終わりなきワルツ

白い悪魔が倒れ込む様を、響歌は瞳に焼き付ける。狡噛慎也は、殺意のままに復讐を成し遂げたのだ。少し遠くに見えるその横顔は、決して満たされてはいなかった。それでいい。苦しんでこそ人間。苦しみすらも飼い慣らし、楽しめばいい。苦痛を感じなくなることは、生きながらに死ぬことだ。だから今は、ただその選択を讃えよう。ふっと笑うと、響歌はくるりと背を向け来た道を戻って行く。赤井も当然のように後を追う。暫く歩いて、麦畑の中で蹲る朱の前で立ち止まった。そっと屈んでその肩に触れ、淀みのない声で告げる。

「槙島は死んだよ」
「っ、ごめんなさい。私は・・・響歌さんとの約束を守れませんでした」

俯いたまま謝罪をする朱に、響歌は微笑む。最初から分かっていた−−−この子は自分とは違う、二度と交わることはない平行線だと。それを理解したうえで、曖昧な言葉で約束を彩り、惑わして利用した。しかし響歌には、罪悪感など微塵もない。

「貴女はちゃんと、約束を守ってくれたよ」
「いいえッ、だって狡噛さんは槙島を殺しました」
「もしかして、気付かないフリをしてるの?それともまだ私に幻想を見てるのかな・・・私はね、朱ちゃん。狡噛が人殺しになることが怖かったわけじゃない。彼が自分を失うことが私にとっての最悪だった。人を殺してほしくない。刑事でいてほしい。それは貴女の望みであって、私の望みじゃない」

穏やかな風に乗って、響歌の声が耳に入ってくる。どうしてそんなに優しい音で紡ぐのだろう。淡々と語られる言葉達は、鋭いナイフのように容赦なく真実を突き付けてくるのに、決して責めるような声音ではなかった。心の隅では理解していた。彼女は、一度も狡噛の復讐を否定したことはなかった。だが、無関心だったわけでも案じていなかったわけでもない。誰より彼を思い、信じていた。

「それにさ、私自身そもそも人殺しなんだよ。私は自分が好きだから、殺人を否定することはできない。それは自身の否定になるからね」

違法だから。朱が狡噛を止めたかったのはそれが理由だ。そこに私情がなかったとは断言できないけれど、確かにそうだった。結果的には止めることができなかったが。でも響歌は−−−出会った時にはすでに人殺しだった。人ひとり、それも自分の父親を殺したのだ。正しい選択だったと認めることはできない。だが、過ちだったとも言えない。そうしなければ、死んでいたのだ。たとえ響歌が居なかったとしても、世界は滞りなく進んだだろう。それでも、彼女の存在が世界そのものだった者もいる。傍に佇む赤井がそうだ。彼自身がそれを一番よく理解していた。その出逢いがなければ、彼は今も沼底を彷徨っていたに違いない。

「トリガーを引くのはこの指なのに、生かすか殺すかの選択を自分以外シビュラに委ねている方が殺人よりもよっぽど悪だよ。引き金が付いてる意味がない。それを正義だと信じてる奴らばっかりなんだから、ほんと笑っちゃうよね。目も耳もあるくせに、見も聞きもしない。これを愚かと言わずになんて言えばいいのかな。命の重みを背負うのは、それを摘んだ人間であるべきだよ」

響歌が朱の人差し指を、爪の先でなぞった。言われるまま、巫女の望みのままに引き金を引く。従順な駒を演じ続ければ、約束された未来が待っているのだから。少しでも自我を持ってしまえば、忽ち奈落に堕ちていく。なんて皮肉だろう。この社会で高い地位に君臨するには、愚者になりきるのが最短ルートなのだ。笑わずにはいられないのか、響歌は喉を鳴らした。そして徐に朱の耳へと唇を近付け、問う。

「あのドミネーターおもちゃで散った命の全てが、この世界に不要だったって言い切れる?」

身体が震えた。朱の脳を、今まで執行してきた人々の最期が映像となって駆け巡る。振り払うように頭を振るが、こびり付いて消えない。トリガーを引く時は、覚悟を決めてから実行していたはずだ。なのに、強く瞼を閉じても、語りかけてくる−−−ただ生きたかっただけなのだと。

「愚かさは悪いことじゃない。一番愚かなのは、それに気付かないことだよ。己の愚かさを自分で抱えることが出来ない人間が日本には大勢いる。この身や心を削ってまで、そういう人達に尽くすなんて、利己主義者には土台無理な話。でも、貴女ならそれが出来るでしょう?」
「全部押し付けて、行ってしまうんですね」

自嘲気味に朱が言う。結局、響歌は最後まで子どもでいることを貫いた。無邪気で残酷で、潔い。分からないから、探求した。それが終わったのだから、容易く手放せる。そして、より心が躍る方角へと。

「ははっ、確かに。ごめんね。それでも私は、私であり続けたいから。この国に居たら、それが出来ない。だから、出て行くよ。その為の証明だった」
「・・・心残りは、ないんですか」
「んー、宜野座のことは心配かな。少しは肩の力抜いてほしい。それから、これ。さっき会ったとき、渡しそびれちゃったから」

そう言って、朱の手に何かを握らせた。それは鍵だった。なんの変哲もない銀色の小さな鍵。一体どこの鍵なのだろう。宜野座なら知っているのだろうか。説明を求めるように見つめ返すと、響歌は笑いながら答えた。

「私の机・・・職場のね。それの引き出しの鍵だよ。中に入ってる物を宜野座に。処分は任せるから好きにしていいよって伝えておいて。さてと、そろそろ行きましょうか」

振り向き、赤井に声をかける。本当なら今ここで捕らえるべきなのだろう。彼女はもう、巫女の信託のもとでは悪なのだ。それが刑事として正しい判断だと分かっていても、できない。たとえ実行したところで成功はしない。響歌に触れる前に、赤井に制圧される。しかし不可能の理由はそれではない。不可能と言うよりも、意思がないと言った方が適切だ。

「(私は、このひとを裁きたくないんだ)」

サヨナラを告げることもなく、二つの足音が遠ざかっていく。朱は重たい心のまま顔を上げた。麦畑の中を悠然と進む背中は、自信と期待に満ちている。響歌も、そして赤井も、ただの一度も振り返ることはなかった。

−−−−−

穏やかな風の中を、ふたりは並んで歩く。すぐ傍に感じる気配に、響歌はそっと笑った。やっと海から出られるのだから、心は前向きなはずだ。なのに、鉛のように足取りが重い。理由は分かりきっている。巫女からの解放は、すなわち隣の男との別れを意味する。

「もう、ここで大丈夫です」

気丈に振る舞っているつもりなのだろう。震える声でそう言うと、響歌は振り向いた。その表情に赤井は面食らう。そんな顔をするようになったのかと、思わず凝視してしまうほどだ。切なげに瞳を揺らし、努めて笑顔で響歌は語り出す。

「父を殺したあの日から、ずっと目的の為だけに生きてきました。どんな状況でも楽しめる能力は持ち合わせているつもりです。でもそれは、大事な人の死も、誰かの苦しみも、楽しめなくなりそうなものは全て切り捨ててきただけのこと」

まるでそれが過ちのように言う。らしくない。珍しく言葉に迷っているのかもしれない。だとしたら、誇らしい。それは自分が彼女を惑わすだけの存在である証拠なのだから。呟き一つ逃さぬように、赤井は忠犬らしく黙って耳を傾けた。

「だけどこの8年は、とても充実していました。楽しいだけでなく、苦しかった。赤井さんのお陰です。今までありがとうございました。貴方の手を取ってよかったと、心から思います−−−今日でお別れです」

訪れるべき時が来た。ただそれだけのことだ。少しも視線を逸らすことなく、響歌は赤井の頬へと手を伸ばす。愛おしそうにそこを撫でてから、凹凸のある首元に触れた。

「首輪を外す時です。結局、シビュラという檻からは解放してあげられませんでした。利用し尽くしただけですね。それでも・・・私との時間が、貴方に何か一つでも齎してくれていればと、そう願ってしまうんですよ」
「いつになく弱気だな。安心しろ。お前と共有する時間は、俺の人生の中で最も色濃いものだ」

赤井の言葉に、響歌は心底嬉しそうに目を細めた。そして無防備なその左手を、両手で握る。この手に何度救われたか知らない。愛でるように骨に沿って撫ぜ、瞼を伏せてから促した。

「さあ、望みを」

それを合図に、赤井も思い返すように目を閉じる。出会った瞬間から鮮烈だった。躊躇せず、ただ真っ直ぐ進むその背中は紛れもなく光。それを見失うことは、闇へと堕ちることと同義だ。ならば縋りついてみせよう。それが生きるということだと、目の前の彼女が教えてくれた。

「首輪が外されたのなら、俺は晴れて自由の身というわけだ。それに幸い今は檻の外、巫女の監視下からは外れている。何処へなりと行ける」
「望みは逃亡の幇助ですか……分かりました。腕利きの逃し屋をご紹介しましょう」

晴々とした顔で赤井が言うと、正反対に影を落とした表情で的外れな答えを返してくる。まさかこれで伝わらないとは、予想以上に手強い。楽観主義でないのは良く言えば慎重だが、ここまでくると鈍感と言わざるを得ない。今こそ勘の良さを発揮してほしいものである。赤井はいよいよ頭を抱えたくなった。どうやら明確な言葉で伝えなければ、とても汲み取ってもらえなさそうだ。

「いいか、響歌。よく聞け。地獄だろうが楽園だろうが関係ない。俺が望む場所はただ一つ、お前の隣だ」

捲し立てたくなるのをぐっと堪え、赤井は言い聞かせるように伝える。その言葉に数秒間、響歌は奇怪なものを見るような目で見つめ返した。表情からは先程までの愁いは消え、戸惑いに染まっている。優秀な脳で必死に反芻しているのだろう。暫しの沈黙ののち、響歌は慌てて赤井の服の袖を捲った。露わになった右手首に、猟犬の証であるデバイスはない。喉を震わせ、声にならない呟きを漏らしてから、一歩後退った。目の前の現実を享受することが、ひどく難しい。ゆっくりと顔を上げ、柔らかな翡翠色の瞳を見返し尋ねた。

「正気ですか?」
「ああ。俺が狂うとすれば、お前と同じ景色が見られなくなったときだ。契約延長を申し入れる。期間はそうだな・・・この命、尽きるまで」

途端に視界が滲んでいく。目の前の男がどんな顔をしているのか、見えなくても容易に想像できた。どこか得意げな、優しい顔をしているのだろう。この先は当てのない旅になる。目的の為に結んだ契りは、断つべきだと思っていた。でも本当は、縋り付きたくて堪らなかった。不器用に隠した響歌の本心を拾い上げ、彼は今、己の望みと共に叶えようとしている。何年振りだろう、こうして涙を流すのは。目の奥が熱を持ち、焼けるようだ。長い間、溜めていた所為なのか、止めどなく溢れて頬を伝っていく。止め方など、忘れてしまった。静かに泣く響歌の頬に、赤井の指先が触れ、一滴を掬う。はらはらと音もなく落ちる雫は、今まで見てきたどんなものより美しい。頬を包み込んで、少し力を込めて親指で拭えば、それは真白い肌に馴染んで消えた。

「傍にいさせてくれ」
「っ・・・まるで自分だけが望んでいるみたいな言い方をするなんて、狡い人ですね・・・むしろ私の方が貰いすぎじゃないですか」

涙声でそう言うと、響歌は広い腕の中に飛び込み、赤井の胸に額を寄せる。煙草の匂いに混じって、柔らかくて優しい香りが鼻腔をくすぐった。ゆっくりと目を閉じて、この現実を享受する。まさか最後にこんな喜ばしい事が待っているなんて思いもしなかった。別れを見据えて用意していた言葉達は、もう要らない。想像すらしていなかった出来事に何も紡げず、響歌はその温もりにただ身を委ねていた。自分がどれだけ嬉しいのか、どうすれば彼に伝わるだろう。

「それはないな。お前は、自分の存在が俺にとっていかに大きいのか分かっていない。以前にも言っただろう?失えば、奈落行きだと。これからは、俺の命綱になってもらうぞ。異論は認めん」
「首輪を外した途端に気性が荒くなってませんか?」
「今更だな。俺は元々、行儀が良い方ではない」

強気な態度に、響歌はつい笑ってしまった。あれだけ拒んだ誰かの命綱という役目も、巫女から解放された今なら十分担える。ずっと頼ってばかりだったこの男の楔になれるのだ。喜んで引き受けよう。

「喜びも痛みも、全てお前と共に−−−愛している」
「私もです。私も、貴方を誰より愛しています」

身体は別々でも、心は一つだ。誰より愛しく尊い存在。ふたり一緒なら、何処へでも往ける。どんな事だって成し遂げられる。

「この命を半分預けます。なので、貴方のも私に分けてくれますか?」
「ああ。今ここに誓おう、永遠に傍にいると」

涙を拭う綺麗な左手にそっと右手を重ね、響歌は爪先に力を込めた。赤井が身を屈めれば、引き合うように額同士が触れ合う。そして、どちらともなく声を漏らし笑った。口付けはいらない。確かめずとも、この愛の強固さを知っているから。


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に痺れた!