地獄の先で待ち合わせ

「赤井さん、そっちに行ってもいいですか?」

その夜のこと。ベッドに入って暫くすると、響歌は赤井に尋ねた。前もって許可を得ようとするのは珍しい。いつも構わず乱入してくる。それに、彼女に求められて拒むはずなどない。目を細めながらも、赤井は場所を空ける。

「どうした、眠れないのか?」

温もりに縋るように腕の中に入ってきた身体を抱きしめ、柔らかな毛並みを撫でる。その感覚と嗅ぎ慣れた匂いに、響歌は身を委ねた。落ちそうな瞼を震わせて、赤井のシャツを握りしめる。そんな彼女の様子に、悟った────彼の仕業だと。

「久しぶりに会って、思い知らされたか?」

手つきとは裏腹に、質問の内容は辛辣だ。だが、これも彼の優しさだと、響歌はよく知っている。こうして心に直接触れることで、自分の本心を汲み取ろうとしてくれる。出逢った時からずっと変わらない、赤井秀一の優しさだ。だから迷わず答えることができる。

「自分の気持ちは、ちゃんと理解しています」
「お前が彼との人生を望んでも、誰も咎めはしない」
「っ、私が・・許せないんです」

震える声に、赤井の手が一瞬止まる。嗚呼、やはり彼は特別だ。彼女を乱し、惑わせる。僅かに顔を出した黒い感情に、内心苦笑した。まさか未だに嫉妬心を抱くだなんて、愛とはどうしてこうも愉快なのだろう。深く息を吐き、赤井は体勢を変える。響歌に覆い被さり、両腕で逃げ道を塞ぐと、はっきりと尋ねた。

「響歌、イエスかノーで答えろ────お前は、彼と共に生きたいか?正直に言え、俺の前で偽りは通用しない」

その質問に響歌の瞳が大きく揺れる。唇を震わせて、噛み締めた。どうやら自分に縋ったことを反省しているらしいが、後の祭りだ。観念したように目を閉じ、数秒。その間、赤井は静かに答えを待っていた。瞼の下から現れた瞳は、皆が焦がれた、彼女らしい迷いのない色をしている。

「はい。ですが、今の自分では駄目です」
「彼がそれでいいと言ってもか?」
「ええ。私の問題なので」
「狡噛君は二度もお前の背中を見送ることになるのか。流石の俺も同情せざるを得ない・・・それで、どうすればお前はお前を許せる?」

身を起こしベッドの端に腰掛けると、赤井は煙草に手を伸ばした。話を聞く限り、彼女は狡噛と生きることに、後ろめたさがあるらしい。正直なところ、サッパリだ。あんなに求められて何が不安なのかと思うが、顔には出さなかった。自覚はあるが、自分はどこまでもこの女に弱い。惚れた弱みというやつだろう。

「笑わないでくれますか?」
「善処はしよう」

ベッドの上で膝を抱え、珍しくそんな事を言うものだから、赤井は笑いを堪えつつ頷いた。それを見届け、響歌は思いを唇に乗せていく。正しく伝えられるように、そう意識しながら。

「────ほんの少しでいい。貴方や狡噛のような強さが欲しいんです。私はこれまで、私の為だけに生きてきました。そのことに後悔はないです。でも、沢山の人達の生き様を見て、貴方の隣で戦い・・・そして、狡噛への想いを自覚した今、このままではいけないと、そう強く思いました。9割は自分の為でも、残りの1割で世の不条理を僅かでも無くす……その力が私にあるのなら、試してみたい。そうじゃないと、胸を張って彼の隣に並べない。ただの自己満足かもしれませんが」

灰が静かに落ちた。煙草を吸うことを忘れ、赤井は響歌を凝視する。人間は驚愕した時、何も思考できなくなるのだと実感した。誰かの為────あの響歌が、そう言ったのか。言葉を紡ぐ余裕などなく、なんとか脳内を整理しようとした。しかしふと、別の戸惑いが生まれる。それを探るように、赤井は煙草を握り潰し、一旦手で顔を覆った。今、自分の胸に溢れるこの思いはなんだ。なんと言う。

「くっ、ははは!」
「え、ちょ、赤井さん?」

声を上げて笑い始めた相棒に、響歌はギョッとした。大爆笑だなんて、初めて見る。気狂いの隣に長く居た所為で、いよいよ気狂いになってしまったのかと、自虐的なことまで考えてしまった。慌ててこちらを覗き込んでくる響歌の頭を、赤井は大きな手で撫で回す。その瞳の優しさに安堵し、今度は一転、彼女は拗ねたように口を尖らせた。

「笑わないでって言ったじゃないですか」
「約束はしていない」
「ほんと意地悪ですね」
「そう拗ねるな。嘲笑ではない────驚喜、だよ」
「え・・・?」

一拍置いて、赤井が呟く。慈愛に満ちた表情に、響歌はさらなる戸惑いを見せた。その言葉の意味に、いつ振りかの熱を瞼に感じる。

「世界中が否定しようとも、俺はお前の選択を尊重する」
「怒らないんですか?」
「何故?」
「・・・貴方が愛しているのは"自分の為に生きる私"、そうですよね?私は今、それを手放そうとしているんですよ」
「それで俺がお前から離れて行くとでも?」
「はい。私にはその未来が、何よりも恐ろしい。未知の生き方を選ぶことよりも、ずっと」

身を震わせ、怯えるような瞳で響歌は言った。その姿は、日本にいた頃の彼女を赤井に思い起こさせた。孤独に慣れすぎた所為で、どこまでも愛に臆病だった。こんなにも厄介な女を、どうして自分は愛してしまったのだろう。そう自問したところで、無意味。赤井はただ、心に従っただけだ。

「私が変わっても、傍にいてくれますか?」
「愚問だな、その程度で俺の誓いが揺らぐことはない。それにお前は変わらないさ。自覚が伴うようになるだけだ」
「どういう意味です?」
「お前は自分の為に生きているつもりでも、常に誰かを救っていた。俺も、狡噛君も、その一人だ。つまり、今後はその救済に少しずつ意思を持たせ、対象を広げていく。それがお前の直近の目標と言うわけだ────迷うな。心のままに。それがお前だ」
「っ、どうして貴方はいつも、私が欲しい言葉をくれるんですか・・・そんなだから、手放してあげられないんですよ」

はらはらと涙を流し、響歌はその胸に縋り付いた。赤井は柔らかい身体を難なく受け止め、額から背中へかけて撫でた後、滑らかな髪に顔を寄せる。覚悟など、とうの昔にできている。

「眠れ。夜が明けてから策を練ればいい」

赤井の言葉にこくりと頷いて、響歌は再び横になり、目を閉じた。涙で濡れた頬を、指の腹で優しく拭う。それを暫く繰り返していると、規則正しい寝息が聞こえてくる。無防備に眠る彼女を見つめ、思う。遠くない未来、こうして眠ることすら出来なくなる日が訪れるのだろうか。そう考えてから、赤井は優雅に笑い独りごちる。それは、この場にはいない彼への牽制。

「こいつの命綱を握るのは、俺の役目だ。誰だろうと、譲らない。この場所を侵すなら、たとえ君でも容赦はしないぞ────狡噛慎也」

**

「狡噛、話があるの」

次の日、狡噛の所にやって来ると、響歌はそう切り出した。リュックを背負い、髪は結い上げられている。少し後ろに立つ赤井もまた、彼女より一回り大きいバックパックと、恐らくライフルが入っているだろうケースを肩に掛けていた。いかにも準備万端という彼らの出立に、狡噛は目を細める。嫌な予感がした。まさか再会した次の日に離れて行くつもりか。だとすれば、正気を疑う。しかし生憎、響歌・ルートヴィヒはそういう期待には必ず応えてくる女だ。

「赤井さんは一緒じゃなくてよかったのか?」
「平気。話す内容は全部伝えてあるから」
「それはそれで複雑なんだが」
「狡噛は、これからも戦い続けるの?」
「そうだな・・・求められるなら、受け入れる」
「そう────私は行くよ」

その目を見れば、全てわかる。覚悟を決めた目だ。いつもと同じ、揺らぎのない色彩。それを支えているのは、彼女の精神力と、赤井の献身だろう。力無く笑い、どこか投げやりに狡噛は尋ねた。

「振られるのか、俺は」
「振ってほしいの?」
「茶化すな」
「はは!残念だけど、解放してはあげられないかな」

いつも通りの声で言うものだから、一瞬内容が理解できなかった。地面に落ちていた視線を上げ、狡噛は探るように響歌を見つめる。鋭い眼光を前に柔らかく微笑むと、彼女はゆっくりと語り出した。

「貴方と生きる為には、貴方と離れないといけない」
「は……っ、馬鹿野郎、矛盾だらけだろうが。それで俺が納得すると思うのか?」
「しないだろうね。じゃあ逆に訊くけど、私が一度決めた事を曲げると思ってるの?」
「この石頭」

開き直ったような強気な態度に、思わず飛び出そうになった拳をなんとか収める。幼稚な言葉で非難しても、効果はない。己の感情に素直というのは、つまりは頑固者ということだ。顔を顰める狡噛に近づいて、響歌は呟く。

「お願い」

荒れた彼の手を取り自分の胸元に導くと、祈るように目を閉じた。強張ったその声に、狡噛は戸惑い、何も言えなくなる。この女は嘘をつかない。だからさっきの言葉も事実なのだろう。俯きながら自分の答えを待っている彼女を見下ろし、思い返す。

────貴方と生きる。

欲しくて堪らなかった女が、確かにそう言った。そしてどうやら、それを叶える為には自分と離れなければならないらしい。理由は分からないが、尋ねたところで素直に白杖するとは思えない。狡噛は浅く息を吐き、握られていた手を解く。拒絶されたと思ったのか、響歌は不安げな表情で見つめてくる。衝動的に抱き潰したくなるのを堪え、腕を掴み歩き出した。

「ちょっと来い」

すぐ側に人の気配がする。そもそもこんな場所で立ってする話ではないのだ。それに、彼女を前にした時の自分の理性が脆弱なことを、狡噛はきちんと理解していた。速足で建物の陰まで来てから振り向くと、響歌は地面に視線を落としたまま、こちらを見ようとしない。小さく舌を打ち、手を伸ばした。

「おい、顔を上げろ」

そう努めて優しく言いながら、顎に触れ上を向かせる。視線が交わり、戸惑う。こちらを覗き込んでくる瞳からは、今にも涙が溢れそうになっていた。泣き落としとは、やるものだ。しかしそんな器用な真似が、この女にできるわけがない。それが分かるから、必死で堪えようとする姿に全てを許してしまいたくなる。そう思った時点で、負けなのかもしれない。だが素直に白旗を揚げるのが癪で、何か言おうと開きかけた薄い唇に、狡噛は自分のそれを押し当てた。

「っ、んぅ……」

抵抗しようとする手首を掴み、唇の割れ目を舐め上げ、さらに深く口付ける。甘い。苦しげな瞳から、涙が一筋落ちた。いくら肉体を虐め抜いても、心は容易く彼女に制圧される。散々振り回されやっと捕まえたと思った矢先に、またこの手をすり抜けていくのだから、キスの一つくらい可愛いものだろう。本当なら、拘束して隅々まで暴き犯してやりたい。そっと唇を離し、見つめ合う。狡噛が涙に濡れた頬を撫でると、響歌はその上に自分の手を重ね、目を閉じた。

「最後まで我が儘でごめんね」
「詫びはいい。いつか身体で返せ」
「わかった」
「わかったって、お前・・・本当にわかってるのか?」

あまりに素直に頷くから、狡噛はつい尋ね返した。安請け合いは御免だ。いざその時になって、ハグで終わりだなんてオチは勘弁願いたい。疑いの眼差しを向けると、彼女は可笑しそうに喉を鳴らし言った。

「狡噛次第だよ」
「俺次第?どういう意味だ?」
「私が処女でいるのは、自分が一番大事だからだって、教えたでしょ。今もそれは変わらない。私が欲しいならさ、言わせてみて────狡噛が一番大事だって。その時はこの身全部、貴方にあげる」

そう言って笑い、触れたままだった狡噛の掌に唇を寄せる。微かに音を立てながらキスを落とされて、理性がぐらつく。この女は、態とやっているのだろうか。自分に惚れている男を軽々しく挑発し、自ら触れてくるなどイカれている。狡噛が手を引っ込め説教しようとした瞬間、響歌は先手を取った。少し低い姿勢でその腕の中に入り込むと、広い背中に腕を回す。隙を突かれ彫刻のように身を硬くする彼を他所に、彼女はひとり誓いを口にした。

「必ずここに、貴方の腕の中に戻って来るよ。今よりもっと良い女になって、ね。約束するから、待ってて」

狡噛の胸元に額を押し付けながら、その奥にある心臓に語り聞かせるように。響歌が一音紡ぐ度に、そこはドクンと跳ねる。聞き逃さぬよう角度を変え、今度は耳を寄せてみた。忙しない心音が愛おしくて、思わず笑みが零れる。彼の心音に呼応するように、響歌の胸も鼓動を刻む。どういう原理なのかは分からないが、なんて幸せな音だろう。心地よく、それでいて少し苦しい。

「響歌、そろそろ離れろ」
「人にものを頼む態度じゃないね」
「・・・頼む」

素直な返しの割には余裕のない声である。つまり、本気の懇願だ。意外な反応に、響歌は要求を呑まぬまま、狡噛を見上げた。しかし、視線が交わることはなく、彼は不自然に宙を見つめている。それは紛れもなく、骨抜きにされている相手に抱きつかれ、必死に平常心を保とうとしている男の姿。なのだが、ここで伝染して照れるような女ではないことは、周知の事実である。

「あ、舞い上がってる時の顔だ」

揶揄うように目を細め、覗き込んでくる。狡噛は黙れと言いかけたが、口を噤む。不本意ながら図星だ。触れたくて堪らなかった存在が、自ら腕の中に飛び込んで来たのだ。これで舞い上がらない男がいるのなら、お目にかかりたい。自分のこんな稚拙な一面も嫌いじゃないと思うのだから、愛というのは解らない。潔く降参しよう。屈服することを決めてしまえば、身体が途端に軽くなる。脱力していた筋肉に信号を送り、油断している響歌を抱き上げた。息を飲む姿に、勝ち誇った気持ちになる。

「もっと舞い上がらせてみろ。そうしたら、大人しく見送ってやる」

つい昨日まで舞い上がる感覚を知らなかった人間には、些か難易度の高い要求である。響歌は顔を顰めて抗議するが、取り下げる気は毛頭ないらしい。左前腕だけで彼女を支えながら不敵に笑うと、狡噛は誘うように右手の親指でその唇をなぞった────言ってみろと、挑発する。少し上からそれを見ていた響歌は、どうすればこの男が喜ぶのかを、本気で思案していた。自分を満足させる術なら熟知しているが、他の誰かに喜びを齎す方法など、知らない。

「どうしたらいいか教えて。言われた通りにする」
「・・・おい、悪い事は言わないから撤回しろ」
「どうして?それが一番手っ取り早いと思うけど」

こういう女だと分かっていた。知りたければ、探究する。その為なら、どんな危ない橋も渡ってみせる。しかし、恋愛に関しても同じ姿勢で臨まれるのは、狡噛からすれば厄介でしかない。

「まさかとは思うが、常套句じゃないだろうな?」
「今のが初めてだよ。狡噛にしか使わない。私が愛に関して教えを請うのは貴方だけだから。教わるなら狡噛がいいって言ったでしょ────ほら、早く」

両手で狡噛の頬を包み込み、鼻先が触れ合うほどの至近距離でそう促される。弄ばれている気分だ。ここで正直に心のまま命じれば、響歌は躊躇なく実践するだろう。しかしそれはつまり、どうすれば自分が喜ぶのかを、この女に自ら伝えるのと同義。彼女にとって、言葉は最も確実なエビデンスだ。言語化したら最後、響歌はまた一つ、狡噛より優位に立てるわけだ。弱みを握られるようなものである。と、脳内で御託を並べてはみたものの、答えは初めから決まっている。

「最初だからな……初級にしといてやる」

染まってしまえばいい。これから狡噛が叩き込むスキルは、全て狡噛じぶんの為だけに発揮される。そう思うと堪らなかった。翻弄されるだろうことは目に見えているのに、それが待ち遠しくすらある。

「キスして誓え、必ず生きて俺の元に帰って来い。破ったら、殺してやる」

狡噛らしい言葉だ。響歌はそれに微笑み返し、従順に唇を寄せた。熟した果実を齧るように、柔く歯を立て、食む。たった一度のキスで、こんなにも息が熱くなる。初めての快楽に酔いしれるように、彼女は声を漏らして笑った。

「約束は守る。だから次はワンランク上のやつ、教えて」
「はっ、流石の向上心だな」
「愛するのも命懸け────その方が楽しいでしょ」


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に痺れた!