この道、踏み外すことなく

※PSYCHO-PASS10周年記念企画に添えて。時系列的には本編後。

「君には失望したよ」

抑揚のない声が告げる。声の主は冷えた目で、降谷を見据えていた。しかし当の彼は、これ以上ないくらい冷静である。失望────それがなんだと言うのだ。期待されていようがなかろうが、やるべき事は変わらない。そもそも自分は、目の前の上司の為に動いているわけではない。日本この国を守る。それこそが降谷零の正義だ。嘆かわしいことに、今の日本は巫女無しでは成立しない。このシビュラばけものと共存していくしか道はないのだ。

──── その胸にあるのは殺意ではなく信念です。

鼓膜に焼き付くような声。暗闇で構わなかった。足元すら見えなくとも、進む先だけ見失わなければいい。そう思っていたのに、目前には、まるで「掴まれ」とでも言うように糸が揺れている。燦然と輝きながら、降谷を導こうとする。嗚呼、なんて厄介な光だ。居なくなった今でも、眩さは健在。すれ違っただけの人間すら、惑わせる。その光に縋れば戻れるだろうか、ヒロ達あいつらがいた頃に。

──── 人間わたしたちが見つめるべきは現実です、幻想じゃない。

そんな淡い望みを一掃したのもまた、彼女の声だ。現実では無表情を貫きつつ、内心やれやれと苦笑した。文字通り温度のない瞳を見返しながら、今度こそ降谷は笑う。そんな彼の様子に、禾生の視線は険しさを増した。重々承知している。彼女は、ヒーローじゃない。だが、悪でもない。普通の人間だ。ただほんの少し異質で、魅力的すぎただけ。あれこそが本来の、人間のあるべき姿なのだろう。今この国に生きるほとんどの人々が失ってしまったもの。降谷もまた、失いかけていたもの。皮肉なことに、それを取り戻させたのは、監視対象である彼女だった。お陰でまだ、この澱んだ海の底でも息をしていられる。

「一体、何が気に食わないんです?」
「気に食わない?君にしては面白いことを言うものだ。私にそのような非理性的な感情はないよ。ただ君の行いを、客観的且つ正当に評価しているだけだ」
「成程。だとすれば、あなた方シビュラの俯瞰性に疑念を抱かざるを得ませんね」
「なに?」

禾生の言葉に、降谷は萎縮するどころか優雅に笑い、挑発して見せた。肩を竦め、口端を緩く持ち上げる。嗚呼、なんて滑稽なのだろう。目の前の上司は、怒りも苛つきも抱くことはない。実際、つい先程まではそうだった。しかし今はどうだ。その言葉や態度からは、それらの感情が犇々と伝わってくる。瞳は熱を纏っているようにも見えた。血の通っていない義体のはずなのに。

「あなた方の目的は、彼女がシビュラの一員になり得るかを見定めること。そしてその判断を降谷じぶんに委ねた。そうでしたよね?」
「ああ。だが、その選択自体が過ちだった。君に任せるべきではなかった。今はそう実感しているよ」
「まさかとは思いますが、彼女が潜在犯になったのは私が原因だと仰りたいのですか?」
「違うとでも言うのかね」

ああ、駄目だ。巫女はこんなにも人間的だっただろうか。国民より利己──正確にはひとりではないが──を優先するようでは、この先が思い遣られる。心で嘆きつつも、投げ出せるほど降谷の正義は安くはない。完璧でないからこそ、自分達『末端』がいるのだ。

「何を期待しているのか知りませんが、犯罪係数を操作するような超人的な能力など私にはありません。彼女は初めから、シビュラに組み込まれるための条件を満たしていなかった。ただそれを判断するまでに要する時間が長かっただけのことです。報告書はご覧になったのですよね?彼女も最後は結局、潜在犯となった。その時点で前提条件から外れます。それに、仮に組み込んだとして────呑まれるのはあなた方ですよ」

脅しではない。この数ヶ月、傍で響歌を見てきた故の結論だ。どんな集団に混ざろうと、異分子となるだろう。それがシビュラであっても例外ではない。巫女の一部になったとしても、彼女の性質が希釈されることなどあり得ない。その身が消え失せ脳だけになろうとも、最後まで己を捨てない。そういう人間だ。そうなれば、食われるのはシビュラの方。内から食い破られるに違いない。そんな景色を見てみたいなどと、一瞬でもそんな思考が頭を掠めるのだから、降谷もまたそれなりに異常なのだろう。近くに居たせいで感化されたのかもしれない。

「結論を言わせてもらえば、あなた方シビュラには見る目が無かったということですね。手間を取らされたのはこちらですよ。ですが、実に有意義な時間でした。結果的に得たものの方が大きかったです」
「ほぅ、随分と言うようになったな。どうやら君は、今の自分の立場を理解していないようだ」
「そこまで愚鈍ではありません。己の評価は正しく出来ています。ですが、敢えてお尋ね致しましょう────コントロールの効かない駒は、切り捨てますか?」

質問の内容に反し、その声には諦めの色はなかった。何故なら知っているからだ────巫女はひどく合理的だということを。響歌は常々、降谷のことを苦手だと言っていた。本人にも、周りの人間にも。その理由は、彼女が理解できない事を息をするように実行していたからである。たとえ己を殺してでも、この国に全てを捧げる。胸に秘めたその信念は揺らぐことはない。そんな正義が、何よりも、そして誰よりも己を優先する彼女にとっては、理解し難かった。しかし、ふたりの間にはただ一つだけ共通点があった。降谷は、彼女と同様に己を過大評価も過小評価もしない。故に彼は、相手がどう答えるかを確信していた。答えは、否だ。シビュラは降谷じぶんを切り捨てられない。それは決して慢心などではなく、損得勘定で考えた結果だ。単純に降谷自身の有用性と、今回のような特殊ケースにおいて判断を委ねた場合のリスク。両者を比較検討すれば、自ずと結論は出る。どちらに天秤が傾くかなど、火を見るよりも明らかだ。

「……いや、君にはこれまで同様、この国に尽くしてもらおう。響歌かのじょの件は確かに遺憾だが、我々の在り方が揺らぐことはない。私はね、降谷くん。君の資質を高く買っているのだよ。思考、判断力、精神力、肉体の強靭さ、そして忠誠心。どれも手足として使うなら不要だ。シビュラが指示を出すのだから。それに、その程度の人間なら大勢いる。だが我々には、この手を離れた状態でも自ら思考し、行動できる人間が必要なのだ。今までその役目を君に担ってもらっていたわけだが、今後もそれは変わらない。代わりが務まる人間が現れるまでは、だがね」
「常守朱はどうなんです?」
「あれはまだまだ未熟だ。些か私情に左右され易い。懐柔の余地があるとも言えるがね。駒としての能力は、あらゆる点において君には遠く及ばない」

要らぬ名誉だ。降谷はそう思った。だが、構わない。その方が動き易い。むしろ心が息を吹き返した分、今までよりも世界は明るく見える。暗闇に呑まれてはいけない。降谷は自分に言い聞かせる────たとえ全身が闇に浸かったとしても、瞳にだけは光を宿せ。足元だけでいい。道を踏み外さないために。彼女のように周囲を照らせるのは難しいかもしれない。だが、一筋でも光があるのなら、この国が真に死ぬことはない。

「末端の末端、というわけですね」
「その通りだ」
「わかりました」
「無論、特別対策室は廃止となる。以前と同様、表は刑事課に、裏は君等に任せることになるだろう。刑事課ですら人手不足だ。言いたいことは分かるかね?」
「ええ。我々『裏』に人員を割く余裕はない、ということですね。承知しています。問題ありません」

その答えに、禾生は満足げに目を細めた。降谷は最後に一礼すると、局長執務室を後にする。エレベーターに乗り込んで、1階のボタンを押した。壁に身を預け、固く目を閉じ息を吐き出す。また、日常が始まる。この数ヶ月間が夢のように思えた。

──── 君も、命の懸け時を見誤るな。

よみがえる声に舌を打つ。五月蝿い。言われなくても分かっている。やっと視界から消えたというのに、今度は説教か。つくづく気に入らない男だ。扉が開く前に、心を平常に戻す。地上に着いた降谷を待つ影がひとつ。眼鏡の向こうからは、生真面目そうな瞳がこちらを見据えている。

「風見」
「お勤め、お疲れ様でした」
「ああ。これからまた忙しくなる。頼りにしているぞ」
「はい」
「早速だが、車を出してもらえるか?」

車を走らせ向ったのは、今は亡き親友が好きだった場所。彼女と訪れた時は、ゆっくりできなかった。無理もない。現実を愛する女性だ。死者との会話を楽しむような趣味はない。それが他人なら尚更のことだ。

「ここでいい。15分だけ、時間をくれ」

それだけ言い残すと、降谷はドアを閉める。残された風見は、1時間くらい構わないのに、と思った。だが、そう返す前に上司は歩き出してしまう。その背中がどこか晴れやかに見えて、戸惑った。風見の知る降谷零は完璧で、非の打ち所がない人間だ。だが相棒を失って以来、いつもどこか張り詰めていたように思う。自分の命すらも顧みないのではないかと心配になったこともあった。そんな危うさが、消えている。喜ばしいことだが、一体何故────自問してすぐに、答えが出た。そう仕向けた人間がいる。

「響歌・ルートヴィヒ」

風見は彼女と面識がないが、一度だけ局内ですれ違ったことがあった。その瞬間に感じたのは、微かな殺気だ。最小限に研ぎ澄まされた警戒網、己のテリトリーの境界線。そこに触れた相手に対し、無条件に働くもの。肌がひりつくような感覚だった。恐らく、それを感じ取れる人間は極小数。風見のような、危険な日常に身を置く者でなければ気が付かない。何故なら、この国の人間が持つ警戒心は無いに等しいからだ。そして何より、漏れ出ていた殺気が微小だったのも理由の一つ。強者ほど己の強さを気取らせない。それを実感させられた。

「感謝する」

ひとり呟く。降谷は、風見を含めた裏の人間達の心臓だ。潰れてもらっては困る。止まれば血が通わず、全てが機能不全に陥ってしまう。彼女は意図せず、降谷以外のパーツ達も救ったのだ。この謝辞は、決して一人分ではない。

「景色は変わらないはずなのに、不思議なものだ。空が澄んで見える。お前達がいるからか・・・なぁ、聞こえてるか、ヒロ。松田。ハギ。伊達班長。とある人が教えてくれたんだ、そこは自由な場所らしい。僕はまだ行けそうにないがな。だから、もう暫く皆で馬鹿やっててくれ。次に会えた時には、話したいことが沢山あるんだ。それまで、どうか見守っていてほしい────それじゃあ、行ってくる」

往くべき道は見えている。方角を見失うことは二度とない。この足で走り抜く。この手で切り開く。この目で見届ける。金糸の髪が風に揺れる。行ってこいと、そう声が聞こえた気がした。

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に痺れた!