最悪も呑み込んで

※本編第V章〜第X章間の話。


「やけに不機嫌そうだな」
「お気に入りのネックレスを無くしました」
「そのうち出てくるさ。むしろ、ネックレスで済んで良かったじゃないか」

珍しく人の不幸を喜ぶ相棒に、響歌は眉間の皺をさらに深くした。優しいこの男のことだ。何か理由があるのだろう。しかし今の彼女には、それを汲み取る余裕はなかった。あのネックレスは、響輔から貰ったものだ。自分の不注意が原因だが、勿論好きで無くしたわけではない。機嫌を損ねたのを理解したのか、赤井は宥めるように響歌の髪を撫でた。そして、弁明する前にデバイスに表示したカレンダーを顎で指す。

「今日は13日の金曜日。ネックレスそいつはお前の身代わりになったのかもしれん」
「……意外です。赤井さんって、その手の迷信を気にするタイプなんですね」
「信じた方が楽になれる時もあるということだ」
「ご冗談を。安寧なんて退屈なだけでしょう」

赤井の発言に、響歌は鼻を鳴らす。整えられた道など歩くに値しない。実に彼女らしい発言だ。普通の人間なら逃げ出したくなる苦痛を快感とし、荒波を乗りこなす。確かに、退屈とは無縁な生き方だ。つまらぬ迷信では、なんの役にも立たないのだろう。しかし、誰もが響歌のように強いわけではない。そういう生き方ができる人間の方が圧倒的にマイノリティだ。大抵の人間は混沌より安寧を選ぶ。そう思いながらも、赤井は言葉にしなかった。この女と共に生きると決めた時点で、自分は世間的に混沌そちら側なのだ。ただそれが赤井にとっては至上だっただけのこと。

「うわ、宜野座から」
「そう嫌そうな顔をするな。さっさと出てやれ」

まるで疫病神のような扱いだ。人として気に入っているわりに、ひどく辛辣。まあ宜野座は少しばかり小言が多い。しかしそれは優しさ故だと、響歌は理解している。むず痒いのだろう。微笑ましく思いながら、背後から応答ボタンを押してやる。

「はいはーい、何事?」
「清々しいくらいに呑気な声だな」
「お褒めに与り光栄です」
「褒めてない。早速だが、荒川区に向かってくれ」

すでに準備を整えている赤井に視線を送り、椅子に掛けてあった上着を羽織る。降谷は非番のため、今日は二人しかいない。しかし、響歌にとってはその方が断然気が楽である。宜野座ら一係も、別件で捜査に出ている。本来なら特別対策室も同行するはずだが、それほど大きな案件ではないことと、今のように急な出動要請に対応するためでもある。廊下を足速に進みながら、宜野座から送られてきたデータに視線を落とす。なんでも街頭スキャナーで検知された色相に異常があるとして、セラピーを勧められたが拒否して逃亡。

「すごくデジャヴ」
「大倉信夫の時と同じだな。しかし、今回の鼠は人質を取るどころか、素直に巣に帰ったようだ」
「チーズで釣るまでもないですね。尻尾を掴んで引き出しましょう。時間をかけるだけ無駄・・・」

響歌は急に口をつぐみ、足を止める。目を細め怪しむように見つめるのは、今回の対象である男の顔だ。その反応に、赤井は確信を持って尋ねた。

「知り合いか?」
「ええ、学生時代の。文武両道だと噂になっていましたけど、堕ちたものですね。それとも、私に何か用事でもあるんでしょうか。思い出話に花を咲かせるほど親しくはなかったはずなんですけど」
「偶々だと言いたいところだが、偶然など滅多に起こらない。疑って掛かるべきだろうな」

面倒臭げに溜息を吐くと、響歌は再び歩き出した。目的地までの道中、助手席で情報を収集する。学生時代は優秀で、友人も多かったと記憶している。それが何より素晴らしいことだと信じて疑っていなかった。そういう、よく居る人間だった。会話をしたのも片手で数えるくらいだ。

「着いだぞ、ここの7階だ」

赤井の言葉に見上げる。車を走らせ着いたのは、よくあるマンションだ。30手前なら、普通だろう。ご丁寧に規制線が張られ、住民の避難も済んでいるらしい。ただの鼠狩りに大層なことだ。

「懸念点はあったか?」
「そうですね…さっき志恩に調べてもらったんですけど、どうやら廃棄区画に出入りしていたようで。何をしていたかは不明ですが、あそこは自由な所ですからね。普通ではお目にかかれない物も手に入る。拳銃、爆弾、エトセトラ。素直に玄関から入るのは危険かもしれないです」

ドアを開けた途端に急襲だなんて洒落にならない。結局響歌が上の階からベランダに下りてそこから、赤井は彼女の合図を待ち玄関から、ということになった。7階に到着し、赤井がエレベーターから出る。

「あまり敵を刺激するなよ」
「心配性ですね。いつも通り死なない程度に楽しみますので、ご安心を」

そう言って、響歌は笑う。その姿に一抹の不安を覚えたが、遅かった。音を立てて扉が閉まる。危機感知能力は問題ない、ただ少し遊びが過ぎる時がある。気を引き締めるように前を向くと、赤井は問題の部屋へとゆっくり歩き出した。

一方で響歌は8階で降りると、真上の部屋の扉をドローンで開ける。無人の室内を静かに進んで、外へ。柵を乗り越え下の階の様子を窺うと、人影がひとつ視認できた。背を向けている。響歌は軽やかにベランダに降り立ち、堂々と窓をノックする。

「久しぶり。俺のこと、覚えているか?」

窓を開け、男が問う。尋ねた割に、覚えていて当然だという内面が伝わってくる。何故そこまで自信があるのか疑問である。響歌のような例外は別だが、人の記憶というのは儚いものだ。そう心で吐き捨てながら、彼女は笑う。

「ええ、人より記憶力はいいので。私が来ると読めていたみたいですね。いいですよ、折角ここまで出向いたんですから聞いて差し上げます」
「お前は・・・あの頃から何も変わってないな。気に入らないんだよ、その態度もその顔も。いつもいつも気味の悪い顔で笑いやがって…っ、常に独りだったくせに!成績だって俺の方がよかった!なのに何故だ、何故お前がシビュラに選ばれた⁉︎本来なら俺が監視官そこにいるはずだったんだ!!」

神経を逆撫でするような言動とは裏腹に、響歌は恭しく一礼した。欠片も動じない彼女に、男は激昂する。感情を剥き出しにし、心のままに怒鳴り散らす。それを見て響歌は笑った、さぞ楽しそうに。学生時代とは違う、血の通った微笑み。続いて喝采の如く拍手をし始める。その様に、男の爪先から頭頂部を何かが駆け上がる。それは恐怖だった。本能が叫んでいる−−−この女は危険だと。

「いいですね、とても人間らしい。学生の時から今のように心に従順だったら、もっと仲良くなれていたでしょうに、残念です」
「誰がお前なんかと、っ……認めない。異端者がこの国の秩序を守っているだなんて、俺は認めない」
「そんなに刑事になりたいんですか?」

響歌の問いに答えはない。恐怖を振り払うように頭を掻き毟り、男は口を動かした。立ちたかった場所に居るのがこいつだという事実を受け入れられない。だが、その否定は絶対の巫女であるシビュラの選択を疑うことと同義。間違っているのはシビュラではない。

「嗚呼、そうか……シビュラは騙されているんだ」
「ははっ!だとすれば、シビュラも大したことないですね。ただの人間に騙される程度じゃ何の秩序も守れやしないですよ」
「黙れ。お前がいたら、世界は濁っていく。だから、俺がシビュラを救う」

嘲笑う響歌を睨み付け、男は拳銃を構える。そして間髪入れずに発砲した。しかし、それは響歌に向けてではない。銃弾でベランダ越しの窓ガラスが割れる。

「ほら、いいのか?殺してしまうぞ!」

これも、響歌に向けてではない。男の狙いを理解し咄嗟にデバイスへと手を伸ばしたが、同時に玄関の扉が開く。入って来た赤井を見て、男は口角を上げた。しかし流石は猟犬、瞬時に状況を把握し、ドミネーターの銃口を向ける。

「赤井さん!!」

喉が切れそうなほどの声で名前を呼ばれ、一瞬惑う。響歌の視線は赤井の足元に注がれていた。そこには箱状の黒い物体、赤色のランプが点滅している−−−爆弾だ。センサー式でもタイマー式でもない、スイッチは男の左手に握られている。赤井からは身体が死角となって見えない位置だ。即座に回避しようとするが、玄関から部屋までの廊下は一本道。小さく舌を打ち、斜め後ろに飛んだ。刹那、爆発が起きる。赤井が無意識に顔を覆うと同時に、腹に衝撃を受けた。その感触に背筋が凍る−−−何をしている。そう言葉にする間もなく、玄関まで吹っ飛ばされた。鈍い音を立てて背中を打ち付けたが、赤井はすぐに瞼を上げた。己の腕の中で動かない響歌を呆然と見下ろす。

「は、はは・・・嘘だろ、本当に庇いやがった。化け物が人間臭いことするなよ!笑える。あんたも異常だな、こんな女とイチャついてるんだから。互いに庇い合って、仲良しごっこか……っ、
「どうした、続けるといい。最後まで聞いてやる」

そこには獣がいた。理性を捨て、本能を剥き出しにした猟犬。翡翠色の瞳は殺気を纏い、目の前の男を見据えている。動けない−−−男は己の心臓が脈打つのを感じた。膝が笑う。どう見ても自分の方が優勢なのに、拳銃を構えることができない。この距離だ、外さない。ほんの少し人差し指に力を込めればいい。だのに、足も指先も動かない。気配だけで屈服させられたのだ。呼吸すら奪うほどの殺意を滲ませながらも、響歌の髪を撫でる赤井の右手はどこまでも優しかった。そこには紛れもなく愛がある。その光景に男は唇を歪める。

「生憎、君が言うほど甘い間柄でも、一言で表せるような関係でもない」

鋭い眼光で男を射抜いたまま、赤井は指先で響歌の首に触れる。息はある。気を失っているだけだ。安心して敵を執行できる。しかし、あまり時間をかけてはいられない。一刻も早く治療をし、清潔なベッドで眠らせてやりたい。迅速に、かつ確実な裁きを。口角を上げ、どこか挑発的に赤井は言う。

「聞いたところによれば、君は愚者ではないらしい。ならば理解はできているはずだ、己が犯した行いの愚かさを。安心しろ。ご覧の通り右手は塞がっている。シビュラ流で裁いてやろう。まあ、どちらにしても結果は変わらんだろうが、俺に殴り殺されるよりは幾分かマシだろう。痛みは続かない、一瞬で終わる」

響歌を抱きかかえたまま立ち上がり、ドミネーターを構える。男は子鹿のように怯えていたが、そこでやっと背を向け走り出した。と同時に、ドミネーターが形を変えながら告げる。

『執行モード、リーサル・エリミネーター。落ち着いて照準を定め対象を排除して下さい』
「−−−了解」

笑みを消し、トリガーを引く。放たれた光が男の背中に届き、弾けた。直前、赤井は腕の中にある響歌しんぞうを飛び散る鮮血から庇うように抱き締める。膨張し肉片となる様を冷たい瞳で見届け、背を向けた。

「赤井!何があった、さっきの爆発は・・・、

マンションを出たところで一係の面々が駆け寄ってくる。別件の方は片付いたらしい。最初に声をかけた征陸が口を噤み、宜野座や狡噛を制した。と言っても、両者共に声を出せはしなかっただろうが。朱や縢に至っては、立ち止まり硬直してしまっている。戸惑う彼らの横を、赤井は無言で通り過ぎる。

「赤井さん」
「コウ、やめておけ。聞こえちゃいないさ。下手にお嬢に触れてみろ、噛み付かれるぞ」

引き止めようとする狡噛の肩を、征陸が掴み言う。確かに彼の言う通り、恐らく赤井は狡噛達を認識していないだろう。否、今の赤井の視界には己と響歌しか映っていない。それ以外は等しく敵だ。

「なにあれ……やっべぇじゃん。今にも通行人殺しそうなんだけど」
「あそこまで感情剥き出しなのは初めて見る。誰だか知らないが、どうやら逆鱗に触れちまったらしい」

頬を引き攣らせながら言う縢に、狡噛も同調する。狡噛達、社会から異端だと判断された者達から見ても今の赤井の状態は、畏怖を抱くには十分だった。常に冷静で、状況判断も的確。当然だ。赤井秀一は響歌・ルートヴィヒの理性なのだから。しかし今回は例外、護るべき本能を害され、我を失った。どちらが理性なのか分からない。そう思いながら、狡噛は笑った。

半日後、医務室のベッドの上で響歌は覚醒する。夢の"ゆ"の字すらないほど熟睡した。いつにも増して目覚めがいい。そしてすぐに、ここが自分の部屋ではないことを理解する。続いて脳内で再生される記憶に、僅かに口角を上げてから視線を横へと移す。視界に入れずとも、目覚めた瞬間に感じていた気配−−−椅子に腰掛けた赤井が、無表情でこちらを見下ろしていた。こういう場面では大抵、眠りこけているものではないのだろうか。

「おはようございます」
「何故、庇った?」
「理由などありせん。本能ですよ。あの行為に感情は一切介入していませんでした。謝罪をしたとしても反省はできないので、二度としないと約束することも不可能です……お怪我は?」
「無い」
「そうですか、それは良かった。私の行為は無駄ではなかったということですね」

選択を誤った。一人で行かせるべきではなかった。どちらが危険か理解していたはずなのに、彼女の強さを過信してしまった結果がこれだ。盾が無傷でいいわけがない。赤井の胸を後悔が渦巻く。必死にそれを咀嚼しようと努めた。口を開けばきっと、感情が爆発してしまう。鼻先に現実を突き付けられた気分だ。一体いつから"自分の為"になっていたのだろう。響歌を守るのは響歌の為だったはずだ。それがいつからか、赤井じぶんの為になっていた。赤井秀一が響歌・ルートヴィヒに死んでほしくないのだ。

「なんて顔してるんですか」

心底面白そうに顔を覗き込んでくる。緩く弧を描いた瞳に情けない自分の顔が映った。心の内を見透かされた気がして、赤井はさらに表情を険しくする。その様子に響歌は喉を鳴らすと、ゆっくりと右手を伸ばし赤井の左手を取った。

「今日はどんな日でしたか?」
「迷信通り、最悪の一日だった」
「いいえ、逆ですよ。今日は記念すべき日です」

吐き捨てた赤井の言葉を、響歌は否定する。勘弁してくれと思った。あんな思いは二度と御免だ。その瞳から光が消える瞬間など見たくない。

「私が初めて利他を優先した日です。最初で最後の自己犠牲。私のとっておきを差し上げます。貴方の言っていたことは本当でしたね。あのネックレスは私の代わりに犠牲になった。お陰でこうして、貴方に触れることができる」

そう言って笑い、愛おしげに赤井の手を撫でた。その微笑みだけで、憂いが一掃されてしまう。響歌・ルートヴィヒという猛毒が身体を支配していく。たとえこの身が朽ちるとしても、構わない。毒を食らわば皿まで。食い尽くしてやろう。触れ合った手に力を込めて今度こそ赤井も笑い返した。

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に痺れた!