしないと、不安だ。自由な左手で唇をなぞる。触れ合ったのはたった一度。それなのに、キスの味も抱き締めた身体の柔らかさも、嫌になるほど鮮明で笑えてくる。

「響歌−−−お前は陸に上がれたか?」

吐き出した問いに答えはなく、虚しく消える。この沈黙こそが答えなのかもしれない。水を得た魚。いや、空気を得た人間と言うべきか。広い世界で思うままに生きるその姿を思い浮かべて、狡噛は肩を揺らして笑った。

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に痺れた!