羨望と呼ぶには歪

「あ、お二人さん!丁度良いところに」
「響歌さん、お疲れ様です」
「おい、監視官。呑気に挨拶している場合か。隙を見て逃げるぞ」

仕事終わり。廊下に出た朱と狡噛は、明るい声に呼び止められた。視線を向ければ、先輩である響歌がヒラヒラと手を振りながら近づいてくる。もう片方の手には瓶を持っている。礼儀正しく挨拶をする朱と裏腹に、狡噛は眉間に皺を寄せた。そんな彼の言葉に小首を傾げている間に、肩を叩かれる。

「チッ、悪いな。尊い犠牲、感謝する」

短く言い残し、狡噛は走り出す。しかしそれを許すほど、響歌は甘くはなかった。素早く狡噛の手首を掴み体当たりすると、その身を壁に押し付ける。体格差を感じさせない動きに、朱は目を見張った。

「はい、捕獲。美味しいお酒があるんだ。付き合ってよ」
「・・・常守監視官に悪い遊びを教えるな」
「私も監視官なんだから問題ないでしょ」

平静を装ってはいるが、狡噛の意識は己の二の腕に集中している。服越しに伝わってくる柔らかさ。逃がさないとばかりに押し当てられた胸の感触。油断すれば表に出そうで、眉間に力を込めた。色仕掛けなどするような人間じゃないから、完全なる無意識だろう。恐ろしい女だ。

「お前の場合は役職と人間性が一致していないんだよ。いい加減、自覚を持て」
「自覚はあるけど、改善するつもりはない・・・いや、改善じゃないか。だって別に悪くないしね」
「あの、話し相手くらいなら構いませんよ。響歌さんのお話はとても興味深いですし」
「あんたも大概だな」
「その言葉、そっくりそのままお返しします」

響歌のこととなると、狡噛は皮肉ばかり。ぶっきらぼうだが情に厚い。それなのに、らしくないと思う。屈強で聡明な彼でも、好きな女性の前ではただの男なのだ。自分を悩ませる存在である狡噛の稚拙な一面に、朱は小さく笑った。非難するように目元を鋭くする様が、さらに愉快である。

「そうと決まれば、レッツゴー!」
「何がレッツゴーだ。まさか俺の部屋じゃないだろうな」
「当たり前。私も朱ちゃんもここに住んでないんだから」
「そもそも赤井さんの所に行けばいいだろう。酒ならいつもあの人と飲んでるじゃないか」
「今日の任務で少し無理させちゃってさ、休ませたいんだ。頼めば絶対付き合ってくれるだろうけど・・・あの人、一緒にいると必ず私を優先するし、私もそれに甘えちゃうから。あ、今の内緒だからね」

秘密を共有する子どものように、唇に人差し指を当てながら響歌は笑う。三日月型に弧を描いた瞳の底は見えない。言葉では案じているものの、声音はむしろ弾んでいる。誇りなのだと、そう語るように。とびきりの宝物を得意げに見せるように。彼女にとって赤井は、そういう存在なのだ。

「さ、行こ行こ!」

無邪気にそう言われ、狡噛は抵抗するのをやめた。考えを曲げるような人間じゃない。それに不本意ながら、口でいくら皮肉を言おうとも、自分がこの女を好ましく思っているのは真実だ。軽快にステップを踏み廊下を歩き始める背中を追う。溜息を吐きつつも、その口元には笑みが浮かんでいたのを朱だけが認めた。

「そういえば、朱ちゃんって泳げないんだって?」

真っ黒な部屋で酒を一口飲んでから、響歌はそう切り出した。それを聞いて、朱は思い切り咽せる。征陸から譲ってもらっただけありアルコール濃度は高いが、決してそれが理由ではない。なんで彼女が知っているのか。そう自問して、すぐに答えが出た。

「狡噛さんですね?」
「口止めはされていない」

悪びれる様子もなく、狡噛は肩を竦める。責めたところで時すでに遅し。羞恥から下唇を噛む。刑事のくせに泳げないだなんて、笑われてしまうだろうか。恐る恐る顔を上げてみると、響歌は無表情で尋ねてくる。

「じゃあ今度、練習する?プールならあるし」
「え・・・でも、ご迷惑じゃ」
「ないな。こいつは基本、自分の為にならない事を進んでやるような人間じゃない」
「そう、ですよね」
「あれ、なんか無自覚に貶されてる」

思わず頷いてしまった。故に本音である。仕事の時ですら、嫌なものは嫌だと言う。先輩風を吹かせるような人間でもない。常に堂々と己を優先できる・・・稀有な人。

「今回もどうせ悪巧みだろ」
「まあ否定はしないけど……泳ぐの、好きなんだよね。できることなら、綺麗な本物の海を泳いでみたかったなぁ」

焦がれるようにそう言いながら、響歌は天井を仰ぐ。初めて感じる声音に、戸惑う朱。一方で狡噛は、無表情でグラスの中の液体を見つめていた。

−−−−−

その数日後。朱は水着姿でビーチに立っていた。ここは、局内の職員が利用できるプール。隣にいる狡噛もまた、いつものスーツではなく水着を身に付けている。何も纏っていない上半身に目を向けたくなる衝動を、なんとか抑え込んだ。そんな自分とは正反対に、呼び出した張本人は視線の先で一心不乱に水を掻いている。

「あいつ、教える気ゼロだな」
「あはは……響歌さんを見てると、すごく簡単そうなのに。実際やろうとしたら、力んでしまうんです」

朱は眩しそうに、そしてどこか羨ましそうに響歌を見つめる。それを横目で捉えた狡噛も「そうだな」と同意した。水中で優雅に泳ぐ姿は、彼女の生き方そのものに思える。

「なんだか人魚みたいですね」
「人魚、ね・・・俺には魚雷に見える。標的はこの社会。いっそ破壊してくれと思うぜ」
「聞かなかったことにしておきます」

良い顔でとんでもない事を言う。嘆息する朱に、狡噛は声を漏らし笑った。それが現実になってしまえば、多大な犠牲が出る。衝撃波で海中にいる魚達だけではない、その身も粉々に砕けてしまう。この男はそんな結末を、望んでなどいないはずだ。愛した女性ひとの死にゆく様を目にすれば、今度こそ狡噛は壊れてしまうに違いない。

「響歌!!」

大声で狡噛が呼ぶ。その声が聞こえたのか、やっと彼女が顔を出した。こちらの姿を捉えると、無邪気に笑い、手を振ってくる。朱は目を見張った────ああいう表情もするのか、と。ただ純粋に楽しんでいる、苦痛を知らない無垢な少女のような顔だ。ふと気になって、半歩後ろに下がり狡噛の横顔を窺った。そして、瞠目する。その瞳から憎悪が消えるのを初めて見た。優しさ、愛おしさ、憧れ。響歌に抱く思いだけが、熱となりそこに宿っている。和やかな時間でも、常にその目の奥底には憎悪が巣食っていた。それが今、凪いでいるのだ。嗚呼、彼女ならば本当に、復讐という鎖から彼を解き放てるかもしれない。だが皮肉なことに、響歌も、そして狡噛もそれを望んではいないのだ。チクリと刺す胸の痛みに朱が目を閉じたその時、隣で息を飲む気配がした。

「っ、響歌」

焦ったように狡噛が走り出す。釣られて視線を向ければ、響歌の姿が消えている。血の気が引いた。ここの水深は、一番深い所で2メートルある。まさか、足を取られてしまったのか。

「監視官、あんたは救命具を!!」
「は、はい!!」

続こうとする朱に、飛び込もうとしていた狡噛が振り向きざまに叫ぶ。有無を言わさぬ強い声に足を止め頷くと、朱はフロアの端へと方向を変えた。背後で水飛沫が上がる。必死に救命具を胸に抱え、プールサイドを走って迂回。ところが、狡噛は途中で泳ぐのをやめてしまっていた。

「狡噛さん、何してるんですか!早く・・・え?」

助けなければ、と叫ぼうとした朱の足元で響歌が水から顔を出す。そして、不思議そうにこちらを見上げている。その姿に、安堵感で堪らずへたり込んだ。

「よ、よかった」
「どうしたの、そんな情けない声出して」

こちらの心配を他所にクスクス笑うものだから、朱は胸の底から怒りが込み上げてくるのを感じた。しかしそれを吐き出すことはできなかった。何故なら、狡噛があまりに険しい表情をしていたからである。状況の悪さを理解していないのか、響歌は微笑を浮かべてそれを迎えた。彼は浅い位置まで来ると、大股で彼女に近づき、細い肩に顔を埋める。そして、徐に口を開き、その柔肌に噛み付いた。思いも寄らない光景に、朱は先程の激情を忘れ、見入ってしまう。可笑しなことに、そんな奇行に走った張本人が一番驚いている様子であった。我に返ったのか、狡噛は困惑気味に口を覆い呟く。

「悪い」
「行儀の悪い猟犬だね、お腹でも空いてるの?」

そう零して微笑むと、響歌は噛み付かれた場所をさする。空腹かだなんて、何を頓珍漢なことを言っているのだろうか。何故か朱が居た堪れない気持ちになった。狡噛は謝罪をしたにもかかわらず、響歌の反応に目元を歪ませる。噛み付かれた瞬間でさえ、彼女は僅かに顔を顰めただけだった。この程度では揺らがせることすらできないのだと、そう思い知らされた。

「いくら飢えていたとしても、毒かどうか嗅ぎ分けないと駄目だよ。口に入れてからじゃ遅いんだから」
「はっ、ご忠告どうも」

妖艶に笑いながら、響歌は細い指で狡噛の胸の中心をなぞった。そうして再び水に潜ると、踊るように泳ぎ始める。気遣わしげに傍へとやって来た朱に、狡噛はどこか晴れやかに言った。

「醜態を見せたな」
「いいえ、そんな事は」
「とっくの昔に侵されてるってのに、全く気づきやしない。鈍感人たらしめ」
「・・・大丈夫ですか?」
「問題ないさ、ああいう所にも惚れてるからな。まあ、毒を食らわば皿までってことだ」

息をするように言うものだから、朱は思わず頷きそうになる。好意を隠す気は、もう無いらしい。こんな穏やかに笑う横顔を見たら、狡噛を知る者達は願わずにいられないだろう────暗闇の奥底にいようとも、どうか彼を照らす響歌ひかりが在らんことを。

「朱ちゃん、こっち!」

そう言いながら駆けて来て、響歌は朱の手を取った。頬を綻ばせる姿を見ていると、任務中に時折顔を出すあの瞳が嘘のように感じる。一体、どちらが本当の彼女なのだろう。否、きっとどちらも響歌・ルートヴィヒなのだ。

「あの、深い所はちょっと……、
「怖い?じゃあ、とっておきの秘策。私はね、泳ぐ時はいつも、この社会で生きる自分を思い浮かべるんだ」
「この社会、ですか?」

それを聞き、狡噛はひとり納得する。シビュラを海だと評した女らしい。同時に、まだ綺麗な海を焦がれることができるその心を尊く思った。響歌はまだ、闇に飲まれてはいない。否、これからも決して光を失わない。楽園の姿をした地獄を裂くように泳ぐ彼女は、巫女からすれば紛れもなく異物なのだろう。

「水に限らず、真正面からやり合って勝てるのは余程の戦力差がある時だけ。敵を知り、適応しつつ、好機を伺う」

これのどこが泳ぎのレクチャーなのだろう。全く参考にならない。そう思うのに、聞いていたくなるのだから不思議だ。自分もまた彼女に魅了されているのだと、朱は実感する。

「緊張感は大事だけど、しすぎたら駄目。余裕は常に持つこと。じゃないと────死ぬよ」

微笑を浮かべ呟かれた3文字に温度はなかった。朱の背中を変な汗が伝う。ついさっきまで子どものように燥いでいた人物とは思えない。

「巫女の中にいると思えばさ、絶対溺れてなんてやるかって気になるでしょ」

そして今度はふわりと笑ってみせる。彼女の根底にあるのは、屈してなるものかという意地なのかもしれない。何も言えずにいる朱に代わり、狡噛は冷静にツッコミを入れた。

「結局、精神論じゃないか」
「はは、バレちゃった。私ってどちらかと言うと直感で生きてるからさ、技術的なアドバイスって苦手なんだよね」
「それでよく教えるとか言えたもんだ」
「教えるとは言ってないよ。練習しようって言ったの」

屁理屈で逃げ切ろうとする響歌の頭を鷲掴み、狡噛は撫で回す。水を含んだ髪を掻き、そっと額に触れる指先はどこまでも優しかった。それを享受するように、響歌は目を細める。その瞳に、己が彼女に向けるのと同じ感情が宿っていることを、狡噛は知らない。

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に痺れた!