心に咲く花

夜空の下、狡噛は数歩先を行く背中を見つめた。聞こえるのは、己が地面を踏み付ける足音だけだ。目を閉じてしまえば、その存在を忽ち見失ってしまうだろう。相変わらず気配を感じさせない女だ。狡噛は悟られないよう僅かに口端を持ち上げた。歩く度に滑らかな髪が揺れる。別れた時よりも少し伸びただろうか。あの頃のように毎日風呂に入ることはできていないだろうに、艶があり傷みも見られない。何気なく手を伸ばし、指先に絡ませた。

「なに?」
「いや。流浪人の髪にしては小綺麗すぎると思っただけだ。こちとら汗と埃に塗れてるってのに」
「身なりが整ってる方が、何かと有利だからね。交渉の時とかさ。でも、日本にいた頃みたいな手入れは流石にしてないよ」
「だろうな」
「だけどそんなに傷んでないってことは、お高いヘアケアは不要ってことだね」
「志恩の奴が聞いたら怒りそうだ」
「うわ、そりゃ怖い。髪も身体と同じだよ。ちゃんと寝て、食べて、心豊かなら健康」

跳ねるような声が語る。響歌らしい。睡眠、食事、精神の安寧。全て、人として何よりも大事なこと。それを忘れてしまっている人間が大勢いる。いや、出来ていないと言った方が正しいだろうか。それよりもサイコ=パスという数値に拘り、セラピーを優先する。改めて考えると、なんとも恐ろしい世界だろうと思う。

「狡噛はさ、日本が恋しくなる時がある?」
「・・・まあ、多少はな」
「へぇ。槙島のことも?」
「殴られたいのか?」
「興味本位だったんだけど。その反応から察するに、呪われちゃったみたいだね」

普通の人間なら触れないだろう話題を、響歌は躊躇なく放ってくる。無神経でも根性が曲がっているわけでもなく、そこにあるのは純粋な興味だ。非常に質が悪い。狡噛が顔を顰めると、愉快げに肩を揺らし、ワルツでも舞うようにステップを踏み始めた。呪いーーーその通りかもしれない。槙島を殺して以来、狡噛の目には彼の亡霊が見える。実体がなくとも、明瞭な姿と声で語りかけてくるのだ。これこそが、復讐に手を染めた者への報いなのだろう。

「随分と軽く言ってくれる」
「まあ、経験したことないし。もしかして、今も私の隣に居たりするの、その亡霊さん」
「いや、今は・・・不思議なものだな。お前といると、二度と現れることはない気がしてくる」
「なにそれ、魔除けってこと?」
「死人も逃げ出すような女だってことだ」
「はは!それならさ、ずっと一緒にいようか」

くるりと身を翻し、響歌が微笑む。喉が締め付けられる感覚に、狡噛は思わず足を止めた。今、この女はなんと言ったのだろう。確かに聞き取ったはずの言葉を、必死に反芻する。ずっと一緒に────響歌・ルートヴィヒがそう言ったのか。驚愕のあまり、すぐに返事をすることができなかった。そんな狡噛を覗き込み苦笑すると、冷たい指で頬に触れてくる。

「冗談だよ。だから、そんな顔しないで」
「悪かったな、間抜け面で。まさかお前からそんな台詞が聞けるとは思わなかった・・・本気か?」

声音に宿る熱を感じ取ったのだろう。響歌は狡噛に向き合うと、笑みを消して真っ直ぐに見つめ返す。冗談だと言われ、容易く聞き流せるほど柔な感情ではないのだ。離れて行こうとする細い手首を掴み、力を込める。無言を貫く狡噛に、逃げるのを諦めたように息を吐くと、響歌は自嘲気味に呟いた。

「失言だったね」
「何がだ?」
「さっき私が言った事。口に出す前に吟味するべきだった。感情に任せて発言するなんて、赤井さんに叱られちゃうな・・・正直、自分でもどこまでが本心なのか分からない。狡噛のことは好きだよ────だからこそ、貴方を縛ることはしたくない。私のエゴで、貴方に望まない生き方を強いるのは絶対に嫌。死んでも嫌」

焦がれ続けた瞳が、狡噛を射抜く。冬の早朝を思わせる凛とした声は、常に狡噛を人たらしめてきた。これからも、それは変わらない。日本を出てから、求められるままに戦いに身を投じてきた。死に場所を探しているのか、それとも生き場所を探しているのか、それすらも曖昧なままで。ただ確かだったのは、胸の中心にある彼女の姿だけだ。それだけが明瞭で、輪郭を持っていた。

「それが俺の望む生き方なら、お前は自分を許せるか?」

響歌の瞳が驚愕で揺らぐ。そしてその直後、そこは切なさに染まった。それを見て、言い様のない感情が狡噛を襲う────嗚呼、この女にそんな顔をさせているのは自分なのだ。そう思うと堪らない。誰にも囚われず、ひたすら突き進む背中が好きだった。そのはずが、自分の言動に心乱される姿に、興奮を覚えずにはいられない。

「それが貴方の本心なら、ね」
「違うとでも?」
「・・・狡噛は私と違って、大勢の為に生きられる。見ず知らずの誰かの痛みを、理解してあげられる。そんな人間を、私の傍にふたりも置くなんて烏滸がましいよ。それに、貴方はきっと、私だけを選べないでしょう?」

挑発するように響歌が笑う。それは皮肉にも、かつて狡噛自身が出したのと同じ結論だった。こんなにも愛し欲しているのに、自分は彼女だけを選べない。あの時は復讐が邪魔をした。では今は、一体何が妨げているのだろう。傍にいたいと心から願っていても、彼女との幸せを詰め込んだような人生を上手く思い描くことができない。それを全て見透かしたうえでの牽制だ。

「少しだけ、ほんの少しだけ寂しいけれど、それでいいんだと思う。今の・・私達には、それしか選択肢がない」

言い聞かせるようにそう言って、再び歩き出す。それを聞き、狡噛は妙な敗北感に苛まれながらも、僅かな優越感を抱いた。寂しいとその口に言わせたことに対してである。そして、彼女が狡噛じぶんと離れるのを惜しいと感じていることが、俄には信じ難い。

「変わったでしょ、私」
「自覚はあるようだな」

どこか誇らしげな表情に、狡噛は微かに驚く。どちらかと言うと、不満なのかと思ったからだ。響歌はずっと、自分の生き方に誇りを持っていたし、そんな彼女に狡噛を含めた周りの人間達は惹かれていた。

「まぁね」
「意外だな、不本意じゃないのか」
「シビュラと喧嘩してた頃なら、納得できなかったかもしれない。でも、この変化は間違いなく良い兆候なんだって、赤井さんにそう言われたの。今のところ実感はないけど、あの人は絶対、私に嘘を吐かない。だから、変われて良かったと思える日がいつか必ずくる。今はね、それがちょっと楽しみ」

響歌はそう言うと、歯を見せて子どものように笑った。こういう所は変わらないのか。無邪気で純粋で、荒んだ世界にいながらも、未来に光があることを決して疑わない。

「響歌!!」

誰かがその名を紡ぐ。幾つかの声が重なっていた。揃って視線を向ければ、道の先から子どもが何人か駆けて来る。途端に響歌を取り囲むように飛び回り、腕や足に縋り付いた。そして一人が手を引けば、一人が背中を押す。

「はは、大人気。今度はどんな遊び?」
「またバク転して見せて!」
「ダメだ、ガミガミメガネの真似が先!」

バク転は兎も角、子どもに何を見せているのか。呆れる狡噛を背に、響歌はせがまれるままにやって見せる。大道芸人の如く華麗にバク転をして、全く似ていない物真似を披露した。何が面白いのか、子どもらは爆笑で拍手喝采である。

「すまない、邪魔をしてしまったか。後にしろと言ったんだがな」

いつからいたのか、謝罪をしながら赤井が苦笑混じりに隣に並んだ。肩を竦めて返すと、彼は響歌に視線を向け、口角を上げる。狡噛はそこで改めて、赤井を観察してみた。少し痩せただろうか。頬には、出来たばかりの擦り傷。日本にいた頃とは違い、髪は雑に掻き上げられている。人間的に深みを増した印象だ。ただ一つ全く変わらないのは、澄んだ緑色の瞳。色彩も、そこに映る景色も、あの頃のままである。

「俺の顔に何か付いているか?」
「いいえ、少しプロファイルを」
「ホー、それは興味深い。是非お聞かせ願いたい」
「お断りします。自爆しそうなので」

掘り下げれば掘り下げるほど、赤井秀一の愛を思い知らされる。全てを捧げ、彼女と歩む覚悟。狡噛じぶんにはないもの。それを認めたくないから、目を背けてしまいたくなる。

「ここの人間は、随分と君を買っているようだ」
「本意じゃないですが、そういう節はありますね」
「戦力としてか、それとも人柄か。君自身は前者をお望みだろうが・・・怖い顔だな。恐ろしいか、己の存在が」
「っ、本当に……容赦がないですね」

ひと睨み利かせてみても、挑発で返された。この男の隣にいると、自分がひどく幼稚に思える時がある。狡噛が負けを認めるように苦笑すると、赤井は笑みを消し低い声で続けた。

「槙島のことを意識するなという方が難しいだろう。実際、君と彼は共通する部分が多かった。だからこそ、思考を読み、復讐を遂げることができた。いくら君が否定しても、それは変えようのない絶対的な事実だ」

鷹揚な態度と、語り聞かせるようなテノール。反吐が出る内容なのに、妙に心地が良くなって、狡噛は耳を傾け目を閉じた。針の先で肌に触れるような、そんな声だ。苦痛とは呼べないほどの痛みでも、確かに血が出る。

「自分と槙島は紙一重だと、そう響歌が言っていた」

その言葉に、狡噛は弾かれたように顔を上げる。赤井はそれに視線を返さず、子どもと戯れる響歌を見つめていた。

「君は、あいつが彼のようになると思うか?」
「まさか・・・いや、どうでしょう。今の答えに俺の願望が欠片もないとは言い切れません」
「ふっ、正直だな。では重ねて問おう。仮にそうなったとして、変わらず響歌を愛せるか?」

問いかけられると同時に、視線が交わった。嫌になるほど美しい緑が、狡噛を捉え、離さない。なんて事を訊くのか。冗談はよしてくれと、茶化そうとしたが無理だった。真摯に答えを待つ瞳を前に、そんな愚行ができるわけがない。衝動的に開きかけた唇を結び、狡噛は投げかけられた問いを今一度咀嚼する。その間、赤井は急かすことなく空を仰いでいた。数秒の後、導き出された解を狡噛は言語化する。

「場合によります」
「成る程。想定したのは何caseだ?」
「2つです。ですが、1つは起こる可能性がゼロに等しく、もう1つは絶対に起こり得ない」
「ふむ。ではまず、前者から聞かせてもらおう」

赤井は胸ポケットに手を入れ、煙草を取り出す。差し出されるまま、狡噛は一本を指で摘んだ。そして近づけられたマッチで火を点ける。大きく吸い込み、全て吐き出した。上手い。

「あいつが人間らしさを失ってしまった場合です。目的の為に何の罪もない人を殺し、周りの人間、それこそ貴方を道具として扱う・・・想像するだけでも吐き気がしますが」
「そんな結末は来ないと?」
「はい────貴方が生きている限り」

力強い瞳で、狡噛は断言した。それを受け止めた赤井は、僅かに瞼を動かす。それからすぐに笑みを零し、降参だとばかりに肩を竦めた。その横顔を見て、再確認する。これは、確信だ。この男が傍にいる限り、響歌が人間らしさを捨てることはない。そして赤井は決して、その場所を空けることはないし、誰かに譲ることもない。故に、狡噛が言った未来が訪れる確率はゼロと言っていい。

「可能性はゼロに等しい・・・と言ったな。残りは?」
「愚問でしょう」
「そうだな。俺が死ねば、あいつは人でなくなると・・・君がそこまで信頼してくれているとは光栄だ」
「絶対的な事実ですよ」

狡噛は態と、先の赤井の言葉を引用した。地味な仕返しに喉を鳴らすと、赤井は表情を引き締め、先を促す。それに頷き、狡噛はもう1つのケースを話し始めた。

「認めたくはないですが、槙島と同じカリスマ性・・・響歌もまたそれを持ち合わせている。恩師が言っていました。カリスマ性には3つの要素がある、と。英雄的・預言者的資質、一緒にいて気持ちがいいという空間演出能力、そしてあらゆることを雄弁に語るための知性」
「雑賀譲ニ教授か。やはり一度くらいは酌み交わしておくべきだった。身のある会話ができそうだ」
「雑賀先生も貴方に興味を持っていました。あの人は響歌の変化に敏感なんですよ。良い意味で研究対象なのかもしれません」

本人が聞いたら怒りそうだ。響歌を前にした恩師の楽しそうな様子を思い出し、笑った。雑賀自身もそれを隠そうとしていなかったように思う。在りし日の記憶を掘り起こす狡噛の横で、赤井もまた微笑んだ。気持ちはよく理解できる。どれだけ共にいようとも、彼女への興味が尽きることはない。

「……話を戻します。そういう意味では、あいつには第二の槙島になる才能があると言ってもいい」

絞り出すような声に、赤井はついに声を上げて笑う。不満げに睨んでくるが、微塵も恐ろしくはない。その眉間には深々と皺が刻まれている。狡噛慎也という男は、存外わかりやすい。不本意だと顔に書いてある。惚れた女と、かつて仇として手を下した相手の間に共通点があることを、どうしても認めたくないのだろう。

「すまない、続けてくれ」
「しかし響歌は、それを才能とは思っていない。故に利用することもない。宝の持ち腐れだと、そう判断する人間もいるでしょう。ですが、
「誰かにとっての宝石も、響歌にとってはただの石でしかない」

狡噛の言葉を引き継ぐように、赤井が言った。神になる才能など、彼女にとってはゴミだ。優先すべきものは、他に山程ある。天秤に掛けるまでもなく、丸めて放るに違いない。

「ええ。まあ、あいつが望まなくても、その人間性に周りは多大な影響を受けていますが」
「経験者は語る、と」
「それは貴方もでしょう。しかし当の本人はその事に気付いてすらいません。むしろ他の人間の方が異常だと言ってのけるような女です。三十路を過ぎてあれなら、一生経っても気が付かない」
「惚れた女にあんまりだな」

正論だが、酷い言い様である。第三者が聞けば、嫌いな相手の話をしていると思うだろう。だが生憎、赤井は当事者だ。狡噛が言葉の裏にどんな思いを込めているのか、容易く理解できた。それに何より、声音には清々しいくらいの愛おしさが宿っている。その全てが、彼女の魅力なのだ。狡噛を、赤井を、惹きつけて止まない。

「だから、心配はしていません。響歌が槙島になることはない。これは望みではなく確信です。あいつがあいつで在る限り、そんな地獄は来ない────響歌・ルートヴィヒが己を手放すことは決してありませんから。それは貴方が一番よくご存知でしょう」
「証明終了だな」
「はい?」
「今の議論を自分に当てはめてみるといい」

やけに優しい顔で言われ、狡噛は狼狽えた。かけられた言葉の意味がすぐには理解できず、怪訝そうに唇を結ぶ。赤井はそんな彼の肩を鼓舞するように叩くと、最後のヒントだとでも言うように、苦笑しながら問いかけた。

「日本で俺と交わした約束を覚えているか?」
「ええ。絶対に死ぬな、と」
「そうだ。あれは命だけじゃない、心もという意味だ。これからも守り抜いてくれ。そうすれば、君が槙島になることはない────君も、君で在り続けろ」

耳元でそう呟いて、今度こそ狡噛の横を通り過ぎていく。そして取っ組み合いを繰り広げている響歌に近付き、会話を始めた。赤井が何か言えば、彼女は子どものように頷き笑う。その横顔を見つめ、狡噛は思考する。あの美しい瞳が狡噛だけを映すことはない。それでもいい。彼女の為だけに、それは今の自分には難しい生き方だ。それでも、心から愛している。

「響歌」

名前を呼べば、彼女はいつだって振り向き、笑う。狡噛、と。愛おしそうに紡ぎながら。たとえその姿が目の前になく、記憶の中だけだとしても────いつかその手だけを取ることができるだろうか。そう考えてすぐに、狡噛は頭を振った。そんなのは性分じゃない。悔しいことに、響歌に言われた通りだ。この暴力を必要としている人間が、まだ存在する。

「狡噛!何してるの、帰っちゃうよ」
「ああ、今行く」

その道の先で待っているのが彼女なら、ひたすら歩き続けられる。自分らしい生き方を貫いて対面した時、笑ってくれるのなら、どんな痛みにも耐えられる。

「欲を言えば、愛の一つくらい囁いてほしいものだ」
「何か言った?」
「いや、ただの独り言だ」

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に痺れた!