その姿こそが道標

公安局のとある一室。静まり返ったその部屋で、宜野座は佇んでいる。主を失った机に触れ、少し離れた位置にいる上司・・に笑いかけた。

「勝手に開けないところが貴方らしいな」
「宜野座さんに託すと、そう言われたので」

あれから2ヶ月。この部屋−特別対策室−に出入りしていた人間は皆、もう居ない。響歌・ルートヴィヒと赤井秀一の行方は依然として不明。もう一人の構成員であった降谷零については、煙のように姿を消してしまった。

「託す、か。押し付けるの間違いだろ」

いくつかある机の引き出しの中に一つだけ、鍵穴が付いている。苦笑しながら、右手に握っていた鍵を差し込んだ。小さな音が鳴る。不気味なほどに穏やかな心持ちで、宜野座は引き出しを開けた。

「ッ、全く・・・これでよく正気を保っていられたものだ」

呆れを通り越してどこか感心したような言い方に、朱も引き出しを覗き込む。少し深さのあるその中は、丁寧に整頓されていた。収められていた物は3つ。まず、手紙の束。宜野座はそれを机上に置いた。

「手紙、ですか」
「恐らく、響歌が親父とやり取りしていたものだろう」
「征陸さんと?」
「ああ。あの時は何が楽しいのか分からなかった。だが今は・・・少しだけ後悔している。紙の上でなら、言いたいことも言えたのかもしれない」

紙の隙間から覗く文字に、目を細めた。後で酒でも飲みながら読ませてもらおう。そう決めて、次に取り出したのはナイフ。柄の部分に変わった模様がある。朱が首を傾げると、宜野座は柔らかい声で教えてやる。

「あいつが父親を殺した時に使用した凶器だ」
「え!?」
「当時の資料を見た。そこに載っていた凶器と同じだ。理解できないが、くすねて側に置いていたんだろう」

朱は言葉を失った。その様子を、宜野座はどこか余裕げに眺める。今更、どんな一面を見たとしても驚きはしない。全て納得できる。寛容になったものだ。ナイフこれはもう不要ということだろう。思い出す必要すらない、ただの過去。

「そっちのファイルは?」

机の中にある最後の遺物を示しながら、朱が問う。真っ黒なファイルの表紙にタイトルは無い。宜野座が頷き、ファイルを机に置いて開く。視界に飛び込んできたのは、衝撃的な光景・・だった。そう、文字ではない。まず目を引いたのは写真、一人の男−−−羽賀秋人の死に様。ふたりは揃って息を飲む。

「よく似ていますね、響歌さんに」
「親子だからな。しかし、これで濁らないとは正気を疑う。自身が犯した殺人事件の資料をファイリングしているだなんて・・・つくづく常識の通用しない奴だ」
「そもそも、こうしてファイリングする必要すらなかったはずですよね」

そう。こんな風に目に見える形にしておかずとも、彼女は忘れることなどなかったはずだ。あの能力によって脳内に格納されていたのだから。ならば何故、こうして物として残しておいたのだろう。今となっては理由を尋ねることもできない。

「そうだな。凡人には到底理解し得ない。だが、それが響歌・ルートヴィヒだ。そうだろう?」
「そうですね・・・本当に、自由な人です」
「皮肉か?」
「まさか。最大級の讃辞ですよ」

揶揄うように宜野座が問うと、朱は肩を竦めて笑った。自由−−−ぴったりな言葉だ。絡みつく枷を放り捨て、この狭くて息苦しい海から飛び立っていった。傷だらけのはずの羽は、それを諸共せずに空を割く。

「いつかまた、会えるでしょうか?」
「・・・気紛れな奴だ。遊び飽きたら、フラッと羽休めに来るかもしれないな」

老けたねと、変わらぬ姿で揶揄ってくるに違いない。出会った時から無邪気で、残酷で、儚かった。記憶に焼き付いているのは、背中ばかりだ。いつも、前にいた。横には並べず、結局最後まで向き合うことはできなかった。自分と彼女の関係は一体何だったのだろう。友人、だったのだろうか。

「その時は、一晩酒に付き合ってもらおう」
「それ、ご褒美なんじゃないですか」

朱が肩を揺らして指摘する。宜野座はふっと柔らかく微笑み、机に並べた物達を手に取った。それらを携え、部屋を出る。堕ちる所まで堕ちたのに、足取りは軽い。その背中に、いつかのように彼女が笑う気配がした。

────こんな世界でもさ、たまに良い景色が見られたりするもんだよ。心が生きていればね。

−−−−−

歌舞伎町にある槙島のセーフハウス。彼を殺した後、狡噛はその車を拝借し逃走した。最初に向かった繁華街のど真ん中にあるその場所で、睡眠と、それから読書を挟みながら食事を済ませる。そしてひとり椅子に座り、スーツのポケットを漁った。取り出したのは、真っ白な封筒。気にせず行動していたが、折り目はついていないようだ。どこにも宛名の記載はない。必ず本人に届くと確信していたのだろう。ナイフを使い封を切り、中身を取り出す。手紙は全部で四枚。並んだ文字はどこか忙しげで、狡噛は思わず口元を緩める。新しい本を開く時のような高揚した気分で、読み始めた。

狡噛へ
 手紙、ありがとう。誰かと文通なんて久しぶりで、少しワクワクしてる。狡噛がこの手紙を読んでいる頃、私はたぶん、もう日本にはいない。ひとり異国に降り立って、腕の一本くらいは失くしているかもしれないね。さて、早速だけど本題。狡噛は私にとって特別だから、書きたいことが沢山あるけど、忙しいだろうし出来るだけ要約して書こうと思う。
 まず、お礼を言わせてほしい。私を認めてくれたこと、私を変えてくれたこと、本当に感謝してる。この生き方を選んだ時は、他人に理解してもらおうだなんて思っていなかったし、異質であり続けることに抵抗もなかった。でも、結果は知っての通りだよ。貴方をはじめ、傍に居た人達は私を認め受け入れてくれた。その事実が、異質であることしか取り柄がなくて、普通になることを恐れていた私を人間にしてくれた。あの時、私は初めて完成したんだと思う。

狡噛は目を細める。どうやら彼女はすでに日本を出る算段をつけていたようだ。当たり前か。全てが終わったら出て行くことを、ずっと前から決めていたのだから。いつでも去れる準備はしてあったに違いない。一枚目の殆どは謝辞で埋まっていた。礼を言われるようなことをした覚えはない。それは彼女が足掻いた結果だ。だがもしも本当に、自分の存在が彼女の支えとなっていたのなら、喜ばしいことだ。少なくとも暫くは傍にいられない。それならせめて、心だけはと願ってしまう。

「貪欲だな、俺は」

これは心配ではなく、嫉妬だ。狡噛が案じなくても、彼女には守り手がいる。この手紙を読むに、本人はひとりで旅立つつもりだった様子なのが笑えた。赤井が響歌の隣を空けるわけがない。敵わない。そう思うのに、彼女の"唯一"が欲しくなる。たとえ生きていくのに不要でも、替えの利かない存在になりたい。手の届く場所にいないのに、欲望が溢れてくる。思わず顔を覆い喉を鳴らすと、狡噛は便箋を捲った。

 それから、手紙の中で狡噛は私に謝ったけれど、必要ないよ。私も貴方と同じだから。これからも、貴方との時間の全てが私を生かす。皮肉なことに、大嫌いなシビュラの下で生きた28年は、忘れられないことばかりだった。私の人生で、これが主柱になるんだろうね。みっちゃんのこととか、心に傷を負った記憶も沢山ある。得たものの方が大きいとは絶対に言えない。ただ、ひとつだけ確実なのは、貴方が私にくれたのは光だったってこと。眩しくて目を逸らしたくなるくらい。どの口が言うのかって感じだよね、ごめん。だから敢えて、同じ言葉を贈るね。私も貴方に命綱は託さない。この身一つで行ける所まで行くよ。狡噛が望もうと望まないと、私はこれからも心のまま生きる。でもね、心のままに生きろと言ってくれて嬉しかった。本当だよ。ありがとう。

嗚呼、そこに居る。瞳を閉じれば、手紙に綴られた言葉が音となって聞こえてくる。まるですぐ傍に、彼女がいるみたいだ。次に会う時までは、その声を憶えていたい。人は最初に声から忘れていくらしい。なら、そうなる前にまた捕まえればいい話だ。そしてまた、あの少し高い声で自分を呼んでほしい。彼女のことだ。最後に名前を呼ばせたことなど関係なく、何食わぬ顔でまた「狡噛」と呼ぶのだろう。

 それから、私に伝えたい事があるみたいだけど、その内容が私の予想通りだと仮定した上で言っておく。やめておいた方がいい。って、以前の私ならそう言ったと思う。でも、今は少し違う。これはたぶん恐怖なんだろうね。私は、愛が怖い。今まで自分に費やしていた時間を誰かを想うために捧げるとかとても考えの及ばない事象だし、そもそも私の心を欲しがる人間なんて現れるはずないと思ってた。でもまさか、私の全てを知った上で、それでも手を伸ばしてくる物好きがいるとはね。狡噛も相当な変わり者だよね。


「お前にだけは言われなくない」

狡噛はつい腹を抱えて笑いそうになる。変わり者と辞書で引けば、真っ先に名前が出てくるような人間。そんな相手に変人呼ばわりされたくはなかった。だが確かに、その彼女に心奪われているのだから、自分も同じくらい変わっているのかもしれない。

「怖い、か・・・手取り足取り教えろってことか」

それもそれで悪くない。丁寧に時間をかけて、自分の色に染めてやりたい。想像しただけで堪らなくなる。次に触れたら、噛み付く自信があった。会えない時間が長いほど、欲望が膨れ上がっていきそうだ。いざ焦がれたその姿を前にした時、獣の本性を隠しきれそうにない。傷つけたくないはずなのに、刻み付けてやりたいとも思う。

────すごく人間らしい。

自己嫌悪に陥りかけると、記憶の中で彼女が微笑む。愛おしそうに、目を細め狡噛を見つめている。そうだった。響歌・ルートヴィヒという女は、欲望に忠実な奴がお気に入りだ。この狂おしい愛を曝け出したとして、それでも笑い返してくれるのだろうか。狡噛の中にあるのは、彼女にとって恐怖の対象。そう分かっていても、もう決めてしまった−−−たとえ濁らせてしまうとしても、この厄介な想いあいを生かすと、そう誓った。今、自分の心に血を通わせているのは、紛れもなくその誓いだ。脈打つ心臓を確かめるように、狡噛は左胸を服の上から握った。そして深く息を吐くと、再び手紙へと視線を巡らせる。

 この8年でそれなりに成長したとは思ってたんだけど、やっぱり私は、自分以上に誰かを愛することは一生できそうにないや。それでも私を望むなら、その想いとやらを伝えに来てよ。楽しく生きながら待ってるからさ。ひょっとすると逃げちゃうかもしれないけれど。足は私の方が速いしね。だけどもし捕まっちゃったら、観念して大人しくするよ。その時はさ、私に愛を教えてほしい。基本的に教えを請うのって嫌いなんだけど、なんでだろう、教わるなら狡噛がいい。教員免許持ってるからかな、なんて。とりあえず、楽しみにしてるよ。


ふっと空気が揺れる。そうして初めて、狡噛は自分が笑っていることに気が付いた。愛が怖いと宣っておいて随分と積極的だ。常に本心をぶつけてくるから質が悪い。『私はやっぱり、今の狡噛を理解したいと思うよ』、『私さ、狡噛の生き方が好きなんだ』−−−だからこそ、心が揺さぶられるのだ。いつだったか、彼女と愛について話したことがあった。あのとき、自分はきっと愛を知らぬまま死ぬのだと、彼女はそう言った。その横顔がやけに寂しそうで、無意識に「教えてやろうか」と提案したのは狡噛だった。冗談で言ったつもりはなかったが、まさか現実になるとは予想外だ。

「手加減はしないからな」

まるで敵を前にした時のような台詞。今頃どこかの国の片隅で、くしゃみをしているに違いない。狡噛は楽観的な方ではない。それでも不思議と、会えると確信していた。根拠はない。ただ、そう決めたから。やると言ったらやる。たとえそこが地獄の果てであっても、捕まえる。こんなにも胸が高揚するのは初めてだ。腕が鳴る。口角を上げて、最後の一枚。

 さてと、書きたい事はこれくらい。思い出話もしたかったけど、それはまた今度にするよ。最後に約束して。どんなに荒んだ土地でどんな光景を見たとしても、人でいることをやめないで。この世で一番最悪なのは、心を失くした亡者になること。貴方が見えなくなるのは嫌だから。お願いね。それじゃあ、これで。さよならだと二度と会えない気がするから、またね。
響歌


まるで明日また会えるかのような挨拶だ。実に彼女らしい手紙だった。真正直な、偽りのない言葉達。無意識に声に出して名を呼んだ────響歌、と。目を閉じれば、応えるように振り向き微笑む姿が浮かんでくる。今、どこにいるのだろう。笑っているだろうか。怪我は。ちゃんと眠れているのか。一度くらいは、狡噛じぶんのことを考えただろうか。無意味な問いばかりだ。自嘲するように息を漏らし、狡噛は便箋を封筒に戻した。そしてそれを掲げ、顔を寄せる。彼女が触れたであろう場所に、額を近付け呟いた。

「俺は大丈夫だ。ちゃんと生きてるさ。だから、振り向くな。お前はただ、走り続けろ」

−−fin.−−


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に痺れた!